リンコとケンカしたとき、仲直りの場所はいつもきまっていた。
彼も人のことは言えないが、リンコも大概我の強い奴で、お互い何度も衝突を繰り返しては妥協点を見つけるに至ってきた。
もっとも、先に折れるのは大抵彼のほうだったが。
河原の土手に、制服の上からぶかぶかの黒いセーターを着た女が座り込んでいる。
「なに黄昏てんだ」
呼びかけたリンコは経一を振り返る。
「…いいの、こんなトコで油売ってて。文化祭まで近いんでしょ」
リンコは抑揚のない平たんな声を出す。
…俺と話すこともないってか。
彼は頭をボリボリと掻いて思わずため息をついた。
彼女に抱きかかえられたスケッチブックには
川のせせらぎと、雲の流れと、臨場感あふれる鴉の羽ばたきが活き活きと写されている。
「オイ、この木は枯れてないぜ」
むこう岸の大木は、紅葉を身にまとってそびえている。
だが彼女の手元の絵では、寂しそうに葉を枯らしていた。
「…こういう風景なら、紅葉が主役じゃないのか」
彼女は答えずに、ただ黙々と黒鉛を塗りたくっている。
余計な口出しだ。
それでも経一は未練がましく聞かずにはいられなかった。なぜ紅葉を枯らしたのか。
その答えを彼はもう長いこと模索してきた。
今日の放課後、数時間前の事だ、教室で彼女とその他の女子とで大喧嘩があった。
そういう悶着とはゆかりの深いリーコだから、いつもはこんな差し出がましい真似はしないのだが。
今日の彼女はいつもとは様子が違っていた。
「サッカーの試合、近いんだろ。部活行かないでいいのかよ」
彼は言った。
リンコは、沈黙を守ったまま、手元にあった小石を拾うと、川へ向かって勢いよく投げる。
波紋は、ゆっくり広がって、その形を崩していく。
「裏路地の絵、あれ」
不意に、彼女は口を開くと
「いい絵だよ」
ポツリと呟いた。
彼は突然の事に面食らった。
同時に、彼女のいいたいことに気が付いた。
「…ありがとう。よくわかったな」
「わかるよ」
その言葉は、わずかに振れ幅を持っていた。
あの絵は確かに経一の描いたものだったが、迫った文化祭へ出展する際の作者の名義は『佐々木経一』とは違う。
「…経一はそれでいいの」
「なにがだ」
「自分の絵だろ。なんで人に盗られて何もしないんだよ」
「そんなことしても、誰も喜ばないからだよ」
リンコはなぜか経一の絵を手放しに評価した。
昔からだ。
小学生の時から、彼がコンクールへ出品する気がないことも、小学生の時から散々咎められてきた。
良くも悪くも彼女の心は向こう側が見えるほど透明なのだ。
損得なんて関係ない。
許せないことは許せないし、気に入らないことはやらない。
「経一は、…狡いよね。私はいつも経一に助けてもらってるのに、経一は全部自分でしょい込んじゃう」
リンコは遠くを見据えて、その横顔は今まで見たこともないような物悲しさを秘めていた。
「俺がいつお前を助けたよ」
リンコは彼に向き直った。
経一は続けた。
「お前は強いよな。一人でなんでもできるし何にでも立ち向かえる。
だけど、食って掛かるのは自分にかかわることだけにしろ。これは俺の問題だぜ」
リンコは驚いたように眉をしかめて、何か言おうと口を開き、すぐに閉ざされた。
「ほら、ンなことに悩んでねえで、早く部活行けよ。お前が部長なんだろう」
しばしの沈黙の後、彼女はキャンパスを畳むと不意に立ち上がった。
経一は凜子を仰ぎ見た。
彼女の瞳が彼を映している。
程なくして、彼女は背を向けずんずんと歩き去ってしまった。
その時の彼女の瞳。
これまで何度も見たことがあった。
あの納得のいかない表情。
彼女は、彼岸へ歩き出した。
いや、そうではなく、俺が歩き出したのかも知れなかった。
凜子には絵の才能がある。
小学生のころ、凜子が絵を描くようになったきっかけは、経一の絵だった。
経一は、子供にしては見たものを書き写す精度は高かったようで、度々賞などを得て、同級生からは神童などと揶揄されることもあった。
言われるままに自分が神童だとは思わなかったが、経一も褒められて悪い気はしなかった。
中でも、経一の絵をいたく評価していた凜子は、或る日彼に絵の描き方を教わりたいと言い出したのだ。
凜子は、経一とは対照的に描く対象をこれでもかというほど改変した。
そういうことは正しくと写せるようになってからにしろ、という彼の言葉も聞かず、こっちのほうがいいよ、と言っては雪の中にヒマワリが咲いていたり。
