〈6〉エピローグ――あるいは、とある歴史家の覚え書き  
 
 かくして二国間の和睦は相成った。エレーナ王女は「悲劇の王女」「救国の王女」として、祖国の  
民の記憶に深くその名を刻むことになった。  
 条約で交わされた約束の通りに隣国へ嫁いだエレーナ王女は、その美貌と知性で隣国の民をも  
魅了した。彼女にとって幸いだったことは、夫となる王もまた、彼女に魅了されたことだろうか。  
王は若く美しい「戦利品」に満足し、彼女を粗末に扱うことはなかった。エレーナ妃の夫への態度は  
終始冷淡であったというが、妻としての義務は果たし、嫁いだ翌年には世継ぎの王子を産んだ。  
 よく知られているように、王子に対するエレーナ妃の溺愛ぶりは甚だしかったという。意に染まぬ  
結婚の代わりに、彼女は己の愛情のすべてを我が子に注ぎ込んだのであろう。  
 だがその偏愛は、後に王国の崩壊へとつながる権力闘争の火種となる。彼女が「傾国の王妃」とも  
呼ばれる所以である。見方を変えれば、エレーナ妃は夫に蹂躙された祖国に代わって、夫とその  
一族への復讐を果たしたとも言えよう。  
 後年、エレーナ妃は信仰の道に入った。自らが招いた宮廷闘争を嫌ってのことと言われている。  
 彼女は教会に莫大な寄進をして修道院を建て、晩年をその修道院で過ごした。その修道院には、  
エレーナ妃が最期まで身につけていたというロザリオが伝えられている。このロザリオは、彼女が  
嫁ぐ際に持参したものというが、それ以上の由来は分かっていない。おそらく、彼女の幸福を願う  
親族などから贈られたものであろう。  
 
 エレーナ妃の友人であったエマヌエーレ神父の後半生については、定かではない。  
 都を離れたことは確かなようだが、その行く末には諸説ある。遙か遠くの聖地まで巡礼に赴き、  
その旅の途中で客死したとも、海の向こうの未開の地に派遣されて宣教活動に身を捧げ、その地で  
天寿を全うしたとも、あるいは聖職を捨てて名前も変えて、ただの一市民としてひっそりと生涯を  
終えたともいう。  
 都の聖堂には、エマヌエーレ神父の作と伝えられる、殉教の聖女を讃える詩が残されているが、  
その詩に謳われた聖女はエレーナ王女を擬えたものだとも言われている。  
 それ以上のことは、資料に乏しく、判然としない。――  
 
 
−終−  
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル