毛糸の靴下で踏み込んだ道場の床は、予想以上に寒かった。師走のキンとした冷気が、  
つま先を通じて膝にくる。以前、裸足や足袋で出入りしていた頃には、冷たいと感じこそすれ、  
寒いと思ったことは無かったのだが。  
 これが、7年という時間長さの現れなのか、と達司は心の中で独り言ちた。一見して、  
この弓道場の風景は以前と全く変わらない。射場も、矢道も、的場も、彼の記憶の中に  
あるそのままだ。しかし、そこに纏う空気は違った。屋根の無い矢渡りから吹き込む北風に、  
門下生の頃に感じた凛とした厳しさは無かった。ただただ、険しかった。  
 ここは既に、彼の場所では無い。そんな思いを胸に神棚へと一礼し、達司はそっと射場  
の後ろへ回った。眼前では、彼の代わりに一人の少女が、射法八節に則って悠然と弓を  
引いている。  
 
「見事」  
 タンッ、と最後の矢が的を射たところで、達司は心からの賛辞を送った。しかし、  
射手はそれを梢のさざめきとばかりに関しない。たっぷり一呼吸の残心を決め、立礼して  
射点を下がる。それからやおら、ぱっと後ろを振り向いて、娘は言った。  
「もう、こっそり忍びこまないで下さいよ。びっくりするじゃないですか」  
 後ろに高く一纏めにしてもなお、背の中ほどまで垂れる柳髪を跳ねさせ、娘は楽しげに  
息を弾ませる。その様は、道場と違って七年前とは似ても似つかなかったけれど──  
この場で初めて、彼の気を緩ませる温かみを持っていた。  
 
  *  
 
「いつ戻ったんですか?」  
「家に着いたのは十時過ぎ。成田には昨晩だけどな」  
「あ、なるほど。前に伯母さんから昨日には戻るよって言われたんですけど、今朝来て  
みたらまだって言われて。ちょっとびっくりしてたんです」  
 慣れた手つきでストーブに火を入れながら、川上梓は言った。午前十一時三〇分。陽も  
高く大分寒さが緩んできた頃合いではあったが、それでも息の白さが消えることは無い。  
この季節、午前の稽古を終えた生徒は、着替えの前に談話室へ引き上げ、暖をとるのが  
常らしい。  
 
 達司もそれに倣って、しばし火にあたる事にした。弓道衣の梓に比べれば格段に温い  
格好をしていたはずだけれど、節々に刺さった冷えを融かさずには居られなかった。  
つい十年前まで、小雪の中を袴のままで自転車に跨っていた自分が信じられない。  
 翻って正面を窺うと、梓は白筒袖の上からジャンパーを羽織り、中々温まらない火の前で  
さぶさぶと両手を擦り合わせていた。その何処か小動物めいた仕草は、ほのかに昔の彼女  
を彷彿とさせる。  
 しかし、それ以外には、彼の袴に纏わりついていた十歳の女の子の面影は無かった。  
 
「お袋には会社の日程表をそのまんま転送しちまったから、誤解したんだな。悪かったよ」  
「いえ、まあ。その間、こうして道場貸切にさせてもらったわけですし」  
「しかし、土曜の午前だってのに、参加者一名か。こりゃいよいよ危ないなあ」  
「この寒さですから、仕方無いですよ。最近は、子供よりも中年のおばさんとか定年の  
お爺さんとかのが多いんです」  
「なるほど、シニアシフトね。まあ、きちんとしたモデルに沿ってやるならいいけども」  
 
 ようやく色づいてきたストーブの炎筒を眺めながら、達司たちはしばし他愛のない世間話  
を続けた。  
 彼らは、厳密には七年ぶりの再会では無い。大学卒業後、就職までの間に達司が  
一時帰郷した折、少し対面で話している。だが、それでも丸々三年は空いているし、  
こうして袴姿を道場で見たのは、正真正銘七年ぶりだ。他に、何か言うことがあるだろう  
という思いはあったが、具体的に何をとなると言葉に詰まった。  
 七年前なら簡単だった。膝の上に乗せて話を聞き、飽きたら両手を持って空中ブランコ  
でもしてやって……最後に、彼の射を見せてやれば、それで良かった。  
 だが、今さらそんなことは出来ない。鎖骨程のところに旋毛が来る娘だから、ジャイアント  
スイングぐらいは何とかなるかもしれない。だが、それで華の女子高生が喜ぶはずも無く、  
まして膝の上なんぞに乗せた日には、巻藁の詰め物にされても文句は言えない。  
もちろん、彼の弓を見せるというのは──  
 今さら、何の意味も無い。  
 
