stadium/upbeat  
 
 
04. 歓喜の歌 〜ベートーベン交響曲第九番第四楽章〜  
 
 この捻くれ者な性分は小さい頃からで、今思えば下らないことで両親やお姉ちゃんと喧嘩してはむくれて家出をした。  
 とはいえそこは小さい子供のすること、家出先なんてせいぜい橋の下や公園のベンチ、学校の倉庫が関の山だったが。  
 友達の家に逃げ込まなかったのは、子供なりの意地だったのだろうと思う。  
 恐らくは子供なりに甘えていたのだろう。愛されているか試していたのだろう。捻くれ者のやり方で。  
 もっとも、そんな愛情確認にウチの家族は律儀に応えてくれていたのだから、我ながら、そして今更ながら申し訳なくもあるのだけれど。  
 なかなか幸せな家庭環境だった私だけれど、それでも小さい頃の家出癖はなかなか抜けなかった。  
 ただそんな時、いつだって探し当ててくれるのは家族ではなくて隣の家に住むアッちゃんだった。  
 理由なんて分かっている。わざと家出前に目星をつけていた場所でアッちゃんと遊んだりしていたのだから。  
 結局、小さい頃から一番甘えた相手は少しだけ年上の、あの男の子だったのだろう。  
 我ながら……嫌な子供だった。  
 
   ◇  
 
 春の甲子園優勝。  
 夏の敗戦から一転のドラマチックな成功劇は、マスコミ受けがかなり良かったらしい。  
 最近の風潮か、カッちゃんも王子様なんて呼ばれている。  
 何王子だか知らないが、連日の様に隣の家にはマスコミ関係者が詰め寄る。そこには得意そうなお姉ちゃんの顔もあるのだった。  
 誰もが口々にカッちゃんの活躍を讃えて歓声を上げる。  
 
 そんな狂乱も少しだけ落ち着いた春の終わり、あたしが縁側に腰掛けてぼんやり空を眺めているとお姉ちゃんが現れた。  
 見上げた空には青く輝く一際明るい星明り。あれは確か乙女座のスピカだったか。  
 鮮やかな橙色に輝くアークトゥルス、そしてデネボラを結ぶ線を春の大三角と呼ぶ。さて、何で読み齧った知識だっけ。  
 どうでもいいことを考えて、姉のかまって欲しそうな視線を無視する。  
 あれがスピカ、アークトゥルス、デネボラ……ちょっと語呂が悪いなあ。なんて思っていると、隣のお姉ちゃんがおずおずと口を開いた。  
「カッちゃん、凄かったよ」  
 視線を空から地上に。  
 隣に見慣れた姉の、珍しく冷めた表情がそこにあった。  
 妹のあたしが言うのも何だけれど、お姉ちゃんの可愛さはちょっと半端じゃない。  
 肩の辺りまでで揺れる甘く艶やかな黒髪。  
 処女雪めいた白磁に透き通った肌。  
 鮮やかに輝く黒真珠めいた瞳。  
 小ぶりな鼻や柔らかな頬、凛と整った眉。  
 いかにも少女らしい瑞々しさで桜色をしている唇。  
 触れれば解けそうな程危うくも愛らしい首の線や、痛々しいほどに可憐な肩。  
 まだいたいけでありながらも女を主張する甘やかな胸は品良く曲線を描き、驚くほど細身の可憐な腰へと続く。  
 すらりと嫌味なく伸びる足も、羨ましいほどの艶やかなバランスをしている。  
 身内びいきなしに。妹のあたしが言うのも何だけれど。ウチのお姉ちゃんの可愛らしさは本当に半端ない。  
 そんじょそこらのアイドルくらいになら、勝ってしまいかねないくらいの。  
 これで成績良いわ、運動神経も良いわ、料理上手いわ、ピアノなんかも弾けたりして、出来ないことの方を探す方が難しいくらい。  
「甲子園、凄かったでしょ」  
「……そうだね」  
 あたしはアルプススタンドの後ろの方で、揺れるアッちゃんの後姿をずっと眺めていただけだったのだが。  
 何となく足が向かなかったあたしは基本的にずっと留守番をしていた。  
 決勝戦にまで勝ち進み、興奮した親に引きずられる形であたしは甲子園に向かったのだった。  
 白状すればそれまでロクに応援してこなかったあたしには、あの時一緒になって優勝の喜びを分かち合う資格はないと思っている。  
 そこまで厚顔無恥なわけがない。  
 あたしの微妙そうな顔に気付いたのだろう、お姉ちゃんの顔から表情が消える。  
 いつも朗らかで、いわゆる『愛されキャラ』で通していて、口も達者な姉だった。その姉の整った目鼻立ちから愛想が抜け落ちると、ひどく冷たい顔が残っていた。  
「千恵ちゃん……」  
「……何?」  
 多分、可愛さの度合いが落ちるだけで、あたしも同じ表情をしているのだと思った。  
 
