(割とグロいと思うので、ご注意)
ハロルド・ブラウンは、模範的人間といって過言はない。
大学を卒業後、大手商社に就職し、業務成績も上々。
二十代の後半には結婚し、三十六歳の今年、二子を持っている。
容貌も、抜きん出て秀麗ではないものの、
中の上の部類でも上位には入るだろうと思われた。
人柄も誠実で、上司に忠実、部下には優しく、
且つ、必要とあれば口を窮めた諫言や、厳しい叱責すらも辞さなかった。
それが、ハロルドをただの腑抜けの幇間ではなく、
優秀なビジネスマンであることを、周囲に認知させていた。
――――――――――
年の瀬を間近に迎えた、夕刻のことであった。
日は短く、すでに太陽は務めを終えて、没していた。
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
退社しようとする女子社員に、ハロルドは、
「ご苦労様。最近は物騒だから、気をつけて帰りなさい」
などと声をかけた。
ここ半年ほどの間、附近で通り魔や婦女失踪事件が相次いでいた。
通り魔は、六ヶ月で九人が被害に遭い、うち四人が死亡している。
婦女失踪は、新聞やニュースの報道では六人にのぼる。
その報を聞くたびに、ハロルドは嘆息した。
報道にせよ、警察にせよ、その程度の能力しかないのならば、
世に平穏が訪れるのは、まだまだ先のことだろう。
――――――――――
時計が十九時を示す頃、ハロルドも退社した。
黒い皮革コートを羽織り、帽子を目深に被る。
革の手袋は、寒さを防ぐためばかりが能ではない。
ハロルドは帰途に、人気の少ない道を選んだ。
駅へも遠回りになるが、それでも構わない。
ハロルドを、義務感に似た、
だが、それとは明らかに異質な衝動が動かしていた。
ハロルドは、十三番通りを歩いた。
暗い通りだった。
街頭は立ち並んでいるものの、本来の務めを果たしているものは、
十あるうちに三つか四つほどだった。
だが、暗いというのは、そればかりが因ではない。
道の両側に立ち並ぶビルディングは、
連年の不況の為に所有者が泣く泣く放棄したものばかりで、
多くが現在では、虚しい廃墟となっていた。
ビルディングには、主が中で首を吊ったものさえあった。
この、暗い陰を湛えたビルの壁が、
決して広いとはいえない通りの両側を固め、
昼間でも、暗い印象を、通り一杯に澱ませていた。
九人の通り魔被害者のうち、三人がこの通りで襲われている。
七人の失踪者も、この辺りで行方を眩ませている。
ハロルドは憤った。
十三番通りは、危険な通りであるという認識が、
すでに警察も、世間にもいきわたっているはずだ。
にもかかわらず、いまだ、街灯の修理もせず、
巡回の警察官もいない。
行政も、警察も、まだまだ認識が甘い。
甘きに過ぎる。
十六人の被害者は、まったくの無駄な犠牲でしかなかったのだろうか。
ハロルドは、ふつふつと沸く怒りの中に、
また、底冷えするような虚しさも覚えた。
そうして虚ろに歩くハロルドの向かいから、
誰かが歩いてくる。
ハロルドは、その姿を認めた。
ベージュのトレンチコートを羽織り、鳥打帽を被っている。
背は高くはない。
華奢なシルエットと、
街灯を透かす、ウェーブのかかった長いブルネットから、
その人物が女性であると、ハロルドは判断した。
こんなに治安の悪い通りを、
暗くなってから、女性が独りで歩くなど、
認識の甘さも甚だしい。
ハロルドの脚は、義憤に駆られて、回転数を上げた。
ハロルドが、かつかつと、足音高く歩み寄っていっても、
女性は目深に被った鳥打帽を上げることも無く、
黙々と自分の歩みを続けるばかりだった。
「おい、君」
ハロルドは、コートのポケットに忍ばせていた、硬いそれを握ると、