「まあ、人が減っちゃってるのは事実でしょうね。かくなる上は、長男さんが頑張って  
外資注入してくれないと」  
「おーい、用法が全く意味不明だぞ受験生」  
「あいた。すみません……でも、やっぱり息子がエリートビジネスマンやってるのって、  
師範にとっても凄い心強いみたいですよ」  
「エリートなら入社早々五年も中国に飛ばされたりしねぇ」  
「いや、入社してすぐに海外駐在って、結構有り得ないとおもうんですけど……」  
 
 それでも、世間話なら回せてしまうのが、幼馴染の人徳とも言えた。七年前、いや四年前  
と今でも、話題の選び方は全く違う。そもそも、今時の女子高生の話題など、日本のメディア  
から離れて三年の達司には見当もつかない。だが、彼女の口元と指先を見ていれば、  
続けたい話題とそうでないものは何となく見分けがついた。  
 
 恐らくは、普段この談話室行われているのと、ほぼ同じような漫談を続ける事しばし。  
足先の痺れが痒みに変わる頃には、達司はもうさほど、今の梓に気後れを覚えなく  
なっていた。今回は、正月を挟んで一週間ばかりの帰国となる。今日のところは  
これで十分と、彼は談話室の椅子を引いた。  
「よし。じゃあ、ちょっくら台所の様子でも見て来るわ。久々に和食にありつきたいしな。  
お前も食ってくだろ?」  
「あ、はい。って……えと、あのっ!」  
 引き戸に手をかけたところで、つと、梓が強く呼びとめた。達司は少なからず驚いた。  
昔、やんちゃしていた頃も、あまり大声は上げない性質だったからだ。振り向くと、  
ストーブの炎とは違う、より鮮やかな朱を頬にさした少女が、こちらを向いて立っている。  
 見つめ合うこと一拍。射場に立つ前と同じ、深い呼吸で面を上げた梓は、その瞳で  
しかと達司を射抜く。  
 
「お帰りなさい、達兄さん」  
 
 完璧な所作の、立礼とともに、娘は言った。七年前、いくら言っても直らなかった  
へっぴり腰は何処にも無い。けれど、髪をきつく束ねた頭に見える旋毛の色は、  
彼が上京の日に列車から見たそれとおんなじで。  
 
「……ああ。ただいま、あーちゃん」  
 
 声だけは平調に、他の震えは寒さのせいにして、達司は片手を上げるのが  
精一杯だった。己が憚っていた一言をあっさり、いやあっさりではない、その憚りを  
二人分飲み下した上で、きちんと迎えの言葉をくれ娘に、達司は感傷を隠すことが  
出来なかった。  
 駆け寄って頭を撫でてやりたい衝動を必死に抑え、もう一度「飯を見てくる」と言い残すと、  
彼は足早に母屋の方へ引き上げた。  
 
  *  
 
 弓を引かない弓道家の嫡男。外部の資金援助で回す道場経営。達司と弓道場との関係は、  
昔の彼にも、今の彼にも、滑稽なものだった。外から金を入れているだけ済むなら、近寄り  
たくないと思う時期もあった。  
 
 しかしながら、やはり一時帰国して良かった、と達司は思う。自分は、ここを守らなければ  
ならない。例え彼自身の居場所がなくても、彼が引き込んだ少女の居場所を、潰してしまって  
いい道理は無い。  
 己の弓を「きれい」と言ってくれた幼馴染が、その弓で育つことのできる場所を残すこと。  
それが、彼に唯一残された弓の道だった。  
 
 それを、今一度、思い知らされた。  
 
 
 
 台所に入ると、案の定、飯釜だけが湯気を吹いていた。冷蔵庫の中身を確認し、流し台で  
簡単に手を洗う。一二月の水道は身を切る様な冷たさだったが、今度は達司も怯まなかった。  
なあに、中つ国じゃあ真冬の給湯器の突然死など日常茶飯事だ。そうやって開き直って  
しまえば、体の芯を砕くような震えも、もう来なかった。  
 およそ、正道とは言い難い。いやしくも武道を修めた者の心構えとは到底言えない。  
しかし、ドロップアウトした人間ならば、これで上出来なのかもしれない。  
   
 矢は、弓を十全に撓めて初めて前に飛ぶ。ならば、せめて彼女の矢が真っ直ぐと的を  
射るように、己は精一杯身を撓めてやろうと、達司は思った。  
 
 

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