01. Bravado  
 
 あたしの家の隣には、二人の兄弟が住んでいる。武司さん家の兄弟だ。  
 兄の敦也と弟の和也。アッちゃん、カッちゃんとあたしは呼んでいる。  
 和也なんて名前を弟の方に付けたのは、おじさんが古い野球漫画のファンだかららしい。  
 志半ばで倒れた弟にぜひ甲子園に行ってもらいたかったらしく、和也と名付けたとのことだ。  
 一つ年上のお兄さんの方も本当なら漫画から付けたかったそうだけれど、言い出せなくて妥協した結果敦也になったらしい。  
 だから少しだけ漫画とは違う名前の兄弟が出来上がった訳だ。  
 隣に住むあたし達深瀬一家の父もやはり同じ漫画のファンらしく、女の子が生まれて大喜び。意気揚々と漫画と同じく南と名付けた。  
 ただ、何事も上手くいかないもの。お隣の武司さん家が双子じゃない兄弟で違う名前になったように、ウチも少し誤差が出た。  
 カッちゃんと同じ学年に南ちゃんと、もう一人妹が生まれたのだ。  
 それがあたし―――深瀬千恵。もう少しで北ちゃんと名付けられそうになった双子の妹だ。  
 
 どちらかと言えば口下手でのんびり屋さんのアッちゃんに比べると、器用なカッちゃんは漫画の様に育った。  
 親の教育の為かどうかはあたしには分からないが、ウチは少なくともそう誘導していた節がある。  
 漫画の影響をありありと受けてしまった我が姉、南は見事な優等生キャラを確立している。  
 今でも忘れられないのだが、幼い頃、名前の由来を聞いたあたし達姉妹は逆の反応を見せた。  
 姉の南は喜んで漫画通りお隣の兄弟に「南を甲子園につれてって」と言ったのだ。  
 アッちゃんは答えかねて曖昧に笑い、カッちゃんは得意そうな顔で「うん」と言っていた。  
 あたしはと言えば、そんなバカバカしい理由で名前を付けられたのかと思うとウンザリした。冗談じゃない。もっとも、あの漫画に双子の妹なんてのは居ない。  
 そう考えると、あたしが自分の……というかあの三人の名前の由来を聞いて疎外感を覚えるのは当たり前だった。  
 千恵という名前を付けてくれたのは、もう死んだお婆ちゃんらしい。お母さんの名前、一恵から一字貰って千恵。  
 漫画から付けられるより、ずっと嬉しくて誇らしい名前だった。  
 けれど、それが負け惜しみも少し混じっていることも分かっている。  
 誇らしくて嬉しい名前。けれど一人だけ違う所以の名前。  
 それがあたしには寂しかった。高校に入ってようやく、そんなことを受け入れられたのだけれど。  
 だから反抗期らしい紆余曲折のトラブルを乗り越えてまた何となく仲良くなったあたし達四人だったけれど、あたしは少しだけ疎外感も覚えていたのだ。  
 あたし一人、違う所以の名前を持ち、それゆえに物語の傍観者でしかないのだ。  
 あるいはこれは、あたしの虚勢の物語でもあるのかもしれない。  
 
   ◇  
 
 私達の通う公立高校は、県下有数の野球強豪校だ。これまでにも幾度となく甲子園に出場し、プロ選手も何人も輩出している。  
 この夏の甲子園も、この調子ならば出場できそうな雰囲気だった。  
 初戦で県外から有力選手を集めてきた私立と当たり、さすがにダメかと観念していたのだが一年生エースの見事なピッチングでこれに快勝。  
 そこからはもう波に乗り、向かう所敵なし。  
 新設校相手とはいえ一年生エースがノーヒットノーランをすれば、昨年の雪辱を狙う並み居る強豪に競り勝ち、次はいよいよ決勝。  
 相手は我が県が誇るもう一つの野球強豪高校、強力打線が売りの工業高校だ。  
 新聞やテレビは大々的に報じる。  
 強力打線対一年生エース。あの漫画と同じ名前を持つ天才ピッチャーの行方に、大人達は一喜一憂しているのだった。  
 
