「こんにちは、神父さま」
いつもと同じ時間に事務所兼居室のドアが開く。
そしてそのドアから林檎のように頬を真赤にした二重のくりくりした目が印象的な小柄な娘が顔をのぞかせる。
毛糸の手袋をはめた手にはアルマイトの小さな両手鍋がしっかりと握られている。
少女は鍋を抱えなおすとドアを閉めて、部屋の真ん中におるテーブルに鍋を置いた。
「こんにちは、さや香ちゃん」
窓際の事務机で帳簿をつけていた手を止めて、いつも通りの会話を交わす。
「顔が真っ赤だよ。寒かっただろう。ストーブにあたりなさい」
瀬戸は立ち上がると、ストーブの前に椅子を置いた。
「とても寒かったわ。おばさんが、今夜は雪になるんじゃないかって」
さや香と呼ばれた娘は頭から被ったストールや分厚い外套、手袋を順番に丁寧に脱ぎながら椅子に座った。
肩のあたりで切りそろえられた、少しくせのかかった髪がふわふわと揺れた。
「だから、今日はすいとん作ったって」
さや香はテーブルの上に置いた鍋に目をやった。
入り口近くのコート掛けに彼女の外套やストールをかけてきた瀬戸は、それに促されるように鍋のふたを開けた。
大根やその葉、人参などが煮込まれた汁の中に、白い小麦粉の塊が見えた。魚醤の香りが鼻をくすぐった。
「旨そうだな」
鍋を開けた瞬間に湯気で曇った瀬戸の眼鏡を見て、さや香が嬌声をあげて笑った。
瀬戸は苦笑しながら眼鏡を外して神父服の裾でレンズを拭った。
「チョコレートあげよう」
いつものように棚の小瓶から銀色の紙に包まれたチョコレートを一粒取り出し、さや香の手のひらに載せる。
この娘の目当てが駄賃代わりの菓子であることを瀬戸は承知していた。
「いただきます」
遠慮なくさっそくうれしそうに包み紙を広げるさや香と向かい合うように椅子を置いて腰掛ける。
「あのね、お隣の治朗さん家に仔牛が生まれたの」
「いつ?」
「今朝。お昼に見せてもらったの。とってもかわいいのよ。神父さま、今度見に行きましょうよ。哺乳瓶で仔牛に乳をやらせてくれるって」
「ああ、じゃあ今度見に行こうか」
取り留めのない会話を交わしながら、瀬戸は旨そうにチョコレートを頬張るさや香を見つめた。
さや香は近くの農場の娘だ。15歳になったばかりだ。
さや香の両親がこの土地に入植し、ここで彼女は生まれた。
その両親はさや香が幼い頃に亡くなり、
今は父親の妹夫婦のところで世話になっているという。
叔母夫婦はさや香の両親が開墾した農場を相続したそうだが、
それほど暮らし向きが豊かでないことはさや香の身なりが示していた。
誰かのお下がりなのか、いつもどこかにつぎのあたった洋服を着ている。
今着ているセーターも、おそらくもとは白かっただろうに、
すっかりくすんで色が変わってしまっていた。
瀬戸は昨年、この北方の町に建てられた教会に赴任した。
ここ数年で入植者が急激に増えたこの土地で布教するためだった。
キリスト教に関心がある者が少ないこの土地での布教活動は上手くいっているとは言い難かったが、
瀬戸自身は赴任してからの暮らしは彼の30年余りの人生のうち、最も楽しく幸福な日々を送っていた。
生まれてからこれまでずっと東京で暮らしていた瀬戸にとってこの土地の寒さは身に染みたが、
人々はよそ者の瀬戸にも親切で協力的であった。
ときどきオルガンなどを鳴らし、英語の本を読み、農具の改良に口を出し、時には町の人々の相談にも乗る瀬戸は、
「東京から来たハイカラな変わり者のインテリ」として一目置かれつつも皆から慕われていた。
そもそも「神父」というものが何なのかをいまひとつ理解していない者もおり、
いい歳をした瀬戸が独身であることを心配した床屋の老店主などは、
その人脈を生かして瀬戸に若後家を紹介しようとしたくらいであった。
