「最後の約束」
二十世紀は戦争の世紀だった。
1941年12月7日。大日本帝国海軍の真珠湾奇襲攻撃により始まった太平洋戦争は、
連合国の圧倒的物量を前にミッドウェー、ガダルカナル、サイパン、硫黄島と日本帝国軍は惨敗を繰り返し、
ついには沖縄において民間人をも巻き込んだ凄絶な地上戦にまで至った。
数々の要衝を失い敗戦色は濃厚となったにも関わらず、日本軍部は敗北を頑なに認めようとしなかった。
そして、正気を失った軍部は、信じられない作戦を次々と実行する。
一撃必殺、神風特別攻撃隊の発足が、その最たるものといえよう。
当時17歳だった私、中村 健治も、愛国に燃え、特攻隊に志願した幼き兵士の一人だった。
1945年 7月
「諸君の出撃予定日が決定した」
私の所属する飛行隊の隊長を務める島岡中佐がその日の朝礼で開口一番にそう言った。
不動の姿勢のまま、私は固まった。
横に並ぶ同期の顔を見ることすら、忘れていた。
覚悟を決めていたはずだった。御国のためにこの命を捧げられる、誇りを持つべきときだった。
しかし、そのときの私に去来した思いは、ただただ死ぬことへの恐怖だった。
恥ずかしかった。自分は非国民だったのか。
「広島、長崎には米軍の新型爆弾投下により数え切れぬ犠牲者が出ておる。
諸君の特攻作戦は、祖国防衛の最後の希望である! そのことを肝に銘じよ!」
上官の言葉など、ほとんど耳には入っていなかった。
その日の夕刻、営舎で同期は集まって口々に心境を打ち明けていた。
「一週間後かぁ……」
私と同じ歳の同期、植村がため息をつくように呟いた。
「いよいよだな。みんな、死んだら靖国に集合だぞ。忘れるな?」
次回出撃の特攻隊最年長である菊池少尉が、まるで遠足の集合場所の確認のような明るい口調で皆に言う。
「はい。わかってますよ。死んでからもやることは多いですね」
「まずは戦果の確認だな」
「俺は空母を沈めてみせるぜ」
「ばぁか。おめぇじゃせいぜい駆逐艦だ」
営舎の中で笑い声が起こる。
とっくに消灯時間は過ぎているにも関わらず、咎めるものなど、いなかった。
警備の兵士も、差し入れの酒を持ってきてくれた。死を義務付けられた若者たちを、誰が怒ることなどできようか。
裸電球の薄暗い営舎の中で、死を目前にした若者たちは、電球よりも明るい命の炎を燃やしていた。
私はあの夜の、仲間たちの笑顔を今でも忘れていない。
「中村」
「はい。なんでありますか少尉殿?」
皆が酔いつぶれて眠ってしまい、ほとんど飲まないでいた私と菊池少尉が片付けをしているときだった。
「お前、まだ女を知らないだろう?」
「えっ!?」
私が狼狽するのを見て、菊池少尉は苦笑した。
「そんなこったろうと思った。実はな、縁談がきてるんだよ」
「縁談、でありますか?」
「ああ。明日にな、この基地からバスを使えば半日ほどの村の娘さんらしい」
「で、ですが自分らは……」
それ以上はいえなかった。死ぬ運命にある、など。
「分かってるさ。相手のことも知らないし、たった一晩だけの夫婦だ。
それでも、一度も女を知らずに逝ってしまうのも、虚しいだろう」
菊池少尉はさっきまでのどんちゃん騒ぎからは想像できないしんみりとした様子で言った。
少尉は、半年前に結婚したばかりだった。そして、奥さんのお腹には……。
自分の子供の顔を見ることなく死を迎えなければならない少尉の心中を、私はあまりにも気の毒に思ってしまう。
「……行って来い。一人でも多く、お前がこの世に生きていたということを、知っていてもらうんだ」
翌日、外出・外泊許可をもらった私は基地から少し離れた町まで徒歩で行くと、バス停を見つけて待っていた。
うだるような暑さの中、道行く人の何人かが、今は貴重品になっているラムネやアイス菓子を持ってきてくれる。
兵隊さんがんばってください、と言って。
九州の田舎生まれの私は、滅多に食べたことのないアイスをほおばりながら、
能天気に軍人になってよかったと思う。
そうしている内に、バスがやってきた。
「このバスは『浅黄村』には止まりますか?」
少尉から渡された紙に書かれた住所を見て、私はバスの運転手に訪ねた。
「ああ? この非常時にあんな僻地に行くわけが……」
運転手は私の軍服姿を見ると、急に態度を改めて答えた。
「ええ! もちろん停まりますとも」
私は苦笑すると、空いている席に腰を降ろした。
途中、他の客は皆降りてしまった。
「軍人さん。これから浅黄村に向かいますんでもうしばらく待っていてください」
運転手はそう言い、ハンドルを握った。
朝の早くから基地を出たというのに、山をいくつか越え、その浅黄村に着いたのは夕方の五時だった。
「わざわざ、どうもありがとうございました」
「いいんですよ」
運転手に別れを告げ、明日の同じ時間にできればもう一度拾いに着て欲しいことを伝えてから、私はバスを降りた。
「中村兵曹殿であられますか?」
バスを降りて一分もしないうちに、田んぼのあぜ道からしゃがれた声が聞こえてきた。