 姉の不服は感じていた。  
 そこれそ物心ついた頃から……今日まで。今日までずっと。  
 何もかもを持って生まれてきた姉だったけれど、それ故の不服。  
 だからあたしも臨戦態勢を整える。一瞬で整った臨戦態勢は、いつか来るだろうと思っていたからだ。  
 けれど、冷たい顔のままお姉ちゃんは頭を下げた。  
「ありがとう」  
「…………何が」  
 さすがに拍子抜けした。あたしがお姉ちゃんにお礼を言われることなど思い当たらない。  
「夏の後でね」  
「ああ」  
 カッちゃんの尻を叩いてグラウンドに追い立てた時のことであるらしかった。  
 僅かに緊張感を残して、お姉ちゃんは顔を上げる。  
「南がどんなに励ましても、カッちゃんは元気にならなかったから」  
「……あの時のカッちゃんには、励ますよりも尻を蹴った方が早いと思っただけだよ」  
 どうということのない、下らない出来事だった。  
 エースだかトップだか知らないが、いじいじと引きこもっているのを見ているのが腹立たしかったから。  
 より正確に言うのなら、カッちゃんよりもずっと負けが多いアッちゃんが、どんな結果を受けても……それでもにっこり笑って歌い続けたあの姿が……  
「だって、あんなの負けたウチに入らないし。それに、カッちゃんが野球嫌いな訳がないんだから。それだけはあたしにさえ分かるような簡単なことだったよ」  
 目に、焼きついていたから。あんな結果でもう引きこもる弟の諦めの良さが、癇に障ったのだ。  
「…………アレは負けだよ」  
「うん、試合はね」  
「千恵ちゃんは……分かってないよ」  
「だろうね」  
 すっくと立ち上がるお姉ちゃんの顔は、逆光で見えない。  
 見えなくて良かったと思う。  
 迂闊だったと、今ようやく気付いた。  
 あたしは姉をこてんぱんにやっつけてしまったのだった。  
 今まであたしに負けたことなんてただの一度もない、無敵のお姉ちゃんを―――  
 
   ◇  
 
 あたしたちの高校二年の夏は、去年の繰り返しであるかのようだった。  
 野球部は順当に勝ち続け、昨夏の雪辱をと周りは更に興奮する。  
 周囲は期待をかけ、カッちゃん達はそれに当たり前の様に応えて更に強くなっていく。  
 そして夏休み。  
 その最初の週末……何の因果か、また第四試合だった。  
 相手校は右腕本格派と左腕の変化球投手の二枚看板が売りの守りのチーム。  
 周囲の予想通り長い長い投手戦となったその試合が終わったのは午後六時。  
 吹奏楽部の定期演奏会の開演時間と同じで、あたしはまた応援に熱狂している家族を尻目にアッちゃんの方へと向かったのだった。  
 
