〈2〉それぞれの勤め  
 
 それから数ヶ月、神父と王女の間ではそんな状態が続いていたが、その間に、この国と王家を  
取り巻く状況は大きく変化していた。  
 緊張関係にあった隣国との戦争がついに勃発したのだ。  
 残忍な性格で戦好きな隣国の王は、周辺の小国を次々と蹂躙し、征服してきたが、ついに  
この国にも毒牙にかけんと攻め入ってきた。その圧倒的な軍事力を前に、我が国の軍勢は常に  
劣勢を強いられ、開戦してひと月のうちに国境付近の砦は陥落した。そしてついに、戦地で  
総指揮を執っていた王弟までもが命を落とす事態となった。  
 こうした国の一大事は、神父の耳にも届いていた。特に王弟の戦死の知らせは、軍事に疎い  
彼にとっても衝撃だった。まさか、王族が戦地でお亡くなりになるとは!  
 ――姫様も、さぞお心を痛めておいでに違いない。  
 戦況が悪化した頃から、王女の訪問は途絶えていた。  
 神父は王女の身の上を案じ、また、この国の行く末を案じ、毎日礼拝堂で神に祈りを捧げた。  
 
 負け戦の様相に、国民の間に悲壮感が漂い始めた頃、「隣国と和睦が結ばれる」との知らせが  
国中を駆け巡った。  
 これで戦が終わる! 誰もが安堵したが、その条件を知った多くの民は、戦時中とはまた別の  
悲壮感にとらわれた。  
 
 和睦の条件とは、――エレーナ王女が、隣国の王の妻となること。  
 
 無類の女好きとしても知られる隣国の王が、エレーナ王女を妃にと指名してきたのだ。  
もちろん、賠償金代わりの多額の持参金も、和睦の条件のうちだった。  
 ――なんたる屈辱! 王弟殿下の仇、国の敵に、我らが王女様を差し出すとは!  
 国民は憤り、誰もが王女の運命を嘆いた。  
 だがこの条件を拒絶すれば、両国の和睦は破綻、今度こそこの国は徹底的に蹂躙されるだろう。  
たとえそれがどれほど屈辱的なことだとしても、大切な王女を人身御供として差し出す以外に  
道はないのだということを、誰もがわかっていた。  
 神父は、言いようのない空虚感に苛まれていた。  
 ――姫様が、ご結婚なさる。それも、あんな男と。  
 残虐、傲慢、好色。隣国の王については、まったく良い話を聞かない。噂では、気に入らぬ  
王妃を邪険にして多くの愛人を囲い、ついには嫡子を産まぬという理由で王妃を幽閉して  
死に至らしめたという。しかも、姫様とは親子ほどの年の差だと言うではないか。さらに言えば、  
王弟殿下、すなわち姫様の叔父上を殺したも同然の男だ。  
 ――そんな男のところに、姫様を……。  
 下品な笑みを浮かべた中年男に抱かれる王女の姿を想像して、神父は吐き気を覚えた。  
 いくら政略結婚は王族の宿命とは言え、あまりにもむごい。だが、自分には何もできない。  
何をする力もない。  
 己の無力さに、神父は絶望した。もはや、何を神に祈ればよいのか分からない……。  
 そんな神父のところに、突然、王宮からの使いがあった。使いと言っても、その辺の  
使いっ走りではない、エレーナ王女付きの筆頭侍従だ。  
「これからお話しすることは、どうかご内密に」  
 思いもがけぬ高貴な使者の申し出に、神父は何事かと訝しんだ。  
「急ぎ王宮までお越し願いたいのです。あなたならば、何とかしてくださるのではないかと」  
「私のような取るに足らない者に王宮からのご用とは、いったいどういったご用件でしょう」  
「エレーナ様を説得していただきたいのです」  
「姫様が、どうかなされましたか」  
「……実は、昨日からお部屋に籠もられたまま、一歩もお出にならないのです。お食事も  
 拒絶なさる有様で」  
「召し上がらない? 昨日からずっと、ですか?」  
「はい。水以外の、まともな食事らしい食事は、ひと口も……。乳母や近しい侍女、ついには  
 陛下御自らも説得を試みたのですが、耳を貸そうとはなさらず……。そこで、エレーナ様の  
 幼なじみで今も懇意な間柄のあなたならば、エレーナ様を説得できるのではないかと」  
 老侍従の声色からは、彼が心の底から王女を心配し、胸を痛めているのが伝わってきた。  
 王女の籠城と断食の理由は、察しがつく。彼女のせめてもの抵抗だろう。だが、彼女が自ら  
命を縮めようとしているのを、黙って見過ごすわけにもいかない。  
「わかりました。姫様が私の言葉に耳を傾けてくださるかどうかはわかりませんが、できる  
 限りのことはいたしましょう」  
 
