【エピローグ】 −いっしょに暮らそう−  
 
『食糧も、家財道具も全て捨てなさい。早く』  
『でも、これではルルカが戻ってきたときに……。  
 あの娘はまだ何も知らないもの」  
『追っ手に手掛かりを与えてはならない。  
 ここにどれだけの獺が住んでいて、どんな生活をしていたか。  
 娘を助けたいのなら──』  
 
 獺族の集落は騒然としていた。家屋から家屋へ張り巡らされた鳴子の音が響く。その音は、異種族  
の耳には枝が風に打ち鳴らされるような音にしか聞こえないだろう。しかし、獺族にとっては非常事  
態を告げるものだ。  
 獺狩りの部隊が近付いている──。  
 どうしてこんなに接近されるまで気付かなかったのか、悔やんだところでもう遅かった。季節が獺  
狩りの行われる時期と大きく外れていることもあるが、この土地へ移ってからの長い期間、異種族の  
姿を見掛けることが無かった。獺狩りが行われる周期が間延びしているように思っていたことも慢心  
に繋がったのか。いずれにせよ、事態は急を告げていた。これまでにない恐怖と焦りが獺族の隠れ里  
を包んでいた。見張りの者が、二つの獺狩りの隊が同時に別の方角から現れたことを伝えたからだ。  
 樹上に張り巡らされていた網を結ぶ紐が切られると、溜めてあった大量の落ち葉が、家屋の屋根に  
降り注ぎ、住居の形を覆い隠す。それぞれの家の中央にある大きな井戸の蓋が開けられた。それは集  
落が出来上がった後に長い時間をかけて掘られた、地下水脈に直結する深い穴だ。ここに落とした物  
は深く地の底へ吸い込まれ、二度と戻ってくることはない。  
 ルルカの父は家の中にあるものを片っ端から井戸へ放り込んだ。布に包まれた折れた獺槍も投げ込  
まれた。残っているのは、母獺が大事に抱えている──ルルカが置いていった飾り布だけだ。  
『それも早く捨てなさい』  
『これは、ルルカが帰ってきたら……』  
 父獺はふぅーっと溜息をついた。  
『分かった。ただ、そうして持っていていいのは逃げる直前までだよ』  
 父獺は、鳴子を使って合図を送る。  
『皆に順に逃げるよう伝えた。男女一組ずつ、時間差を付ける。  
 私たちが最後だ』  
 母獺は『えっ』と思わず口にする。それが獺族の掟だと思い出してはみるが、現実に直面するとや  
はり動揺を隠せない。  
『私たちはもう子を産み、育てた。だから、彼らには譲らねばならんのだ。  
 命を繋ぐため、誰かが犠牲になる。  
 獺族はずっとこうしてきたのだから』  
『でも、あなたは──』  
『ルルカも助かるかどうか分からない。  
 少しでも可能性を残すのが私たちにできることだ。  
 だから生活の跡を全て消さねばならん。分かったね?』  
 母獺は夫の言葉に頷いた。  
 飾り布を捨てなさい、と父獺は最後にもう一度念を押した。他の獺たちが逃げ切ったことを確認し  
て、彼は妻に北東へ逃げるように言った。南北から迫る獺狩りの隊に対し、直角に逃げないのは、自  
分たちが囮になるためだということを母獺は悟った。  
『私はまだ少しすることがある。先に逃げなさい』  
 ルルカの父は、そう言って建物の奥へ姿を消した。  
 
 母獺は一人、森の中を逃げる。  
 北東へ、真っ直ぐ──。  
 その方角へ歩を進めると、ほどなくして森を抜ける。丘陵を覆う草の斜面を前にして、母獺はぶるっ  
と身を震わせた。ここから先は身を隠せる樹木などは無い。音を立てぬよう、ゆっくりと草を掻き分  
けて進まなければならない。  
 母獺は二本の足で立ち上がって歩いていた。草の丈はぎりぎりで獺の頭を隠すほどの高さはあるが、  
来た道から追われれば、坂の上から丸見えになるだろう。それでも四つ足になって姿勢を低くするこ  
とはできなかった。彼女の両腕には、ルルカの飾り布がしっかりと抱えられていたからだ。  
 母獺自身も、自分の飾り布を纏ったままだ。囮になるのなら、他の者より自分は目立つ姿でなけれ  
ばならない。夫は覚悟を決めている。自分も倣わなければならない。しかし、助からないと心の片隅  
では確信しているのに、生き延びて手渡すために、ルルカの飾り布を持って逃げることは矛盾してい  
た。  
(だって、捨てられない……。  
 捨てたら二度とあの娘に会えなくなる気がするの。  
 でも、いずれにしても会えない……、私は……、ああ……)  
 母獺は混乱していた。近くで起きた物音に驚き、思わず駆け出す。周囲でガサガサと音がする度、  
母獺は逃れるように向きを変えて走った。きっと空耳に違いないと思った。飾り布を抱えていては耳  
を塞ぐこともできない。物音は、複数の足が草を踏み分けるザクザクという激しい音に変わる。  
 目の前が開けた。母獺は草むらを飛び出し、身を隠すものもない広場に追い出されていた。大きな  
馬の背に跨った獅子の頭を持つ男に睨まれ、母獺は立ち竦む。すぐに周囲を異種族の男たちが囲んだ。  
 