   ◇  
 
 思わず  
「おひさしぶり」  
 なんて言ってしまった。  
 開演前の雰囲気へ、あたしは感謝したのだった。言葉には出来ないけれど、色々なことへ。  
 高校ながら昨年あちこちの大会でなかなかの成績をおさめ、マーチングのみならず全国区の音楽祭に招待される程の団体の定期演奏会だけあり、相変わらずの混みようだった。  
 そんな客席の騒々しさと対照的に、微動だにしない緞帳の重圧がひどく楽しい。  
 そう、これから楽しいことが起きる。  
 その予感に、あたしの心は柄もなく浮き足立っている。  
「今年のも会心の出来だよー」  
 昨日帰ってきたアッちゃんは、待っていたあたしにそっとそう耳打ちしてくれたのだった。  
 渡されたチケットは今年は一枚。  
 捨てられることのない、大事な一枚。  
 アッちゃんが自分たちの演奏を聴いて欲しいと思ったのはあたしだけだった。  
 少しだけ誇らしくて、でもやっぱりちょっと寂しい。  
 一応アッちゃんの身内が来てないか観客席を見回して……そして誰も居ないことを確認してから、落胆とも安堵ともつかないため息を一つついた。  
 満員の観客席に開演を知らせるブザーが鳴り響き、照明が落ちる。  
 それだけで騒々しかった周りが静まり返る。  
 緞帳がゆっくりと開いて、僅かに舞台の光が広がっていく。  
 光と共に溢れてくる音。  
 まずはご挨拶代わりとばかりに聞こえてくるのは耳に馴染んだ我が校の校歌だ。  
 期待と羨望のこもった拍手の中を指揮者がゆっくりと歩いていく。  
 見慣れたただの音楽の先生が、今この時はまるで別人だ。  
 右手が上がる。  
 ただそれだけで全てを制して、そして目の前の演者達に……観客に緊張が走る。  
 今年の一曲目はやはり恒例、コンクール用の演奏だ。  
 今年の課題曲は和風のメロディが取り入れられているらしい。  
 技術は当然のことながら、タイトル通りのイメージを聞き手に与えられるかどうかの演技力が問われる一曲であるらしい。  
 アッちゃんはご飯の時まで体を揺らしてイメージの構築に没頭していた。一緒に屋上でお弁当を食べていて、何を話しても上の空だった。  
 正直もう少しあたしの相手もして欲しかったのだけれど、真剣な顔で楽譜を見つめる姿が……ん、こういうことを言うのはあたしのキャラクターじゃないのだけれど。  
 そう……とても格好良かった。  
 あたしの幼なじみの、ちょっとだけ年上の男の子は……格好良いのだ。  
 弟よりも小柄な背丈も、照れたような恥ずかっているような曖昧な笑みも、子供の頃から変わらない泣き虫な所も。  
 そしてちょっとだけ優柔不断な態度も、時折掛けてくれる優しい言葉も……みんな、あたしの大切な宝物だ。  
 けれどそんな大切な宝物は、全て過去へ押しやられていく。  
 今あたしの目の前で舞台にかけているアッちゃんは、それまでの想い出のどれよりも格好良くて、それだけでドキドキする。  
 クラリネットが、フルートが煌びやかに音を刻む中を重厚に進むメインメロディー。そしてトロンボーンが、アッちゃんが歌う。  
 裏拍を踏んで始まったその音は、やがて激しく、大きくうねり終局へとなだれ込んでいく。  
 そして静かに終わりの一節が響いてから、溶けていった。  
 
 一瞬遅れて生まれる拍手は、観客を飲み込むほどの演奏の証だ。だからこそ割れるような拍手が起きる。  
 そしてその中を再び指揮者の右手が舞い上がる。  
 ただそれだけで観客もまた静まり返る。  
 続いて始まるのは壮大で華やかなメインメロディーが特徴的な曲。幾重にも幾重にも、華麗な衣装のようなメロディーのリフレイン。  
 軽快に響く木管の音色を纏って、これでもかとばかりに歌われる主題は凄艶な金管の声。  
 時に重々しく、時に華美に、時に鮮やかに―――。  
 そのタイトル通りの華々しさや品格なんかをいかに出せるかが勝負だと思っている。そう言ったアッちゃんだったけれど、あたしの心はとっくに奪われている。  
 どんなに言葉を重ねたって、この歌の華麗さには敵わないように思えた。  
 
   ◇  
 
 全てが昨年よりも上回っていた。  
 あたしは終始アッちゃん達の舞台に振り回されて、揺さぶられて、終わった時にはすっかりぼんやりとしてしまっていた。  
 気が付くとどうやら無事に家には辿り着いていたようだ。  
 去年と同じようにお姉ちゃんがスコアを見ている。  
 あたしは努めて素っ気無い顔を作ってからお姉ちゃんの前を通り過ぎる。  
「ただいま」  
「……お帰り、どうだった」  
「え?」  
「え、って……アッちゃんの演奏会よ」  
 振り返ると、お姉ちゃんが笑みを張り付かせてこちらを見据えていた。  
「……ん、あたし音痴だから、よく分からなかったよ」  
「嘘」  
「嘘ったって……あー、それよりカッちゃんの方は?」  
「負けるわけないわよ、カッちゃんは頭にバカがつく野球好きなんだから」  
 まあ、そうかもしれないけれど。それにしてもお姉ちゃんの様子がおかしい。  
「ねえ、何かあった?」  
「何も。何もないよ」  
 スコアを置いてお姉ちゃんが立ち上がる。  
「それよりアッちゃんは」  
「今日は帰ってこないんじゃない? 片付けやら何やらで忙しいらしいし」  
「ねえ千恵ちゃん……南はね、甲子園に連れて行ってもらって……そうしたらどうすればいいんだろうね」  
「知らないわよ、そんなこと」  
 またつまらないことを。そう思ったけれど、お姉ちゃんは何だか寂しそうに、自虐的に笑って  
「だよね、千恵ちゃんには分からないよね」  
 と言い捨てて部屋に向かう。  
 あたしは、そんな何かに負けたようなお姉ちゃんの背中がひどく痛々しくて、どうすればいいのか分からず……ただ見送った。  
 
