【8】 −獺の血−  
 
 本当に昨日のウォレンはどうかしていた──。  
 ルルカは石畳の上で大の字になって、すっかり暗くなった空を見上げた。街灯の光に邪魔をされ、  
ぼやけてしまっているが、空には無数の星が輝いている。この空も、いつかウォレンが連れて行って  
くれたあの高台から眺めれば、もっときれいに見えるのだろう。また連れて行ってくれないだろうか。  
しかし、ウォレンともう一度言葉を交わすことができたとしても、ルルカから星を見たいと言い出す  
のは気が引ける。  
 確かにウォレンは血を流すほどの怪我を負いながら、ルルカを助けてくれた。獺族とダムのことを  
調べてきてくれた。だが、それはきっと、シエドラの牝獺を目の前にした馴鹿族たちの行動を予測し  
てのことだろう。ルルカを恐ろしい目に遭わせることを承知で"おつとめ"に連れ出したことへの埋め  
合わせだったのではないか、とルルカは思う。それ以外は、いつも通りのウォレンだったではないか。  
 意地悪を言ったり、時間をたっぷりかけて街を連れ回し、恥ずかしい思いをさせたり。いつものよ  
うに四つ足で歩かせて、後ろからお尻の穴や濡れた性器を眺めていたウォレンを思い出し、ルルカは  
口をとがらせた。  
(男の人って、そんなに裸を見たいのかな……)  
 ルルカ自身、自分の体が嫌いではなかった。灰褐色の毛並みも、可愛らしい乳房もそうだ。ただ、  
男たちがわざわざ見たいと思うほど魅力があるものなのかは分からない。美しさで言えば、あのシェ  
ス地区で会った狐族の女性の方がずっと魅力的なのではないかと思う。彼女は決して、人前で裸になっ  
たりはしないだろうけれど。  
 ジエルは、普段は隠されている女性の裸を見ると、男は欲情するのだと言っていた。欲情というの  
はどういう心身の状態なのか、それを向けられる身には何とも想像し難いが、いつも自分を犯す男た  
ちや、ルルカを前にした馴鹿族が見せた興奮のことを指しているのは理解できた。  
(でも、私はいつだって裸だし、おっぱいも、ここも隠すことはできないのに……)  
 ルルカは仰向けになったまま、自分の性器にそっと手を当てた。くちゅっと音がする。二度と止ま  
らない恥ずかしい液体の湧出が今も続いていた。肉の襞が折り重なって花びらのように開き、中央に  
はぽっかりと開いたままの膣口が内側の桃色の粘膜まで覗かせている。  
 男たちに丸出しの性器を見られることには慣れていたのに、ウォレンに見られたときは何故だか恥  
ずかしくなった。ウォレンにだけはこの性器を見られたくないと思った。それはきっと、彼がこんな  
風に醜く歪められる前のルルカの性器を知っているからだ。彼こそがルルカの初めての相手だったの  
だから──。  
 ルルカはウォレンとの交尾を頭に思い浮かべた。お腹の中をいっぱいに満たす大きなペニス。儀式  
のときに感じた激しい痛みはもうぼんやりとしか思い出せないが、自分の性器は、あのときウォレン  
の形に合うように造り変えられてしまったのだと思う。ルルカは目を閉じるだけでウォレンの形をお  
腹の中に感じることができた。それだけ何度も繰り返し、彼と交わってきた。間違いなく、この街で  
一番多くの回数、ルルカが受け入れたのはウォレンだ。憂鬱に感じていたそれも、今ではさほど嫌悪  
するものでもないと思えた。長くて穏やかな狼との交尾は、ルルカにとって安息の時間でもある──。  
 