 ついに捕まってしまった。獺狩りに──。  
 細身の男たちに交じって、一人だけ見上げるほどの巨体の持ち主が居た。その男が、手に持った銀  
色の槍の先端を母獺に突き付ける。  
『裸になれ』  
 震え上がると同時に、その男の口から発せられた言葉に驚く。  
『獺語を──?』  
『クズリ族だ。獺どもは忘れてしまったか?  
 通訳ができるのは俺たちだけだってことを』  
『知らなかった……』  
 異種族に獺語を扱える者が居ることは何の救いにもならない。運命は変えようがないのだと、ルルカ  
の母は知った。  
 喉元に突き付けられているのは、あの獺槍だ。母獺は命ぜられるままに服を脱いだ。  
 美しい乳房が露わになると、周囲から「おおっ」とどよめきの声が上がった。薄灰色の産毛に包ま  
れた乳房の頂点で、桃色の乳首が恐怖から来る緊張で固く尖っている。  
『足を少し開いて立つんだ。手は背中に回すようにして胸を突き出せ。  
 尾は目一杯上げるんだ。恥ずかしい穴が全て見えるようにな』  
 母獺は着衣を全て脱ぎ捨てると、クズリ族の男の指示に素直に従った。視線を身に受けながら取る  
ポーズが、獺にどれほどの屈辱を与えるか、取り囲む男たちはよく知っている。尾をしっかり地面に  
着けなければ二足では体をうまく支えられない獺にとって、その不安定な立ち姿は抵抗する気力も、  
尊厳も奪ってしまうものだ。  
『小便をするんだ。大きいほうも溜まっているのなら出しておけ。  
 槍の上に掲げてからぶち撒けられてはたまらんからな』  
『そんな……、ああっ!』  
 槍の先が、母獺の右の乳房を刺していた。針のように細く研ぎ澄まされたその槍の先端は、何の抵  
抗もなく皮膚を突き破り、激痛を与える。どうせ殺されるからと覚悟を決めることはできなかった。  
痛みと恐怖に屈したルルカの母は、肛門と性器を晒したそのままの姿で排泄を始めた。  
(ああ……)  
 見られてしまった。胸を突き出し、乳房を小さく震わせながら、全裸で排尿する姿。慎ましい女性  
器も肛門を露わにして人目を憚らず排泄する。これではまるで獣と同じだ。  
 
「きれいなもんだな、獺の性器ってやつは」  
「肛門も小さな花みたいだ」  
 男たちが母獺を取り囲み、遠慮なく小突き始めた。  
「殺す前に犯してやるか」  
「体の大きさが違う。入らないだろう」  
「シエドラって街では牝獺を交尾用に馴らしてるっていうぜ」  
 牝獺の乳房から流れる血に興奮してか、男たちは目をぎらぎらさせている。ざらざらした猫科の舌  
で血を舐め、獺を怯えさせる者もいる。  
(やれやれ……)  
 クズリ族の男は、後ろで馬に跨ったままの獅子族の男を振り返る。  
(このまま好きにさせるのかい?)  
 獅子族の男が指揮を取る今回の獺狩りの部隊を構成するのは、彼と自分を除いては豹族の男ばかり  
だ。こういうときは歯止めがかからない。獲物を弄ぶ猫科狩猟獣を祖先に持つ者の血がそうさせるの  
か。獅子族の隊長は公正な男と聞いていたが、それを制止しようとはしなかった。  
 再び、憐れな牝獺に目を向ける。  
(こいつがどんな殺され方をしようが、知ったことじゃないが……。  
 いや、俺は……)  
 獺たちを無駄に苦しめる行為に加担することはもちろん、看過することにもいい加減、うんざりし  
ていた。しかし、クズリ族の立場では彼らに意見することもできない。  
 この美しい毛並の小柄な可愛らしい種族が本当に悪魔のような行いをしたのだろうか。クズリ族の  
男は獺狩りに同行し、獺たちが何度も庇い合う様子を見てきた。潔さと強い絆を感じさせる彼らの行  
動。抵抗しないという信念。この世界に暮らす全ての種族が合意の下、獺族を滅ぼそうとしている。  
それは本当に正しいことだと言えるのか。  
 
