「あれ。この写真、何?」
「え? あ、やべっ!」
「へぇ、やばいんだ。…で、この写真、何?」
引き出しから取り出した大きな写真をビッ、と指差しながら、ニッ、と笑う顔が妙に怖い。
これは俺へのからかいが八割、残りは本気で問い詰めようとしている時の顔だ。
「それは、だから…見合い写真、だよ」
「ほぉほぉ。で、何でこんなん持ってんの?」
「隣の部屋のおばちゃんに渡されたんだ」
「ふーん」
彼女は疑ぐったような表情でじっ、と俺の顔を覗き込んで来る。
その大きな茶色の瞳に無愛想な俺の姿が映り込む。
「ウソは、ついてなさそうね」
「何を疑ってんだよ」
「いや、アンタがストーキングしてる女性の写真かと思って」
「…何を疑ってんだよ」
大体、そんなヒマがどこにあるというのか。
幼稚園からずっと一緒にいるコイツとは、今や職場も一緒、帰るアパートも一緒だ。
他の女性を追い回す時間も追い回す気もあろうはずが無い。
その事を説明すると、何故か不機嫌な顔になり、ウェーブのかかった髪を指で弄りながら考え込み出した。
「それなのよね」
「何が」
「私達って、アホみたいに四六時中一緒にいるじゃない?」
「まぁ、アホみたいかはとにかく、そうだな」
「それなら普通はアンタのこと彼女持ちって思うんじゃないの? 何で見合いの話なんか出てくんの?」
「それは、だな…」
言ったら怒るだろうとは思いつつも、上手くごまかす術もないので、正直に話すことにした。
「あのおばちゃん、お前のこと、俺の妹だと思ってるみたいだぞ」
「…は?」
「や、だから…。その、俺達、兄妹だと思われてるみたいです」
沈黙三秒。
「はぁぁぁ!? 何で!? どういうこと!?」
やはり怒った。地団駄踏んで怒った。
「冗談じゃないわよ、兄妹って何よ!」
「ま、まぁまぁ」
「アンタと顔が似てるなんて思われたら恥ずかしくて自殺するわ!」
「えー、怒るポイントそこかよ」
しかも自殺するレベル。そんな酷い顔か俺は。傷付くぞ。
そうして俺が軽くヘコんでる間に向こうは喚くのを止めたが、まだむすっとしたまま腕を組んでぶつくさ言っている。
「ホントに何で兄妹とか思うわけ? アパートで同棲してる男女を兄妹と判断するなんておかしいわよ」
「…まあな」
「ん? その顔、アンタ何か知ってるでしょ?」
「…まあな」
「言え」
満面の笑顔だ。本気の笑顔だ。マジ怖い。
ただ…本当に言っていいのだろうか。コイツが避けてるあの話題に、モロに触れることになる。
とは言え、今更お茶を濁すのも難しい。俺は小さくため息を吐いて、できるだけ淡々と話すことにした。
「あのおばちゃんもだな、最初は俺らのこと恋人同士だと思ってたみたいなんだ」
「うん」
「でも、そう思ってから幾数年。そんな仲の良いお二人は、いまだに未婚であると」
「…うん」
「30間近のいい歳した、仕事もある、特別問題なさそうな二人なのに、結婚しない理由はどこにあるのか?」
「……うん」
「もしかしたらあの二人は恋人同士では無く、事情があって一緒に暮らす兄妹なのでは? いやそうに違いない」
「…………」
「それがあのおばちゃんの思考回路だ。ってか本人がそう言ってた」
話を言い終えると、案の定、重苦しく気まずい空気が部屋の中に充満していた。
『結婚』。この話題になるとコイツはこうやって口を閉ざしてしまう。
実は、俺はとっくにプロポーズしているのだが、コイツからの返事は保留となっている。
俺もコイツも家庭やら何やらに問題があるわけではないし、