   ◇  
 
 春。  
 あたしとお姉ちゃん、そして幼なじみの男の子は高校に進学した。  
 県内屈指の野球の強豪校。姉、南にとってはそこに入学するのは念願だったようだ。  
 早々に推薦入学を手にしたカッちゃんは、あたし達姉妹が同じ進路なのをことの他喜んでいた。  
 野球の名門校。お姉ちゃんとカッちゃんにとってはそれはそれは大切なファクターだった訳だ。  
 同じ高校に一足先に入学していたアッちゃんは、あたしが同じ進路だと聞くと  
「そうかー、頑張れよ」  
 とのんびり笑うのだった。  
 のんびり屋さんで、ぼんやりしていて、運動なんてからっきし。漫画と違う点があるとすれば、アッちゃんは野球なんかこれっぽっちも出来ないということだ。  
 下手をすればあたしの方が上手いんじゃないだろうか。  
 そんなみんなのお兄さん、アッちゃんだったけれど、中学から始めた吹奏楽は楽しいようだった。  
 とはいえ、そこはのんびりしているアッちゃんのこと。お世辞にも上手いとは言えず、要領悪く四苦八苦しながら練習してるのだった。  
 だからアッちゃんにとって我が校は野球の名門校ではなく、吹奏楽の名門校なのだった。  
 そう、我が校は県内屈指の野球強豪校にして、吹奏楽を初めとする文科系も優秀な成績を修めている。  
 過去幾度となく文部科学大臣賞を受賞している美術部などはマスコミにもちょくちょく出ている。  
 アッちゃんにとっては吹奏楽の名門校。  
 カッちゃんとお姉ちゃんにとっては野球の名門校。  
 けれどあたしにとってこの高校は、ごくありふれた公立高校でしかなかった。  
 志望動機を問われれば、あたしは単に幼なじみの二人やお姉ちゃんに置いてけぼりにされたくなかっただけだった。  
 
   ◇  
 
 中学で既に県下のみならず県外私立校のスカウトからも垂涎の的だったカッちゃん。  
 非の打ち所のない美少女で、成績も運動も優秀。愛想も良くて名前からカッちゃんとセットで扱われていたお姉ちゃん。  
 あたしはといえば双子だけれどあまり似ていないこともあり、目立たないごく普通の女子生徒だった。  
 もっとも、自分からなるべく目立たないようにしてきたのもあるのだけれど。  
 そんな関係は高校になっても変わらない。  
 あたしはごくごく普通の女子生徒として、たまにお姉ちゃんの妹ということで驚かれたりするくらいの生活を送っていた。  
 
「南の応援、聞こえてた?」  
 お姉ちゃんは自分のことを名前で呼ぶ。  
 これも例の漫画の影響だ。  
「勿論」  
 答えるカッちゃんは得意そうだ。カッちゃんの口調も影響を受けている。正直に言わせて貰うと、二人の会話はどうにも芝居がかっていて変だ。  
 そう思っているのは、どうやらあたしくらいのものらしいけれど。  
 明日は決勝戦ということで、カッちゃんは軽めのトレーニングだけで帰ってきている。  
 カッちゃんの為に夕飯を用意したお姉ちゃんは、楽しそうに柔軟の手伝いをしている。  
 あたしはといえば特にすることもなく、自分の食事を終えてもう部屋に帰ろうかと思っていた所だ。  
 ふと外に目を向けると、丁度アッちゃんが帰って来ていた。  
 今アッちゃんの家では近所の不良中年が集り、未来のヒーローへの祝杯を延々と挙げ続けているはずだ。  
 もちろんそんな所にアッちゃんの食事なんかあるはずもない。  
 あたしは夕飯の残りをいい加減にタッパーに詰めてから、アッちゃんの家へ駆け込んだ。  
 案の定、要領の悪いアッちゃんは台所で小さくなってお茶菓子の余りをもそもそ齧っていた。  
 あたしを(というよりも手の中のタッパーを)見るなりアッちゃんのお母さんは察したようで、にっこり笑って招き入れてくれた。  
 挨拶もそこそこに、おばさんはつまみであるらしい大量の食べ物を宴会場と化している仏間へと運び始める。  
 あたしはその背中と、居心地悪そうなアッちゃんを見比べてから  
「……晩御飯」  
 とタッパーを置いた。  
 アッちゃんは少し驚いてからタッパーを覗き込み  
「うん、旨そうだ。ありがとう、千恵ちゃん」  
 と微笑んだ。  
「ご飯は?」  
「多分あるんじゃないかな?」  
 アッちゃんは炊飯器を開いて、しばらく考えてから  
「少し前まではあったみたいだ」  
 と何が楽しいのか笑みを浮かべてみせる。  
 その呑気な顔に、あたしはむかっ腹が立った。  
 要領が悪くて、いつも貧乏くじばかり引いて、それでも微笑んでさえみせる。  
 そんなアッちゃんや、それを当たり前と思っているらしい周りの大人や、そして何よりもそんな時イライラするしかないあたしに。  
 あたしは何も言わずに急いで自分の家からご飯も取ってくる。  
 アッちゃんは硬めのご飯が好きだけれど、カッちゃんはそうじゃない。だからいつもウチのご飯を喜んで食べてくれる。  
 そう思えば、今回ばかりはそう貧乏くじじゃないのかもしれない。  
 