真正面から、トレンチコートの影にぶつかっていった。
どん、と軽い衝撃が、ハロルドを揺らした。
ブルネットから、鳥打帽が滑り落ちた。
バタフライナイフが、ハロルドに、
その尖端は楽々とコートを貫き、
中の柔らかい肉にまで達したことを伝えた。
「危ないじゃないか。こんな暗い道を独りで歩くなんて」
トレンチコートの女性は、無言だった。
いつもそうだ。
大抵、いきなりに刺されると、人は声が出ない。
脳は、痛覚を痛みとして処理するより、
怒濤のように流れ込んでくるその情報に、混乱するのだろう。
そして、声帯が強張って、叫ぶことも出来ずに、
「ああ」だの「うう」だのと呻くだけだった。
ハロルドは、バタフライナイフに捻りを加えながら、
コートの女性を押し倒した。
刺したのは、肝臓だ。
これは、ほぼ確実に死ぬ。
無能な警察と、怠惰な行政の為に、
また一人の無辜の命が失われなければならないのだ。
ハロルドの心は悲憤に暮れた。
だが脳髄は、それに反して、激しい興奮に震えた。
アドレナリンが分泌されるというのは、こういう感覚なのだろう。
なんとも、病み付きになる。
ハロルドは、押し倒した女性の首に手をかけた。
悲鳴をあげさせることなく、確実に処理しなければならない。
女性の細い首を、ハロルドは両手で締め上げた。
いや、押し潰すといったほうが良い。
全体重をかけて気管を押し潰すことで、
声はおろか、息を上げることも出来なくなる。
そして、死に至る。
内臓を刺されて、じわじわと失血死するよりも、
より迅速に苦痛から解放されたほうが、彼女達も嬉しいだろう。
そうした思いで、これまでハロルドは、女性達の首を締め上げてきた。
その、理不尽な死を前に、恐怖と苦痛に悶える表情の、
なんと悩ましく、美しいことか!
ハロルドは、彼自身が気付くことはなかったが、
その今際の表情に、恋していた。
彼は、女性達の命と引き換えに、逢瀬を重ねていたのだ。
そのためであれば、自らを偽ることも苦にはなりえず、
むしろ、それは無自覚のうちに行われていた。
彼は、今宵もまた、愛しいあの表情に出会えるはずだった。
だが、いま、彼が締め上げているその女性は、
一向に、苦悶の表情を上げることも無く、
力なく、弛緩した顔に埋め込まれた、ガラス球のような瞳で、
ハロルドを見上げていた。
ハロルドは激昂した。
死に直面する恐怖と苦痛を与えて、その感情に押し潰されない人間など、
彼の価値観では許すことが出来なかった。
ハロルドは、彼女の首を締め上げていた手を解くと、
拳を固めて、二発、三発と、振り下ろした。
血飛沫が飛んだ。
ブルネットの髪が、冷たいアスファルトに流れた。
紫色の唇から、赤黒い血を滴らせながら、女は、ハロルドを見上げた。
それはやはり、ガラス球のような眼差しだった。
不意に、ハロルドは既視感に襲われた。
以前にも、この光景を見た事がある。
夢ではない。
夢などではない。
地面に流れるブルネット。
彼を見上げるガラス球のような瞳。
そして、死者のように、白い肌。
ハロルドは、全身が、瞬時に恐怖に蝕まれていくのを感じた。
彼は、それが単なる勘違いであることを証明しようと、
彼女に植わっていたナイフを抜き、彼女のコートを、乱暴にはだけた。
そこには、あまりにも惨たらしい現実があった。
コートの下は、裸だった。
女の顔と同じ、白い死人色の皮膚に覆われた体があった。
丸く膨らんだ乳房の頂の突起は、唇と同じく、
薄く青みがかかり、生者のそれではなかった。
なだらかな腹部には、今しがた彼が作った刺し痕のほかに、
左脇腹に深々とした裂創が奔り、
そこから、血の気のない、土色をした腸管が食み出していた。
ハロルドの全身に震えが走った。
寒さのためではない。
彼の、彼自身の神経が、慄き、震えているのだ。
