コツン、コツン。
十六夜の月が出ている夜半、わずかに風の音を感じる他には物音のないこの時間に私は扉を開けて宮殿の石造りのバルコニーに出
た。私が足を踏み出すごとに、足元からは履かされたピンヒールが石を叩く高い音が響く。
実際にはそう大した音ではないはずだが、今の私にはその音が眼前に広がる城下全体にあまねく響き渡っているように思えてなら
なかった。
「ほう、さすがは王女様。やはり何をお召しになっても似合っておいでだ」
背後から揶揄するような軽い口調の声が聞こえる。振り返って声の主を睨みつけてやりたい欲求に駆られるが、虜囚となったこの
身はただそれだけのことですら許しを得なければならない。
「どうぞ殿下、こちらを向かれても構いませんよ。あなたの後姿は実に魅力的だが、どうか私めにその美しいお姿を正面からも拝
見させてください」
まるで私の心を見透かしたかのようなタイミングでその許しが出た。否、口調こそ慇懃だがこれは命令に他ならない。そして私に
それを拒むことは出来ないのだ。履きなれないピンヒールにやや脚をもたつかせながらも、私は我が身をその男に向ける。
「月明かりにあなたの身体は実によく映える。かくのごとき美しい造形をこの世にもたらした神に私は幾度でも感謝せねばなりま
せんね」
満月も同然の空の下で、男の目には私の裸身がよく見えているのだろう。そう、今私が身にまとっているのはおよそ履き慣れるこ
とのなさそうなピンヒールと、背中で両の腕を繋ぎ止める枷のみなのだ。
「明日、そう今あの月があるところに太陽が昇ったくらいの刻限でしょう、
あなたにはもう一度ここにお出で願うことになる。もちろん装いは今と同じお姿で、です」
既に何度も言い聞かされてきたことだ。国を滅ぼされて虜となり、この身を弄ばれるようになって以来何度も、だ。
かつて支配した民の前で羞恥に咽ぶことになる、これまで幾度となくそうなった己の姿を想像して慄然としたものだが、
いざこの場に立つと身体に恐怖とは異なる震えが走るのを覚える。そしてその震えはこの身全てに走った後、一点に収束するのだ。
そこに熱がこもるのを覚えて、いやそれは錯覚のはずだった、しかし私のそこは明らかに熱を帯びているのだ、
思わず内股となった私は身体の平衡を崩しよろめいた。そしてそれを男が見逃すはずもない。
「おやおや、緊張なさっておいでですかな。王族たるものがそのような有様では恥をかくことになりますよ」
この男は今の私の身体がどうなっているのかをよく知っているはずだ。それなのにとぼけたその言い草に何か言い返してやりたい、
しかしそれはみじめに堕した自分をあからさまに認めることになるように思えたので、ぐっと堪える。
「まあ私としてはこの月明かりの下でいつまでもこうして眺めていたいが、それでは明日に障る。今宵はお休みになり、明日に備えられませ」
ひとまずこの男の前でさらし者になるのはお終いだ。枷同士を繋ぐ鎖を解かれ男の差し出すガウンに袖を通した私は、自らの部屋に向かって歩を進める。
幸いにもそこまでの廊下で誰かと出会うことはなかった。もし今の私の姿を目にする者がいたなら、今後ろをついて歩く男との情事からの戻りだと思うことだろう。
ガウンの薄手の生地は身体を隠しこそすれその線は露わだし、長いとはいえない袖口には枷が覗き、そして足元にはピンヒールという装いなのだから。
もしかすると娼婦というのはこうした姿で客を取るのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎり、たちまち身体が熱を帯びだす。
否、今の私は娼婦にも劣る存在だろう。仇に嬲られて身体を熱くするこの身は、恐らく人の中の底辺に位置するはずだ。
そして、理性は認めたくないと悲鳴を上げているが、私自身が玩弄されることを望みはじめているということを徐々に自覚してきている。
今もそうだ、部屋にたどり着いた私は男にヒールを脱がされながら、眠りに就く前に何かしらの手出しをされるのではないかと警戒し、期待していたのだ。
そしてそのほのかな期待が叶えられなかったために、自らの手で火照った身体を鎮めるというみじめな作業に追われるのだった。
私が立つべきバルコニーへの扉はまだ閉ざされたままだが、外に詰め掛けているであろう群衆のどよめきはもちろん耳に入っている。
彼らにこの姿を見せ、王族としての権威を失った私はこの後どうなるのだろうか。
そうした漠然とした恐れもあったが、それを決めるのが自分ではないことを意識するとその程度の不安は些末事でしかなかった。
そして私の傍らに立つ男の合図で、いよいよ扉が開かれた。喧騒は一気に音量を上げ、強い圧迫感が私を襲う。
「さて、では参りましょう。ですがその前に、何かおっしゃりたいことはありますか」
男が朗らかな口調で言う。その顔を見ながらもう何も言うことなど残されてはいないと思っていた私だったが、
ふと胸の奥底から沸き起こる感情に衝き動かされて一言だけ口にした。
「捨てないで、ほしい」
私の王女としての最後の願いだった。あるいは王女をやめた女の最初の願いだったのかもしれない。
その言葉に一瞬きょとんとした表情を見せた男だったが、すぐさま笑顔を見せる。
「誰が捨てますか、もったいない」
その笑顔につられて私の表情もほころんでいたはずだ。しかしその時は、この儀式を早く済ませてしまいたいという思いが全てに勝っていたのだろう。
そして開け放たれた扉に向かって、誰に促されるでもなく私は自らの意思で歩を進めた。
いよいよ陽の光が肌を差すという時、私はこれからのみじめなはずの人生が、しかし晴れやかなものになるという予感を覚えていた。