「小さなお○○こだな」  
「広げりゃなんとか入るか?」  
 男の一人が牝獺の性器を指で開いて、桃色の粘膜を曝け出す。ルルカを産んだとはいえ、まだ若い  
母獺の性器は瑞々しく、慎ましい形状の小さな口を開いて見る者を感心させる。美しいとも思えるそ  
の様相は、とても出産を経験しているようには見えない。  
 男はその部分を広げておいて、人差し指を立てると膣へ一気に捻じ込んだ。悲鳴を上げて身を捩る  
牝獺の体を押えようと、別の男が後ろから乳房を鷲掴みにする。  
「何をやってるんだ」  
 さすがに見かねたクズリ族の男が声をかける。思わず牝獺に向けて槍を構えてしまう。いっそ楽に  
してやった方が──。  
 牝獺の怯えた目が槍の先端にそっと向けられるのを見て、男は躊躇する。この場で槍に突き刺せば、  
街へ連れ帰るまでの数日のうちに死んでしまうかもしれない。獺狩りの隊長である獅子族の男は、ま  
ず生け捕りにしろと言うだろう。  
「いいだろ、どうせ殺してしまうんだ」  
 豹族の男たちは、クズリ族を見下すような視線を向ける。図体ばかり大きいくせに、他種族へ媚び  
へつらうだけの連中であると、彼らは思っているのだ。  
 クズリ族の男は、そんな彼らの態度には慣れ切っていた。それより、男たちの言葉に反応するかの  
ように、槍の先を向けられるより激しく怯えた表情を見せる牝獺の反応を訝しく思う。  
(この牝……、まさか?)  
 
「待て」  
 獅子族の男が、ようやく口を開いた。しかし、豹の男たちの行為を見かねてのことではない。  
「西へ向かわせた連中が戻ってきた」  
 ガサガサと音を立て、草むらから数人の豹族の男たちが姿を現す。先頭の男が手にぶら下げて掲げ  
る、獺の姿──、汚れた衣服、ぐったりとして生気もなく、ボロ切れのようになって揺られるその姿  
を見て、母獺は悲鳴を上げた。  
 夫だ──。  
 
「馬はどうした?」  
「こいつが飛び出してきたんだ。この獺の腹を馬が踏んで転倒した。  
 馬は骨折して、安楽死させるのに手間取った」  
 広場に居た男たちは落胆の溜息を漏らす。馬を失っては帰りの道のりで自分たちが荷を運ばなけれ  
ばならないからだ。  
「獺は普通、抵抗しないものだろう?  
 いったい、何故──」  
 母獺には、その理由が分かっていた。  
 夫は──、後から逃げると言いながら、自分とは全く別の方角へ、ルルカがキイチゴを摘みに行っ  
た山の方へ向かったのだ。獺狩りの隊がルルカの居る方角へ向かうのに気付いた夫は、先回りをして、  
彼らの駆る馬の前に身を投げ出した。ルルカを守るために。そして、仲間たちがなるべく遠くへ逃げ  
られるよう、時間を稼ぐために──。  
 
「服を脱がせろ」  
「牡じゃなあ、あまり乗り気がしないな」  
「俺は嫌だよ。腹が裂けて中身が飛び出してるんじゃないか」  
「服に血が滲んでないから大丈夫だろう。ただ、虫の息であることに変わりない」  
 ルルカの父の衣服が剥ぎ取られ、地面に投げ出された。ごろりと体が回転して仰向けになる。男が  
言うように父獺に外傷はなかったが、意識も完全に失っている。遠目にはほとんど息をしていないよ  
うに見えた。  
 