 いかにも美味しそうに夕食を平らげたアッちゃんは、静かに微笑んで  
「ありがとう、千恵ちゃん」  
 ともう一度言った。  
 どうやらおばさんも宴会に巻き込まれたらしい、先ほどから帰ってこない。  
「あたしが作ったんじゃないから」  
「でも俺を気にして持ってきてくれたんだろ? あのままじゃせいぜいつまみの余りくらいしかなかっただろうから、助かったよ。だからありがとう」  
 本当に、貧乏くじもいい所だ。  
「和也、そっちに居るのか?」  
 アッちゃんにお茶を淹れてあげると、それを啜りながら尋ねられる。  
「そうよ、今お姉ちゃんが相手してる。明日に備えてストレッチの真似事してる」  
「そうかー」  
 アッちゃんは他人事のようにお茶を一啜りする。  
「さっきも『南の応援聞こえた?』とかやってた」  
「そうか、南ちゃんのそれ、まだ直ってないのか」  
「それ?」  
 一つ年上のアッちゃんは困ったように微笑む。  
「一人称。高校生の一人称が名前っていうのも結構痛いからなあ、何とかしてやんないと」  
 驚く。周りの大人達はジンクスだか願掛けだかで、お姉ちゃんの悪癖を嗜めようともしないのに。  
「アッちゃんは、アレどうにかした方がいいと思うんだ?」  
 アッちゃんは不思議そうに首を傾げてから  
「当たり前だろう? 小さい子ならとにかく、あと四、五年もすれば成人するのに。社会に出てから恥かくだろうし」  
 とごく真っ当な、けれどあたし以外では始めての意見を口にした。  
「…………アッちゃんも、そう思っていたんだ」  
「そりゃあね、今もうすでにギリギリだと思うし」  
「ギリギリだよ、本当だよ」  
 仏間では、今も未来のエースを讃える祝杯が続いている。  
 明日の、約束された勝利をお祝いする声が続いている。  
 
 アッちゃんとあたしは、そんなお祝いムードの中に取り残されていたのだった。  
 
   ◇  
 
 入学式を終えてすぐ、カッちゃんは野球部へ入部した。お姉ちゃんももちろんマネージャーに。  
 とりあえずお姉ちゃんは新体操なんてする気はなく、三年間ずっとマネージャーのつもりらしい。  
 あたしはといえば、どこにも入部しなかった。  
 長い黒髪が目を引く美人の先輩から郷文研に、地味な格好だけれど可愛い先輩からは文芸部に誘われたけれどお断りさせてもらった。  
 そのどちらかに入部したら、またおかしなことになりそうだったからだ。その様子を見ていた男の先輩二人が  
「一本釣り失敗」  
 とか言っていたけれど、そこはスルーで。  
 アッちゃんの居る吹奏楽部に行こうかな、とも少しだけ思ったけれど、あたしは自分で言うのもアレだけれど致命的に音感もリズム感もない。  
 アッちゃんに言わせれば  
「奇跡のリズミカルさだ」  
 らしいけれど。  
 マーチをワルツに出来るのは世界であたしだけらしい。  
 何事もオンリーワンよりナンバーワンの方が良いと思うので、あたしは音楽に関しては聴衆になる以外は辞退することにしている。  
 
