1.
いつもは退屈な古典の授業だが、この日だけは違った。教材が教材だったからだ。
それは、伊勢物語の『筒井筒』と言う作品だった。幼馴染みの男女が紆余曲折を経て結ばれる話。
俺は思わず後ろの席をちらりと見る。すると、そいつと目が合った。園児時代からの腐れ縁である、香奈という女子と。
「何だよ」
香奈は小さく、しかしドスのきいた低い声で言った。相変わらず女とは思えんヤツだ。
「別に」
俺はそっけなくそう言い返し、ノートを取る手を動かし始めた。
幼馴染みの女と恋愛関係? ないない、ありえない。
俺の竹馬の友は、自分が女だって意識してないんだ。未だにガキの気分のままなんだ。
幼馴染みとの恋愛。所詮そんなものは幻想に過ぎないと、俺は千年以上前の作品にケチをつけるのだった。
「なあ、光一」
香奈が俺を呼ぶ。もしかして今日も……もう一週間連続だぞ。
「今日も部活終わったらお前んち行くからな。飯作っといてくれよ」
「いや、ちょっ……おい!」
俺の言い分なんて聞く必要もないとでもいうように、香奈は愛用のテニスラケットを持って教室を出た。
「聞いてたぞ。なあ、光一、お前ここんとこ香奈とよろしくやっているみたいじゃねえか」
俺のもう一人の幼馴染である順平がくだらないことを言ってきた。
「バカ、そんなんじゃねえよ。あいつの両親が超忙しくて家にほとんどいないこと、お前も知っているだろ」
「知ってるけど。でも、年頃の男女が毎晩一緒にいるなんて、勘繰るじゃん?」
「俺が? あのオトコ女と? おいおい、寝言は寝て言え」
「まったく。そう言って、本当は毎晩理性との戦いだろ?」
俺は図星をつかれた。こいつの言うとおりだ。これが最近の悩みの種だった。
いくら香奈がオトコ女とはいえ、体は女子だ。思春期真っ盛りの男子が反応しないわけない。
それに――
「ガキの頃からのダチである俺が言うのもなんだが、あいつ、高校入ってからますます可愛くなったしな」
順平の言葉に、俺は小さく頷いた。それは、まあ、否定しない……。
「まあ、ボクにも可愛い彼女がいるんですけどねー」
順平が手を振った先には、小柄で愛くるしい女子がいた。これから二人で放課後デートだろう。
女の子は気恥ずかしそうに手を振り返した。何ていじらしい、これこそ男の理想の彼女だ。
「キミも青春を頑張りたまえよ、光一クン」
「黙れ、とっとと消えろ。お前の顔なんて見飽きてんだからよ」
ホント、幼馴染み3人が同じクラスってどんな確立だよ……。
香奈は玄関のチャイムを鳴らさずに入ってきた。
「ただいまー。今日の飯はー?」
「ここはお前の家じゃない」
そう言って玄関まで行く。すると、例によって香奈は私服だった。しかも夏ということで、とびっきり薄着の……。
「いつも言ってるけどよ、何でわざわざ着替えてくんだ?」
そのおかげで俺は目のやり場に困っている。しかも、今日の服はいつにもまして大胆だ。
「だ、だってよ。制服じゃ暑いだろ。お前んちいつも冷房28℃だし」
だからといってその格好はないだろ。
胸元が見えそうなくらい危ういタンクトップに、肉付きのよい脚が丸見えのホットパンツ。
こいつは女としての自覚が足りなさ過ぎる。
もう少し恥じらいがある女の子のほうが俺は好みだ。とはいえ、男の正直な本能は女体を意識してしまう。
「いいから、早く飯だメシ」
香奈は背後に立ち、触れんばかりの距離で俺を押し出し始めた。
「ふぅー、ごっそさん」
香奈はあっという間に俺の作った炒飯を何杯も平らげた。やっぱ生まれてくる性別を間違えてるよ、こいつ。
「なあ、今日親父さんいないん?」
「ちょっと遅くなるってよ」
「……なるほど」
何がなるほとかはよく分からんが、俺は親父が早く帰ってくることを祈った。
親がいれば理性は外れないだろう。こいつ相手にそんなことを考える自分が情けないが、やはり本能は強力だ。