(こいつら、夫婦だな。そしてあれは──)  
 牡の獺を見た牝獺の様子から、クズリ族の男は見当を付ける。そして、おかしなことに気付いてし  
まった。飾り布が二つある。牝獺が脱ぎ捨てた衣装は、一人分とは思えない。獺族の女性だけが身に  
着ける、綺麗な薄い布の束が二つ、あるのだ。  
(……娘が、いるのか?)  
 彼にも分かる。牡獺が、暴力に対し抵抗しないことを信条とする獺族にあるまじき行動を起こした  
意味。身を投げ打ってまで守ろうとしたものの存在が。  
 彼の想像通り、目の前に居る牝獺が公用語を理解しているなら、聞き取れるだけでなく公用語を話  
せるのだとしたら、まずいことになる。  
(彼女を待つのは尋問、いや、死より辛い拷問か──)  
 どうする?  
 獺族をあからさまに庇うことはできないが、なんとか犠牲をこの二頭の獺だけに止まらせてやりた  
い。そんな温情がクズリの男の中に沸き起こる。しかし、その想いは、獅子族の男の言葉によって断  
ち切られるのだ。  
 
「それは、何だ?  
 その布は獺の牝だけが身に着けるものだろう。  
 何故、二つあるんだ?」  
 獅子族の隊長は、クズリの男に牝獺を問い質すよう命じた。クズリがそのままの言葉を獺語に置き  
換えて伝えたが、母獺は小さく首を横に振るばかりだ。  
 
「何度聞いても答えるとは思えませんぜ?」  
 たとえ激しく痛めつけたとしても、と獅子族の男に告げるが、彼は追及の手を緩める気はなさそう  
だった。獺に仲間が居るのだとしたら、まだそう遠くへは逃げていないと考えているのだ。この隊が  
携える四本の槍すべてに獺の血を吸わせなければ気が済まないのか。  
「仲間がいるのか?」  
 獅子の男は、牝獺を真っ直ぐに見詰め、呟くように言った。鋭い視線に射竦められ、牝獺がぶるっ  
と身を震わせるのを見て、クズリは慌てて通訳する。  
『他に仲間が居るのか、聞いている』  
(何をやっているんだ。俺が通訳をするまで堪えろ。  
 お前が公用語を聞き取れることがばれてしまうぞ)  
 間抜けな豹族どもだけなら誤魔化し切れたかもしれないが、この大きな鬣の獅子族の隊長は、恐ろ  
しく勘のいい男のようだ。既にこの牝獺の秘密に気付いているのかもしれない。  
「その布……、娘がいるんじゃないのか?」  
 獅子の男は、あえて牝獺に直接語りかけるように言葉を発した。  
 
 母獺は窮地に追い込まれたことを悟っていた。公用語を話せるという秘密を隠し通すと心に決めた  
わけではない彼女は、耳に入る言葉から生じる心象を直ぐに態度に表してしまう。  
 異種族の交わす言葉を理解できるということ、それはこんなにも恐ろしいことだったのか。  
(私は、ルルカにも過酷な運命を背負わせてしまったのかもしれない……)  
 母獺はまた、夫の言いつけを守らなかったことを後悔していた。どうして言われた通り、ルルカの  
飾り布を捨てて来なかったのか。自分の迂闊な行いのために、夫の命を賭した覚悟を無駄にしてしまっ  
た。異種族の者たちに娘の存在が知られたら──、彼らは執拗に娘を追うだろう。キイチゴの籠を抱  
えて大喜びで戻ってくるルルカの姿が目に浮かんだ。何も知らない娘はあっとい間に捕まってしまう  
だろう。  
(私がルルカを守らなければならなかった。  
 逃げ切れる可能性より、捕まることを考えなければならなかったのに……)  
 
『ほら、答えろってんだ』  
 クズリの男は大げさに槍を振りかざして見せる。しかし、このままでは埒が明かない。猫科の種族  
は執拗だ。いずれは真実が暴かれてしまうだろう。牝獺は殺されない程度に体を切り刻まれ、激しい  
後悔に苛まれ、悲嘆に暮れながら、娘の居場所を吐いてしまうだろう。  
(何故、俺は必死にこいつらを庇おうとしているんだ……?)  
 いつの間にか、獺族に対して親身になっている自分がおかしくなる。どうあがいたところで、少な  
くとも、この牝獺は殺されるんだ──。そう考えた瞬間、クズリ族の男は、この牝獺が守ろうとして  
いる者の存在を隠し通す方法を思い付いてしまった。  
 