 天才投手武司和也と、その兄にしてごく普通の吹奏楽部員武司敦也。  
 校長を初め諸先生方は、アッちゃんを捕まえては  
「今日まで練習してきた成果を披露する時が来たな」  
 と声を掛ける。  
 アッちゃんは困ったように微笑むだけだ、が。  
 あたしは思う。面白くない。  
 アッちゃんはカッちゃんの為に歌っている訳ではない。ただアッちゃんは、舞台が好きなだけなのだ。  
 自分の好きなもの、大切なものの為に頑張っているのだ、アッちゃんは。カッちゃんが両親や周りの大人達や、お姉ちゃんの期待に応えているように。  
 差異はその程度だけれど、周りの大人達はそうは思わない。天才投手を応援する為にアッちゃんが吹奏楽をやっていると思っているのだ。  
 先日、気の早いローカル紙の記者がアッちゃんとカッちゃん、お姉ちゃんの取材に来た。  
 記者は散々二人の過去を根掘り葉掘りほじくり返して、天才投手の弟とそれを必死に応援する兄の虚像を作っていた。  
 そして最後に記者はアッちゃんに向かって  
「これで甲子園で演奏できますね」  
 なんてことを言った。  
 アッちゃんは困ったようにしばらく首を傾げてから  
「縁があれば」  
 とぼんやりとした答えを口にした。多分それが、アッちゃんのギリギリ妥協できるラインだったのだと思う。  
 けれどそんなアッちゃんを、記者は不服そうに見てから帰っていった。  
 多分、あそこで甲子園で演奏できて光栄だ、とか嬉しい、とか、その機会をくれた弟に感謝、とか言って欲しかったのだろう。  
 だがその辺りはアッちゃんだって分かっている。分かった上で惚けてみせたのだ。  
 アッちゃんと、アッちゃんの仲間がする演奏は、カッちゃんや野球部の為にあるのではないのだ。  
 その分の愛想はお姉ちゃんが振りまいたから、十分だろう。  
 あたしはといえば、居心地が悪くてずっと奥に引っ込んでいた。  
 本当はあたしも取材対象だったそうだけれど(それは多分オマケとかお情けとかでだろうけれど)あの日が重くて気分が優れないと言い張り逃げた。  
 多分記者があたしに期待した答えは、お姉ちゃん共々頑張って応援します、程度だ。穿った見方をすれば『南ちゃん』の当て馬か。  
 