 付け足すと、数日後の決勝戦も無事に終了。我が校は二年連続の夏の甲子園出場を決めた。  
 
   ◇  
 
 さすがに二年連続でそんなことはないらしい。  
 カッちゃんの夏の甲子園第一試合は二日目、木曜日。  
 アッちゃんのコンクールにはまるで関係のない日程で、あたしは密かに胸を撫で下ろす。  
 あたし自身はどうでもいいのだけれど、これ以上アッちゃん達が悪者になるのは耐えられない。  
 甲子園でアッちゃん達は歌う。  
 それまで練習して積み上げ、磨いてきた音を犠牲にして。  
 繊細に調えてきたものを、乱雑に扱われるのにもただ黙して。  
 あたしは居た貯まれず、甲子園に行くことも出来ず、テレビでさえ見ることが出来なかった。  
 密かに祈る。  
 どうか、早くアッちゃん達が帰ってきて、自分達の練習に戻れますように、と。  
 それはつまりカッちゃんに負けろと言っている訳で……あたしはそんな風に祈る自分の性悪さに、吐き気さえ覚えるのだった。  
 
   ◇  
 
 連戦をカッちゃんは乗り越えていく。  
 全国から集り、勝利を求める相手校を見事に制して……今大会最高の投手とさえ言われている。  
 そして決勝戦……ついに優勝の掛かった大一番にたどりついた。  
 八月第三日曜日。  
 決戦は応援に向かう父兄には絶好の日程で……応援に向かう吹奏楽部には、最悪の日程だった。  
 
   ◇  
 
 八月第三日曜日。  
 吹奏楽連盟主催吹奏楽コンクール支部大会。  
 またしても応援を優先しろを言う同窓会や学校を振り切り、アッちゃん達は自分達の舞台へと向かう。  
 あたしに言わせればそれまで自分達の練習時間や音楽を全部犠牲にしてきたのに、それでもまだ不満があるというのかというところだが。  
 大人はそうはいかないらしい。  
 甲子園、決勝戦。  
 それに比べれば、吹奏楽部の目標など下らないのだろう。  
 一応コンクールに参加しない部員やOB等で応援団は結成され、ただ音を鳴らすだけなら十分な人数が用意されている。  
 それでもダメであるらしい。  
 あの同窓会の偉い人が、また音楽室に乗り込んで騒いだらしい。もちろん校長や教頭なんかも。  
「アッちゃん……それでも行くよね?」  
「……行く。俺達は応援団じゃない……吹奏楽部なんだから」  
「うん!」  
 帰ってきたアッちゃんは、待っていたあたしにそう言ってくれた。何もできないあたしだったけれど、それでもただ嬉しかった。  
 
   ◇  
 
 カッちゃんはまた優勝した。  
 テレビや新聞や大人が大騒ぎしていた。  
 
   ◇  
 
 周囲の反対を振り切って、それでも続けた練習は無駄じゃなかった。  
 支部大会での演奏は、どの団体のそれよりも素晴らしい出来だった。少なくともあたしにはそう聴こえた。  
 結果発表のあの瞬間、沸き立つアッちゃん達を遠目に見たあたしも泣きたくなるほど嬉しかった。  
 いっぱい、いっぱい我慢を続けて。  
 色んなモノを犠牲にして。  
 色んなモノを奪われて。  
 それでも歌い続けたアッちゃん達の、ようやく手にした栄光だった。  
 カッちゃん達のソレが世間で大騒ぎになる中、アッちゃん達は反感を買ったせいかあまり喜んだりは出来なかったようだけれど。  
 けれど、訳を知る人だけは心から精一杯の祝福を贈ったのだった。  
 おめでとう、アッちゃん。  
 
