Ice Spirit  
前編 吹雪の山小屋   
 
 
「おはよう。目が覚めたかしら?」  
 
 朦朧とした意識に、そんな声が聞こえてきた。  
 若い女の声である。ぼんやりと思い返してみても聞き覚えはない。  
 
「あー。うー……」  
 
 ケルブ=レオムーは目蓋を開け、周囲を見る。  
 あまり広くはない小屋だった。剥き出しの木の床に壁。天井も木である。頑丈さを第一  
にした無骨な作り。部屋の中央に囲炉裏があり、火が焚かれている。山小屋のようだ。古  
びた窓からは灰色の風景が見えるが、まだ夜ではない。しかし、空気は冷たい。音を立て  
て揺れるドア。外は吹雪のようだった。  
 ケルブは身体を起こし、  
 
「ぅッ!」  
 
 左足に痛みが走り、手で押さえる。口元まで隠す分厚い毛皮のコートとズボンに登山帽  
子。記憶が途切れる前は、冬の山を登っていたはずだ。  
 
「足首捻ってるから、動かさない方がいいよ」  
「どこだ、ここは? ボクは……確か……」  
 
 意識の霞を払うように頭を振ってから、ケルブは声の主に眼をやる。  
 そこにいたのは、若い女だった。人間の年齢では、二十代の前半くらいか。実年齢は分  
からない。人の姿をしているが、人間ではなかった。  
 
「山頂近くの避難小屋よ。かなり古い小屋だから、あちこちガタ来てるけど、他に連れてく  
る場所も無かったから。文句は言わないでちょうだい」  
 
 棚から薪を取り出しながら、静かに言う。  
 
 身長は百六十センチほど。肌は青く、眼は水色、耳はやや細長く尖っている。紺色の髪  
を背中まで伸ばし、赤いヘアバンドを頭に付けていた。表情は薄く、目付きは冷静で鋭い。  
袖のない白い上着と、横にスリットのある紺色のロングスカート。手首や服には金色の帯  
が飾られている。冬山には似つかわしくない薄着だった。  
 
「氷精霊」  
 
 その姿を見つめ、ケルブは驚きとともに呟いた。  
 山に住むという氷の精霊。文献や絵では知っているが、本物を見るのは初めてだった。  
人間に似ているが、身に纏う空気は確かに人外である。  
 
「そう言うみたい」  
 
 氷精霊は囲炉裏の前にしゃがみ込み、持ってきた薪を火にくべた。赤い火が揺れ、部  
屋の冷気を少し遠ざける。水色の瞳が火の色を映していた。  
 自分が置かれている状況と、意識が消える前の状況を思い出し、ケルブは尋ねる。  
 
「君が助けてくれたのか?」  
「ええ」  
 
 氷精霊は頷いた。静かな口調で、表情も変えず。  
 
「ここに来る途中に見かけたわ。死なれても目覚めが悪いから連れてきた。軽い捻挫だ  
けで大きなケガは無いし、治療もしたからすぐに動けるようになるでしょう」  
 
 水色の眼で、ケルブの左足を見る。  
 ケルブは山頂を目指して山道を歩いていた。標高は千五百メートルほどで、険しい山で  
はない。それでやや油断してしまったのだろう。吹雪に遭い、この山小屋目指している最  
中で記憶が途切れている。氷精霊の話から考えるに、脚を滑らせて頭を打って気を失っ  
ていたようだ。その時に捻ったらしい左足首。微かに痛むが動かすのに不自由はしない。  
回復魔術によって治療されていた。  
 この氷精霊に見つからなかったら、凍死していただろう。  
 
「名前を聞いてもいいか?」  
 
 自分に手を向け、氷精霊は答えた。  
 
「私はセッシ。あなたは?」  
「ケルブ=レオムー。ニルナ魔術大学院の研究員だ」  
 
 ケルブは自己紹介をする。オンサ連合王国国立ニルナ魔術大学院。南に馬車で三日  
ほど行った場所にある、国で最も大きな魔術学校だった。ケルブはそこの研究員である。  
 セッシは一度頷き、  
 
「普通の名前ね。麓の人間が、何でこんな所にいるの?」  
「魔術の実験で氷結晶石が必要になって。研究所の保管庫にも在庫無くて。こうして取り  
に来たんだけど、吹雪に巻き込まれて……」  
 
 目を逸らしながら、ケルブは答えた。  
 物体を極低温まで急冷却する魔力の結晶。実験で必要になったが、他の大きな実験で  
大量に使われたせいで、どこにも在庫が無い。色々相談した後、登山経験のあるケルブ  
が採ってくることで一応の結論となった。  
 だが、その結果がこれである。  
 小さく笑うセッシ。窓の外に眼をやり、  
 
「それは災難ね。うん。吹雪が止んだら氷結晶石がある場所まで案内してあげる」  
「ありがとうございます」  
 
 素直に頭を下げる。  
 山頂に氷結晶石があるとは言われているが、場所は一定しないらしい。最初から数日  
探し回る気だったが、その必要は無くなったようだ。  
 やや気まずい雰囲気を払うように、ケルブは訊いてみる。  
 
「君は何でこんな所に向かってたの?」  
 
 少し気恥ずかしそうに、セッシは右手で頭を撫でる。  
 一度身体を折り曲げ、その場に立ち上がった。紺色のスカートが肌と擦れる微かな音  
が聞こえる。靴下などは穿いていない素足だ。足音もなく窓辺に移動し、ガラスの向こう  
の灰色を眺める。  
 
「集落に帰る途中に吹雪に巻き込まれたのよ。寒いのは平気だけど、視界が利かないの  
は困るわ。あなたのように脚滑らせたりしたら大変」  
 
 と、振り返ってくる。  
 時間は夕方だが、分厚い雲のせいで夜と変わらぬほどに暗い。山特有の強風と肌に染  
み込む冷気。寒さは平気なようだが、視界が利かないのは苦しいようだ。  
 窓辺に佇むセッシを眺め、ケルブは鼻の頭を掻いた。  
 
「こんな事訊くのも野暮だけど、そんな恰好でセッシは大丈夫なの?」  
 
 肩から腕が丸出しの上着。裾も短く、時々へそが見えている。スカートの左側には腰元  
まで届くスリットがあり、歩くたびに太股まで見えていた。露出の高い、扇情的とも言える  
服装。本人はそれを気にしているように見えない。  
 恥ずかしくはないかという意味で訊いたのだが。  
 セッシは単純に寒くないかと受け取ったようだ。  
 
「私は氷精霊だから、この雪山の気温は快適よ。人間にはちょっと大変かも」  
 
 水色の瞳で自分の手を見つめる。きれいな青い肌だった。手足は細いように見えて、し  
っかりと筋肉も付いている。山暮らしだから自然と鍛えられるのかもしれない。  
 ケルブは囲炉裏で燃える炎を目で示した。  
 
「……暑くない?」  
「大丈夫よ。真夏みたいな温度でも、溶けたりはしないから」  
 
 口元を小さく笑みの形にして、セッシが答えてくる。氷精霊は火で溶けたりすると聞いた  
事があった。どうやらただの噂らしい。  
 
「とりあえず、これからどうしようか? 吹雪はすぐに止まないだろうし」  
 
 ケルブの問いに、セッシは小屋の隅に置いてある荷物を見た。ケルブが背負っていた  
登山用リュックである。登山に必要なものは持ってきたので、かなり大きい。  
 
「お腹空いたから何か食べましょう。あなた食料持っているでしょう? あと、お酒も持って  
いるみたいだから、それもちょうだい」  
 
 遠慮もなく言ってくる。  
 

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