02. Moorside March  
 
 決勝戦前は、誰もが浮かれて騒いでいた。アッちゃんやあたしを置き去りにして。  
 アッちゃんの夕食が終わると、どうやら帰ってきたカッちゃんが仏間に現れたらしい。一際大きな歓声が上がり、酔っ払いは口々に未来のヒーローを讃えている。  
 あたしは漬物を齧っては三煎目のお茶を舐めるようにゆっくり飲む。  
 どうやらカッちゃんにもお酒を呑ませようとしているらしい声がする。それ聞いて、アッちゃんが立ち上がった。  
「アッちゃん」  
 思わず呼び止めると、アッちゃんは肩を竦めた。  
「しょうがないな」  
 苦笑を浮かべて、アッちゃんは仏間へ向かった。  
 あたしは何となく立ち上がり損ねてしまう。アッちゃんは巧く酔っ払いからカッちゃんを引き離したようだ。足音が寝室のある二階に向かう。  
 アッちゃんも居なくなった訳だし、あたしはタッパーとどんぶり鉢を手に家に帰ることにした。  
 食器を洗ってから居間へ向かうと、お姉ちゃんは居なかった。  
 はてこんな時間にどこに行ったんだろうと思っていると、庭先に居た。  
 何やってんだかと声を掛けようとすると、お姉ちゃんの声が聞こえた。  
「もし……明日カッちゃんが勝って甲子園にいけたら……」  
 誰に話し掛けているのか、覗き込んでみるとアッちゃんが困ったように笑っていた。  
「いけたら?」  
「そうしたら……次はアッちゃんが、もうひとつの南の夢をかなえてくれる番ね――」  
「もうひとつの夢?」  
 アッちゃんは怪訝そうに尋ねるけれど、お姉ちゃんは答えない。さて、何となく出て行き辛い雰囲気だし、さっさと退散してしまおうか。  
 そう思うけれど、なんとなく足が動かない。  
 アッちゃんがどう答えるのか、どう感じているのか……気になった。  
「普門館にいきたいの?」  
 アッちゃんの目指す場所。けれどお姉ちゃんは  
「不問間? 何それ」  
 知らないようだった。それも当然だろうけれど。  
 アッちゃんは困ったようにかぶりを振った。お姉ちゃんはそんなアッちゃんに重ねる。  
「もっとふつうの夢よ」  
「ふーん」  
 アッちゃんは眠たそうに目を瞬いてから  
「じゃあ明日もあるから、おやすみ」  
 と、たいした感慨もなくさっさと出て行った。お姉ちゃんはその背中を呆然と見送ってから  
「もうちょっと尋ねてくれてもバチは当たらないと思うんだけどな……南の夢」  
 と随分なことを言っていた。  
 
 翌朝。  
 何となく起きる気になれなくてごろごろしていると、庭先が賑わしくなった。  
 何をやっているのやらと覗いてみると、アッちゃんカッちゃんと、お姉ちゃんがキャッチボールの真似事をしているらしかった。  
 特に混じる気にもなれなかったので、ぼんやり眺めることにした。  
 アッちゃんはカッちゃんの投げる球を取り損ねて苦笑している。もっとも、取れないアッちゃんを責めるのはお門違いだ。  
 仮にも高校野球の予選大会決勝戦に出る投手が、変化球を使うのだから。  
 二階の窓から、上から眺めて分かるほど大きく逸れていく球を取れるというのなら、アッちゃんは野球を試しているだろう。  
「キャッチボールもまともにできない男なんかといっしょになると、女は幸せになれない」  
 カッちゃんはそんな事をお姉ちゃんに耳打ちする。  
「世のお父さん達がみんなキャッチボール出来るとは限らないだろうに」  
 アッちゃんは転がっていった球を取り、もう止めだと言わんばかりにその辺りにグローブごと置いてしまう。  
「もう止めちゃうの?」  
「野球部のエースの相手なんか出来ないよ、俺には」  
「そんなことないよ、兄貴」  
 カッちゃんはどこかおどけた様な顔で  
「ではこれより、プレイボール!」  
 右手を軽く掲げて、そう宣言した。  
「それ、死亡フラグ」  
 と呟くあたしの声は、地上には届かない。  
「何がさ?」  
 アッちゃんはきょとんとしている。  
「兄貴とおれの先の長い勝負―――」  
 二人のあまり似ていない兄弟と、双子の妹を持つ少女。  
 そんな三人が、何かをしている。  
 あたしはどうしたものかとため息をつく。  
「あ、審判は公平にね。ひとまず特別な感情はおいといて」  
 カッちゃんが重ねる。芝居がかった口調と仕草が、あたしにはひどく滑稽に見える。  
「先攻はぼくだね」  
 芝居がかった口調と仕草。そのセリフを、ひょっとしなくても憶えるほど読みこんだのだろう、例の漫画を。  
「……」  
 呆然とアッちゃんはそのお芝居に組み込まれていく。アッちゃんが巻き込まれていく。  
「まず南を甲子園につれていくことで、先取点をねらいますので……よろしく!」  
 対するアッちゃんは、胸を張るカッちゃんを一度眺めてから  
「……和也」  
 