   ◇  
 
「千恵ちゃん……やったよ」  
 帰ってきたアッちゃんは、満面の笑みであたしの所に来てくれた。  
 だからあたしも、めいっぱいの笑顔で出迎える。  
「うん、聴いてた。凄かった。泣きそうになった」  
「あははは、うん……うん」  
 もうそれだけでアッちゃんはちょっと涙目になっている。  
「ほら、嬉しい日なんだから、そんな泣かないでよ。本当に、アッちゃんはいつまで経っても泣き虫なんだから」  
「そんなことないよ。俺、千恵ちゃんよりも年上なんだよ」  
「それでも、体はあたしよりもずっとおっきくなっても……それでも」  
「ん……あのさ、普門館にさ……聴きに来て欲しい。俺、精一杯やるから、聴いて欲しい」  
「うん、絶対に行く」  
 小さな頃から捻くれ者だったあたしを、いつも気にしてくれていた男の子がやっとの思いで手にしたもの。  
 それをあたしに聴かせてくれる。  
 あたしにも分けてくれる。  
 その栄誉に、あたしは感謝と歓喜で胸を高鳴らせるのだった。  
 
   ◇  
 
 十月第三日曜。  
 また反感を買い、色々あったけれど……無事にこの日を迎えられた。  
 全日本吹奏楽コンクール高校の部。  
 このチケットは実はかなり入手困難なのだった。大手プレイガイドで販売されているものの、あたしが手に入れられたのは本当にラッキーなだけでもあった。  
 アッちゃんは「いっそ吹奏楽部に入ってくっ付いておいでよ」なんて言ってくれたけど、それはしてはいけないことの様に思えた。  
 あたしはあくまで『一観客』なのだ。その辺りは弁えている。  
 けれど、そうまで言ってもらえることが誇らしく、嬉しかった。  
 ドキドキしながらその日を迎えて、家を後にすると  
「遅かったね、千恵ちゃん」  
 駅でお姉ちゃんと鉢合わせた。  
「? 遅かったって……何が?」  
「もう、今日アッちゃんの演奏会なんでしょ、何か凄いの」  
「ッ!! お姉ちゃん!!」  
 道行く人の誰もが振り返るような美少女ぶりで、目敏い人は「アレ、『南ちゃん』じゃね」なんて言うほどの目立ちぶりで。  
 そんなお姉ちゃんが嬉々として振っているのは、全日本吹奏楽コンクールのチケットだった。  
「嘘」  
「嘘じゃないよ、南必死に頑張ったけど取れなくてね。色んな人に頼んでようやく手に入ったんだ。じゃあ行こっか、アッちゃんの本気の歌を聞けるんでしょ?」  
「…………嘘」  
 お姉ちゃんに手を引かれて、あたしは改札を抜けた。  
 そこから普門館への道のりは、正直まったく憶えていない。  
 
 楽器の搬入をしているらしいアッちゃん達を見つけたらしいお姉ちゃんは、何の躊躇いもなくその中へずんずんと進んでいく。  
 アッちゃんはそんなあたし達をみつけるときょとんとして、そうしてから笑みを浮かべてみせた。  
「え……っと、来たんだ」  
 曖昧な笑みは、戸惑いからだ。  
 あたしは泣きたくなるのを必死に堪える。  
 お姉ちゃんは愛想良く激励の言葉なんかを掛けているが、あたしには無理だ。顔を上げることも出来そうにない。  
 頭の上でお姉ちゃんが  
「この子は昔から捻くれ者だから」  
 なんて言っているのが聞こえる。それも間違いじゃないから、あたしは俯いてただひたすらに耐えた。  
 全てが、メチャクチャに壊された気分になる。  
 初めはあたし以外のアッちゃんの家族や知り合いに来てもらいたいと……そう思っていたのに。  
 どうして今頃こうなったのか。  
 上機嫌なお姉ちゃんは観客席でも隣で、あたしは何くれとなく話しかけられて辟易とする。  
 ようやく巡ってきたアッちゃん達の演奏も、どことはなく落ち着いて聴けなかったのだった。  
 初出場にして銀賞なら、上出来ではないかとあたしは思う。  
 けれどお姉ちゃんはそうは思わないようだった。  
「ダメだったねー」  
 なんて吹奏楽部の中から目敏くアッちゃんを見つけたお姉ちゃんは声を掛けていて、あたしは死ぬ程恥ずかしい気持ちになった。  
 