(え……? ちょっと待って)  
 ウォレンはルルカはすぐには死なないと言った。青服の狼が告げた八か月というルルカの寿命を、  
彼は自信ありげに否定した。もしかすると、それは彼自身、狼との交尾がルルカの体にもたらす効果  
について気付いていたからかもしれない。  
(まさか、ウォレンは私の体を休めるために……?)  
 そんなわけはないよね、とルルカは頭を振った。それは単なる結果論であって、ウォレンも他の皆  
と同じように、ルルカを犯したいだけなのだ。そう。そうに決まってる。  
『だってウォレンはいつも調子のいいこと言って、私をがっかりさせてばかりで……』  
 ルルカはそう小さく呟いて、ふふっと笑う。もう、自分ががっかりすることはないだろう。ウォレン  
が見たいなら、いくらでも恥ずかしい裸を見てくれていい。ウォレンがしたいと思ったら、いつでも  
自分の体を使ってくれればいい。がっかりさせてはいけないのは自分の方だ。ウォレンにはルルカに  
そう要求する資格がある。ウォレンがあの馴鹿族の巨大な角を恐れていたら、きっと自分は今こうし  
て生きてはいまい。  
 言葉でお礼を言うだけでは足りないと思った。どうしたら彼に恩返しができるだろうか。小さな木  
のお椀以外、何も持たない自分に──。  
 交尾を受け入れることが一つの答えかもしれない。もっとも、ルルカが許そうと許すまいと、  
ウォレンが自分の体を好き勝手に使うことはこれまで通りだろう。  
『それじゃあ、恩返しにならないね……』  
 そう呟いたルルカは、股間が妙に疼くのを感じた。いつにも増して息が荒くなる。性器から溢れる  
蜜の量がどんどん増えてくることに気付くと、妙に恥ずかしくなって全身がかあっと熱くなった。  
 ルルカは慌てて水に飛び込む。体を冷やせば、その疼きは少し治まることを、これまでの経験で知っ  
ていた。  
 
 男の人はどうして牝獺を使うんだろう──。  
 水から上がって再び仰向けになったルルカは、その疑問を反芻した。半年前の儀式以来、途切れる  
ことなく体を責め続けられていたルルカは初めて、そのことについてゆっくり考える時間を持ったの  
だ。  
 ルルカはずっと、男たちが獺族を恨んでいるのだと思っていた。常時その体を穢し続けることで罪  
深き種族に反省を促しているのだと思った。だからルルカは獺族が犯した罪の正体を知りたかったの  
だ。自分が受けている罰の重圧と釣り合う理由が無ければ納得できない。  
 その思いは今、揺らいでいる。ジエルは、シエドラの住人が牝獺を使う理由は憎しみではないと言った。  
『可愛い……から?』  
 ウォレンも確か馴鹿族に向かってそんなことを言っていたように思う。ルルカはドキッとする。  
ウォレンのことを考えただけで、何故だか頬が熱くなった。ウォレンの精液がお腹の中に吐き出され  
ている錯覚が生まれる。ルルカはその感覚に身を任せた。そうしていると、何故だか分からないが、  
優しい気持ちになってくる。  
(男の人は、何故、精液を流し込もうとするんだろう?)  
 ルルカは初めてそれを受け入れたとき、体の中に排泄されているのだと思った。精液を小便だと思っ  
て恥辱に悶えた。そのときの印象がルルカの意識を縛っていた。だが、今はどうだろう。自分は  
ウォレンの精液を拒絶するどころか、望んでいる。  
 精液は、女性の体を穢すためのものではない──。  
 そう考えると、合点がいった。きっと、同族の精液を受け入れることで、女性は子宮の中に新しい  
生の結晶を得る──。  
 考えてみたら、当たり前のことなのかもしれない。いや、一度そう思い当たったら、それ以外に無  
いと思えるほど、筋が通っている。  
(そうか……。  
 だから苦しい思いをしても、女の人は男性を受け入れるんだ……?)  
 ──苦しい?  
 確かに、ルルカがいつも強制されている交尾は、小さな体の獺に果てしない苦痛を与えている。だ  
が、街を歩く幸せそうな同じ種族の男女のペアからは、そんな苦悩を感じない。ルルカは、馴鹿族の  
話を聞いたときに同じようなことを考えたのを思い出した。彼らは異種族のパートナーを持つと言う。  
彼らの語るその性生活は、喜びに満ちたもののようだった。  
 一生発情し続ける自分と違って、短い時間のことだから耐えられるのだろうか。そもそも、発情と  
は何なのか。  
 ルルカ自身が、牢の中で自分の性器を刺激していたとき感じた快感の正体は何?  
 ウォレンに撫でてもらったとき気持ちよかったのは何故?  
 ミルカが浮かべていた恍惚の表情の意味は──?  
 