 吹奏楽部は夏休みに入ってすぐの週末に定期演奏会を開くのが通例で、あたしはアッちゃんに誘われて観に行くことになった。  
 カッちゃんやお姉ちゃん、おじさんおばさんにウチの両親にも来て欲しいとチケットを渡していた。  
 運の悪いことに、と言うべきか否か。その日は丁度野球部の県予選の試合でもあった。それも第四試合。  
 終わってから駆けつければ、ギリギリ演奏会に間に合うかどうかの時間だった。  
 けれどそれまでの試合が長引いたこともあり、その日の第四試合が始まったのは予定時間を随分過ぎていた。  
 相手校は堅い守備と甲子園出場経験もある三年生投手が自慢で、大人達の予想通り投手戦になった。  
 一日で一番暑い中を二人の投手は好投を見せ、一点も入らないまま試合は延長戦に。長い長い試合になった。そうだ。  
 実の所あたしは最後まで見ていない。  
 七回の辺りでアッちゃんの演奏会に間に合わなくなりそうだったので、とっとと帰ることにしたのだ。  
 他のみんなは「私達の分までアッちゃんをお願い」とメールで寄越して来ただけだった。  
 仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。けれどどこか釈然としないものを感じながら、あたしは花屋に寄って自分のお小遣いで買える精一杯大きな花を買った。  
 今の自分の気持ちをいっぱいにこめた花を受付に渡してから客席へ。  
 高校の吹奏楽部の演奏会とはいえ、県内屈指の実力を誇る団体だけあり客席は満杯だった。  
 あたしは後ろの方にどうにか腰を落ち着けると、一応周りを確認してみた。ウチの両親やおじさんおばさん、そしてお姉ちゃんは居ない。当たり前だけれど。  
 試合がいつまで続くのか分からないけれど、早く終わればいいと思った。  
 あたし以外に、アッちゃんの身内はいないまま開幕。  
 八月最初の週末は吹奏楽コンクールの県大会。その課題曲と自由曲、その二つを初めに披露する第一部の始まりだ。  
 今年選んだ課題曲はコンサートマーチで、軽快なリズムと優美なメロディーが特徴(であるらしい)  
 自由曲はローマの英雄を題材にした交響詩。  
 吹奏楽では人気の作曲家による作品で、技術面は当然としていかにそのドラマ性を音楽に出来るかの表現力も問われる一曲(であるらしい)  
 もちろんアッちゃんが後から教えてくれたことだが。  
 その時のあたしにはそんな小難しいことは全然分からなかった。  
 けれど一つだけ分かったことがあった。  
 
 アッちゃん達は、こんな凄いことが出来るんだと。  
 顧問の先生が指揮台に上がり、部員達を見渡す。そしてすっとその右手が上がると、それに応えるように僅かな音を立てて楽器が構えられる。  
 その瞬間、始まりの一音が出るまでのその僅かな時。  
 あたしは鳥肌を立てた。こんな緊張感は他に味わったことはない。何かが始まるという予感にあたしは息を飲んだ。  
 この瞬間、世界中全ての音は存在さえ許されないのではないかとさえ思えた。  
 そしてあたしは自然とアッちゃんを見つけていた。  
 トロンボーン、と言うらしい楽器を構えたアッちゃんは、見たこともない表情をしていた。  
 あたしがそんなアッちゃんを知ることが出来たのは自分一人だけだという優越感と、本当にあれはアッちゃんなのかという不安感が複雑に絡まった気持ちを持て余していると。  
 音が弾けた。  
 それは耳で聴くのではなく、肌で受けると言った方が正しいような音の氾濫だった。  
 それまでの緊張感を切り払い、物語が始まるような音楽が響く。その瞬間、確かに世界が切り替わったのだ、音による虚構に。  
 音楽の知識もセンスも何もないあたしだったけれど、のんびり屋さんなアッちゃんが入れ込む理由は分かった。  
 どう言葉にすればのかさえ分からないけれど、訳もなく泣きたくなった。  
 何かあるとすぐに泣いてみせる女の子もいるが、あたしはアレが嫌いだった。  
 ただの傍観者が結果だけを見て、全てを分かち合おうというかのような態度がとても嫌いだったからだ。  
 泣いていいのは、当事者かそれをずっと支えてきた人だけだ。  
 泣くということは、特別でとても大切なことだから。と得意そうに教えてくれたのは誰だったか?  
 定かではないが、その特別で大切なことを押さえきれない衝動にかられた。溢れてしまいそうな沢山の感情を持て余してしまっていた。  
 嬉しくて誇らしくて羨ましくて寂しくて悲しくて腹立たしくて……泣きたくなった。  
 けれどあたしに泣く資格はないから、それをぐっと我慢して耳を、体を舞台に集中させる。  
 軽快に続くマーチ、そしてその流れもそのままに始まる音楽による叙事詩。  
 始まる前、世界中の音が存在を許されないと思った。その理由が分かった。  
 全ての音は、今間違いなくこの舞台の為に集っているのだ。  
 世界中の音は、今この舞台で歌われる為にある。そう言い切ってさえ良い気持ちになる。  
 後でそうアッちゃんに言うと、困ったような顔で「言い過ぎだよ」と苦笑していたけれど、この時のあたしにはそれが真実だった。  
 自分の理解の及ばないものに打ち据えられ、揺さぶられ、呆然としている間に終わってしまった。よく分からないまま、ただただ凄いとしか言えない様な時間だった。  
 最後の一音が溶けていくと同時に、あたしは力の限り手を叩いていた。  
 割れんばかりの拍手に会場が包まれているのを、あたしは自分のことの様に嬉しいと思った。  
 舞台は終わらない。第二部はステージドリル。演奏のみならず、演技でも舞台を行う華やかな時間。  
 続いて第三部はあたしでも知ってる曲が並ぶポップスステージ。流行り歌に定番の一曲、様々な歌が巡っていく。  
 歌い、踊り、演奏だけに終わらない舞台は、時間が矢の様に過ぎていく。  
 けれどそれも永遠に続くものではない。  
 最後の演目まで演奏し終え、アンコールに応え、そしてとうとう幕が下ろされる。  
……舞台がはねて、そしてあたしは気が付いた。  
 現実に戻ってきている。舞台に立つことを、アッちゃんは「まるで夢を見ているみたい」と言っていたことを思い出した。  
 確かにその通りだった。まるで夢を見ているみたいな時間だった。  
 多分、世の中にはもっと凄い演奏家や歌手が居て、もっと素晴らしい舞台があるのかも知れない。  
 そうなのだとしても、何も知らないあたしにとって今日の舞台は……「まるで夢を見ているみたい」だった。  
 