 それはこの母獺に、恐ろしく過酷な試練を与えるものだった。  
 
 
−/−/−/−/−/−/−/−/−  
「それじゃあ、服を脱いでこっちに上がって」  
 狐族の女性がルルカに声をかけ、大きな布を手渡す。白いシーツに包まれた幅の広い平らなベッド  
の上で、彼女は上半身裸で、腰に布を巻き付けている。ルルカにも同じ姿になるように言っているの  
だ。  
「うん、カリン」  
 カリンというのが、この狐族の女性の名前だった。洪水の後、何度も会っている。今ではすっかり  
気の許せる相手だ。  
 体にぴったりとついた獺族の衣装をゆっくり肩からお腹のあたりまで下ろす。ルルカは懐かしい気  
持ちになった。小さかった頃の自分を抱いていた母が、こんな風におっぱいが外に出る服を着ていた  
ような気がする。あれは子育て用の衣装だったのかもしれない。  
 カリンから受け取った布を腰に巻き、衣装から足と尾を抜いて脱ぎ去った。女性同士、裸になるの  
は恥ずかしくはないが、下腹部の焼き印の痕を見られるのだけはやはり気後れする。ルルカはベッド  
に上がり、カリンと向き合った。  
「獺の体って、本当にきれいで可愛いのね」  
「ありがとう。あなたの毛並も美しくって、羨ましいよ」  
 こうして話ができるようになって本当に良かった、とカリンは言った。ルルカを見詰める彼女の視  
線は、親しみを感じさせるものだ。優しく微笑む彼女につられ、ルルカもにっこりと笑う。  
「それはまだ外せないの?」  
 カリンはルルカの乳房の上を押さえ付けるように嵌められた銀色の環を指差す。  
「加工できる職人を他所の国から連れてくるんだって。  
 獺族には金属を扱う技術は引き継がれているけれど、  
 実際に加工をするには熟練した腕の持ち主でないと危険だ、って」  
「そう……」  
 カリンに手招きされ、ルルカは彼女にさらに身を寄せる。  
「見てもいいかな」  
「うん……」  
 カリンはルルカに仰向けに寝そべるように促した。腰に巻かれた布の裾がそっと捲り上げられる。  
ルルカのつるんとした股間が露わになる。  
「本当にごめんなさい。私の言葉であなたがどれだけ悲しい思いをしたか。  
 考えれば分かったのに。あなたが望んであんな姿になったんじゃないってこと……」  
「もういいの。今はこんなふうだから」  
 ルルカも自分の股間を覗き込む。そこにあるのは、赤く腫れ上がり、淫らな粘液を垂れ流すだらし  
なく開いた膣口ではなく、シエドラに連れてこられたばかりの頃と変わらない、滑らかな毛皮の隙間  
にそっと覗く慎ましい桃色の陰裂だ。  
(二度と元には戻らないと思っていたのに……)  
 信じられないほどの変化だった。今は発情の疼きもほとんど無い。体は完全に以前のままに戻った  
わけではなく、日に何度も水に浸かって体を冷やさなければ、ほんの半日ほどでまた発情してしまう。  
それが狼族の精を体の奥に受けた牝獺の宿命ではあったが、多少の制約があるとはいえ、普通に生活  
が送れるようになった。そのことは驚きであり、喜びでもある。  
「本当によかった」とカリンは涙ぐむ。彼女が親身になってくれていることが、ルルカには堪らなく  
嬉しい。  
 
「あなたのも、見せてもらえる……かな?」  
「もちろん。そのために来たんでしょう?」  
 カリンはすらりと長い狐族の足を開いて、布で隠していた部分がルルカに見えるようにした。狐族  
の女性器にルルカはそっと手を伸ばす。体の大きさに比例してルルカのものよりも大きなその桃色の  
肉の裂け目は、純白の毛皮に包まれ、慎ましい表情を覗かせている。指をそっと当てると、まだ少し  
赤みが残っている桃色の粘膜が口を開く。  
「きれい……」  
 その形容は適切ではないような気もした。男が見れば劣情を催すような艶めかしい形でもある。た  
だ、数日前に見た彼女のその部分の様相とは、まるで別物であることに感嘆するルルカの頭に浮かん  
だ言葉がそれだ。  
 ルルカはそこがどのような役割の器官であるか、もう充分すぎるほどに知っている。だから、大き  
な仕事を終え、何事もなかったかのような姿を取り戻した彼女の「女の子の大事なところ」を美しい  
と思ったのだ。  
 
