夫の淳一郎が息を引き取ってから三度目の月命日の翌日、千尋は夫の言いつけ通り教会を訪れた。  
夫が生きていた間に、毎週日曜に2人で通っていた教会だ。  
夫の死後、ここを訪れるのは初めてだった。  
「お久しぶりです。お待ちしていました」  
神父の矢崎に応接室に招き入れられ、ワインレッドのビロードが張られたソファに腰を下ろした。  
「昨日、お電話を頂いて、嬉しかったんですよ」  
お茶の準備を始めた矢崎には悪いが、早く用事を済ませて帰りたかった。  
千尋はこの神父が少し苦手だった。  
矢崎は美しい男だった。  
直接年齢を聞いたことはないが、千尋より少し年上ではないかと思われた。  
すっきりとした輪郭に、切れ長の大きな目と、大きく高い鼻、薄い唇がバランスよく収まっていた。  
日曜の朝のミサの後は、いつも彼のファンの女たちに囲まれて何やら話しているようだったが、いつも千尋は遠巻きに見ていた。  
矢崎が神父のくせに自分の美しさを熟知して行動しているような気がしてあまり好きになれなかったからだ。  
ねっとりとした濃い蜜のような色気を纏ったところも嫌だった。  
 
「あの、これ…」  
まだ矢崎が向かいのソファに座っていないにも関わらず、千尋はここに来る途中で寄った銀行の封筒をそっとテーブルの上に置いた。  
「少しですが」  
「寄付ですね。先生からは伺っています」  
大学教授だった夫のことを、矢崎はずっと「先生」と呼んで慕ってくれていた。  
「ありがたく頂戴いたします」  
矢崎は中身の確認もせずに、部屋の奥に置かれたキャビネットの引き出しにしまった。  
「わたしはこれで」  
封筒がきちんと保管される様子を見届けて、席を立とうとした千尋を矢崎が遮る。  
「お茶でもいかがですか? 隣りの奥さんに美味しい紅茶を頂いたんですよ」  
あまり気が進まなかったが、  
「じゃあ少しだけ」  
と夫が生前に見立ててくれた、藍色の綿の着物の裾を直して座りなおした。  
「可愛らしいお着物ですね」  
この男のこういう所が嫌いで、千尋は無言で受け流した。  
 
とは言うものの、千尋が夫と2年前に結婚した際にも、夫が息を引き取るときや葬儀の際にも世話になった。  
特に、入院中は「恩人」と呼んでも差し支えないほど、夫は親身になって支えてもらった。  
神父であると同時に、年下の友人として矢崎は週に何度も言葉をかけに病室を訪れてくれた。  
教会へ通えなくなった夫とともに聖書を読み、世間話をして何時間も過ごすこともあった。  
死を待つばかりになった床で、穏やかな気持ちで残された日々を過ごすことができるようになったのは、間違いなく矢崎のおかげである。  
その礼を夫の死後まだ伝えていなかった。丁度良い機会だと思った。  
「その節は、お世話になりました」  
カップに紅茶を注いで、テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした矢崎に、千尋は頭を下げた。  
「僕は何も特別なことはしていませんよ。それに、僕にとっても充実した日々でした。お礼を言わなければならないのはこちらの方です。それより、その後、色々大変だったでしょう? 僕も何かお手伝いできればよかったのですが」  
「お気持ちだけで十分です。」  
いかにも形式ばった言葉を交わしているうちに、矢崎が思い出したように軽く手を叩いた。  
「そういえば…、お宅に先生の本が沢山あったでしょう? あれはどうなさったのですか?」  
「大学の図書館に寄付しました。おかげで家がずいぶん広く感じられて」  
「それは寂しいですね。でも先生らしい」  
大学で歴史を教えていた夫のせいで、家の中で置けるような場所にはすべてびっしりと本の詰まった書架が並べられた。  
それも夫の遺言ですべて勤めていた大学に譲り渡した。  
運び出されて行く本のことを思い出した途端、千尋は急に夫のことが懐かしく恋しくなってきた。  
 