 ルルカははっとして身を起こした。  
(そうか──)  
 ルルカは性行為が本来、快感を伴うものであることに気付いた。これまで交尾に対して嫌悪感しか  
なかったとはいえ、ルルカにも全く理解できないわけではない。  
 それはおそらく女性にも、男性にも、どちらにも感じられるもののはずだ。ルルカは自分を使って  
いるときの男たちの興奮を思い起こした。ルルカに精液を流し込むウォレンが荒い息を吐いていたの  
を思い出した。おしっこをするときの淡い快感はルルカにも想像できる。射精に伴う快感は、おそら  
くそれよりもずっと強いものに違いない。  
(じゃあ、男の人たちは──、ウォレンは、  
 私が牢の中でしていたようなことを、私の体を使ってしているんだね)  
 そう思うと、何だか可笑しくなった。快感を得ようと必死になっていた自分の姿をウォレンに重ね  
た。怖かった、自分よりずっと体の大きな者たちが、急に可愛らしく思えてくる。汚らわしく感じて  
いた精液に対する嫌悪も薄れる。女性の体から染み出る快楽の証でもある液体を、男性は激しい射精  
という形で吐き出しているだけなのかもしれない。  
 
『私……、ウォレンの精液なら、嫌じゃないかも……?』  
 ルルカは気持ちが浮かれてくるのを感じた。交尾が本来、愛情を伴う行為なのであれば、ルルカは  
自分のこの身ひとつでウォレンを喜ばせることができるかもしれない。  
 今度は頬だけでなく、体中が熱くなった。股間が疼いて、また愛液が染み出してくる。ルルカは慌  
ててプールに飛び込んだ。冷たい水の中を何度も宙返りする。  
 おかしい──。体の疼きが止まらない?  
 水から上がっても、性器がぬるぬるしていた。また仰向けになって大きく喘ぐ。ルルカは戸惑った。  
いつも感じている疎ましい発情の疼きとは明らかに違う。これまで噛み合っていなかった心と体が、  
同じものを求めていた。ウォレンと交尾がしたくてたまらない。ウォレンの力強い腕に抱かれたい。  
彼の荒い呼吸と、射精の脈動をこの身に感じたい──。  
 ルルカはこの瞬間になってようやく気付いた。  
 
(そうだ、私はウォレンのことが好きなんだ。  
 好きになってしまったんだ──)  
 
 獺なんかに慕われても、ウォレンにとっては迷惑だろう。それでも、気持ちが抑えられない。今す  
ぐにでもウォレンに会いたい。ルルカは石畳の上で体をくねらせる。足を大きく開いて、片手を股間  
に添えた。指先が陰核に触れ、ルルカはどきっとした。可愛らしく飛び出したそこから、ウォレンに  
触られたときのような、快感の波が生まれた。他の男たちに弄られたときの、神経を擦られるような  
痛みは無い。もう一度触れてみると、先ほどのような強い感覚はもう生まれなかった。それでも、じ  
んわりと気持ちよさが体に広がる。ルルカは夢中になって股間を撫でた。自分の手を、ウォレンの指  
先に見立てていた。  
 ウォレンにここを触ってほしい。ウォレンがここを優しく触ってくれたら──。  
 
 足音を感じて、ルルカははっと体を起こした。  
 尖った長い耳、細く突き出したマズル。一瞬、ウォレンかと思ったが、違った。痩せ型で背丈も狼  
族ほどではない。砂漠のオアシスに住むアンテロープたちと似た砂のような色の毛皮に、布を巻き付  
けたような衣装。彼は胡狼(ジャッカル)族の青年だ。ルルカは彼を知っている。手にぶら下げた大  
きな木の桶──、牝獺の給餌係だ。  
(見られた?)  
 ウォレンを想って自慰に耽っていたルルカは、恥ずかしさに消え入りそうになった。  
 縄の囲いを超えて近付く胡狼の男の姿に、ルルカは慌てて立ち上がり、両手を広げて牝獺の心得の  
ポーズを取った。尻尾を大きく持ち上げると、肛門まで愛液でべとべとになっていた。心臓をどきど  
きさせて俯くルルカの腕を、胡狼族の男が掴んだ。  
 