 今、ルルカたちが居るのは狐族の産院の一室だ。  
 ルルカが洪水からカリンを助けたときには、彼女は出産を一か月後に控えた体だった。お腹の中で  
大きくなるまで子供を育てる草食の種族と違い、狐族は赤子が比較的未熟な状態で出産する。だから、  
予定日が近付いた頃になってようやくお腹の大きさが目立つようになった。  
 狐族は血縁者の女性だけがお産に付き合う慣習を持っていたが、たっての願いでルルカはその場に  
居合わせることを許された。  
 産院のベッドに仰向けに寝た裸のカリンは上半身をシーツに覆われ、下半身を産まれたままの姿に  
曝け出していた。出産を控えたカリンの性器は赤くなって大きく腫れ上がっていた。広場に繋がれて  
いた頃のルルカの性器のように蜜を溢れさせてはいないが、見た目にはとても痛々しい。  
 ルルカが部屋に招き入れられたときにはすでに陣痛が始まっており、カリンはベッドに水平に渡さ  
れた体を固定する棒にしがみつき、身を捩って呻いていた。狐族は安産だと聞いていたが、カリンの  
興奮は激しく、ルルカは息を呑む。  
「もう、産まれますよ」  
 産道が口を開く。真っ赤な粘膜の中心に黒い円が広がり、奥から白い膜に包まれた塊が押し出され  
てくる。カリンに付き添う女性の手が産道から飛び出したその塊を受け止め、膜をそっと裂く。羊水  
が噴き出し、シーツに広がっていく。膜の中から、全身がまっ黒の狐族の赤子が姿を現した。  
 腹部から伸びる紐は、母狐の産道に吸い込まれており、それが母と子の命を繋いでいたものだと  
ルルカにも分かった。臍の緒は女性の手で切られ、傷口が糸で縛られる。女性は濡れた布で子狐の体  
を丁寧に拭いてやり、鼻の穴に溜まっている羊水をそっと口で吸い取る。  
 子狐が、キュウっという産声を上げた。  
 
 ルルカは溜めていた息を吐く。思わず握り締めていた手のひらが痛い。  
(これが新しい命の誕生の瞬間なんだ──)  
 
「予定ではもう一人、産まれるんですが……」  
 お産を手伝っていた女性が、ルルカに言った。  
「狐族の女性は出産のとき、気が立って我を忘れたりするものです。  
 こうして異種族の者を出産に立ち会わせるなど、異例のことなんですよ。  
 カリンはあなたのことを思って、正気を保とうと頑張ったと思います。  
 でも、そろそろ限界。落ち着かせてあげないと」  
 この時点で、ルルカは産室を立ち去らねばならなかった。  
「ごめんなさい。ありがとうってカリンに伝えて。  
 それと、あなたにも。ありがとう」  
「あなたも、いつか可愛い赤ちゃんが産めると思うわ」  
「え……、うん……」  
 このカリンの付き添いの女性は知らないのだ。シエドラの牝獺が子供を産めない体であることを──。  
ルルカはそのことについて、もう嘆くまいと心に決めていた。そのことで誰を責めることもしないと  
自身に誓っていた。  
 数日したらまた来て、と女性は言った。そのときにはカリンと二人きりで会えるから、と。  
 
 ルルカは再び産院を訪れ、こうしてカリンと向かい合っている。  
 カリンの性器は、腫れもすっかり引いて、子供を産み落としたと思えないほど、慎ましく閉じてい  
た。  
「すごいよね、私たちの体って……」  
 ルルカは思わず口にした。  
「そうね、ふふ……」  
 お互いに性器を見せ合っている構図のおかしさに気付いて、思わず笑いが漏れる。  
 
「お乳を与えるところも見て行って」  
「お乳……?」  
「そうか、知らないのね。  
 母親がどうやって子供をお腹を満たしてあげるのか」  
 カリンは自分の乳房に手を当て、二つの指で乳首を挟むようにしながら、そっと押し潰した。乳首  
の先端からクリーム色の液体が滲み出るのを見て、ルルカは驚く。カリンは乳房を手のひらでゆっく  
りと握り、数本の細い糸のような軌跡を描く母乳を繁吹かせる。甘い匂いが部屋に広がった。この匂  
いを、ルルカは知っている。遥か遠い記憶の中にある母の優しい匂い──。  
「生まれたばかりの子はまだ、形のあるものは食べられないの。  
 だからこうして母親が乳を与えるのよ。  
 出産を迎えた母親の体からは、こうしてお乳が出るの」  
 乳の匂いを小さな鼻で捉えたのか、子狐たちが目を覚まし、キュウキュウと鳴き始めた。ベッドの  
傍らに置かれた揺り籠の中で眠っていた子狐の一人を抱え上げる。  
 カリンは小さな黒い毛玉を胸に抱いた。ルルカが初めて見たときより、ひと回り以上大きく育って  
いる。  
 ルルカは自分の乳房に手を当てる。女性の持つその大きな二つの膨らみがどういう意味を持つのか、  
ルルカは今初めて知った。  
(そうか……、私もお母さんにこうやって育ててもらったんだ……。  
 お母さんがここを大事にしなさいって言ってた意味、分かるよ)  
 