上達するにつれてそれはさらに顕著になっていき、そして経一は才能というものを知った。
経一は彼女の絵に感動してしまった。
俺には到底描けないだろうなぁ、とも思った。
この満たされない感情はなんだろう。
嫉妬ではない。恋い焦がれるような思いだ。
以来、彼が絵を描くとき、いつもリンコの絵が脳裏に浮かんで、彼は自分の絵に嫌気がさす。
俺の絵とはなんだ。
俺の絵は空っぽだ。誰の絵でもない。
佐々木経一が書いたには違いないが、作者の欄は空欄だ。
そこに誰の名前が書かれようと、俺の知ったことではない。
我が校の美術部の顧問は、文化祭に際して毎年お気に入りの生徒に自分名義の作品を作らせた。
彼女はその世界には割と名の知れた教師らしく、彼女の機嫌を損ねることはあまり得策ではなく、毎年必ず誰か犠牲になるらしい。そう先輩は口にしていた。
今年はたまたまその標的がリンコだった。
サッカー部とを兼部する彼女だが、一年時に一枚大きな絵を描いている。
誰が言ったわけでもないが、どう考えてもそうだろう。
仮にも彼女は美術教師だ。素人でもリンコの絵が突出していることはわかる。
経一は、押し入れの奥底で何年も眠っていた古びた水彩画を引っ張り出した。
俺が描いた最後の作品。
久しぶりに対面したそいつは、至らないところが目に余って、彼は見ていられなかった。
経一はリンコの絵の代替としては心もとないと思ったが、結果的にはうまくいった。
初め、もともと幽霊部員の面識もない彼が絵を持ってきたことに、その美術教師は非常に胡散臭そうに経一をねめ回した。
しかし、こと絵に関しては意外にも好印象だったらしく、彼は心にもない世辞を浴びせて、なんとか彼女から目的の言葉を引き出したのであった。
河川敷でリンコと別れた後、彼の心配をよそに涼しい顔をしてリンコは学校へ復帰した。
懸念していたクラスメートとの関係も、あの湿った険悪なムードはどこへやらずいぶん湿気のない爽やかな教室が続いていた。
彼女が絡む人間関係の大半は尾を引かないのである。
だが、あくまで大半だ。
あの日以来彼女とは言葉を交わすどころか、目線さえかわしていなかった。
「水橋先輩の様子って、どゆこと?」
机に向かっている由香はこちらを見もせず、ペンを走らせながら言う。
一週間が経過したところで、ついにリンコの沈黙に耐えきれなくなった経一は
…かなり情けない話だが、幸いリンコと同じサッカー部に属していた妹に助けを請うた。
「まあ、大したことじゃないんだよ。いつも通りならいいんだけど」
なるべく平静を装ってぼやかす。あまり内情は知られたくなかった。
妹の部屋は相変わらず殺風景で、壁一面が本棚で埋まっている。
その中に、申し訳程度にサッカーボールが一個棚に飾られていた。
あれは中学時代、リンコ率いる女子サッカー部が関東大会出場を決めた際に賞品として得たものだった。
本来なら部長の彼女がもらうべきところなのだろうが、なぜか妹が持って帰ってきたのである。
そういえば確か、あの日だけは、普段はクールというか、ダウナーな由香も顔をほころばせていた。
「喧嘩でもしたの」
「喧嘩だったら、楽なんだがなぁ」
「…?よくわかんないけど、顧問は最近水橋先輩の攻めが積極的になったって喜んでたよ」
「攻め?」
「強いよ、すごく」
腕を組んで彼は考える。
そうは言われても、リンコが積極的なサッカーをするのを、うまくイメージできなかった。
「…そっか、ありがとう。悪かったな、邪魔して」
「でもさ、私は」
礼を言って扉から半身を乗り出した時、由香が机に向かいながら言うのを聞いた。
「うん?」
「なんだか、浮世離れしてる風な、前のほうが好きだったんだ」
彼女は彼に言うというよりは、思い出すように宙を見上げ、独り呟くような遠い口調だった。
―――俺もだよ
経一は声にすることなく静かに部屋を去った。
彼女のサッカーは、美しい。
ただ現実は、美しいだけでは勝てない。
上位に行くほど、
審判をだますような行為さえ勝利のためならば正当化される。
そういう血走ったプレーが求められる世界だ。
つまり、ようやくリンコは、そういう現実を見るようになったのかもしれない、ということだ。
これまで以上に彼女は強くなるだろう。
そのきかっけは紛れもなく俺が作ったのだ。それがひどく罪深いことに思えた。それがひどく無性に悲しかった。