(えっ?)  
 男は、ふっと笑う。  
「今は隠しててもいいんだぞ」  
 言葉が通じないはずのルルカに理解できるように、彼はその小さな獺の手を手に取り、ルルカに胸  
を覆わせる。  
(えっ? えっ?)  
 頭をポンポンと叩くように撫でる男に、ルルカは反射的に獺語で『ありがとう』と言っていた。  
(ありがとう……。そう、ありがとう……なんだけど……?)  
 突然優しい言葉をかけられてルルカは混乱していた。奴隷の扱いを受けていない自分に戸惑い、そ  
して裸を晒すことが急に恥ずかしくなって体を丸めた。そんな風にしても大丈夫かと不安になりなが  
ら、胸を両手で覆い、尾を腹に巻き込んで股間を隠した。  
 視線から逃れるように後ろを向いたルルカに構わず、胡狼族の男は落ちていたルルカの食器を拾い  
上げ、まだ湯気の出ているスープ状の食べ物をその木の椀に注いで、すぐに立ち去って行った。  
 取り残されたルルカは一度隠した胸と性器から手を離せなくなっていた。そのまま寝転がって天を  
仰ぐ。久し振りに触った自分の乳房──。自分の体なのに、本当に長い間触れていなかったように思  
う。柔らかい。初めてオトナの服を着せてもらったあの日に触れた、母の乳房と同じだった。遠い記  
憶を辿れば、幼い頃に顔を押し付けるようにして抱かれていたことまで思い出す。  
『お母さん、ルルカは立派なオトナの獺になりました……』  
 思わず呟いた。涙が滲んでくる。母に今の体を見てもらいたいと思った。でも、それは叶うはずも  
ないことだ。大事な人にだけ見せるものだと言われた女の子の体──。母の代わりにそれを見てもら  
うとしたら、この先、そう長くは生きられないルルカにとってその相手はウォレンしか居ない。  
 ウォレンは許してくれるだろうか。もし、愛想を尽かされたままだったら……。  
 ルルカは不安に包まれた。ルルカが一方的に想いを寄せるようになっただけで、ウォレンにとって  
ルルカはシエドラに何頭も居る牝獺の一頭に過ぎないのだから。そう思うと、涙が次から次へと溢れ  
てきた。自分が牝獺であることがこんなに悲しいなんて。  
 
 ひとしきり泣いたルルカは、曲げた尾の先で乳房を隠しながら食事の器を手に取った。精液を飲ま  
され続けた胃もすっかり元通りになり、食欲が戻っていた。ルルカは食べ物をゆっくり噛み締めなが  
ら、さっきの青年にもっと真剣にありがとうを言うべきだったと思った。  
(もちろん獺語で、だけど)  
 彼もそうだし、ルルカの体調を診てくれた医者たちも、誰もルルカを蔑んだりしていなかった。そ  
れが何だか嬉しい。  
 食事はいつもよりずっと美味しく感じた。普段は必ず犯されながら食事を摂らねばならないのがシ  
エドラの牝獺の規則だ。ルルカはその食材が混ぜこぜになった獺用の食べ物をゆっくり噛み締めて味  
わった。  
 
 食事を終え、ルルカは食器を手に取って何気なく眺める。木目のきれいな木の器、その椀の糸底の  
円の中に、指先に感じる奇妙な凹凸がある──?  
『え──?』  
 ルルカは驚いて椀を裏返した。広場に繋がれたときに手渡されてから、一度もこんな風に見たこと  
はなかった。  
 そこには、にっこりと微笑んだ獺の顔が彫ってあった。  
 
 それはきっと、この街の誰かが彫ってくれたものだ。切り出した木片を丁寧に磨き、時間をかけて  
小さな獺の顔を彫り込んだのだ。シエドラに囚われた牝獺たちが、せめて寂しい思いをしないように  
──。  
 ルルカの目からまた、光るものがこぼれた。  
 