 自分の胸元に向けられる真剣なルルカの眼差しを感じて、カリンは子狐をそっと乳房から離すと、  
ルルカに差し出した。  
「あなたが救ってくれた命よ。抱いてあげて。  
 お乳は出ないと思うけど……」  
「いいの?」  
 カリンは頷いて、ルルカに子狐を預けると、自分はもう一人の子狐を抱き上げた。  
「こうやってしっかりお尻を抱えてあげて。  
 手は動かせるようにしてあげるの」  
 ルルカはカリンがするように、見真似で子狐を抱く。真っ黒な体に母親に比べまばらに生えた毛。  
目を閉じた小さく震える可愛らしい毛玉は、見た目よりずっと重く感じられた。それは、命の重さだ。  
 小さな小さな手のひらが、ルルカの乳房を押した。温かい舌の感触。小さな小さな舌がルルカの乳  
首に巻きつくように絡み、柔らかい唇が包む。  
「あ……」  
 キュッキュッと断続的に締め付けるような感触。痛いような、気持ちいいような不思議な感じがす  
る。子狐が、その小さな体から想像できないほどの強い力で、ルルカの乳首を吸っているのだ。その  
心地よい刺激に誘われ、優しい気持ちが胸の奥から溢れ、全身に広がる。  
 涙が、つうっと頬を流れた。  
 
「ルルカ、泣かないで。  
 私、余計なことをしてしまったかしら……」  
「ううん、嬉しいの──」  
 
 長い間知りたかったこと。どうやって命の連鎖が続いていくのか、ルルカはようやくその全てを知っ  
た。  
 そして、子供を産めない体の自分でも、それに手を貸すことならできることを知り、嬉しくなった。  
カリンと出会って、命が誕生する瞬間に立ち会うことができた。シエドラを襲った災厄から、小さな  
命の火を守ることができた。それが誇らしい。自分を頼る小さな命が愛おしい。  
 お乳が出なくてごめんね、とルルカは子狐の頭を撫でた。  
 
 カリンは自分の乳でお腹がいっぱいになった子狐をルルカに渡し、ルルカの乳房に吸い付いていた  
方の子に乳を与え始める。ルルカの腕の中で、子狐は小さな寝息を立て始めた。眠りに落ちた子狐の  
体がほぅっと温かくなるのが感じられる。小さな鼓動が手に伝わる。  
 
 目を閉じて、ルルカは乳房に感じた子狐の口の感触を何度も思い返した。  
 女性の体にある三つの突起が、それぞれ何のためにあるのか、ルルカには分かった気がする。胸に  
ある二つのそれは、母親が我が子の命の存在を感じるため、愛情を傾けるためにある。  
 そして、性器の頂点にある小さな突起は──、おそらくきっと、交尾の際に愛をいっそう強く感じ  
るためにあるのだ。  
 
(ウォレン──)  
 
 ルルカは愛しい狼族の青年の姿を思い浮かべた。  
 獺の水瓶が溢れたあの日、取り巻く群衆の存在も忘れるほど激しく愛し合ったことを思い出す。そ  
れだけで、軽い興奮に包まれた。快楽の先にある強い感覚。ウォレンが与えてくれるもの。ルルカは  
もう一度それを感じてみたいと思った。しかしあれ以来、ウォレンには一度も抱かれていないのだ。  
 牝獺たちは性奴隷の立場から解放された。すぐに彼女たちの体を元通りにする方法が検討され、結  
局、体を冷やすことが一番だという結論になった。シエドラには水が溢れている。洪水の折に流され  
た石畳の多くはそのままにされており、街中に水路が顔を覗かせている。獺たちはいつでも水を浴び  
ることができるようになった。  
 体が元通りになる喜びを一度知ると、他の獺がそうであるように、再び発情してしまうことをルルカ  
も恐れるようになる。  
 牝獺たちには全員、仕事が与えられた。迫害され逃げ続けていた獺族は小さな集団に分断されなが  
らも、かつて自分たちが持っていた技術や知識を代々口伝により伝えてきていた。獺たちの持つ知識  
が、驚くべきことに現在のシエドラの生活の水準を遥かに上回るものだと判ると、牝獺たちは引く手  
あまたとなった。クズリ族のジルフとルルカは通訳のために走り回った。老クズリのジルフはまた、  
一日に一度、牝獺を集めて公用語の教室を開き、それをルルカも手伝った。  
 ウォレンの方はと言えば、シエドラ復興の指揮を執るため奔走していた。ときおり、短い時間では  
あるが、顔を合わせることもある。彼はほとんど寝てないのではないかと思う。会うなりいきなり  
「すまない」と言って横になり、ほんのしばらくの間深い眠りに落ちるウォレンの大きな頭を、ルルカ  
は膝の上に乗せ、覆い被さるようにして抱いた。  
 ルルカはウォレンのことが好きで好きで堪らなくなる。ウォレンはきっと我慢している。男の人の  
生理はなんとなく理解できるようになった。本当はルルカと交尾がしたくて仕方ないはずなのだ。分  
かってる。彼はルルカに気を遣って、交尾のことなど頭にない振りを続けているのだ。それも充分、  
分かっている。  
 