   ◇  
 
 それから一週間。  
 甲子園の決勝戦を蹴ってまで自分達の都合を優先した吹奏楽部は全国大会で銀賞。  
 そんな評価に皆が冷ややかな目を向ける中……不意にテレビの取材が申し込まれた。  
 野球部ではなく、吹奏楽部に。  
 どこかの大きなテレビ局が全国の中高生の吹奏楽部を取材して回っているコーナーであるらしく、甲子園で優勝した高校が普門館に出たのが気を引いたらしい。  
 あたしでも知ってるようなバラエティの番組のコーナーの取材は、現金な大人達の対応をひっくり返すのには十分だったらしい。  
 あっという間に吹奏楽部は『我が校の誇り』とやらに祭り上げられ、校長以下教職員は諸手を上げて取材クルーを大歓迎。  
 地元のローカル雑誌やら新聞やらがそのおこぼれに預かろうと列をなす様は呆れるのを通り越して笑えた。  
 その吹奏楽部といえば、野球部の天才エースの兄が居る。  
 こんな美味しい材料をマスコミが見逃すはずもなく、お隣の南ちゃんともども再びあれこれと騒がしくなるのだった。  
 数日後、アッちゃんまで何やら王子様扱いされ、お姉ちゃんとカッちゃんの三人で撮った写真を載せた雑誌が家に届いていた。  
 
 あんた達にも話を聞きたいって言ってるから。  
 勝手に取材を了承した母にそう言われた夜、あたしは耐えかねて家を飛び出した。  
 理由なんて言葉にならない。  
 とにかく腹立たしくて、悔しくて、泣きたくて……あたしは多分十年ぶりくらいに家出をした。  
 それなりに用意周到に家出をしていた子供の頃に比べると、何も持たずに飛び出す辺り退化していると言えなくもない。  
 もうすぐ取材が来ると叫ぶ母の声は聞こえていたけれど、そんなことはどうでも良かった。むしろクソくらえだと言いたかった。  
 悔しくて、でも何も出来なくて。  
 あたしはむやみやらに走って、走って、走って……気が付くと小さい頃に良く遊んだ公園に辿り着いた。  
 どこをどう走ったのやら、我ながらのバカさかげんに乾いた笑いさえ出てしまう。  
 見上げると星がむやみに綺麗で、何もかもがどうでも良い気分になる。  
 楽しみにしていた普門館も全部台無しにされて。  
 ずっと苦労してきたアッちゃん達の評価が、あの程度のことでひっくり返って。  
 そんな色んなことで、胸がもやもやして、どうしようもなくなって……誰も居ないのを確認してから。  
「ちょっとだけ……泣く」  
 どうしてそんな事を言ったのかなんて分からない。けれどそんな宣言を小さくしてから。  
 あたしは泣いた。  
 いつもの指定席だったベンチに腰掛けて、町の灯りの届かない夜の闇の深い中で……誰もいないことに感謝して、すすり泣く。  
 気の済むまで泣こう。  
 そう思って居ると、ふと目の前に誰かの足が見えた。  
 使い古されたスニーカー。  
 草や泥で汚れたズボン。  
 慌てていたのだろう、いい加減にベルトからはみ出たカッターシャツ。  
 羽織っただけの学ラン。  
 汗だくの顔。  
 生まれつきのねこっ毛で、すぐにくしゃくしゃになる髪。  
 その表情は見えないけれど、あたしには直ぐに誰だか分かった。  
 