 芝居くさい雰囲気を斬り払うように。珍しく強い口調で、アッちゃんはカッちゃんの名前を呼んだ。  
「いつからだったか、俺はずっと和也に。南ちゃんにも、言わないとと思っていた」  
 アッちゃんは『台本』にないセリフを口にする。  
「千恵ちゃん、今日はまだ起きてないんだね」  
「え? うん、まだ寝てる」  
「……そっか」  
 きょとんとしている二人を置き去りにして、アッちゃんは続ける。  
「和也、お前は何で甲子園に行きたいんだ?」  
「え? そ、それは南を―――」  
「それも良いだろうさ。そういう目的だって言うのなら、俺も止めはしない。でもな……お前は武司和也だ。ドラマチックに仕立て上げるのが好きな大人に振り回されるな」  
「兄貴?」  
 アッちゃんはふと上を見る。あたしは慌てて首を引っ込めた。  
 アッちゃんの、不思議に静かな笑みが目の端に残る。  
「結局さ、誰かの為に何かをするなんて、無理なんだよ」  
「アッちゃん……」  
「滅私なんて聞こえは良いけどさ、そんなの聖人君子が公の為にすることだろ? だから俺は、お前が自分の為に戦ってきて欲しいと思ってる」  
 あたしは、朝の日差しの中で一人口の端を持ち上げる。  
 いつかあたしが言おうと思っていたことを、今舞台の上に上がっているアッちゃんが突きつけている。  
「これから起きることの結果なんか俺には分からない。ただ……それは全部お前のものだ。上手くいってもいかなくても、誰も責めはしないよ。自分以外は誰も、な」  
 アッちゃんの言葉が続く。もう芝居じみた雰囲気は、微塵も残っていない。  
「この夏が終わった後にお前が納得していることが、俺の望みだよ」  
 恐る恐る顔を出し、アッちゃんの顔を盗み見る。  
 いつもの穏やかな顔で、けれどアッちゃんは続ける。  
「和也、野球好きか?」  
「え?」  
「一番大事なのは、少なくとも俺はそこだと思ってる」  
 そう言い残すと、アッちゃんは手をふらふらと振ってそのまま二人を置き去りにする。  
「試合は一時からだろ。次は球場で」  
 そのまま家の中へ消えていくアッちゃんを見送ると、あたしは起き上がった。  
 言いたかったことは、あらかたアッちゃんが口にしてくれた。  
 あたしは何となく清々しい気持ちで顔を洗い、台所へ。  
 浮かれて球場へ行く準備をしているらしい両親を尻目に、お弁当の余り物で朝食を済ませる。  
 さて。  
 行くつもりはまるでなかったのだけれど、なんとなく球場へ足を運ぶ気になった。  
 せっかくだ。部外者のあたしは部外者らしく、客席から眺めさせてもらおう。それがあたしの仕事のような気がした。  
 カッちゃんは大事をとっておじさんが学校まで送るらしく、両親とお姉ちゃんは見送りに出て行った。  
 あたしはのんびりと表へ出て、タイミングよく出て行った車のおしりを眺めた。  
 無事に球場に辿り着くことを、密かに祈りながら。  
 