「……なあ、悪いけど、風呂貸してくれない?」
俺はもうすぐで口に含んだウーロン茶を吹きだすところだった。
「家で入れよ!」
「いやー、節水したいじゃん。留守中、親に家を任されている身としては。頼むよー」
香奈はいきなり俺の肩に手を置き、抱き寄せてきた。オトコ女に似つかわしくない豊かな谷間が目に入った。
「お、俺の家の光熱費はいいってのか?」
正直光熱費よりも俺の理性が心配だった。
「親父さん、超一流企業の社員だろ? 平気平気。でも、そんなに心配なら……一緒に入るか?」
俺は鼓動が急上昇し、全身に緊張が走った。
「はあ!? 嫌だよ。何でオトコ同士で入んなきゃいけないんだよ、気持ち悪い」
動揺を隠そうと、心にもないことを言ってしまう。
「……バっ、バーカ、冗談に決まってるだろ。覗いたぶん殴るからな。私の体は安くねーんだ」
香奈は持ってきていた袋を手に取ると、足早に風呂場へと去っていった。
体……カラダって、お前……。
シャワーの音が聞こえる。あいつは今、裸で……。裸のあいつが、俺の家に……。
俺は理性が保てるか心配になってきた。早く帰ってきてくれ、親父!
2.
温度調節が十分にされているシャワーを浴びながら、私はイライラしていた。
せっかく人が大胆な格好で行ったのによ。あいつ、何の反応も示さねえ。もしかして、イ○ポなんじゃ……。
いや、違うよな。
(――何で男同士で入んなきゃいけないんだよ、気持ち悪い)
あいつの言葉がまだ頭の中で響いている。
やっぱ光一は、私のことを女とは思ってねーんだな。けど、それも当然か。
ガキの頃から、順平を交えて3人で男遊びばっかやってたしな。口調も男みたいだし。
クラスメイトとオシャレ話するよりも、スポーツして汗流しているほうがよっぽど楽しい。
一部の女子がやっているような、男とあらば即媚びるような演技なんか死んでもしたくない。
男の望む「女らしさ」なんて真っ平御免だ。
……こんな女じゃ男になんて好かれるわけねぇよな。
いっそのこと、本当に男だったらどんなに良かったか。
こんな、馬鹿みたいに苦しい思いなんてしなくてすんだのに。
私は思わず自分の胸を触った。この乳房が忌々しい。
こんなものが膨らんでこなければ、私は自分を「女」だなんて意識しなかった。
光一のことを、「男」として意識しなかった。
いつまでも気軽にバカをやれてたのに。
思春期ってヤツが憎らしい。
けど、しょうがねえよな……好きになっちまったもんはさ。
何でかは自分でもよく分かんないけど、中学に入って、あいつが女子と仲良く話しているところを見たとき、猛烈に嫌な気分になった。
こんなことは初めてだった。友達を取られると思った嫉妬か? でも、順平が女子と話していても特に何とも思わない。
その気持ちが何日も治まらなかった。光一の顔を見ると、あのへらへらした面をぶん殴りたい衝動に駆られた。
自分は一体どうしちまったかのか? 友達の由香里に聞いてみたところ、
「それって恋じゃん。あんたにもそんな季節が来たかぁ」
とのことだった。
私は恋をしたらしい。飽きるくらい一緒に同じ時間を過ごした、幼馴染みに。いつの間にか……。
バスタオルで体を拭いたあと、私は歯ブラシと歯磨き粉を手に持った。
ホント、家にいるみたいだ。それくらいこの家には何度も来た。
両親が仕事でいないとき、いつも泊めてくれた。
布団に入って、光一と二人で学校や遊びのことを何度も語り明かした。幼稚園、小学校のときの記憶が昨日のように蘇る。
あいつに恋してもう4年――。
未だに告白できていない。でも、したくない。
失敗して、この関係が終わるのが嫌だったから。
でも何とかしたい。もう少し光一との関係を進めたい。
そう思って、高校に入ってから順平と由香里に相談した。そしたら二人とも口をそろえて、
「相手のほうから告白させりゃいいじゃん」
と言った。つまり、光一が私を好きになるよう仕向ければいいと言うのだ。
自分でも卑怯なやり方だと思うが、私はそうすることに決めた。一番、確実な方法だと思うから。
「さっぱり、さっぱり。働いた後の風呂は最高だな」
「おっさんかよ、お前」
「おいおい、だーれがおっさんだって」
私はあえて光一に接近し、ヘッドロックした。
こうやってスキンシップしていれば、女のことしか考えていない思春期男子なら、私を意識してくれるかもしれないから。
光一、お前はよく私のことを男扱いするけど、これならどうだ?
性格は確かに「女」とは程遠いけど、体はちゃーんと女なんだぜ。
3.
俺は窮地に立たされていた。
ジャージ姿の香奈にヘッドロックをかけられたとき、女子特有のいい匂いが鼻いっぱいに広がった。
そして何より、こいつの胸がいまにも触れんばかりの距離にある。
正直な話、股間が……反応し始めている。
今にも香奈の胸を触ってしまいそうだ。だが、もちろん友達にそんなことできるはずもない。
それに、香奈はテニス部で鍛えまくっているし、対する俺はただの帰宅部。あとが怖すぎる。
「やめろバカ。さっさと離せ」
「何だよ、もう降参か? 情けねえな」
そうじゃねえ。お前、自分の胸を男に見られてるんだぞ。どうしてそれを気にしないんだ。
思春期になった俺たちは、いつまでも昔のまんまじゃいられないんだ。どうしてそれが分からないんだよ。
「やめろ!」
俺は思わず香奈を突き飛ばしてしまった。すると、香奈が尻餅をついた。
「な、何だ……結構やるようになったじゃねえか」
「あ、悪い。いや、お前も悪いぞ、いきなり人にヘッドロックなんてするから」
「ああ、悪かったよ。ごめん」
香奈は深刻な顔つきになった。こいつが俺に対してこんなに神妙に謝るなんて珍しい。
「あっ、そろそろ帰るわ。何か今日の部活一段ときつかったから、眠いんだ」
「そうか。明日も来るのか?」
「いや、まだわかんね。まあ、嫌だってんなら友達の家行くからよ」
別に嫌ではないが。俺がそう言おうとする前に、香奈は玄関に向かって歩き出した。
「んじゃ、また明日」
「ああ、ってジャージのままで帰るのか?」
「別に普通じゃね? つーか、歩いて何分もかからん距離だろ」
そう言って、香奈は軽く手を挙げ出て行った。
香奈が帰ってからも、あいつのことが頭から離れなかった。
男を挑発するかのような薄着。風呂上りの甘い匂い。……可愛らしい顔立ち。
すべてが俺には刺激的だった。あいつのことなんか、気の合う友達としか見てこなかったはずなのに。
昔からの友人をいやらしい目で見てしまった自分が恥ずかしい。
けど、仕方ないじゃないか。いくら香奈が男勝りだからって、本当の男じゃないんだから。
俺たち男子がこっそりと見ているAVの主役と、同じ性別なんだから。
思春期ってのは厄介な奴だ。俺たちは無理矢理「男」と「女」に引き裂きやがった。
もう昔のように、くだらないことで体をつつき合ったり、一緒にお泊りしたりできないんだ。
子どもの頃の思い出が、妙に懐かしく、かけがえないものに思えた。
「ただいま」
すると、玄関から親父が現れた。
「ああ、おかえり。飯できてるぞ」
「おお、そうか。じゃ、早速いただくとするか」
一緒に居間でテレビを見ていると、遅い夕食にありついた親父が突然、
「そういえば、帰りに香奈ちゃんに会ったぞ。またここに来てたのか?」
「ああ」
「まあ、仲が良いのは結構だが、あんまり遅い時間まで一緒にいるなよ。相手は女の子なんだ」
「分かってるよ」
くそっ、親父までそんなこと言うのかよ。
男の性欲ってのはホント厄介なもんだな。信用なんか欠片もない。
香奈も、それに気付くべきなんだ。
4.