もちろん瀬戸は丁寧に事情を説明して断ったが、
そうした人々の屈託のなさも瀬戸の気持ちを楽にさせていた。
しかし、やはり独り身の瀬戸にとって日々の暮らしは苦労するところも多く、
教会に一番近いところに居を構えるさや香の叔母が毎日夕食を作ることを申し出てくれたのだった。
そしてそれを届けるのがさや香の役割だった。
尋常小学校を出てから近所の牛や馬の世話をしたり、猫や犬と遊んで暮らしてきたさや香は、
東京にいる同じくらいの年頃の娘を比べれば格段に幼く見えた。
無邪気と言えば聞こえはいいが、裏を返せば礼儀作法も全く知らないただの子供ではないか、
自分のところへ夕飯を届けに来るよりも、都会に奉公にでも出した方が本人のためになるのではないかとも思い、
一度さや香の叔母夫婦にそのことを相談しようと決意したこともあった。
だが、一神父の立場でそのようなことを口にすることが憚られ、
父や年の離れた兄のような気分でさや香を見守り、
粗相をすればその時々に叱ったりたしなめたりすることにした。
さや香の方もそんな瀬戸の心中を知ってか知らずか、
瀬戸のことを年の離れた兄のようにしか思っていないようだった。
だがやがて、彼女自身の、そして近所の者たちの言動から、
どうもさや香の精神がわずかばかり肉体の成長に追いついていないことと、
そのことで叔母夫妻がさや香を持て余しているということを瀬戸は知ることとなり、
なおのことさや香に対する使命感と慈愛が湧いた。
「本を読んでから帰ってももいい?」
「どうぞ」
瀬戸のもとに夕飯を届けに来るさや香のもう一つの目当ては、
教会に置いてある絵本や児童書を読むことだった。
教会に子どもを呼ぶために入れたものだったが、当の子供はほとんど読みには来ず、
もっぱらさや香が独り占めしているようなものだった。
小学校しか出ていないさや香は絵本はなんとか読めるようだったが、
児童書の方は知らない漢字やことばが頻出するようで、
そのたびに瀬戸のところへ駆け寄って来ては読み方や意味を聞いていた。
そこで瀬戸は帳面と鉛筆を買い与え、自分に聞いた漢字の読み方やことばの意味を書きとめておくように命じた。
一年もそれを続けたので、帳面はすっかりぼろぼろになってしまい、ページももうすぐ尽きようとしていた。
だが、わずかではあるが、覚えて使いこなせるようになった言葉もあり、
さや香は「少し賢くなったかしら」とひとり喜んでいた。
さや香は本棚から絵本を持ってきてテーブルの上に置き、肩から下げた袋から帳面と筆入れを出した。
見ると鉛筆の芯がちびていたので、瀬戸は事務机からナイフを持ってきて削ってやった。
「ありがと。神父さまってなんでもできるのね」
芯がきれいに尖った鉛筆をノートの上に置く瀬戸の手に、さや香がそっと自分の手を重ねてきた。
「神父さまの手は、オルガンも弾けるし、おいしいパンも作れるしすごいなあ」
昼間に土でもいじったのか、爪の間が少し汚れていた。
それがなんだか哀れに思えてさや香の顔を見ると、
さや香は不思議そうにふっくらとした桜桃のような唇をぽかんと開いて瀬戸を見つめ返した。
その表情に胸が高鳴り始めたのを感じ、瀬戸はすぐに無言で手を引いて部屋の隅の事務机に戻って仕事を再開した。
どれくらい時間がたったのだろうか。
そういえばもうすぐクリスマスだし、さや香に新しい帳面と鉛筆を買ってやろうと思い、
彼女にそのことを伝えようとテーブルの方をを振り向くと、
さや香は読みかけの絵本の上に顔を伏せて眠ってしまっていた。
えらくおとなしいと思っていたら…と瀬戸は一人で苦笑して柱時計に目をやった。
もうすぐ5時になろうとしていた。