 七月二十九日。  
 全国高等学校野球選手権地方大会決勝戦。  
 その試合が行われる県営球場、時間は午後十二時三十分。  
 一塁側アルプスでは『カッちゃん』の応援に駆けつけたお隣に住む幼なじみの『南ちゃん』の取材が行われている。  
 あたしはと言えば、アルプスの一番高い所から、その『南ちゃん』を眺めている。  
 既に両チーム球場に到着している。  
 もちろんカッちゃんもだ。特に何も起きることなく、当たり前の様に。  
 アッちゃん達吹奏楽部も応援の準備をしている。  
 アルプスの一番前で、同窓会会長だと言うどこかの中年が、血気盛んに何かを叫んでいる。  
 応援席の諸君は十人目のナインである。決死の覚悟で応援せよ。と喚いているのが聞こえてきた。野球で甲子園で決勝戦となると毎回沸いてくる手合いの人間だ。  
 それにしても、十人目のナインって変な言葉だ。それに、この応援席のどの人間が『十人目』なのか。疑問と突っ込みどころは尽きない。  
 まあ、順当に行けば十人目は『南ちゃん』だろうけれど。  
 野球部マネージャーは他に二人、三年と二年に一人ずついるが、ベンチには三年の人が入っているらしい。  
 あたしはテンション上がりっぱなしの生徒の中をかき分けて、吹奏楽部の近くの席を確保した。  
 アッちゃんたちが、練習の時間や音質を犠牲にしてまでする応援を聴いておこうと思ったからだ。  
 ふと、アッちゃんの顔を見つける。  
 必勝の鉢巻を楽器に巻きつけ、自分はタオルを巻いたアッちゃんはあたしの視線に気付いてくれて、静かに微笑み返してくれた。  
 それだけであたしは少し嬉しくなる。  
 野球部には悪いけれど、あたしはもう満足だ。  
 そうして午後一時。  
 大きなサイレンの音の後……  
「ではこれより、プレイボール」  
 あたしはこっそり、そう口にした。  
 吹奏楽部が、自分を犠牲にした音で歌い始めた。  
 
 結果を言えば、優勝した。  
 カッちゃんは見事試合を投げきり、春の甲子園でベスト4だった強力打線を抑えてみせた。  
 大人たちは興奮しきり、未来のヒーローを讃えて隣近所が総出で祝勝会を開いている。  
 これで、カッちゃんは南ちゃんを甲子園に連れて行けるわけで、文句なしのハッピーエンド、めでたしめでたしだった。  
 お姉ちゃんは学校で取材と片づけを終えてから帰ってきた。  
 すぐに隣の祝勝会に連れて行かれたけれど。  
 あたしは冷蔵庫の余り物を適当に煮付けて、ご飯を炊く。少し固めのご飯を。  
 夕食の準備を終えると、丁度アッちゃんが帰ってきた。  
 どうせアッちゃんの夕食なんてないのだ。  
 あたしは少し待ってから、アッちゃんの家へ。  
 台所で昨日と同じく小さくなって余り物をもそもそ齧っているアッちゃんを見つける。  
 やはり、アッちゃんの夕食はない。  
「ああ、おかえり千恵ちゃん」  
 アッちゃんは相変わらずの貧乏くじで、あたしは肩をすくめて  
「ご飯、ウチにおいでよ」  
 と誘った。  
「……あー、じゃあ」  
「ん。たいしたものはないけど」  
「ううん。ありがとう、千恵ちゃん」  
 アッちゃんはぼんやりと笑っていて、あたしはその色々貧乏くじばっかりな所がその実嫌いじゃなかったのだ。  
 
   ◇  
 
 そして一週間ほどが過ぎ、甲子園の対戦カードを決める抽選が行われた。  
 今年の夏の甲子園は八月六日から行われる。  
 あたし達の高校は大会二日目の第二試合。  
 息子の晴れ姿を大手を振って見に行けると、おじさんとおばさんが大喜びする素晴らしい日程で、抽選の中継を見て万歳をしていた。  
 日曜日の試合がよほど嬉しいらしい。  
 そう、八月第一週の日曜が、カッちゃんの試合の日になったのだ。  
 それを見ていたあたしは、さすがに血の気の引いた顔になっていたと思う。  
―――八月第一週の日曜日。  
 それは、吹奏楽連盟主催吹奏楽コンクール県大会が開催される日でもあった。  
 
