野球にはカットボールという変化球があるという。  
 どういう球かというと、打つ直前にバッターの手元で微妙に変化をするらしい。カーブ  
のような傍目にもわかる大きな変化ではなく、ストレートとほとんど区別がつかないくら  
いの微かな変化であるため、観客どころか打つバッターでさえ見極めが難しい球だという。  
アメリカではカッターと呼ばれていて、絶妙に芯をはずすその効果から、多くのバッター  
が苦しめられているのだそうだ。  
 幼馴染みの受け売りだ。  
 隣の家に住む男の子は野球が大好きで、その手の話をしばしば私に語っていた。私は楽  
しそうに話す彼の笑顔にため息をつきながらも、一応はうんうんと相槌を返していた。  
 野球はあまり好きじゃない。  
 小さい頃、お父さんがよく巨人戦の中継を観るためにテレビを独占していたせいか、私  
にとっては邪魔な存在でしかなかった。私が観たいのは歌番組やドラマであって、試合の  
勝敗やリーグの順位なんてどうでもよかったのだ。いつも中止になればいいのに、と思っ  
ていたし、どんな土砂降りにも揺るがないドームの難攻不落ぶりも憎らしかった。だいた  
い、お金で強い選手を集めるなんて卑怯じゃないか。優勝を逃したときは、ざまあみろと  
思ったものだ。あ、でも高橋由伸はかっこよかった。  
 中学に上がる頃から、だんだん中継の数は減っていって、お父さんの寂しそうな顔に反  
比例して、私のテレビ視聴時間は増えていった。そのときには歌やドラマへの興味は正直  
薄れていたのだけど。高橋も昔ほどかっこよくはなくなっていった。  
 とにかく、私は野球が好きじゃない。  
 昔ははっきり嫌いだったといえる。中継の少なくなった今でも、嫌いまではいかなくて  
も、好きとは言いがたい。  
 でも、幼馴染みの彼は大好きだという。  
 おかげでうちのお父さんとは話が合うみたいで、今でもたまに庭先でリーグ戦の展望や  
期待の若手選手について議論を交わしていることがある。  
 そんなに好きなら自分もやればいいのに。  
 前にそう言ったことがあるが、彼はあははと笑って答えた。  
「当たったら痛そうだしなあ」  
 ヘタレ。  
 思わずつぶやいたが、彼はただ笑っていた。  
 まあ野球好きなのはいい。もっぱら観戦のみで、いろいろ論をぶつのも別にかまわない。  
 問題は、彼が好きすぎることだ。  
 はっきり言って彼はオタクである。  
 CS放送を録画して、過去数年間の試合を全部保存しているくらいだ。彼の部屋は野球  
関連の本やグッズであふれかえってるし、各チーム・選手のデータ・成績をサイトにまと  
めたりしている。毎日の習慣らしい。  
 国内のプロ野球に限らず、大リーグや韓国、台湾リーグにまで触手を伸ばすというのは  
もはや病気の類ではなかろうか。評論家にでもなるつもりか。  
 そんなことだから、彼は私を当然軽んじている。  
 いや、軽んじているというのは正確ではないかもしれない。しかし彼の中では間違いな  
く、「野球>私」の構図が出来上がっている。  
 その証拠に、高校に上がってからは、同じ学校に通っているにもかかわらず、全然話し  
かけてこない。  
 中学までは野球のいろんな話を聞かせてきたくせに。  
 きっと、私が野球嫌いだから、私のことを軽視するようになったんだ。  
 私と彼はただの幼馴染みで、それ以外に何か特別な関係なんて持ってないが、だからと  
いって野球より下に見られるのは、納得がいかない。  
 地上波放送も減ったくせに。  
 時間延長さえさせてもらえないくせに。  
 高橋だって、いつまでもかっこいいままじゃいられないのだ。  
 野球だけじゃなく、少しは私のことを見てもいいはずなのだ、彼は。  
 だから、  
 だから私は、  
   