ありえない。
ありえない。ありえない。
あってはならない。
こんなことが、あるはずがない。
こいつは、この女は、最初に殺したはずだ。
殺して、犯して、
そうして、いたたまれなくなって、
廃墟に置いて、廃墟に棄てて、逃げた。
失踪者名簿にも名前がなかったから、
まだ見つかっていないだけなのだと思っていた。
なのに、こうして、こうやって歩き回っているなんて。
ハロルドは、無様に尻餅をついた。
腰が砕け、全身の筋肉が強張って、いうことを聞かない。
いや、その指令を出すはずの脳ですら、混乱をきたしている。
ただ、本能に突き動かされたハロルドの意識ばかりが、
機能不全に陥った肉体の檻の中で、虚しく逃走を叫び続けていた。
女が立ち上がった。
糸で吊って引き起こしたような、不自然な動きだった。
女の唇が、何かを呟くようにして蠢き続ける。
地に座り込み、「ああ」とも「うう」ともつかない呻くハロルドを見下ろして、
女は、彼をを跨ぐようにして立ちはだかった。
彼女の両手の指が、自身の裸の胸に、乳房の狭間に刺し込まれる。
彼女は、指を根元まで差し込むと、とても力があるとは思えない細い腕で、
自らの胸郭を引き裂き、開いた。
腐臭にまみれた血と、肉と、脂が、ハロルドに降り注いだ。
皮膚が腹まで裂け、腐りかかった内臓がそこから溢れ、零れた。
放心したハロルドを眼下に、女はなおも自らの体を壊していく。
胸骨を引き剥がす。
固定を解かれた肋骨が、蟲の脚のように、わらわらと蠢いた。
女は、血の色を失った肺腑を、
脈動することなく、下がっているだけの心臓を、
乱暴に掴み、体から引き千切り、路傍に擲った。
腹部からだらしなく垂れ下がった腸を掴み、
それに随従する器官もろともに、
これらもまた引き千切って、ゴミのように棄てた。
体腔になおも体腔に残されていた、子をなす器官を、
腐った肉の色を呈していたそれを、やはり、彼女は掴んで、
体から引き剥がす。
青白い太腿の狭間の、その器官への入口が、
惨たらしく内側に引きずり込まれるように動くのを、
ハロルドは見た。
彼女は、それをもぎ取ると、
握りつぶし、それから、やはり棄てた。
彼女は、人形のような表情のまま、
自らの、空っぽになった体腔を掻きさすり、
そこに残る、肉片の残滓も掻き集め、ハロルドの頭上に垂らした。
ハロルドの鼻腔に、生臭い腐臭が詰め寄せた。
吐き気すら催し、へたりこむハロルドの腕を、彼女は掴んだ。
女性の細腕では、ありえない力だった。
ハロルドは、筋繊維が潰されていくのを感じ、悲鳴をあげた。
だが、その声に応える者は、誰もいなかった。
彼女は、片腕で、へたり込んだハロルドを軽々と引き起こした。
彼女の、蟲の脚ように蠢く肋骨が、
ハロルドの体を捕らえる。
彼女は、恐ろしい力で、ハロルドを抱きしめた。
ハロルドの体は、空っぽになった彼女の体腔に、埋め込まれるようになった。
彼女は、その姿のまま、ハロルドを引き摺って歩き出した。
「やめてくれ、殺さないでくれ」
ハロルドは、ようやく、弱々しいながらも、
意味のある声を出した。
それを聞き届けたのか、彼女の顔が、ハロルドを見下ろした。
顔が、嘲るような笑みに歪んだ。
「・・・・・・私も、そう、言ったのに」
彼女の唇が、そう語った。
ハロルドはもがき、必死に抜け出そうとしたが、
彼女の力はますます増して彼を締め上げ、
引き摺っていった。
彼女は、ハロルドを抱えたまま、十三番通りに連結する二十四番道路に出た。
人影も車影も、ほとんどないその道路を、
煌々とライトを照らしつつ、トレーラーが爆走してくる。
ハロルドは、声にもならない叫びをあげた。
その耳を、渇いた嗤いが犯した。
それが、ハロルドの感じた、最期だった。
(了)