 興奮冷めやらぬまま家に帰ると、両親は居なかった。  
 お姉ちゃんは制服のまま食卓でスコアと思しいノートを眺めてニヤニヤしている。  
「おかえりー」  
 お姉ちゃんはニコニコと上機嫌だった。  
「……試合、いつ終わったの?」  
 その上機嫌なお姉ちゃんに、あたしは一番気になっていたことを尋ねた。食器棚から適当に選んだグラスを手にする。  
「延長十一回、千恵ちゃんが帰ってから四十分くらいかな」  
「そっか。勝ったんでしょ」  
 どうせ、とは言わない。  
「そうだよ! カッちゃん凄かったんだよ! 延長十回裏にカッちゃんのタイムリー! で、その後の十一回もきっちりカッちゃんが守ってそれが決勝点になったの」  
「そっか」  
 あたしは冷蔵庫から冷えた麦茶を出して注ぐと、一気に飲み干した。  
「お父さんとお母さんは?」  
「祝勝会。帰ってきてからもう優勝したみたいな騒ぎで、カッちゃんの家で盛り上がってたよ。おじさんもおばさんもすっごく喜んでたんだから」  
「……そっか」  
 あれから四十分なら、半分くらいはアッちゃんの演奏会を見られたはずなんだけど……祝勝会をしていたのか、おじさん達。  
 グラスを流しに置いてから、あたしはため息をついた。  
「どうしたの? 甲子園だよ、甲子園! カッちゃんなら絶対甲子園行けるんだから!」  
 お姉ちゃんは顔いっぱいの笑顔であたしを見つめている。何一つの疑問も迷いもない、綺麗な笑顔だった。地元の雑誌に載るほどの美少女の、自信にあふれた笑顔だった。  
「かもね」  
 あたしはお姉ちゃんのそれと同じになるように祈るような気持ちで笑みを模ってみせた。  
「そうだよ、千恵ちゃんも次は最後まで応援してね、凄いんだから。どうせなら甲子園に行くところ見たいでしょ? 千恵ちゃんも」  
「分かった、お姉ちゃん」  
 居た堪れなくなり部屋に戻ろうとするあたしの背中に  
「ああそうだ、忘れてた。アッちゃんはどうだった?」  
 とお姉ちゃんは付け足した。  
「…………あたし音痴だから、音楽の善し悪しなんて良く分からないよ」  
 振り返るとどんな言葉が口から出てくるか分からない。あたしは精一杯の妥協を口にして、その日はもう部屋から出なかった。  
 