さっきコイツが言ってたみたいにほぼ毎日一緒にいるので、他の男の影がちらつくこともない。
それなのに、誰かが俺達の結婚について触れたりすると、途端に曖昧な物言いになり、俺の顔色を伺い出す。
何故そんな顔をするのかはさっぱりわからない。俺の方は返事さえもらえればいいんだから何も問題ないはずだ。
ただ、返事を急かすのもアレなので、結婚の話題は俺から振らないし、事情も聞かないようにしていた。
「ま、まぁ、あのおばちゃんも仲人が好きなんだよな。世話好きっつーかさ」
それとなく話題を逸らそうとするが、いかにもわざとらしくなってしまう。
向こうも話題に乗って来ること無く、じっと床を見ながら押し黙っている。
居たたまれなくなった俺は、この話をさっさと打ち切ってしまうことにした。
「…悪かった。もう止めるよ」
「え?」
「別に困らせるつもりはないんだ。あー、別に俺も焦ってないしな」
「…そう、なんだ」
「あぁ…」
何故なのか、フォローしたつもりだが、逆にもっと落ち込んでいるかのように見える。どうも失敗だった。
プロポーズしてから一度も結婚のことは言わないようにしていたが、やはりこの話題はまだ出すべきではなかった。
もう一度謝ろう。そう思ったところで、先に向こうが口を開き、信じられないような事を言った。
「別に、いいから。遠慮しなくて」
「え? 何がだ?」
「したらいいじゃん、お見合い」
「…は?」
一瞬、コイツが何を言ってるのかわからなかった。
したらいい? 何を? お見合い? …俺が?
「何、言ってんだよ」
「お見合いしたら、って言ったの。写真の人、すごく綺麗だったし」
「…本気か?」
「本気? 本気かって? 私は本気よ。当たり前じゃない。本気じゃないのはアンタでしょ?」
「わけわからん。お前おかしいぞ。どうしたんだよ」
「どうもこうもないわよ! バカッ!」
そう言って彼女は、そのまま抱えた膝に顔を埋め、嗚咽を漏らし始めてしまった。
いや、何だこれは。何なんだこれは。何でコイツは泣いてるんだ。俺は何を間違えてるんだ。
20年以上傍にいるのに、何で今コイツの気持ちが全然わかんないんだ。
そんなに俺と結婚したくないのか? だから怒ってんのか? こんなに一緒にいるのに?
「ごめん…」
「…何に謝ってんのよ」
「わかんないんだ…ごめん」
「わかんないなら謝んないで」
「…じゃあ。じゃあどうしろってんだよ!」
思わず怒鳴ってしまった。最悪だ。
だけど、一度溢れた濁流はそう簡単には止まらない。
「俺だって、わかればわかってやるよ! でもお前、何も言わないし! 何も言ってくれないし! くそっ!」
「ちょっと、何よそれ。こっちが言いたいわよ! 何でわかんないとか言うの? 何でごまかすの?」
「だから、何がだよ!」
「…もういい!」
何も言わなくてもわかりあえる素敵な幼馴染。そんなの幻想だ。実際は、何もわかっちゃいない。
打ちのめされる。積み上げてきた俺達のこれまでが、何の意味も無いと嘲笑われているかのようだ。
俺は壁に拳を打ち付けて、自分の不甲斐なさを憎んだ。
一秒一秒が恐ろしく長い、無言の時間が過ぎる。こういう時、決まって先に話すのはやはり彼女の方だ。
「私達、一回離れてみた方がいいのかもね」
「……」
「近すぎると見えなくなることもあるっていうし、ね」
「……」
「そんでさ、アンタも本当にやってみたらいいじゃん、お見合い」
「…やらねーよ」
「私なんかよりずっと素敵な人に出会えるかもしれないし」
「やらねーって」
何でそんな事言うんだ。お前は俺の恋人だろ?