千尋は淳一郎の教え子だった。大学を卒業する時に交際を申し込まれた。  
贔屓目かもしれないが、少し野暮ったいけれど、誰に対しても温かい淳一郎の方が矢崎より余程いい男に思えた。  
不器用にではあるが愛情をたっぷり注いでくれた淳一郎は、生前に様々な煩雑な法律上の手続きを済ませておいてくれた。  
預金も千尋に遺す分と、教会に寄付する分とを二つの銀行口座に分け、毎月の寄付を怠ることがないようにだけ言いつけた。  
矢崎への恩に報いると同時に、千尋に善行を積ませるためだった。  
「いいかい千尋、善いことを沢山すれば、また会えるんだからね」  
昏睡状態に入るまでの間、淳一郎は毎日のようにその言葉を繰り返した。  
それが彼が矢崎との対話の中で見つけた答だったのだ。  
 
やがて記憶は夫が息を引き取った瞬間のことにたどり着き、千尋はとうとう気持ちを抑えることができなくなって、夫の葬儀の後初めて声を上げて泣いた。  
「あの方は、お優しい方でしたからね」  
矢崎も夫を偲ぶように言うと、紅茶の入ったカップを静かに口に運んだ。  
意外にも、矢崎は聖書を引用したような説教臭いことは言わず、泣いている千尋を無言で見つめていた。  
夫ほど信仰が深くなかった彼女にはそれがありがたかった。  
聖書に何と書いてあろうが、あの瞬間は悲しくて恐ろしかった。  
 
やがて千尋の嗚咽がおさまった頃、矢崎が隣りに腰かけてきた。  
「喉が渇いたでしょう? もう冷めてしまいましたが、さあ」  
と、カップを持たせて、ゆっくりを背中をさすった。  
千尋は矢崎に促されるままに、力なく生温い紅茶を飲み干した。頭にもやがかかったようにぼんやりしてたせいで、唇の端から少し零れてしまった。  
拭おうとした手を矢崎に取られた。  
「こちらを向いて」  
彼はもう片方の手を千尋の顎のあたりに添えて自分の方へ向かせる。微かに笑っていた。  
思わずその艶やかな黒檀のような瞳に吸いこまれそうになる。いけないと矢崎の手から逃れようとした時には、すでに彼に組み敷かれていた。  
そしてすぐに唇に熱く濡れたものを感じ、千尋は矢崎の肩のあたりを必死で叩いたが、彼は動じることなく、逆に両手を封じ込められた。  
いつも物静かそうな優男にこれだけの力があるのが急に恐ろしくなり、一瞬体から力が抜けた。  
それを見計らうかのようにして口内にぬるりと矢崎の舌が入り込んできて、すぐさま千尋の舌をとらえる。  
口を犯されながら、着物の胸元が押し広げられた。  
「いやっ…!」  
いきなり胸の先端を強く抓られ、千尋は悲鳴を上げて顔を逸らした。  
その拍子に口から離れた矢崎の舌が頬を掠める。  
「何を考えているんですか…!」  
千尋は両手で胸を隠して体をひねったが、矢崎は彼女の帯締めを器用に解いて手首をきつく縛り上げてしまった。  
女を知らないはずの神父が、女の着物のことを知り尽くしている様子に、自分が抱いていた直感めいたものが決して間違ってはいなかったことを確信した。  
きっと、矢崎はこうやって自分に擦りよって来る女をつまみ食いしているのだろう。  
ひょっとすると金を持っている女からは、男妾のように金を引っ張っているのかもしれない。  
 