 王宮に到着すると、神父は侍従に案内されるままにそのあとをついて行った。神父にとっては  
初めての王宮訪問で、本当ならばその豪華な内装や見事な庭園の造形に目を奪われるところで  
あったろうが、今日ばかりは、そういったものは彼の目には入らなかった。  
 大階段を上がり、いくつかの広間と廊下を抜けた先は、王族の私的な住居空間になっていた。  
 薄紅色の壁に可憐な装飾が施された小さな控えの間には、大勢の女官たちが詰めかけていて、  
その突き当たりの扉は固く閉ざされている。扉の正面には、一人の初老の婦人が、憔悴しきった  
様子で張り付いていた。神父は、昔の記憶から、この婦人が王女の乳母だと気づいた。  
「エマヌエーレ神父をお連れいたしました」  
 神父を先導してきた侍従がそう告げると、乳母は救世主の到来と言わんばかりに喜びの表情を  
見せ、必死な様子で扉の向こうに語りかけた。  
「エレーナ様、お聞きですか? エマヌエーレ神父様です、エレーナ様。ご友人のエマヌエーレ  
 神父様が、お見えになりましたよ!」  
 しばしの沈黙の後、扉の向こうから、甲高いわめき声が聞こえてきた。扉越しなのでよく  
聞こえないが、「どうして連れてきたの!?」とか「卑怯よ!」とか叫んでいるらしく、扉の  
すぐ内側にボスボスッと何かが当たる鈍い音がした。恐らく、クッションか何かを、王女が  
扉めがけて投げつけてきたのだろう。  
「姫様」  
 神父は扉に近づくと、扉越しに声をかけた。返答はない。  
 もう一度声をかける。  
「姫様。お話だけでも、できませんか」  
「……お話? いったい、どんなお話をなさるつもりかしら?」  
 扉に隔てられてややくぐもってはいるものの、王女の声がはっきりと聞こえた。  
「言っておきますけど、神父様、それが王族の勤めだとか、それで国民が救われるのだからとか、  
 これは神の思し召しなのだとか、何も取って食われるわけでなしとか、望まれて嫁ぐのだから  
 良いじゃないかとか、相手を虜にして手玉に取ってやれとか、そんなことはおっしゃらないで  
 くださいね。もう聞き飽きていますから!」  
 全部ではないが、用意してきた説得の言葉はすべて封じられてしまった。もちろん、神父も  
そんな上辺だけの取りなしで王女を説得できるとは思ってはいなかったが。  
「このまま、何もお召し上がりにならないのですか」  
「……」  
「餓死なさるおつもりですか」  
「……」  
 王女は黙ったままだ。神父は穏やかな声で宣言した。  
「わかりました。それならば、私も、姫様と苦しみを共にいたしましょう」  
 そう言って神父は扉から一歩離れると、床に跪き、膝のところで手を組み合わせ、頭を垂れて  
目を閉じた。  
 十分、三十分……一時間……二時間。  
 神父は身じろぎもせず、その場を離れなかった。  
 さすがに不安に思ったか、王女は鍵穴からその様子を窺って、動揺した声で言った。  
「ちょっと……本当に、そのままそこを動かないつもり?」  
「姫様と苦しみを共にすると、申し上げました」  
 神父はそう答えて、その場から動こうとしない。  
 窓から差し込む日差しが徐々に傾き、やがて夕暮れ時となり、食事が運ばれてきたが、王女は  
依然として拒絶した。神父にも食事が用意されたが、彼は水さえ口にしようとはしなかった。  
自分よりも、王女の方が既により多く苦しんでいるのだから、と。  
 苦行に慣れている神父にとってはさほど苦ではなかったが、王女には、扉越しの状況がとても  
耐えられなかったらしい。すっかり日が落ち、部屋や廊下の蝋燭に火が点される頃になって、  
固く閉ざされていた王女の私室の扉がギィと軋んだ音をたてて、少しだけ開いた。  
「……エマヌエーレ神父とだけなら、お話ししてもいいわ」  
 
 今にも王女の部屋に突進していきそうな勢いの乳母や侍女たちをどうにか宥めて、神父は一人、  
王女の私室に足を踏み入れた。部屋に入った途端、王女は扉をバタンと閉めて、再び鍵をかけた。  
 王女の私室は淡い色の上品な装飾で彩られ、落ち着いた趣味の良い色合いのソファやテーブル、  
物書き用の机などが置かれている。続きの間は衣装部屋で、一番奥の間には天蓋付きの寝台が  
チラリと見えた。  
 私室の入口となる扉の内側には椅子やチェストでバリケードが築かれていたようで、王女は  
再び、小さな椅子を簡単なバリケードに使った。  
「ごきげんよう、神父様。生憎、取り散らかしておりまして」  
 普段ならば機知に富んだ挨拶に聞こえるその言葉も、今はただ胸が痛むばかりだ。  
 