「あ……あ、ア、ちゃ……」  
「千恵ちゃん、探したよ」  
「ッ! ぅ、あ……え……え゛ッ、ぇぇ」  
 小さい頃から何も変わらない言葉と、優しい声で……あたしの手を握ってくれたのは……あたしの大好きな、アッちゃんだった。  
 だから―――  
「ああぁぁッああ゛あぁッ、ッ、ッ……あああぁぁ」  
「本当に、千恵ちゃんは」  
 音楽に携わる人らしい、細く長い指で頭を撫でられて、抱きしめられて……あたしの涙が止まらなくなる。  
 けれど……先に言わなくてはならないことがあった。  
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」  
「何を謝る事があるんだよ」  
「泣いて……勝手に泣いて、ごめんなさい」  
「泣くのに、俺の許可なんて要らないだろ?」  
「ッ、う、あああぁぁ、あああああッ」  
「ほら、涙」  
「だって、だって……だって! 泣くのは大事なことだからって、そう言ってた」  
「…………ああ、そうだったな」  
 良く憶えてるね、そんな子供の聞きかじりで言った台詞を。とアッちゃんは呟く。  
 一頻り泣いて、もう涙が出尽くした頃、アッちゃんはあたしを抱きしめたまま口を開いた。  
「小さい頃の千恵ちゃんは意地っ張りなのに泣き虫でさ」  
「…………」  
「こうして探し当てた後は、いつも気が済むまで泣いてたっけ」  
「嘘、泣き虫なのはアッちゃんの……」  
「俺は千恵ちゃんが泣いてばかりいるのにつられてな。どうしても可愛がられやすいお姉ちゃんの影でいつもむくれてた千恵ちゃんは一人で泣いてて」  
「そうだったかな」  
「俺は女の子が泣いてるのに何も出来ないのが悔しくて泣いてたよ。つられてさ」  
 ずるい。  
 好きな人にこんな風に抱きしめられて、そんな事を言われて―――  
「だから言ったんだ。意地っ張りな女の子が、泣いてる所を他の人に見せたくなくって。でもまさか今までずっと大切にしてくれてるとは思わなかったよ」  
 ため息が混じる。  
 見上げたアッちゃんの目には、あたしのあまり可愛くない……生意気な顔が映っている。  
「あんな、子供の言ったことをさ」  
「でも、あたしには大事なことだったから」  
「うん……だから、ありがとう……かな?」  
「ううん……あたしこそ、だよ」  
 きっと目なんか真っ赤で、そうじゃなくても可愛くなんてないあたしだ。こんな風な初めてなんて、ちょっと癪ではあったけれど。  
 それでも今じゃないと絶対に嫌だった。  
 だから、そっと目を閉じて、アッちゃんからしてくれるのを待つのだった。  
 
   ◇  
 
 普門館にテレビ取材。  
 そういったアレコレで随分伸びてしまったけれど、本来アッちゃん達三年生はとっくに部活を引退して受験に専念していないといけない時期だった。  
 けれど……それでも最後にもう一度だけ舞台に上がるよ。  
 アッちゃんはそう言って、チケットを渡してくれた。  
 いつもの舞台よりも小さい場所だけど、このチケットは本当にごく僅かの人にしか渡してないんだ。  
 そんな風に言ってくれた。  
 地元の小さなコンサートホールで今週末に開かれるそのステージの名前は、吹奏楽部臨時演奏会。  
 サブタイトルに『お世話になった方々へ、感謝を込めて』と書かれていた。  
 そのチケットは本当にごく僅かの保護者や応援し続けてくれていた地元関係者だけに配られていて、ごく私的な演奏会ということだった。  
 定期演奏会なら校長や教頭辺りも顔を出すのだが、今回は学校関係者で来るのはごく一握りだ。  
 アッちゃんは家族にも、お姉ちゃんにも渡さなかったようだった。  
 
   ◇  
 
 週末、出かける準備を早めに調えたあたしの前にお姉ちゃんが立ち塞がる。  
「なんで……千恵ちゃんだけ呼ばれるのよ」  
「…………」  
「南だって、アッちゃんのことはずっと気に留めてたんだよ」  
 吹奏楽部で頑張ってたことも、応援で頑張ってたことも、自分の部活の大会に頑張ってたことも、全部! そう数え上げる声は、ひどく高い。  
 誰もが目を引く美少女の、見たこともない表情だった。  
「だいたい千恵ちゃんはズルイ! ずっとずっと、お父さんやお母さんやおじさん達からまるで『期待』されないで自由にしてきて」  
 自由、ねえ。と思う。  
「南もカッちゃんも親の期待にずっとずっと必死に応えてきたのに! アッちゃんは南のこと分かってくれると思ってたのに! なんて千恵ちゃんなのよ!」  
「あたしはね、お姉ちゃん……」  
「そりゃ色々あったよ! でも悪く言う人達からアッちゃん達吹奏楽部をかばってあげてきたんだから!」  
 あげてきた、ねえ。  
「千恵ちゃんなんて、南達がどんなにプレッシャーの中で頑張ってきたか知らないくせに!」  
 一人称が相変わらず名前の姉に、あたしは少し辟易とする。  
「去年なんてカッちゃんをあっさり立ち直らせて、南が何も知らないみたいな言い方して!」  
 まあ、あれはあたしが言い過ぎのきらいもあったけれど。  
 それはそれとしても、お姉ちゃんはあたしが口を開く間もなく、矢継ぎ早に言い募る。  
 それまでの……それこそ生まれてからずっと溜め込んできた不満を。  
「南の後ろでメソメソしてるだけの癖に、美味しい所全部持ってって……千恵ちゃんの卑怯者!」  
 ようやく言い終えたお姉ちゃんは、息を荒げていて……あたしはため息をついた。  
「あたしはお姉ちゃん達のことなんて分からないよ。でもさ―――」  
「なによ!」  
「でも……お姉ちゃんにも分からないよ、親に期待されないなんてことがどういうことかなんて」  
「…………それは、でも―――」  
「お姉ちゃんが今日までどんなつもりだったかなんて知らない。知らないけどさ……アッちゃんの所へ行くのは、あたしだから。これだけは譲らないから」  
 それだけを言って、あたしは家を後にした。  
 向かうは地元の小さなコンサートホール。  
 アッちゃんの、最後の舞台だった。  
 