結婚したくないならそれでもいいんだ。そう言ってくれ。
俺はただ…
「俺はただ…」
「ほら、もともと私は…」
「お前にプロポーズの返事もらいたいだけだ」
「アンタの彼女ってわけじゃないし」
最後のお互いの台詞は殆ど同時に発された。そして、お互い同時に顔を見合わせ、
「はい?」 と言った。
「ちょっと待て」
「ちょっと待って」
「お前今なんつった?」
「アンタこそ今なんて言った?」
「彼女じゃない?」
「プロポーズ?」
「はあ?」これも同時だった。
何だ何だ何だ。疑問符だらけだ。意味がわからない。話が見えて来ない。パラレルワールドかここは?
「おおお落ち着け、まずは落ち着け」
「そそそそうね。タバコでも吸って落ち着きましょう」
「吸ったことないけどな」
「同じくね」
もう大混乱だ。それでもどうにか深呼吸を繰り返して無理矢理落ち着いた俺達は、互いに向き合って座り直した。
「まず聞くぞ」
「どうぞ」
「お前、俺の彼女だよな?」
「違うよ」
「…ええ〜?」
「私も聞くけど」
「どうぞ」
「プロポーズ、してないよね?」
「したぞ」
「…ええ〜?」
二人で頭を抱える。落ち着いてみてもやっぱり噛み合わない。早くも詰んだ。
「ねぇ? 私、アンタに付き合ってって言われたことあった?」
「いや、あるって」
「私、何て答えた?」
「いいよって」
「……で、プロポーズもしてる?」
「だからそうだって」
「私、何て答えた?」
「保留って」
「……うーん?」
眉間のシワをさすりながら、彼女は一生懸命思い出そうとしている。
つか、思い出そうとしてるて、マジか。覚えてない? 全く?
流石に酔ってたとかそんな事は無かったはずだが。
俺も首を傾げていると、彼女の方が何か思い当たったのか、「まさか」と呟くと俺の方を見る。
「ねぇ、聞くけど…それっていつ頃の話?」
「え、幼稚園の時だけど」
俺は即答する。
忘れもしない。幼稚園年長組の時だ。二人で砂場でトンネルを作りながら、俺は一世一代の告白をした。
『ねえ、ぼくとつきあってよ』
『んー。いいよ』
『ほんと?』
『うん』
『やったー。じゃあ、ぼくとけっこんしてよ』
『んー。ほりゅう』
『ほりゅう、ってなに?』
『いつかおへんじするのでまっててってこと』
『わかった。まってる』
その時から今まで俺はずっと待っていた。20数年間、変わらない気持ちで。
そんな当時の回想からふと我に返って彼女を見ると、頭を垂れて肩を震わせていた。
「おい、大丈夫か?」
「…か」
「ん? 何だ? よく聞こえな」
「アホかああああああああああああああああああ!!」
もの凄い絶叫だった。俺が勢いで後ろに転がるぐらいの大音声が響き渡った。
「お、おま、近所迷惑だろ」
「そんなもん知らないわよこのキチ○イ!」
「わぁ、キチ○イ出ちゃったよ」
「ねぇ、本気? てか正気!? 幼稚園よ幼稚園。そんな時の記憶あるわけないでしょ!」
「いや、俺はあるんだけど…」
「あっても! 普通は! そんな頃の話はたいした効力はないの!」
「ええっ!」
「驚くな! こっちの方が驚いてるっての!」
驚いた…というか、ショックだ。向こうが忘れていたこととか俺のプロポーズが無効とか、何それ何それ。
「え、それじゃ何? 覚えてないってことは、もしかしてお前、ずっと俺からのプロポーズを待ってたってこと?」
「…」
「結婚の話が出る度に微妙な顔してたのは、俺がいつになったら切り出してくれるのかって、そういうことか!?」
「…」
うわ、顔赤くしてるしコイツ。マジかよ。謎解いちゃったよ。
謎を解いても何一つ清々しさはない。残ったのは、俺達が恐ろしくマヌケだという真実だけだった。
「いやいや、待ちすぎだろ。何でそんなとこだけ奥ゆかしいんだよ。ちょっとは聞けよ」