(ねえ、あなたが一言、したいと言ってくれたら……、  
 私はいつでも応えられるよ)  
   
 半日、水に浸からないで過ごせばいいのだ。それだけで、自分はまたあの愛しい狼の精を受け入れ  
られる体になる。  
 そのことを自分から言い出さないのは卑怯なのかな、とルルカは思う。  
 
「何か、悩み事でもあるの?」  
「えっ、いや……」  
 表情を曇らせていたルルカの顔を、カリンが覗き込んでいた。  
「私に協力できることがあったら何でも言って。  
 きっとあなたの力になれるから」  
 カリンの言葉で思い出す。そうなのだ。ルルカにはまだ他に心配事がある。こうして獺族は、シエ  
ドラでの生活を始めたとはいえ、それは成り行きによるものだ。ウォレンが言っていた狼族の族長に  
よる審判を、ルルカたちはまだ受けていない。  
 たとえ狼族が認めたとしても、他の国や部族が、獺との共存を拒んだら?  
 そうなったとき、シエドラは彼らの圧力から逃れるため、獺たちの命を差し出してしまうかもしれ  
ない。  
「心配しないで、ルルカ。いざとなったら狐族が黙っていないからね」  
 狐族は賢くて気がよく回る。シエドラに運び込まれる全ての食糧や物資の流通管理を握っているの  
は狐族なのだ。狼族がどんな決定をしようとも、カリンは必ず獺たちを守ると約束してくれた。  
 
 ──そろそろ水を浴びなくては、とルルカは思った。カリンの居る産院を後にして、ルルカは大通  
りを歩いていた。これまで石畳の裏を流れていた用水路が剥き出しにになっており、そこを泳ぐ牝獺  
が、ルルカにこんにちはと声をかける。ルルカもそこに飛び込んで泳げば速く移動できるのに、何故  
だかそうしようという気になれなかった。  
 どこからか獺族が使っていたという植物の繊維が調達され、獺族の衣装が再現された。薄い布はぴっ  
たりと体に吸い付くようで、乾けば暖かく、水中では存在を感じさせないほどに自在に伸び縮みする。  
ルルカもその衣装を身に着けていた。そのまま水に飛び込めば気持ちいいだろうと思う。でも──。  
 
『おーい』と、後ろから声がする。  
 振り向くと、老クズリのジルフがルルカを追い掛けてきていた。  
『お前が歩いていてよかった。水の中ならとても追い付けない』  
 ジルフは足元の水路を指して言った。  
『不思議じゃな、これはまるで獺専用の道のようではないか』  
 不思議なのはジルフの行動も同じだとルルカは思った。彼が息を切らせて走っている姿を初めて見  
た。公用語の教室を始める時間にはまだ早い。何の用だろう?  
『お前たち獺が、公用語を喋りやすくなる方法を調べてきた。  
 だが、残念ながら、今日の教室は休講じゃ。  
 そのことを伝えに来た』  
『何かあったの?』  
『ラムザの近くで、地下に施設が隠されているのが見付かった。  
 地表で陽に温められた水と地下を通る冷たい水を使って動力を得る装置らしい。  
 獺の水車と呼ばれる獺族の遺産じゃ。  
 どうしてそんなものがシエドラの街の下にあるのか……』  
『獺の……?』  
 ジルフはそういった装置について知っている牝獺が居ないか探し回っているのだという。通訳が足  
りないから後で手を貸してほしい、とジルフは言った。  
 
『そうだ、もう一つ伝えることがある。  
 狼族の族長が、お前を呼んでいる──』  
 
 

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