やっぱり、私みたいなヤツじゃ光一は振り向かないのか?
尻餅ついた所より、心のほうが何百倍も痛かった。
男子に向けて卑劣なアピールをしてみたけど、結果は散々だった。
兄弟みてえに育ってきたからな。「兄」に手を出すはずなんかないか……。
女として見ちゃくれないんだ、あいつ。
でも――。
突き飛ばされたときの記憶が蘇る。
あいつ、随分力が強くなったな。小さいの頃は、喧嘩したら絶対私が勝っていたのに。
光一はいつの間にか「男」になって、私は「女」になった。
不公平だよ、こんなの。
「よっ、どうだった?」
私の家の前に、順平が立っていた。
「お前、何してんの?」
「何って……お前を待ってたに決まってんだろ。あいつと上手くいったかどうか確かめにな」
「変わんねえよ。いつまで経っても私はあいつの兄ちゃんだ」
「お前が兄なんだ。まあ、香奈はガキ暴君だったからな」
「……もう諦めるしかねえのかな」
私はがらにもなく弱気になっていた。
「あっ、そうそう。今日来たのは、お前に吉報があるからだ」
吉報? 何だろう。
「今日な、光一にちょっと鎌をかけてみたんだよ。そしたらよ、お前のこと、可愛いだとよ」
私は仰天した。あいつが、私を、可愛い……。それって、女として意識しているってことか?
あいつの言うオトコ女である私を、全然「女らしく」ない私を、あるがままの私を、異性として見てくれているってことか?
「んじゃ、それだけ。だから、もうちょい頑張ってみたらどうだ? あのインポ野郎をオトしてやれよ」
「それだけのためにわざわざ待ってたのかよ。お前も暇なヤツだな」
照れ隠しに口ではそう言うが、心ではこいつに感謝していた。
「いやー、実はなかなか興奮が止まなくてさ。つい散歩がてらに寄っただけ。それが真実」
そんなことだろうと思った。
でも、何をそんなに浮き足立っているんだろう。それを訊いてみた。
「俺、今日彼女とAまでいったんだ」
A? それって、つまり……キ、キス!? 順平は私たちより先に大人の階段を登り始めていた。
「だから、お前らも頑張れよ。何なら勢い余って最後までいったらどうだ?」
順平は大げさに笑った。明らかにからかっていた。
「うっせー、バカ。セクハラだ、セクハラ」
「へー、お前からそんな言葉が聞けるとはね。これは参った」
そう言って、順平は斜め向かいにあるアパートへと帰っていった。
何だよ。お前ら二人は揃いも揃って。
自分の部屋に着くと、私はすぐさまベッドの上に体を広げた。
一度は落ち込んでいた気持ちも、あのバカのおかげでなくなりつつあった。
明日はどんな策略を使ってやろうか? あいつが私に好意を抱いてくれるまで、徹底的にやってやるぜ。
枕を抱き寄せる。そして、その枕を光一だと想像してみた。
こんな状況になったら、あいつはどんな言葉をかけてくれるのだろう。どんなふうに……してくれるのだろう。
そんな妄想を浮かべながら、私は目を閉じた――。