■結魂■
今夜一つの命の灯が、儚く消えようとしていました。
その日、方丈は朝から人の出入りが忙しなく、妙にばたばたとしていました。
異変に気づき様子を窺っていたキツネ娘は、来客の途切れを見計らって、そっと庵に忍び込みます。
双眸に涙をいっぱい溜め、今際の際にあるお坊さまに問い掛けました。
「お坊ちゃん死ぬの? ……うちのせい?」
力なく横たわるお坊さまが「違うよ」と嗄れた声で返しました。
しかしお坊さまの衰弱は、キツネ娘と全くの無関係とは言えませんでした。
何十年にも渡って大切な精気を細かく削り、彼女に与え続けて来たのですから。
それでもお坊さまの表情は穏やかでした。
すでに己の死を受け入れ、ちっとも恐れていないのです。
床に仰臥するお坊さまの皺首にしがみつき、愛しげに頬ずりするキツネ娘。
彼女にとって彼は、年老いても、未だ輝きを失わない魅力的な男です。
……熱い涙の雫が、年輪を刻んだ頬に一筋伝います。
優しい人間と触れ合うことで、キツネ娘は他者をいとおしむ心を知ってしまったのです。
お坊さまの存在は、孤独なあやかしにとって生きる糧だったのです。
「人間て、すぐ死んじゃうんだね」
たったの八十年ぽっちで。
キツネ娘の容姿は、出会った頃の童女のまま一切変化していません。
お坊さまの上に流れている時間と、キツネ娘の上に流れている時間は違うのです。
お坊さまの心残りは、ただ一つだけです。
それは、眼前にいる幼い妖怪の今後のこと。
また人間を虐めたり、弄んだり、悪さをし始めないか心配なのです。
「ねえ……お坊ちゃんの魂、うちがぜんぶ食べてもいい?」
キツネ娘がぽつりと呟きます。
「行けるはずだった場所には行けなくなっちゃうけど……そうすれば、ずっと一緒にいられる」
人ならざる者からの恐ろしい提案でした。
――どこにも行かないで。うちを独りぼっちにしないで。
赤く腫れたつぶらな両の瞳は、そう訴えていました。
「いいよ。食べなさい」
魔性の者に魅入られ、魂を捧げるのは僧侶失格かも知れません。
厳しい修行を耐え目指していた場所にも、昇れなくなってしまいます。
にも拘わらず、お坊さまは弱々しく微笑んで聞き入れました。
彼が心変わりせぬ内にと、キツネ娘は唇に噛みつきました。
いつもの啄ばむような接吻とは違う、最奥まで貪ろうとする口づけです。
深く舌を突き入れ、肉身の底に溜まった澱まで掬うように。
必死に引き上げ、吸収します。
魂魄を“向こう側”に持ってゆかれたお坊さまは、静かな眠りにつきました。
「ぁう……コーン、コンコン……」
キツネ娘から、悲しみに満ちた嗚咽が漏れ出します。
冷たい空っぽの亡骸に、キツネ娘はしばらく豊頬を擦りつけていました。
――次に目を覚ますと、彼は心地よい香気に包まれていました。
女のたおやかな白い手が、柔らかく坊主頭を撫でています。
お坊さまは、知らない誰かに膝枕をされていました。
驚いて見上げると、頭上には菩薩の笑みが咲いていました。
「いらっしゃい、会いたかったわ。私のかわいい人」
お坊さまに膝を貸していたのは、一人の妖婦でした。
焦げ色の狐耳とたっぷりした尻尾を持ち、瀟洒な着物に身を包んでいます。
……周囲は、漆黒の闇に塗り込められていました。
ただ天女のごとき女が佇んでいるのみ。
一目見て、お坊さまは悟ります。
彼女こそキツネ娘の本来の有り様なのだと。
ここはキツネ娘の“中”の世界。
お坊さまは異形に取り込まれてしまったのです。
自分の形貌を確かめると、お坊さまは若々しい青年の肉体になっていました。
まるでキツネ娘と出会った頃のような。
「約束通り、二人の子供を作りましょう」
囁くと、妖婦――キツネ娘は股ぐらをまさぐり、魔羅を取り出して扱き始めました。
今までキツネ娘の誘いにけっして応じず、お坊さまはただの一度も女人と交わりませんでした。
戒律を守り、甘美な女体の味も知らず……生涯純潔を貫いたのです。
それはキツネ娘を焦れさせました。
お坊さまを想い、時には手淫に耽ることもありました。
ずっと、お坊さまの赤ん坊が欲しかったのです。
出来ることなら番いになりたかったのです。
湧き上がる劣情と蠢く細い手を制止し、お坊さまは大らかに笑い掛けました。
「……台所はどこかな? 何でも好きな物を作ってあげよう」
その言葉を聞いた途端。
キツネ娘の身の丈がしゅるしゅると縮み、こじんまりとした童女に戻りました。
同時に辺りの闇がさっと晴れ、替わりに鮮やかな一面の花畑が現れます。
元気に飛び跳ね、勢いよく抱きつくキツネ娘。
「お坊ちゃぁん!」
お坊さまは彼女を軽々と抱き上げ、肩車をしてやりました。
「だいどこは、あっち! 熱々のおいなりがいいっ」
花園の果てを指差し、キツネ娘は台所へと案内します。
「はげはげ☆」
肩に跨ってつるつる頭を撫でながら、キャッキャと大喜びです。
「大成功! 大成功! お坊ちゃんはうちのモンだい! やったね☆」
そう、二人は結魂しました。
キツネ娘の長年の夢が、みごと成就したのです。
これからも、永遠に共に生きてゆけるのです。
めでたし、めでたし。
(-ノ-)/Ωチーン……合掌( ̄人 ̄)ナムナム