〈5〉裁きの日まで
彼が夜明け前の朝課の祈りも讃課の祈りもさぼったのは、聖職の道を選んで以来、初めてだった。
朝の祈りも、とてもする気にはなれない。口をついて出るとすれば、それは神への懺悔の言葉
ではなく、問いかけと恨みの言葉になってしまうだろう。
神よ、なぜ、彼女は私ごときに許されぬ恋をしたのですか。なぜ、これほどまでの重荷を彼女に
背負わせるのですか――と。
裸で毛布にくるまり、抱き合いながら、二人は夜明けの訪れを待ち受けた。
日の光が塔の小部屋に差し込んできても、名残を惜しむように互いに愛撫を続けていたが、部屋が
すっかり明るく照らし出されてしまった頃には、ついに観念せざるを得なかった。
二人とも、一泊分の食糧しか持ってきていないことを後悔した。まさかこんなことになろうとは
夢にも思っていなかったからだが、最初に逃げ出した王女自身、塔からの夕暮れさえ見届けたら、
嫌でも都へ戻らねばという覚悟があったことを示していた。
食糧を求めに村へ降りれば、どうしても人目に付いてしまう。森に繋いできた馬の様子も心配だ。
王女を一人で留守番させている間に、万が一にもここが見つかってしまって、彼女が連れ戻されて
しまったら……と想像するだけで神父は胸が張り裂けそうで、傍を離れることもできない。
王女はそんな彼の胸中を知ってか、悟ったような表情で淡々と言う。
「仕方ないわ、リーノ」
「……」
「遅かれ早かれ、いつかはここも見つかってしまうもの」
彼女の言うとおりだ。神父は漸く、重い腰を上げて、身支度を始めた。さすがに疲れて、本当なら
もうひと眠りしたいところだが、そうも言っていられない。
神父の身支度はあっという間に終わったが、王女の身支度は、脱がせるときよりも一苦労だった。
後で他の誰かに「昨夜、王女の身になにかがあった」と気づかれてはならないのだ。とりわけ、
コルセットを締めるのには難儀した。王女は一人で着替えをしたことなどなかったし、神父に
いたっては、コルセットそのものを間近に見たのは昨夜が初めてだったのだから。
どうにかドレスを着込んだ後、王女は乱れた髪をしきりに気にしていたが、自分ではどうにも
うまく直せないと悟って、
「帽子とヴェールで隠せるから、大丈夫よね」
と独りごちた。神父は彼女の後れ毛がふわふわと波打つように揺れるのを見て、昨夜、自分の
腕の中で乱れあえいだ彼女の様子を思い出し、なにやら急に気恥ずかしくなった。
「……なにをそんなにジロジロ見てるの?」
「いやあ、その髪が、なんだかとても艶っぽいなあと」
なぜか嬉しそうな彼の声音に、王女は「バカ」と小さく呟いて、頬を赤くした。
塔の外で、二人は情事の証拠となる物をすべて燃やした。
「これで、私達がここにいたことは、誰にもわからないわね」
めらめらと毛布を焼き尽くす炎を見つめながら、王女が呟いた。神父も、二人の秘密の証が
ただの灰になるのを、じっと見送った。
「ええ、おそらくは」
王女が簡単に侵入できるほど管理が杜撰な状態だったのだ。数日や数週間、いや、数ヶ月は、
塔に侵入者があったことなど誰も気づきはしないだろう。もし気づいたとしても、管理責任を
問われることを恐れて何も報告もせず、無くなった物についても、そのままうやむやにして
くれるだろう。
あとは二人が、この秘密を墓場まで持ってゆくだけだ。
二人は馬に乗ると、連れだって丘を下り、村はずれの街道まで出た。まだ人家は遠いが、村人の
一日の生活はもう活発に始まっていて、村に近づけばすぐに誰かに見つかるだろう。村人に王女だと
気づかれて騒ぎになる前に、速やかにしかるべき役所に出頭した方が良いだろう。
重い足取りで街道を進む。村を目前にして、神父は急に馬の歩みを止めた。
「どうしよう」
「え?」
「今すぐ、このまま、あなたを連れて逃げてしまいたい」
「そんなことをしても、すぐに捕まって、あなたは反逆罪で縛り首よ」
「わかっています。でも私は、そうだとしても――」
「ありがとう。その気持ちだけで、私は一生幸せでいられるわ」
「エレーナ、――」
「あなたが心配だわ。私のために、無茶をしてしまいそう。これって、自惚れかしら?」
そう言って、王女は神父に微笑みを向けた。