「どうするの?」  
 帰ってきたアッちゃんを捕まえるとウチの庭先へ引っ張り込んだ。有無を言わさずそのままあたしは食いかかるように尋ねる。  
「ん……」  
 アッちゃんは困ったように笑って、けれどキッパリと答えた。  
「決まってるよ。俺達は吹奏楽部だ」  
 あたしはほっとした。野球部には悪いと思ったけれど、良かった。  
「うん。あたし、聴きに行く」  
「きっと、あまり楽しくないよ。それより甲子園に行った方が……」  
「何が楽しいかなんてあたしの勝手。あたしは甲子園より、市立文化センターに行きたい……普門館に行きたい」  
「え?」  
「アッちゃん……あたしを普門館につれてって」  
「千恵ちゃん……」  
「ね、元気、出た?」  
 見つめる。  
 少しだけあたしよりも高くなった背を。  
 いつも曖昧に苦笑いを繰り返していた優しい顔を。  
 今は苦しそうに嬉しそうな瞳を。  
「ああ……ありがとう」  
「ううん。ありがとうは、あたしだ」  
 あんなに沢山のものを貰ったのだ。あの二時間の価値は、あたしの中にある。  
「でも、アッちゃん……本当に大丈夫? 甲子園行かなくて」  
「ん……正直今日は練習よりそっちの話し合いの時間が長かったよ」  
「話し合う余地なんてあるの?」  
「部員と先生は満場一致でコンクール。でも校長先生とか教頭先生がね、やっぱりね」  
「……何て?」  
「甲子園で演奏出来るのが名誉だろう。とか、我が校の応援席に吹奏楽がないのは考えられない。とかね」  
「何それ、吹奏楽部は応援団じゃないのに」  
「まあね、でもテレビで中継されるし、そういう見えやすい部分の栄誉? とか、そういうの優先するのは学校や大人なら当たり前なんだろうけど」  
 縁側のガラス戸を引き開けて、あたしはそこに座る。隣を手で叩いてアッちゃんを誘った。  
 アッちゃんはふわりと微笑んでから、ゆっくりとあたしの隣に腰掛けてくれた。  
 あたしよりも少しだけ高い上背。それがいつからそうなったのかは、実は分からない。  
 
 気が付くと、アッちゃんはあたしよりも背が高くなった。  
 カッちゃんよりも成長ものんびりしていたアッちゃんだったけれど、それでもちゃんと男の子なのだ。  
 そんなことに思い至ると、真面目な話をしている途中だというのに少しだけどきりとした。  
「後は連絡を受けて駆け込んできた同窓会会長だっておじさんの説得が大変だったな」  
「あー」  
 それは分かる。いかにも野球バカって感じだった。  
「お前らも応援の為に今日まで練習してきたんだろう! とか言い出した時は、どうしたもんだかと思った」  
「どう説得したの?」  
「してないよ」  
「え?」  
「話し合いの途中で向こうが怒って帰っていった。大変だった」  
「うわ……」  
 もうメチャクチャだ。  
「で、校長先生とか教頭先生をどうにかなだめすかして帰ってきた。一回戦はコンクール出ないメンバーとOBの有志でどうにかするって」  
「出ないメンバーって、どれくらい居るの?」  
「んー、パート毎に一人か二人、合計十四人かな? OBの有志は今から探す」  
「……困ったね」  
「んー、まあ日曜だからOBの先輩も多分それなりに来てくれるだろ」  
 アッちゃんは苦笑してからそう答える。それだけで、今日はどれだけ大変だったか分かるような気がした。  
 野球部を優先して吹奏楽部は蔑ろにする大人達相手に、なだめたり謝ったり逆ギレされたり。同じ高校生の部活動なのに、どうしてそんなに差がつくのか。  
 あたしはこっそりとため息をついた。  
 もし居るなら、神様でも何でも良いんですけど、助けてあげてくれませんかね。  
 せめてアッちゃんが、何の後ろめたさも感じずに舞台に上がるくらいのこと、させてあげて下さい。  
 家に帰るアッちゃんの後ろにを何となくついて歩く。  
 これから応援には出ないことを両親に説明するらしい。  
 あたしは何も出来ないしただの傍観者だけれど、それでもせめてアッちゃんの味方になりたかった。  
 もっとも、そんな必要はなかった。  
 アッちゃんの両親は笑って  
「行って来なさい」  
 と言ってくれたのだから。  
 本当に良かったね……アッちゃん。  
 