荒い息を繰り返しながら矢崎を睨みつける千尋を見下ろし、最後の勧告を与えるように低い声で言った。  
「大丈夫ですよ。怖いことなど何もない。他に何も考えられなくなるくらい、悦くして差し上げますから」  
矢崎の妖艶な笑顔に、ぞわりと全身に鳥肌が立った。  
「やめて! お願い、こんなことしなくなって、寄付はきちんとするから」  
再び目に涙を浮かべて懇願するも、矢崎は困ったように苦笑した。  
「僕は別に金がほしいわけではありません」  
そう言いながら、すでに乱れていた襟元から零れる千尋の白い乳房を掌で包み込む。  
「想像していた通りだ。お綺麗な体をしていらっしゃる」  
うっとりと先端を口に含まれ、千尋の体は魚のように跳ねたが、声を上げることはしなかった。  
千尋は目を閉じて歯を食いしばり、この時間を堪えることにした。  
金の為ではなく、「夫を亡くしたばかりの若い未亡人」である自分に欲情しただけであれば、一度抱けば気が済むだろう。  
油断してしまったことが、あまりにも不甲斐なく、淳一郎に詫びても詫び切れない。  
何をしても体をびくりと震わせるだけで、頑なに自分を拒んだままの千尋を、矢崎は鼻で笑ったが、舌や指を使った愛撫を施すことをやめなかった。  
その動きは巧みで執拗だった。  
 
やがて矢崎の手は着物の裾を割って、内腿を撫でながら奥まで進んで行った。  
自分の指が千尋の中につぷりと滑り込む感触に、  
「ああ…」  
と、もう堪らないと言うように吐息を漏らし、千尋の耳を犯すように囁きを続けた。  
「すっかり濡れてしまっていますよ」  
今の彼女にとって最高の辱めだったが、千尋は横を向いて唇を引き結んだまま耐えた。  
「強情ですね」  
矢崎は呆れたように言い、指を二本に増やして中の粘膜をすり上げると、再び深く口づけながら器用に女と繋がる準備を始めた。  
 
黒い神父の装束を邪魔そうに脱ぎ捨てて、色白ではあるが引き締まった裸体を晒す。  
矢崎は無言のまま千尋の太腿を抱え上げ、昂ったものを秘裂に押し当てた。  
小さな水音を立てて先端が沈んだかと思うと、一気に押し入ってきた。  
約一年ぶりに開かれた体に微かに痛みが走ったが、千尋は息を詰めて耐えた。  
すべてを収めてしまい、くっとうなる矢崎の声が聞こえた。だがそれ以上声をかけられることはなかった。  
すぐに乱暴に体が揺さぶられる。その動きは、情欲を満たすというよりも、むしろ千尋を抱いたという事実を残そうとするもののようだった。  
千尋はぐったりと力を抜いて、自分に覆いかぶさる矢崎の肩越しに薄く眼を開けて天井を見上げた。  
まだ足袋をつけたままの足が高く掲げられて、矢崎の動きに合わせて揺れた。  
このまま何も反応せずに人形のようにしていれば、矢崎は萎えてしまうだろうかとぼんやりと考えていると、そんな彼女の思惑を見透かしたように、矢崎が告げた。  
「もういきそうだ…中に出しますよ…」  
耳の奥に響いた低い囁きに、千尋は眼を見開いた。  
「だめ…それはやめて!」  
腰をひねって逃れようとするところを、矢崎にがっちりと太ももを押さえつけられる。  
「いやっ、やだあ!」  
拒絶ではあるがようやく反応を見せた千尋を嬉しそうに見下ろしながら、矢崎は激しく腰を打ち付けた。  
高い鼻を伝って汗が滴り落ちる。  
矢崎が切羽詰まった声とともに何度か強く突き上げた後、身体の最も深い所に熱いものがじんわりと広がった。  
千尋の目尻から涙が溢れ、こめかみへ流れて行った。  
 
呼吸を整えた矢崎は己を女から引き抜き、すぐに溢れだした白濁を指で掬って、すすり泣く千尋の口元に擦りつけた。  
「大丈夫ですよ。僕は子供を作れない体ですから。成人してから病気をやってしまったんです」  
淫らな仕草に似つかわしくない告白をすると、千尋の拘束を解いて着物を脱がせ始めた。簡単に半幅帯を解き、着物やその下の襦袢を手際良く暴いていった。  
「だから、こんなことしているの?」  
先に脱いだ自分の服の上に千尋の着物や襦袢を投げ遣り、  
「どうでしょうね」  
と千尋の涙を唇で受けた。乳房に触れた矢崎の胸板は汗ばんで湿っていた。  
「どうしてこんなときに…」  
「だって、普通に口説いても、貴女は僕には靡かないでしょう?」  
悪びれず言う矢崎にかっとした千尋は彼の頬を打とうと手を振り上げたが、簡単に手首を掴まれて再びソファに縫いつけられた。  
「あなたのこと、ずっと抱いてみたかったんですよ」  
整った顔で悪魔の様に微笑む矢崎に身震いした。  
「僕が笑いかけてもにこりともしない、愛想のない生意気なあなたをいつか必ずものにしてやろうってね。嫌いな男に抱かれた気分はどうですか?」  
「…あなた、最低よ」  
「そんなこととうに知っていますよ」  
千尋の言葉を奪うように唇を塞ぎ、ねっとりと味わって唇を離すと、矢崎は急に饒舌になった。  
 
