持っていけと言われた金も貰わずに、あの悪魔の家を飛び出してから、早四日。
折角盗んだ上等な服も、獣道を駆け抜けた結果、ところどころが擦り切れていた。
残っているものと言えば、あの不愉快な笑い顔に突き立て損ねた暗器の簪。
この四日、口にしたと言えば、両手ですくえる程度の量。頭がお腹を鳴らし、栄養を催促する。
おまけに、体力を奪う秋の冷雨はこれでもかと言わんばかりの追い打ちを。
堪らず、私は視界の果てに見つけた、小さな洞窟に逃げ込んだ。
びしょ濡れの服の裾を絞り、疲れきった体を横たえる。
指先を動かすことすら気だるい。
このまま冷えた体を眠りに預ければ、きっと苦しみを感じることなく死ねると思う。
じゃあ、あいつは私が死んだら悲しむのかな?
ふと、目の前の岩壁にシドの顔が浮かんだ。
『全然』
……やっぱしな。
『僕に汚されたまま、一矢も報ず終わる君の姿なんて、想像するだけでも最高だ』
うるさい。
『君は良いの? そんな惨めな敗けを選んで』
良いのかって?
「良いわけないだろうが!」
自分で思い描いてしまった奴の、頭の中で響く嫌味ったらしいあの口調。
思わず本気の声が出てしまう。
腹が立つのは、本当に目の前にいるような気がしてくるくらい、鮮やかで、そっくりな、その姿。
細部まではっきり、『自分が』思い描いた。
「おまえはッ……どこまでッ……! どこまでッ!」
言葉は続けられなかった。
この上無く鮮明なそいつが、変わらない笑みでこちらを覗いていた。
その余裕が、堪らなく腹立たしい。
気付けば、いつの間にか抜いていた簪をその岩壁に叩きつけていた。
金属と石がぶつかる鈍い音の末、ようやくその幻想は消えていた。
外では雨が、音をたてて膝を叩き、笑っている。この情けない様子を。
あいつに刺さらなかった針を握りしめたまま、私の体は崩れ落ちる。
「お腹減ったよぅ……」
草の根を食み、川の水を飲んだここ最近。まともなものは口に運んですらいない。
さすがに永久に目を閉じかけたその時。
山の方から、茂みをかき分けるような音が私の耳に入った。
「!?」
山賊か何かだろうか? それとも木こりか?
兎に角、なけなしの武器を掴んで臨戦態勢に入る。
腰ほどまである草むらが揺れる。
二度、三度と動いた末、小さな、白い塊が姿を現した。
「わんっ」
それは張りのある鳴き声を響かせた後、洞窟内に駆け込んでくる。
雨の当たらないところまで来ると、体を勢い良く震わせた。
全身に生えた毛から、水気が飛んだ。
「い……犬?」
「わんっ!」
「ひぁ、きゃッ!?」
間抜けな声を出して、針を手にしたまま座り込む私にそれは飛び付いてくる。
消耗しきった体はその犬の立派な重さに耐えきれず、私の体は下になる形に。
「ひゃッ!? あは、あはは、止め、やめて……ッ!」
随分と人に馴れた様子で、冷えきった私の体を一心不乱に舐める犬。
くすぐったさに、久しぶりに作っていない笑いが零れた。
舐められてる感覚でも、この子のは不思議と気持ち悪くはない。
ふと、私は上に乗っている彼の体を抱き寄せてみる。
「……あったかいね。お前」
濡れた毛を介しても伝わってくる確かな温もり。
体温より冷たい空気に暑さを思うことがあるのに、生き物を熱いとは感じない、いったい何でなんだろう。
それからも、ただ抱きしめる。離さないように、離れないように。
目から流れた液体が、頬を伝って犬の背に落ちた。
「ごめんね」
たった一言の謝罪が犬の耳に届いただろう瞬間、私はまだ手にしていた針を彼の首に突き立てる。
刺された衝撃に犬は体を揺らし、爪を立てて私を引っ掻く。当然だった。彼からしてみれば裏切られたも同然だから。
正確に太い血の管を貫いた針を伝い、赤い色をした命の滴は地面に落ちて、吸い込まれていった。
ほんの数瞬前にあった温度は、どんどん指の間をすりぬけて寒空へと逃げていく。
「寒いよ……ねぇ……」
口の中で、小さく、何度も謝罪を繰り返した。
おしまい