 もうそろそろ寝ようかと思っていると、携帯に着信。一昔前のあまり流行らなかったバンドの歌が、お姉ちゃんからだと告げる。  
 大体用件は分かってしまうので、あたしはしばらく躊躇ってから渋々と着信に応じた。  
「……はい」  
「あの、千恵ちゃん。今大丈夫?」  
 野球部に付き添って神戸で逗留しているお姉ちゃんの、久しぶりの声だった。  
「大丈夫」  
「ありがと」  
 お姉ちゃんはどこか緊張した声音をしていて、しばらく言いよどんだ。  
 それで、あたしはお姉ちゃんの用件が想像通りだと確信する。  
「お姉ちゃん? 何の用?」  
 いい加減面倒になったあたしは、お姉ちゃんを促す。  
「ん……あの、千恵ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど」  
 ベッドに腰掛けて、長期戦に備える。  
 気分は迎撃。大切な何かを守るそれに、白状すれば気分が少し高揚する。  
「吹奏楽部……アッちゃんが甲子園に来てくれないって、本当?」  
「みたいだね」  
「……どうして、なんだろ」  
「そりゃ、アッちゃんにはアッちゃんのやりたいことがあるんだから……当たり前じゃないの?」  
「南ね、甲子園が夢だったんだ。小さいときからの――」  
「知ってる」  
「初めてTVでみた甲子園――そして……背番号1!」  
 その時のことは、あたしも憶えている。  
 当時すでに例の漫画については聞かされていし、実際に読んでもいた。だから正確には、TVで甲子園を見てからではないのだが……  
 そんなことをイチイチ指摘するほどあたしも空気が読めない訳でも、暇な訳でもない。  
「カッコよかったなァ…」  
「そっか」  
 どうせいつもの夢見がちな目をしてどこか宙を見ているのだろう。  
 お姉ちゃん自慢の黒髪を揺らせて。  
 お姉ちゃんの肩口までで揃えられた黒髪は、ゆるやかに波打っている。特にお風呂上りのお姉ちゃんの髪の毛は、女のあたしが羨む程に綺麗だった。  
 双子なのにまるで似ていないあたしの髪の毛は、お姉ちゃんみたいに柔らかくない。硬い髪質で、手入れが結構大変だ。  
 それでも長く伸ばしているのは、せめてもの意地だ。お姉ちゃんよりも可愛くない妹の、女の子らしいところをみせたいという。  
「それがサ、もし自分の高校で………そしてその背番号1が南の――」  
 相槌を打って欲しいらしい呼吸に、あたしは気付いてないふりをする。お姉ちゃんのお芝居につきあうつもりは全くなかった。  
「幼なじみだなんて最高じゃない……」  
「ふーん」  
 極論、あたしにとっては他人事だ。カッちゃんが甲子園に出ようが、オロナミンC球場に出ようが、東京ドーム地下闘技場に出ようがあまり関係ない。  
 今日まで傍観者を決め込んでいたあたしに、カッちゃんが叩き出した結果に乗っかって喜びを分かち合う資格はないのだから。  
「それをTVじゃなくて甲子園のスタンドでみるの……それが南の夢」  
「それで?」  
「……ねえ、千恵ちゃんからもお願いして欲しいんだ、アッちゃんに―――」  
「お断り」  
 