「いつだったかな。僕が先生を見舞っていた時に、貴女、身体にぴったりしたジーンズで病院に来たことがあったでしょう。  
昔のアメリカ映画に出てくる女の子みたいで可愛くて、先生が羨ましくて。帰りに病院の玄関まで見送ってもらう時に、空いている病室かトイレにでも連れ込んでやろうかと想像したら、身体が疼いて仕方なかった」  
この男は、自分に教えを請う人間に涼しい顔で説教しながら、その妻に欲情していたというのだ。  
「後ろから入れて、中をぐちゃぐちゃにかき回して、あれをたっぷり注ぎこんだら、貴女はどんなふうに悦ぶだろうかって、そればかり考えていた」  
熱く湿った言葉を聞きながら、千尋は小さく身を震わせた。こんな人間にあっさり抱かれてしまったのが、あまりにも不甲斐なかった。  
話しているうちに再び昂ってきたらしい矢崎に、今度はうつ伏せにされ、言葉通りに後ろから貫かれた。  
禁じられているはずの獣の姿勢だったが、千尋にはもう抵抗する気力はなく、背中から激しく身体を揺さぶられた。  
ソファの肘置きにしがみつき、涙を流しなが男が達するのを待った。深い所を突かれ、その勢いで声が漏れそうになるのを唇を噛んで耐えた。  
「僕は…泣くほどいいですか…?」  
とにかく早く終わってほしいと思っているところにそんなことを尋ねられ、千尋は絶望した。  
「あなたは最高だ…熱くてぬるぬるして蕩けてしまいそうだ…」  
深い吐息とともに囁かれ、千尋は必死で首を振った。こんな状況なのにも関わらず、男を受け入れるために機能している体が憎かった。  
「ああ…そんなに締めつけないで…もっと味わいたいのに」  
そう言いながらも、手を前に回して千尋のすっかり立ちあがった芽を探り当て、包皮を剥いて嬲り始める。  
 
「いやあああっ!」  
一番奥まで押し入ったまま円を描くように腰を動かしながら、手では触れるか触れないかのところを小刻みに擦られ、千尋はあっという間に達してしまった。  
千尋から溢れだした熱い雫が矢崎の手を濡らし、彼は歓喜の声を上げた。  
「こんなに悦んでくれるなんて…」  
「違うの…! もういいでしょう? 早く終わって…!」  
「嫌ですよ、ようやく楽しくなってきたのに。このことしか考えられなくして差し上げますって最初に言ったでしょう?」  
矢崎は千尋と繋がったまま彼女の胴に腕を回し、ソファに腰掛けた。自分の重みでより深いところに矢崎が沈みこみ、最奥の壁を抉った。  
これまでに一度も経験したことがない姿勢に、声を上げるものかという決意が、一瞬にして崩れ去った。喉の奥からねばついた喘ぎが漏れた。  
すでに一度上がった声はもう止めることができなかった。  
「あっ、あっ、んん…やあっ…!」  
「そう…可愛い声を、もっと聞かせてください」  
ようやく自分の手に堕ちた女を掻き抱き、矢崎の声はこれまでになく昂っていた。  
下からずんずんと突き上げられながら耳元で他の男の喘ぎを聞いているうちに、徐々に淳一郎の顔を思い浮かべることが難しくなってきた。  
夫の笑顔を思い浮かべようとしても、今自分の中で暴れている美しい男の顔にすぐに塗りかえられてしまう。  
「ああっ…ごめんなさい…許して…」  
心の中で何度も詫びているうちに、悦がる声とともに自然と漏れた贖罪の言葉を聞き、矢崎は興奮を抑えられないようだった。荒い息遣いとともに、狂気じみた笑いが聞こえた。  
「もう遅い、あなたは僕と地獄に堕ちるんですよ」  
嘲笑うような矢崎の言葉を聞きながら、千尋は再び達した。  
 