そろそろ外も暗くなってきたし、起こして家に帰らせた方が良いだろう。
「さや香ちゃん」
事務机から呼びかけたが、聞こえていないようで、規則的な寝息にまったく変化はなかった。
瀬戸は溜息をついて、さや香を起こすために彼女の背後に回った。
肩を揺らそうと顔を近づけると、腕と髪の間に横顔が見えた。
口元に微笑をたたえた寝顔が幸せそうで、瀬戸は思わず見惚れた。
さや香は可憐で美しい少女だった。
色白で丸い小さな顔に、少したれ気味の大きな目とふっくらとした唇がバランスよく収まっており、
容貌だけ見れば都会の女学生にひけをとらないほどだ。
その上、肩のあたりまでのばした髪は少し茶色がかっていてふわふわとして、
さや香に混血児のような危うげな雰囲気を纏わせていた。
ストーブの上のやかんがたてる音と、さや香の寝息を聞いているうちに、
瀬戸は再び自分の鼓動が速く大きく打ち始めたのを感じた。
なぜか、ふと夏に覗き見た、さや香の堅そうな乳房のことを思い出した。
あれは半年ほど前の盛夏のことだった。
さや香が午後に家で切ったばかりの西瓜を届けに来たことがあった。
いつものように瀬戸の居室の扉を開けたさや香の姿を見て、瀬戸はぎょっとした。
さや香が身に纏っていたのが、
おそらくいつもは肌着にしているであろうシュミーズのようなものだったからだ。
裾の長さは膝のあたりまであったが、
まだ膨らみきっていない乳房の形やその頂、薄い腰の線が微かに透けて見えていた。
来る途中で蚊にでも食われたのか、
身体を捩じってふくらはぎを掻いているさや香の広く開いた胸元から、
小ぶりな白い膨らみとその淡い頂が覗いた。
瀬戸の視線は一瞬そこに引き寄せられたが、
「そんな恰好で表を歩くもんじゃない」
とたしなめながら、慌てて瀬戸は自分の夏物のシャツを箪笥から取り出し、さや香に羽織らせた。
「だって暑いんだもの。それにどうしていけないの?」
さや香はいかにも理解できないといったふうに唇を尖らせた。
シャツのボタンを嵌めてやりながら、この娘に理由を説明するための言葉を探したが、
おそらく性に関してろくな知識を持っていないだろう彼女を納得させるためには、
ずいぶん話が長くなりそうだと思い、気が削がれた。
それに何より、幼いとは言えひさびさに女の乳房を間近に見てしまったことに
瀬戸自身が動揺していて上手く頭も働かなかった。
「とにかく、いけないものはいけないんだ」
三十路を迎えてようやく落ち着いてきたはずの肉欲が微かに頭をもたげたのを感じ、
瀬戸は小さく溜め息をついた。
「途中で誰かに何か言われなかった?」
「誰にも会わなかったから何も言われなかった」
肌触りの良いガーゼのような生地のシャツが気に入ったのか、
裾の方を持ち上げて頬ずりしているさや香を見つめた。
自分の身体が昂ったことに対する深い罪悪感と同時に、この娘の行く末を思った。
漢字やことばや礼儀作法を教えてやることはできるが、
性に関することはどうすればいいのだろうかと、
この時瀬戸はさや香に関して大きな問題に直面した。
そして、これをきっかけにしてにさや香に対する劣情にも悩まされ始めた。
さや香の身体を覗き見た日の夜、瀬戸はあのままさや香を床に誘う夢をみた。
そして久方ぶりに下着の中に欲望を放出したのとともに目を覚まし、
小さく呻きながら頭を抱えた。
長年こらえていたものが一度溢れだすと、抑えがきかなかった。
これまでは何も感じなかったさや香の声や、
身動きするたびに漂ってくる汗のにおい、
無邪気に自分に触れてくる体温すべてが瀬戸を煽った。
おそらく、いつも隙だらけのさや香に対して、
よからぬ思いを抱いている男たちがいることだろう。
瀬戸はそうした危険からさや香を守ってやらねばと考えていたはずなのに、