 ハナっからお姉ちゃんの話は勘付いていた。アッちゃんに、吹奏楽部に自分達のコンクールよりも甲子園を優先させて欲しいと頼むつもりなのだと。  
「でも、甲子園だよ! 日本中が注目して、みんなが喜んでくれてるんだよ!」  
「そんなの知ったことじゃないわよ。誰が注目していようと、誰が喜んでいようと、大事なのはそこじゃないんだから」  
「同窓会の会長のおじさんなんか、わざわざ電話までかけてきたんだよ」  
「どこの誰がどう思っていようと、吹奏楽部は吹奏楽部の為にあるに決まってるじゃない」  
「南は―――ただ、甲子園を、みんなで応援したいってだけなのに」  
「あたしは、アッちゃんが市立文化センターに出てくれる方が嬉しい」  
 価値観の、絶対的にして絶望的なまでの相違だった。  
「……吹奏楽部の応援がないアルプスなんて、見たことないよ」  
「コンクールに出ないメンバーと、OBの方が来てくれるって」  
「でもそれって、吹奏楽部の本気じゃないってことじゃない」  
「そりゃ、吹奏楽部が本気で歌うのはアルプススタンドの訳がないわよ。だいたいお姉ちゃん、アッちゃんの本気、聴いたことないでしょ?」  
「……だから、それをアルプススタンドで聴かせて欲しいの」  
 ため息を一つ。  
 TVに映るとか、知名度が高いとか、そんな下らない理由でただの高校生の部活動を持ち上げたり蔑ろにしたりして。  
 どこの大人も、本当にどうかしている。  
 内心の苛立ちを隠して、あたしは静かに……けれど力を込めて言い切る。  
「アッちゃん達の本当の本物の歌は、いつだって舞台の上にしかないんだから」  
 そしてそのまま何か言っているお姉ちゃんを無視して、あたしは通話を切った。  
 多分きっと、お姉ちゃんには分からないだろうと思う。  
 あの日のチケットを、食べかすや生ゴミと一緒に捨ててしまうような人には。  
 
   ◇  
 
 その日も夏に相応しく、腹立たしいほどの快晴だった。  
 全長3,500Kmを覆う高気圧に一人戦いを挑むほどあたしもアホじゃない。ただ鬱陶しい日差しに辟易としながら、向かうだけだ。アッちゃんが立つ舞台に。  
 吹奏楽連盟主催吹奏楽コンクール県大会。  
 先の定期演奏会とは違い、今回はあくまでもコンクール。自然と聴衆はよほど興味のある人に限られていて、あたしは一人浮いてないかどうか少し不安になる。  
 訳もなく謝りたくなる。  
 あたしは吹奏楽が好きなのではなく、単純にアッちゃんを視にきたというのが正しいのだから。  
 音楽なんてものを正しく理解なんて出来ないくせに、と自己嫌悪しながら遠慮して一番後ろの席へ着いた。  
 あまり聴衆がいないこともあってか、客席が控え室も兼ねているらしい。出場する人たちが他の団体の演奏を聴いていて、あたしは思わずアッちゃんの姿を探してしまう。  
 後姿だけで、それでも見分けられた。  
 あたし達の高校の吹奏楽部は総員八十人を超えていて、その内男子部員は七人。  
 男子部員達はひとかたまりになっていて、あたしは一番後ろの席からその中からアッちゃんを見分ける。  
 まあ、後姿を遠目に見て。  
 そして見分けるくらい……出来なくて何が恋か。  
 まあつまり、幼なじみから片想いの相手へと変わっていたのだ。いつからかは知らないけれど。そんなものにあまり意味はないのだろうけれど。  
 丁度どこかの団体の演奏が始まる。  
 課題曲はアッちゃん達と同じ選択で、あたしも一度は聴いた曲。だけれど、演奏する人が違うだけでこうも変わるものかと思った。  
 あれほど優美で軽快だった旋律が、まるでない。  
 贔屓目なく、アッちゃん達の演奏ほどの力はなかった。  
 あたしは少しだけ肩の力を抜く。どうもコンクールというだけで緊張しすぎていたようだ。  
 力を抜いて、それぞれの違いくらいは聞き比べてみよう。  
 あたしは目を閉じて、深呼吸をした。  
 