 
翌日の明け方、千尋がベッドを抜け出す気配に矢崎は目を覚ました。  
「…帰ります」  
「うん」  
無表情で着物を身につけている女を、うつ伏せて薄く眼を開けたまま眺めていた。  
結局あのまま矢崎は千尋を家には帰さなかった。  
三度目に交わる時に寝室へ連れ込み、時間をかけて彼女が失神するまで責めた。何度も奥深くに白濁を放出して汚しぬいた。  
矢崎の方も精も根も尽き、千尋の着物や自分の服を寝室に運ぶと、そのまま折り重なるようにしてすぐに眠ってしまった。  
「今度はお宅に伺おうかな」  
千尋は何も答えなかった。黙々と腰ひもを結ぶ。あんなに悦んでいたくせに何だよと、心の中で密かに毒づいた。  
着付けを終えた千尋の姿は、矢崎の目から見てもひどいものだった。とにかく一刻も早くここを出たいらしく、適当に着物を身にまとっただけのように見えた。  
「あなたは、着物より洋服の方が似合うよ」  
矢崎が微笑むと、千尋に強く睨まれた。童顔の彼女が厳しい表情をするのが好きだった。  
千尋が寝室を出る時、  
「また抱きたい」  
と声をかけた。  
「やめて」  
ドアを閉める直前に振り向いて答えた千尋の頬がわずかに紅潮していたのが見えて、きっと彼女との付き合いは長くなるだろうと思った。  
女が去った後、自分もそろそろ起き出して仕事を始めなければならないと寝返りを打った。  
その時、シーツにわずかに残っていた千尋の匂いが立ち上るのを嗅ぎ、彼女との情交を反芻した。  
 
千尋を欲しいと強く思うようになったのはいつからだったろうかよくわからない。支配欲や恋慕や、単純な性欲が入り混じった奇妙な感情だった。  
彼女を抱いている間に言った、可愛げのない女をひれ伏せさせたいという気持ちは嘘ではなかった。  
日曜のミサの時や、近所ですれ違った時に挨拶をしても、汚れたものを見るような眼で見られることもあった。当たり前のように禁忌を犯し、女にちやほやされることや女を操作することに慣れていた矢崎にとって、千尋の態度は新鮮だった。  
一方で、夫との別れに怯えながらも健気に尽くす千尋に恋慕の情を抱き、支えになりたいと思ってもいた。  
淳一郎は友人である神父が自分の妻のことを物欲しそうに眺めていることに、気づいていたようだった。  
「千尋は可愛いでしょう?」  
後にも先にも一度きりのことだったが、淳一郎が昏睡状態に入る少し前、千尋が席を外している間に、消え入りそうな声で矢崎にそう言ったことがあった。その言葉よりも、その時見せた笑みが、やけに癪に障った。  
すでに死相が現れて弱弱しかったが、どこか優越感に満ちていた。  
いくら欲しても、神父のお前には手に入れることができないのだと嘲笑われているように思えた。  
神父のくせに女に欲情しているとは何事かと咎められなかったことが、惨めだった。  
だが、今は千尋を永遠に奪ってやったという気持ちで一杯だった。  
淳一郎の遺言通りいくら寄付をして善行を積もうが、神父と淫蕩の限りを尽くした、そしてこれからもその罪を犯し続ける女は地獄の業火に灼かれるしかないだろう。  
そしてもちろん、端から戒律を守る気などない自分も共に。  
つい数時間前まで自分の腕の中で前後不覚になっていた女の感触を思い出しながら、矢崎は一人で薄く笑った。  
 
 
 

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