 席に着くと、隣の席は知らないおばさんだった。けれど気さくに話しかけられた。  
「あら、あなた武司君の彼女さん、千恵ちゃんでしょ」  
「あ、はい……」  
 彼女、の部分で照れてしまう。  
 そんなあたしににっこりと笑いかけてから  
「熱心に見に来てたものね、今日は最後だからしっかり聴いておかないとね」  
 とおばさんは言ってくれて。だからあたしも笑って頷いた。  
 
   ◇  
 
 始まりはやはり耳に馴染んだ校歌。  
 今年の課題曲と自由曲、マーチング用の曲、そして幾つかの定番の名曲の後……その歌が紹介される。  
 この一曲に、今までのことを全部詰め込みました。  
 オモチャ箱みたいな……曲です、と。  
 そしてその演目が、始まる。  
 最初で最後のその曲が。  
 稲村譲司が、ヴァン・デル・ローストが、福島弘和が、ショスタコーヴィチが、真島俊夫が、ポール・ラヴェンダーが、ジョン・ヒギンズが……  
 今日までアッちゃん達が歌ってきた全てが込められた、壮大なメドレーだった。  
 あたしの知ってるアッちゃん達も、あたしの知らなかったアッちゃん達も。全部込められている。  
 そして……メドレーも佳境、色々な名曲、オールディーズ、ジャズにポップス。  
 ジャンルを無視した旋律が縦横無尽に駆け巡り……一つの旋律へと繋がる。そして不意にアッちゃんが立ち上がった。  
「Freude, schoner Gotterfunken,Tochter aus Elysium(歓喜よ、神々の麗しき霊感よ、天上の楽園の乙女よ)」  
 息を飲む。あたしでも知っている、その名曲。  
「Wir betreten feuertrunken.Himmlische, dein Heiligtum!(我々は火のように酔いしれて崇高な汝(歓喜)の聖所に入る)」  
 次々に立ち上がり続く歌声。演奏と、そして初めて聴く……アッちゃん達の『歌声』。  
「Deine Zauber binden wieder,(汝が魔力は再び結び合わせる)」  
 自然と涙が零れ落ちた。感動に……歓喜に。  
「Was die Mode streng geteilt;Alle Menschen werden Bruder,(時流が強く切り離したものを。すべての人々は兄弟となる)」  
 だからこの歌の名前は―――  
「Wo dein sanfter Flugel weilt(汝の柔らかな翼が留まる所で)」  
 ベートーベン交響曲第九番第四楽章、歓喜の歌だった。  
 
   ◇  
 
 それからのことを話せば。  
 アッちゃんは地元の大学に進学し、卒業後は大きな病院に事務員として雇われた。  
 音楽の方は高校を卒業して以来趣味程度にとどめていて、あたしは少し不満だ。  
 時折あの歌を歌ってくれて、それでもまあ、あたしのためにと言われるとやっぱりドキドキして嬉しくもなる辺り、現金なものだ。  
 カッちゃんはその後も大活躍で大学を経てプロ選手になったけれど二年で肩を壊してリタイア、今は駅前の和食のお店で働いている。  
 なかなか筋がいいらしく、頑張っているようだ。  
 お姉ちゃんはと言えば大学卒業後にそこそこ大きな商社に就職、この間取引先の広告代理店勤務の男の人と結婚した。  
 今では立派な奥様だ。  
 あたしは……  
 
「で、アッちゃん。あたしだって女の子だから、夢とかある訳ですよ」  
「ん……分かってるよ、それは。でもさ、雨の中はどうだろう」  
「雨だなんて決まった訳じゃないでしょ! はい決定! 来年六月ねー、あ、じゃあお姉さん、六月の初めの土曜に今から予約しまーす」  
「そんなの空いてるわけが……」  
「あ、空いてますよ、今なら」  
「うあ」  
 お姉ちゃんに遅れて、奥様になる予定だ。  
 

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