 そして一番最後の演奏。  
 あたし達の母校の吹奏楽部の出番。  
 ここまでの演奏で、あたしが聴いた中では進学率で有名な高校が頭一つ飛び出ていた。  
 正直先日演奏会で聴いたアッちゃん達のそれと遜色ない素晴らしい出来で、あたしは審査員席にそっと目をやる。  
 どう評価したのだろうか。  
 ただの聴衆に過ぎないのに、そんな心配をしているうちに準備が整う。  
 あの始まる前の独特の緊張感に、あたしは舞台に目を向ける。  
 指揮台には顧問の先生。  
 あの時と同じように部員達を見渡して、そして一つ確かめるように頷かれた。  
 そして―――音が、生まれる。  
 あれから二週間強。  
 素人のあたしにも分かる。  
 あたしが無為に過ごした二週間は、アッちゃん達にとっては素晴らしい成長の時間だった。  
 優美な旋律は更に艶やかに。  
 軽快な旋律はより鮮やかに。  
 そしてアッちゃん達の音は、より強くなっていた。  
 世界中の音を従えて、アッちゃん達は舞台にかけていた。  
 身内贔屓は、もちろんある。  
 ないなんてことは言わない。  
 けれど……それを加味しても、素晴らしい演奏だった。  
 あたしは一番後ろの席で、小さく震えた。  
 世界中に向かって自慢したくなった。  
 どうだ―――これが、あたしの幼なじみの歌だ。と。  
 
 だから、アッちゃん達が金賞を受賞して、県代表として次の支部大会へと駒を進めたのはごく当然のことだった。  
 
 はしゃいでいるアッちゃん達がバスに乗り込むのを遠くで眺めてから、あたしは自分も帰路についた。  
 声をかけようかなとも思ったけれど、仲間内で喜びを分かち合っている姿を見ると、部外者のあたしがしたり顔で出て行くのは憚られた。  
 せめてアッちゃんが帰ってきたら美味しいものを用意しよう。  
 アッちゃんはジャガイモがごろごろはいったコロッケが好物で、あたしは帰りにスーパーに寄って材料を買い集めた。  
 
 家には誰も居なかった。もちろん武司家にも。  
 みんな甲子園に行ったからだ。  
 甲子園の結果はあまり気にならなかった。  
 春の甲子園でベスト4の工業高校を倒しているのだ、初出場で特筆する選手も居ない相手に負けはしない。らしい。  
 まあお父さんが新聞の受け売りを得意そうに言っていたことだから、真偽の程は定かではないが……まあ多分大丈夫だろう。分からないけれど。  
 明日の天気が晴れか雨かくらいの感覚だったのだ、あたしには。  
 夕食の用意を済ませると、丁度アッちゃんが帰ってきた。  
 誰も居ないからウチで食べようと昨日から言っておいたのだ。  
「おかえりなさい、あと……おめでとう、アッちゃん」  
 アッちゃんは曖昧に笑う。  
「うん。聴いてくれてたんだね、ありがとう千恵ちゃん」  
 その少し照れくさそうな笑みが、あたしは好きで。誰も居ない私の家で出迎えるというシチュエーションに、心が弾んだ。  
「お礼なんて良いよ。それより次もあるんだね」  
「ん、おかげさまで県代表。来週末かな? 次の支部大会は」  
「そっか、どこで?」  
「県外、少し遠い」  
「んー、頑張れば聴きにいけるかな?」  
「あはは、大変だよ?」  
「ううん、聴きに行く。アッちゃんの演奏」  
「ん、ありがとう」  
 そう言ったアッちゃんの顔が、少し沈んだ。  
「……アッちゃん?」  
「ん。あのさ、千恵ちゃん……負けたんだってね、和也」  
「へ?」  
 キョトンとしてしまった。  
「アレ? 出て行くときは楽勝みたいに言ってたよ、お父さん」  
「ん、下馬評じゃそうだったみたいだけどね。和也の出来が無茶苦茶だったみたいだ」  
 さっき帰り際に聞いたよ。と付け足す。後になって噂で小耳に挟んだのだけれど、帰ってきたアッちゃん達吹奏楽部はチクチクと嫌味を言われたそうだ。  
 お出迎えは留守番で甲子園に行けなかった先生。『この夏』から甲子園ファンになったその先生に、はしゃぐ部員達は冷や水を浴びせられたそうだ。  
 試合見てないのか。応援が足りなかったから勝てる試合も落としたんだ。可哀そうに、あんなに頑張ってたのに。兄貴のくせに女々しい、弟の晴れ舞台の応援も出来ないのか。  
 エトセトラ、エトセトラ。  
 荒野を行くような、夏の始まりだった。  
 

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