 ひどく惨めで、悔しくて、寂しい気持ちだった。  
 たった二時間の演奏会、その為に懸けるのは半年。アッちゃんは誇らしそうにそう言った。  
 まだ雪がちらつく季節から、たった二時間の演奏会の為に選曲をし、下積みの練習をし、開催の為の準備を続けるのだ。  
 だからあの演奏会は、その時間の集大成。  
 野球部の県予選と優劣を競うなんてことは意味のないことだ。  
 音楽は取り返しのつかない芸術だ、と吹奏楽部の顧問の先生は舞台がはねる前に語った。  
「リハーサルが終わった段階でこの舞台は99パーセント成功している。残り1パーセント、最後の一回っきりの本番でどれだけのものが出せるか。それが勝負だから」  
 そう言う顧問の先生の後ろで、部員達は誇らしそうに胸を張っている。  
「音楽は取り返しのつかない芸術だから、この一回に頑張っていこうと、生徒達には伝えました」  
 思わずアッちゃんを探す。いつもの曖昧な苦笑ではない。自信に満ちた、堂々とした笑顔だった。  
「そしてその残り1パーセントも、皆さんの暖かい拍手で満ちたように思えます。ありがとうございました」  
 あたしの拍手が、最後の1パーセントになったのか。  
 あたしは吹奏楽部から逆に素晴らしいものをプレゼントされた気持ちになった。  
 その気持ちと、他の何かと優劣をつけようなんて微塵も思わない。  
 思わないけれど、寂しかった。  
 隣の家からは、楽しそうな声がカッちゃんの勝利を讃えている。どうやらお姉ちゃんも混じったみたいだった。  
 アッちゃんが今日は後片付けや何やらで学校に泊り込むことになっているのが、唯一の救いだった。  
 
 翌日両親やおじさん達から演奏会の感想を尋ねられたが、あたしは「よく分からなかった」としか答えなかった。  
 勿体ないと思ったからだ。アレは、実際に聴いた人だけのものだ。  
 両親は苦笑して「音楽の分からない奴だ」と言い、おじさん達も困っていた。  
 ただ、その後母が  
 「まあ演奏会は来年もあるけど、県予選の試合は一回っきり。次どうなるか分からないし」  
 と言った時に、黙ってその場を立ち去ったのは我ながら中々の忍耐力だったように思う。  
 
 その日の夜、帰ってきたアッちゃんはわざわざあたしの所に  
「見に来てくれてたんだね、ありがとう」  
 と言いに来てくれた。  
 とても満足そうな笑みだった。  
「あの、でもあたししか行けなくて」  
「うん、まあみんな疲れてたんだろうしね」  
「……アッちゃんは、怒ってないの?」  
「千恵ちゃんが見てくれたなら十分だよ。あ、そうだ。あんな大きな花大変だっただろ? あれも嬉しかったよ、本当にありがとう」  
 答えあぐねてどうすれば良いのか分からなくなったあたしに、アッちゃんはいつもの優しい笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。  
「本当にありがとう、千恵ちゃん」  
「アッちゃん……凄かったよ、演奏会。感動した。上手く言えないけど、本当に凄かった」  
「うん……そう言ってもらえたなら、俺も他のみんなも満足だよ」  
 
 定期演奏会を終えた吹奏楽部は、八月第一週の日曜に行われるコンクールが次の目標になる。  
 演奏するのは、定期演奏会でも披露していたあの曲だ。  
 このコンクールで県の代表に選ばれれば、次は支部大会。そしてその支部大会で代表権を獲得すれば全国大会へ参加出来るそうだ。  
 普門館。  
 吹奏楽をする人間なら、一度は立ってみたいと思う舞台なのだと、アッちゃんは言う。  
 日本最大の吹奏楽のコンクール。日本でいちばんの吹奏楽部を決める大会。  
 だからそこは『吹奏楽の甲子園』と呼ばれているのだそうだ。  
 何とも皮肉なことに、アッちゃんも『甲子園』へ行こうとしているのだ。  
 定期演奏会の翌日から休みもなく練習だったらしく、アッちゃんは花のお礼を言うとそのまま帰ってしまった。  
 明日も早くから練習だから、もう後はお風呂に入ってご飯食べて寝るだけらしい。  
 