「はい。自分であります」
「おお……遠路はるばるようこそおいでくださいました」
あぜ道から、一人の老人が出迎えにやってきた。
「どうかおくつろぎください」
家に招かれ、そこではこの小さな村のほぼ全員が集まっているのではないかというほどのにぎわいを見せていた。
いくら軍人とはいえ、私もやはり17歳の少年だった。
一晩とはいえ、今夜を共にする女性がどんな娘なのか、気になって仕方がなかった。
家の中をざっと見渡すが、女性は皆中年以降の年齢ばかりで、お世辞にも若い娘はいないように見える。
「あの……お嫁さんは……」
近くにいたおじいさんに恐る恐る尋ねてみる。
いざ言葉にしてみると、自分が嫁をもらうという事実に戸惑いを感じる。
「澪か……? 澪は今神社の方におると思うがの」
おじいさんは私の相手となる娘の名前らしきものを呟いた。
「神社……巫女さんなのですか?」
「まあの……。おっ。ほれ、帰ってきたようですぞ」
「!」
私は慌てて戸口の方へ目をやった。
「……ただいま戻りました」
そこには一人の少女が立っていた。
思わず、息をのむ。
背中まである長髪を束ね、巫女服にその身を包んだ長身の少女。
憂いを秘めた瞳と合わさって、その存在には神々しさすら感じられた。
一瞬、彼女と目が合う。
私は反射的に軽く頭を下げていた。
しかし、彼女は拒絶ともとれるように素早く私から目をそらした。
「澪や、身を清めてきたのかえ?」
今にも腰の折れそうな老婆が炊事場から現れ、険しい表情で少女を見上げた。
「……はい」
それきり彼女は私と目も合わさず、一言も言葉を交わそうともしなかった。
式の段取りは私そっちのけで進められ、気がつけば彼女の隣で新郎として座っていた。
彼女は巫女服を着替え、今は花嫁衣裳だ。
その美しさに、うぶな少年飛行兵だった私は頬を赤くしてしまいそうだった。
彼女の親族、というよりはこの村の名士たちを中心に祝辞が述べられていた。
平静を装ってはいるものの、私はまったくそれらの話には耳を傾けていなかった。
ただ、彼女の存在が気になって仕方がなかったのだ。
そう、彼女には一目見た時から、恋に落ちていたのだ。
死を目前にした男の本能だったのではないかと言われれば、そうかもしれない。
だが、私はそのとき確かに彼女のことを愛していた。
理由など、ありはしない。
「……中村…さま」
初めて彼女が私の名を、いやその存在を口にしたのは、
私にとっては最初で最後になるであろう夫婦としての夜になってからだった。
「健治だ。そう、呼んでくれないか?」
心臓が口から飛び出そうなほどの緊張感の中、私はかろうじてそう答えた。
「はい……健治さま」
繊細で澄んだ声が、私の名を呼ぶ。
「さ、さまなんてつけなくていい。ふ、夫婦なんだからな」
「……はい」
今考えてみれば、随分と間抜けな会話をしていた。
村一番の屋敷の二階の一室で、二人向かいあい、布団が横に敷いてある。
虫の音が風に乗って聞こえてくる。
どうすることもできずに、静寂だけがそこに横たわった。
「あ……」
彼女が何かに気づいて目を細めた。
「蛍……」
彼女はどこからか舞い込んできた蛍を見つけて微かに笑った。
「蛍が好きなのかい?」
私は彼女が初めて見せた感情に見とれながら、初めて落ち着いて言葉を投げかけた。
彼女は自分の方に飛んできた一匹の蛍を手の平でそっと受け止めてやると、
そのほのかな輝きを慈しむように優しい表情を浮かべる。
「はい。自由に、精一杯自分のしたいように飛びまわることができる蛍たちは、
私の憧れなのです……」
「……たった、数日の命でもかい?」
無意識に私は低い声で尋ねていた。
「……え?」
彼女が戸惑いの表情を浮かべた。
私が何を言わんとしているのか、まったく分からないといった様子だった。
首を傾げる彼女の様子に私ははっとした。
きっと彼女は知らされていないのだ、私が数日後には敵艦に爆弾を抱いて突っ込んでいくということをー
「はい。たった一瞬でも、自由に生きて、本当に愛するつがいに巡り会って死んでいくのなら、未練などないでしょう?」
彼女は私の問いを曲解したらしく、鋭い目で反論した。
私は真実を告げる機を逸し、ただ黙ってしまう。
ややあって、彼女は自分の感情的な言葉に気づいたのか、後悔したように私から顔を逸らした。
彼女が私のことを愛していないということなど分かっている。
今日初めて会った男と夫婦として夜を過ごすなど、若い娘にとって耐え切れないことであることくらい、想像はつく。
私は一つため息をつくと、彼女にできるだけ優しく話しかけた。
「君は、いくつだい?」
「……十五です」
「なぜ巫女を?」
「村の掟だから……」
「君は嫌なのかい?」
彼女は押し黙る。
こういった外界と隔絶した村にはよくある話だろう。
首を突っ込む気など私にはない。
しかし、彼女は、たった一晩でも、私の『妻』なのだ。
放ってなど、おけない。
「……俺は、特攻隊に志願していて、来週には死ぬ運命だ」
私は静かに、彼女に真実を告げた。