「アンタに言われたくない。20年以上も返事を保留する人がいるわけないでしょ。疑問に思え」
「お前だって20年以上告白もプロポーズもされないとかおかしいと感じろよ」
「違うもん。プロポーズを待ち始めたのはお互いが結婚できる歳になってからだから、10年ちょいだもん」
もん、とか言うな。三十路前が。
うわあ。なんつーか、これって悲劇? コメディー? すれ違いコント的な。いや全然笑えねー。
「でも待てよ。それじゃあお前は今まで俺の何だったんだよ」
「友達以上恋人未満の幼馴染よ」
「そんな肩書きマンガにしかないわ!」
「そういうあんたこそ20年以上私の何だと思って接してたのよ」
「婚約保留者だよ!」
「そんな肩書マンガにもないわよ!」
「つーかアレか。お前は俺の彼女じゃないのに、俺と何百回もエッチしたのか? 時にはそっちから誘ったりしたのか?」
「アンタもプロポーズは一回しかしてないくせに、性交渉は週四回もしてきてたわけ? 何よそれ」
「愛してっからだよ!」
「知ってるわよ!」
着地点の無い言い争いが続く。もはや互いをけなしてるのかすらよくわからない。
よくわかることは、俺らがアホで、どれだけ悔いても時間は戻らないということだ。
だったら過ぎた事をとやかく言っても仕方が無い。
だから…
「なぁ、明日」
「明日、会社休むわよ」
「え?」
「ダメ?」
「いや、俺もちょうどそう言おうと思ってた」
「そ。じゃ、決定。明日婚姻届出しに行くわよ」
「特急だな!」
改めてコイツの両親に挨拶ぐらいと考えていたが、もうその辺は全省略だ。
「あったりまえでしょ。今まで止まって分全力で取り戻すわよ」
「ア、アイアイサー」
「それとアンタ、婚姻届出したらもう一回ちゃんとプロポーズして」
「え、おかしくね? 順番おかしくね? それ、今じゃダメ?」
「ダメ。今のテンションで言われたら私断るから」
「断るんだ…」
俺としてはこのテンションの方が言いやすいのに。
一晩置いて冷静になったら今日の出来事とか死ぬほど恥ずかしい思い出になるだろ絶対。
「今言わせてくれよー」
「やだ。言ったら別れるから」
「いや、お前の中では俺らまだ付き合ってないんじゃなかったのか」
「じゃあ、付き合って」
「軽っ! しかも結局お前から言うのかよ」
「いいから。付き合ってくれんの?」
「あー。まぁ、いいけど」
「では、今から恋人同士ということで。…えへへへ」
めっちゃ照れてるし。何コイツ、超可愛いんですけど。
しかし良く考えれば、コイツは正式に俺と付き合ってないと思いながら、ずっと俺の傍にいたわけだ。
きっと俺の知らないとこで色々悩んでたに違いない。
「その、ごめんな、色々」
「謝らないでよ。私もアンタもとんでもない馬鹿だっただけじゃない」
「まぁ…な。んじゃさ、代わりと言っちゃなんだけど…無茶苦茶幸せにするよ。約束する」
「…うん」
目を細めて、彼女が微笑む。この顔が見れれば、それで十分なのかもしれない。今も、昔も、そしてこれからも。
俺の気持ちは、最初にプロポーズしたあの日から、ずっと変わらないんだから。
「…ところで、今夜はいかが致しますか、俺の彼女さん」
「そうね。恋人同士として最初で最後の、とびっきりのやつをお願いするわ」
「了解!」
それはそれは綺麗な敬礼をして、俺は風呂に入るべく、替えの下着とタオルを取りに行こうとした。
その俺の背後から、「待って」という声と共に彼女がぎゅっと抱き着いてきて、幸せそうに俺達の未来を語る。
「楽しだね、フランス旅行と庭付きの一戸建てと五人の子ども達」
「壮大なドリームプランだなオイ!」
さて、明日時間があればおばちゃんにお見合いの写真を返して、丁重にお断りを入れなければ。
それから、是非お礼を言わせてもらおう。
あなたは最高の仲人です、と。
〜完〜