 久しぶりに会う王女は相変わらず美しかったが、その顔はかなりやつれて見えた。たった一日や  
二日程度の食事を抜いただけでは、こうはならないだろう。とっくに泣き尽くしたのか、目元の  
辺りにうっすらと赤い腫れの名残が見て取れた。それとは対照的に、青白くさえ見えるその肌の  
白さが痛々しい。  
「無茶をなさる」  
「無茶はあなたよ。あなたは真面目だから、本気で私と一緒に断食するつもりだったでしょう。  
 水まで断るなんて、無茶だわ」  
「心配してくださったのですか。お優しいのですね」  
 優しいわけじゃないわ、と王女は呟いて顔をそらした。  
 王女はソファに腰掛け、神父に自分の隣に座るよう促した。  
 神父は一瞬ためらったが、他の椅子はバリケードに使ってしまっているので、仕方がない。  
神父は王女とはなるべく距離を置くよう、ソファの一番端に身を寄せて、遠慮深く腰を下ろした。  
 王女はさすがに疲れた様子で、ソファの背にくったりと身をもたせかけた。  
「どうして私がこんなことをしているのか、もうわかっているのよね?」  
「……ええ」   
「あなたも知っているでしょう? あの男を良く言う者なんて、この国には一人もいないわ」  
「おっしゃるとおりです。ですが――」  
「わかってる……わかってるわよ。私があの男の妃になれば、この国は救われる。それが、  
 王家に生まれた者の勤めだということも、よくわかってる。私だって、私の我が儘で国民を  
 犠牲にするつもりなど無いし、もう議会で決まったことだから覆せやしないわ。……でも、  
 それでも――」  
 唐突に、王女が大きな声を上げた。  
「あーあ、私の馬鹿! こんなことなら、二年前の縁談を断るんじゃなかったわ!」  
「二年前の、御縁談?」  
「そうよ、こんなことになるとわかっていたら、あの人で妥協しておくんだった」  
 神父と目を合わせず、わざと明るく毒舌めかせて言う王女に、神父はどう返事して良いか  
分からなかった。  
 王女はそのまま、独り言のように語り続ける。  
「北のほうの国の王子だったかしら。特に取り立ててどうという人ではなかったのだけど、  
 少しだけ、ほんの少しだけ、ね、あなたに似ているところがあったの」  
 不意に自分の話題になって、神父は、えっと声を上げそうになった。  
「縁談はいくつもあったけど、いつの間にか私の中で、あなたが基準になっていたんだわ。  
 どうせ恋愛結婚なんてできないんだったら、せめて縁談の相手があなたと同じくらいか、  
 それ以上の男ならば、承諾してもいいかなって」  
 思いもかけない告白に、神父はどぎまぎした。  
「そんな……私など、姫様の御縁談のお相手となる方々には及ぶべくも――」  
「私にとっては、そうなの」  
 王女は神父の目を見て、きっぱりと言った。  
 そしてまた、遠くに思いをはせるように視線をそらし、自分に言い聞かせるように、静かに  
言葉を続ける。  
「あなたが神父になったと聞いたときは、これで気持ちの整理がつくと思ったわ。神父に  
 なったあなたに会って、現実を見れば、幼い日の恋心なんか消えてしまうだろうってね。  
 でも……違った。私は、自分の心をごまかしてきたんだってことに、やっと気づいたの。  
 私、心の奥底ではずっと、ずっと、あなたを待っていたんだわ」  
 そして王女は自嘲気味にフフッと笑った。  
「私ったら、本当に馬鹿ね。あなたが神学校へ行くと知ったとき、行かないで欲しいって、  
 反対すれば良かった。神父になるのも、無理にでもやめさせれば良かった。周囲の目なんか  
 気にせずに、あなたを宮廷の職に就かせて、出世できるよう、堂々と、えこひいきすれば、  
 良かっ…た」  
 彼女の言葉は、最後の方は涙声になっていた。  
「姫様……」  
 うつむいて静かに涙を流す彼女の頭を、神父は横から伸ばした腕でそっと包んでやった。  
「そんな風に権力を濫用なさらぬお方だからこそ、尊敬しております」  
「尊敬されても、ちっとも嬉しくない。そんな、尊敬よりも……、いいえ、私ったら、  
 何を言っているのかしら」  
 彼女は差し出された腕に寄りかかり、彼に上半身の体重を預けた。まるで幼子のような  
その仕草に、神父は慈しみを込めて彼女に胸を貸した。  
 僧衣越しにも彼女のぬくもりと柔らかさが伝わってくる。彼女の顔は見えないが、その  
美しい髪が鼻先をくすぐる。すすり泣く彼女の息づかいを間近に感じる。  
 自分の胸が早鐘を打っている、それも彼女に聞こえているかもしれない。  
 
「ねえ、リーノ」  
「はい」  
 もう、その名で呼ぶなとは言えなかった。  
「もうすぐ夏ね」  
「ええ」  
「あの城で過ごした日々が懐かしいわ。あの匂い立つ草の香り、丘を吹き渡る風、野辺の  
 小さな花々……都にはないものばかり。城の古い塔を探検したりもしたわね。あの塔から  
 眺めた夕暮れの景色は、何よりもきれいだった。覚えてる?」  
「ええ、よく覚えています」  
 新しく増築された住居部分とは違って、古城らしい昔の城郭部分は、子供たちにとって  
格好の遊び場だった。危ないから近づかないようにと言われていたが、子供たちがあんな  
魅力的な遊び場を放っておくはずがない。率先して探検して回ったのは、いつも好奇心旺盛な  
王女だった。忍び込んだのを見つかっては大人たちにずいぶんと叱られたものだが、それも  
すべて甘く懐かしい思い出だ。  
「あの頃から、私はあなたのことが大好きだった。あなたは私のことを、どう思っていた?   
 王女とか抜きに、好きでいてくれたのかしら?」  
 神父はためらいがちに、言葉を選んで返答した。  
「あの頃……、子供の頃、あなたのことは、とても……好き、でしたよ」  
 今も愛しているとは、とても言えなかった。  
「本当?」  
「……ええ」  
「好きって、どれくらい?」  
「どれくらいって……ええと、そうですね……幼い頃の淡い恋、と言っても差し支えないかと」  
「昔と変わらず、優しいのね。少しは慰めになったわ」  
 神父の、奥歯に物が挟まったような告白を、王女は自分への思いやりと受け取ったようだ。  
「ごめんなさい、私はいつもあなたに迷惑をかけてばかりね。もっと昔に告白していたら、  
 少なくとも 『神父様』を困らせることはなかったのに」  
「そんなことは……」  
 王女は体を起こして涙の跡をぬぐうと、ニコッと健気な微笑みを見せた。  
「迷惑ついでに、良いかしら?」  
「はい?」  
 何を、と尋ねようとした次の瞬間、彼女の顔が近づいてきて、その柔らかな唇が頬に軽く  
押し当てられた。  
「な…っ!?」  
「感謝のキスよ。他意は無くってよ?」  
 彼女の唇が触れた跡が、じんわりと熱を持っているように感じる。自分では分からないが、  
きっと顔が真っ赤になっているはずだ。  
 やられた、と思った。  
 本当にこのお方は、油断がならない。知られまいと必死で抑えている感情に歯止めがきかなく  
なってしまいそうだ。  
 ――まずい。  
 そう直感した。が、彼女にとっても精一杯の勇気を出してのことだったのだろう、今の  
大胆な行動が自分でも信じられないといった風情で恥じらう彼女を目の当たりにすると、  
邪な思いは消えて、ただ愛しさだけがこみ上げてくる。  
 気がつけば、自然に体が動いていた。  
 彼は王女の顔に正面から向き合うと、彼女の両の頬をそっと両手で包み、頭を少しばかり  
うつむき加減にさせてから、――その愛らしい白い額に、軽く口づけをした。  
「祝福のキスです。他意はございませんよ?」  
 さっきの王女の台詞を真似て言うと、目を丸くしていた王女は顔をくしゃっと崩して、ふふふっと  
泣き笑いになった。神父もふふっと笑った。彼にとっては、茶目っ気でごまかすのが精一杯だった。  
「悔しいわね」  
「え?」  
「いっそ、頭でっかちの偏屈神父にでもなっていてくれたら良かったのに、あなたときたら、昔と  
 変わらないどころか、もっと素敵になっているんだもの。その黒の司祭服も、ミサでの聖書の  
 朗読も、お説教も、うっとりするほどあなたに似合っているんだわ。なんだか、ずるい」  
 そう言って王女は立ち上がると、しばらく神父に背を向けていたが、何かを決意したように  
振り向いた。そして、この上なく美しい微笑みを浮かべて、神父に告げた。  
「今日は本当に、ありがとうございました、エマヌエーレ神父。……食事を運んできて欲しいと、  
 侍女たちにお伝えいただけますか?」  
 その言葉に、神父の胸はズキリと痛んだ。  
 

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