          ◇     ◇     ◇  
 
 私は勝手知ったる隣家に勢いよく乗り込むと、二階東側にある彼の部屋に向けて、ずん  
ずんと階段を上がった。  
 そして部屋の前に立つと、ノックもしないでドアを開け放った。  
「へ?」  
 幼馴染みはベッドの上に寝転がり、何かの本を読んでいたようだった。大方野球関連の  
本だろう。私が入ってきたことにひどく驚いたようで、目を丸くしている。少しだけ溜飲  
が下がった。  
 しかしそれくらいじゃ私は止まらない。そのままベッドに近づいて、じっと彼をにらみ  
つけた。  
「……えっと、どうしたの?」  
 とぼけたようなのんきな声に、私はふん、と鼻を鳴らした。  
「野球っておもしろい?」  
 私の問いに、彼はますます目を丸くした。  
「は? え……いや、なに? どうしたの、怖い顔して」  
「答えてよ」  
「う、うん。おもしろい、よ」  
「私とどっちが上?」  
「……はい?」  
「どっち?」  
「……ホントどうしたの? 何かあった? いやなこととか……」  
「君のせいだ!」  
 私は窓を震わすくらいの大声を発した。  
 自分の耳にびりびりと痺れが残るほどで、直後に一瞬の静寂が訪れる。  
 彼は困ったように頬を掻き、それから体を起こした。  
 じっと私の顔を見つめる。  
 その目は、存外に真剣だった。  
「説明してほしいんだけど」  
「……」  
 私は迷った。当初の予定では、ここから有無を言わさずアレを実行するつもりだったの  
だが、彼の目が思いのほか鋭かったために、ひるんでしまった。  
 仕方なく、私はベッドに腰を下ろした。  
「……」  
 しかし、すぐには口を開かない。ただじっと彼の困惑した顔を見やる。  
 彼はわけがわからないといった様子だったが、何も言わずに静かに私がしゃべるのを待  
っていた。  
「……高校に上がってさ、ちょっと気に入らないことがあって」  
「うん」  
「私、あんまり野球は好きじゃないの」  
「う、うん」  
「で、君は昔から野球が好きでしょ」  
「……うん」  
「それは別にかまわないんだけど、私、一応君の幼馴染みじゃない。なんだかんだで仲良  
くやってきたから、ずっとそうありたいと思ってる。なのに、最近の君は私を軽んじて  
る」  
「うえっ!?」  
 素っ頓狂な声を出して、幼馴染みは目を剥いた。  
「な、なにそれ!? 軽んじてるなんて、そんなつもりはないよ!」  
「あんまり話さなくなったじゃない」  
「いや、それは、」  
「野球と私、どっちが上なの?」  
「はあ!?」  
 わかっている。私だって、馬鹿な問いかけをしていることくらいわかっている。  
 だけど、それでも私はそれが知りたかったのだ。  
 私は矢で射抜くように、まっすぐに彼を見つめた。  
 
 彼はそっとため息をついた。  
「……ぼくはこんなやつだからさ、つい野球の話ばかりしちゃうんだよね」  
「……うん」  
 それは知ってる。  
「だけど、女の子にそういう話ばかり振るのは、さすがにどうかと思ったんだ」  
 呼吸が一瞬止まった。  
「かといって、他の話題なんて持ち合わせてないし、だからその……ごめん」  
 私は無言で彼の下げられた頭を眺める。  
 軽視していたわけではないらしい。  
 むしろ彼なりに気遣ってくれていたらしい。  
 女の子に、と彼は言った。  
 私はてっきり、女と思われていないんじゃないかとさえ思っていたから、素直にうれし  
かった。  
 彼の不器用さ加減にはため息しか漏れないが。  
「あのね」  
「うん……」  
「私は確かに野球は苦手だけど、疎遠になったりよそよそしくなる方がもっといやだよ」  
「……」  
「だから、野球の話題を通してでもいいからさ、私のこと、ちゃんと見てほしいな」  
「――」  
 彼が呆けたように顔を上げた。  
「ん? どうかした?」  
「……いや、なんでもない」  
 彼の口に笑みが浮かんだ。  
 私もそっと口元を緩める。  
 さっきまでかなり怒っていたのだが、彼の率直な気持ちを聞いて、怒りはすっかり収ま  
っていた。  
 人の気持ちや考えを見極めるのは難しい。  
 特に彼みたいに、偏った趣味嗜好を持つ人間とあればなおさらである。それこそカット  
ボールのように芯を外されて、ペースを狂わされることもある。  
 でも、それが彼なわけで。  
 私の幼馴染みなわけで。  
 こうなったら繰り返しぶつかっていくしかない。何度も何度も繰り返していけば、いつ  
か彼の球も打ち返せるかもしれないから。  
 私はにっこり笑って言った。  
「最後にひとつ、いい?」  
「ん、なに?」  
 小首をかしげる幼馴染みの少年。  
 その、彼の緩んだ口元に、私はそっと唇を重ねた。  
「!?」  
 接触は一瞬で、すぐに離れる。  
 目を白黒させる彼を見て、私はからから笑った。  
 君が私の芯を捉えるのは、いったいいつのことになるだろうね。  
 

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