いつしか瀬戸自身が少女を犯す妄想にとらわれるようになっていた。
瀬戸の妄想は、決まってさや香を腕づくで凌辱するというものだった。
両手を縛り上げ、驚愕と絶望の入り混じった表情で泣き叫ぶさや香の粗末な洋服をはぎ取り、
愛撫もそこそこに一気に押し入る。
身を裂かれる痛みに絶叫するさや香を見下ろしながら、
今までの肉欲をすべてぶつけるように腰を動かし、自分を刻みつける。
しかし、やがて慣れてきたさや香が、
痛みと恐怖と官能の狭間でとまどいながら自分を見つめ、
「…神父さまぁ…」
と、大きな目を潤ませて、消え入りそうな声で自分の名を呼ぶのだ。
そうした筋書きを想像しながら、瀬戸は自分を慰めた。
毎回、さや香が苦しそうに達する姿を思い描きながら果てた。
いつも終わってから罪悪感に苛まれ、さや香に謝罪を、
神に祈りを捧げることになるというのに、やめることができなかった。
性について無知な、
そして自分の言うことを素直に聞くさや香を手篭めにすることなど、
おそらく容易いことだろう。
自分の身に起こっていることが何なのかもわからないまま瀬戸に抱かれ、
このことを誰にも話してはいけないと言い含めれば、
さや香は忠実にそれを守るだろう。
これ以上この娘と関わり続けることは危険だと思い、
何度かさや香に夕食を届けさせることを断ろうと、
自宅に出向こうとしたこともあるが、すでに彼女との時間を手放すことが惜しくなっていた。
もしも本当にさや香のことをを愛おしく思うのであれば、
彼女が飢えぬように、凍えぬように、皆の愛と神の祝福を受けて幸福に暮らせるように祈り続ければ良いではないか。
いつも自慰に耽った後、倦んだ気持ちのままそう決心するのだが、
翌日に砂糖菓子のようなさや香の姿を見るたびに、再び邪な気持ちが膨れ上がるのだ。
今も自分の目の前で、腕を伸ばせば届く距離で無防備に眠りこける少女に触れたくてたまらなかった。
もう一度呼べば目を覚ますだろうかと思い、
「さや香ちゃん」
と顔を近づけて声をかけた。
すると彼女は少し身を捩って、鼻にかかった声で小さくうなったが、目を覚ます気配はなかった。
その声と表情が情を交わしている時の反応のように思え、瀬戸はさらに煽られた。
そしてとうとう、決して思い至ってはならない考えに到達した。
この状態で少しくらい触れても、さや香は気付かないのではないか。
―一度だけだ。この娘が目を覚まさない範囲で一度だけ。それで彼女への思いは一生封じ込めよう。
瀬戸は眼鏡を外し、音をたてないようにテーブルに置いた。
息を詰めてさや香の白い桃のような頬に慎重に触れると、
想像していた通りふわりと柔らかく、それだけで胸が高鳴った。
次に少し癖のかかった髪を撫でてやる。
「…さや香ちゃん…」
溜息とともに漏れた声は、娘を起こそうとするものではなく、愛しい女への囁きだった。
髪に指をからませながら、耳元に唇を寄せた。
息を吸うと、いかにも少女らしい石鹸と体臭が混じり合った匂いが鼻孔を満たす。
それを繰り返しながら、この時間がいつまでも続けば良いのにと、さや香の耳朶に唇で触れたその時だった。
柱時計が5時を報せる鐘を打ち始めた。
疚しい気持ちでこっそりと少女に触れていた瀬戸は、
誰かに見咎められたかのように慌てて体を離した。
一方、時計の音で目を覚ましたさや香は、自分のすぐそばに誰かがいたことに驚き、
声もなく身を翻して椅子に座ったままバランスを崩して床に倒れた。
「神父さま…」
眼鏡を外し、いつもとは明らかに違う狼狽した様子で立ち尽くす瀬戸に、
さや香は尻もちをついたまま視線を向けた。
驚きと少しの怯えが混じり合ったその表情は、
いつもの淫らな瀬戸の妄想の中での表情と同じものだった。