 そうしてアッちゃんもカッちゃんもそれぞれ練習や試合に打ち込み、数日が過ぎた。  
 順調に勝ち進んだカッちゃん達野球部の、決勝戦の日。  
 アッちゃん達吹奏楽部も、応援に参加するようになっていた。  
 
   ◇  
 
 七月二十八日。決勝戦前夜、いつも通りの練習を終えたアッちゃんは、宴会場と化した自宅の隅で小さくなっていた。  
 酔っ払い達が食べ荒らした後でロクに夕飯にもありつけず、余り物のお茶菓子で空腹を誤魔化しながら。  
 あたしの用意した余り物を食べると、それでようやくひと心地ついたようだった。  
「明日、応援に行くんだ」  
「まあね、さすがに決勝戦で留守にするのは体裁が悪いし」  
「そっちの練習に影響は?」  
 あたしの問いにアッちゃんはしばらく考えて、困ったように笑った。  
「まあ、演奏する曲はどれもそんなに難易度高くないし、問題ないよ。一応練習してきてる」  
「そっちの曲じゃなくて、吹奏楽部が演奏したい方の」  
 アッちゃんはまた困ったような顔で笑う。  
 あたしだって困らせたい訳はない。けれど、どうしても止まらなかった。  
「……今までの貯金で、どうにかなるさ」  
「嘘だ」  
「本当に。一日二日でどうにかなるほど、安い音楽やってないよ」  
「でも、影響はゼロじゃないんでしょ?」  
「…………」  
 アッちゃんは空になった湯飲みを口に運び、気が付いて恥ずかしそうにした。  
 何も言わないアッちゃんに、あたしはお茶のお代わりを注ぐ。  
「球場で、応援で要求されるのは音程じゃなくて音量」  
「……千恵ちゃん?」  
 あたしの言葉に、アッちゃんは呆然とする。  
「コンクール前に音質が変わりかねない程の音量を要求される演奏をしなくちゃいけないのは、正直痛い」  
「誰に?」  
「先生に、直接」  
「すごい行動力だね」  
 アッちゃんは呆れたような、困ったような顔で笑う。  
「でも、大丈夫。この程度なら問題ないよ」  
 二煎目のお茶を舐めるように飲みながら、アッちゃんは  
「言っただろ? そんな安いもんじゃないって、俺達の音楽は」  
「けど、野球部にそこまで振り回されて」  
「そんな悪者にするもんじゃないよ。千恵ちゃん、何かあった?」  
 ゴミ箱の中、六枚の使わないまま捨てられたチケットが思わず目に浮かぶ。ぐしゃぐしゃで、何かの油で汚れたチケット。  
「別に」  
「…………悪いことばかりでもないよ、大きな音を一度出しておくのもさ。手加減抜きで出せるのって、そうないから」  
 アッちゃんは「本当だよ」と付け足す。  
 だからあたしは肩の力を抜いた。アッちゃんがそう言うならきっと本当なのだろうし、それに部外者のあたしがアレコレ困らせることを言うのも筋違いだ。  
「まあ、甲子園なんてトコに行くかもしれないんだ、そりゃみんな騒ぐさ」  
 アッちゃんはまだ祝杯を挙げている仏間を見やる。あたしもそれに習う。  
「そういえば例の漫画だと、弟は行けないんだっけ、甲子園」  
「漫画と俺達を一緒にされちゃ困るよ」  
 さすがに今のは失言だ。あたしが恐る恐る見ると、アッちゃんは肩をすくめている。  
「俺は代わりに野球なんて出来ないしな」  
「まあ、アッちゃん運動はからっきしだもんね」  
「あはははは。まあね」  
 ようやく楽しそうに笑うアッちゃんに、あたしは少し胸を撫で下ろした。  
「勝つかな」  
「さあね」  
 アッちゃんは他人事のように呆然と付け足す。  
「漫画じゃないんだから」  
 
 翌日、カッちゃんは当然の様にマウンドに立った。  
 アッちゃんやお姉ちゃんの応援を受けて、カッちゃんは誇らしげに大きく振りかぶった。  
 

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