「私達を裁けるのは、神様だけよ。つまらない俗世の裁きを受けるなんて、馬鹿馬鹿しいとは
思わない?」
俗世の罪に問われるような抵抗はあきらめてほしい、という意味だ。その言葉には、達観した
落ち着きと高貴な威厳があった。
そこまで言われては、もう、何も言えなかった。王女は覚悟を決めている。彼女は、これから
辛い運命を受け入れなければならない。なのにそれをうじうじと、自分ばかりが未練を残すわけには
いかない。
こみ上げる思いを必死に堪えて、神父は王女とともに、再び馬の歩みを進めた。
その日、その村の役場はちょっとした騒ぎになった。元々、夏の離宮の麓の村で王族の出現には
慣れていたとはいえ、国中の話題である王女その人が突然現れたのだ。
遠駆けに出ていたら供の者とはぐれて道に迷い、たまたま見つけた無人の小屋で夜明かししていた
ところ、探しに来た神父に朝方に保護された――という王女の話を、誰も深くは追求しなかった。
村の出身である神父は何ら怪しまれることもなく、むしろ、よくぞ王女をお守りくださったと感謝された。
事情聴取もそこそこに、王女のために馬車が用意された。急なことで、貴人のための馬車では
なかったが、これならかえって、道中、王女が人々の好奇の目に晒される心配はない。神父はせめて
都まではと、王女の馬を引きがてら、馬でその馬車に付き添っていった。
都の市街地と外を隔てる城壁のところまで来ると、既に知らせを受けた王宮からの迎えの馬車が
待ち受けていた。馬車には王家の紋章が厳めしく輝き、両側には屈強な護衛も付いている。
王女は、自分専用の豪華な護送車に乗り換えるべく、村からの質素な馬車から降りた。神父も馬を
下りて、彼女に声を掛けた。
「これでもう、お目に掛かることはないのですね」
「いつか、神様の前で会えるわ」
「……そうですね。最後の裁きの時に、再び」
「そのときは、あなたは悪くないって、私が神様に弁明するわ。祖国に殉じた王女の頼みくらい、
神様も少しは聞き届けてくださっても良いとは思わない?」
いつものように、無邪気で悪戯っぽい、その笑顔。――それももう、見ることは叶わなくなる。
神父は腰帯に留めているロザリオを外すと、それを王女の手に握らせた。
「どうか、強いお心で……。あなたに、神のご加護がありますように」
「あなたにも」
小さな手の内にロザリオを握りしめてそう言う王女に、神父は寂しげに微笑した。
「私はもう、神のご加護を得られるような立場ではありませんよ」
「それを言うなら、私のほうがよほど罪深いわ」
人の目があるので、小声でもそれ以上は話せなかった。
王女は自分を待つ馬車に向けてわずかに歩みを進め、そして神父を振り返った。
「ここでお別れです、神父様。道中お守りくださり、感謝します」
王女は周囲にも聞こえるような声でそう言うと、優雅な仕草で片手を神父に差し出した。
神父は軽く頭を垂れて恭しく押し頂き、差し出されたその手の甲に、儀礼的な口づけをした。
これが正真正銘、彼女に触れられる最後の瞬間になるだろう。
王女が祖国を離れて隣国へ嫁ぐ日は、もう目の前だ。
出迎えの侍従と侍女に付き添われ、王女は馬車に乗り込んだ。閉められたドアの窓越しに、
王女はこちらを見ていたが、御者が鞭を振るって馬車が発進すると、あっというまにその姿も
見えなくなった。
城壁の門を抜けて、都の中心部へと、王女を乗せた馬車が消えてゆく。それが見えなくなって
からも、神父は長いこと、じっとその後を見送っていた。
やがて彼はトボトボと馬を進め、司祭館に戻った。
家政婦は神父の無事の帰還を喜び、王女の安否を尋ねつつ彼の労をねぎらったが、神父は終始、
上の空だった。そして彼はそのまま、まっすぐに聖堂へと向かった。
聖堂の片隅にあるその小さな礼拝堂には、殉教に身を捧げた有名な聖女の像があった。静謐な
ほの暗さの中、窓のステンドグラス越しの昼の光が、聖女の像をまぶしく浮かび上がらせる。
――讃えよ、讃えよ。信仰に殉じたる祝福されし乙女は、讃えられてあれ。
突如として、聖女を讃える詞が神父の頭の中に響きわたる。
「……神よ」
彼の口から、やっと神への言葉がこぼれた。
「神よ……、我らを、憐れみ給え」
神父はそこで初めて一筋の涙を流した。そしてその場に頽れ、慟哭した。