 
 うとうとしていたルルカの胸の環が引かれた。鎖を誰かが掴んでいる。気付けばルルカを守ってい  
た縄の囲いは取り除かれ、いつものような行列が建物沿いに広場の端まで伸びていた。日付が変わっ  
たのだ。慌てて立ち上がったルルカは、胸と股間を手で押えていた。一度隠したものをまた見せるの  
には勇気が要った。ルルカは恥ずかしさを堪えながら、乳房を突き出し、性器と肛門が同時に見える  
挨拶のポーズを取る。  
 男たちの様子は、まるでこの二日間の出来事が無かったかのように、いつもと変わらない。裸の牝  
獺の体を吊り上げ、乳房と性器を観賞するのは、大きさも精液の量も並ならぬペニスを持つ馬族の男  
だった。ルルカは牡獣の大きな手で頭を石畳に押し付けられ、体を横にした姿勢でいきなり犯された。  
 短い足を片方だけ持ち上げられ、体をくの字に曲げられ、膣の横側を強く擦り上げられる。  
「俺はやっぱお○んこの方が好きだよ」  
「まあな」  
 男はルルカの口を犯した者の中の一人だった。そう、本人を、ではないけれど覚えている。ルルカ  
は色々な種族のペニスを口で咥えることで、自然とその形を記憶に刷り込まれていた。さほど感覚の  
強くない膣の中に、以前は感じなかったペニスの形を感じている。街に居るそれぞれの種族の牡が、  
どんなタイミングでどれだけの量を射精するのかも知ってしまった。だから、お腹の中に吐き出され  
る精液の飛沫も、これまで以上にはっきりと感じた。その匂いや味までもが想像できてしまう。  
 これまでのルルカならその変化を恐ろしいと思っていただろう。恥辱に打ち震え、嗚咽していただ  
ろう。しかし、小さな木の椀に彫られた彫刻が心の支えになった。指先で触れると、そこに可愛らし  
い獺の顔がある。  
(私はもしかして、独りじゃないのかもしれない……。  
 ずっと、独りなんかじゃなかったのかも──)  
 その小さな彫刻は、絢爛な馴鹿族の陶器の装飾とは比べものにならないくらい質素であったけれど、  
これほどルルカの心に沁みるものは無い。  
 それはルルカのたった一つの持ち物であり、宝物だった。  
 男たちも、きっとルルカが憎いわけではない。小さな獺の体から快楽を汲み上げようと必死になっ  
ているだけ。そう思うと、嫌な感じはしなくなった。内臓を押し上げられ、ときには子宮の中まで掻  
き回される肉体への呵責はこれまでと同じものであっても、不思議と苦しさまで我慢できた。  
 
(ウォレン……?)  
 ルルカの使用が再開されてからあっという間に数日が経った。体に触れる爪の感覚が、好きになっ  
た狼族の青年のものだと思って顔を起こしたルルカの前に居たのは、あの胡狼族の給餌係だった。  
(えっ? 珍しい……よね)  
 犬科の牡は、牝獺の使用時間が長くなるため、行列のできるところへは来ないものだ。案の定、列  
の後ろから「早くしろ」との罵声が飛んだ。  
「分かってるよ!」  
 男は尻尾を立てて大きく膨らませて虚勢を張った。おそらく上半身に巻いたぶかぶかの布の下で背  
中の毛もいっぱいに膨らませているのだろう。しかし、比較的背の低い彼の醸し出す迫力はウォレン  
のそれに遠く呼ばない。  
 男は、ルルカの乳房に手をゆっくり押し付けて、「うん、これだ」と呟いた。  
「こないだ、手を重ねた上から感じたこの弾力が忘れられなくてさ」  
(わざわざ確かめに来たの?)  
 男はルルカの乳房を何度か揉んで、乳首を優しく摘み上げる。その手つきがなんとなく心地よかっ  
た。ウォレンにもこんな風にしてもらえたら、と思うとルルカの乳首は固くなった。その乳首を指先  
で捏ね回されるのが気持ちいい。  
「いいな、お前のおっぱい、すごくいい」  
 男は何でもすぐ口に出すタイプのようだった。自分の体を褒められるのはルルカにとって悪い気は  
しない。後ろからまた罵声を浴びて、胡狼族の男はようやくルルカに挿入した。  
(あっ……)  
 普段より少し潤っているような気がするそこへ、犬科のペニスが捻じ込まれる。待ち焦がれていた  
ウォレンと同じ形のもの。ただ、一回り以上小さいけれど。  
 そうだ、とルルカは思った。この男との交尾で、ウォレンを喜ばせる練習ができるのではないかと。  
 ルルカは自分を犯している男を観察してみる。挿入し切った後の男は、ほとんど体を動かさずに目  
を細めて、はぁはぁと荒い息を吐いている。ルルカも息を荒げているが、それは発情の止まらない体  
になってからずっとのことだ。男がもし激しい動きをしたならば、それに釣られてルルカの小さな体  
はより多くの空気を求めて喘ぐことになるが、犬科の牡が相手ならそんな心配は無い。  
 
 お腹の奥に男の精液が吐き出される度に、男はうっと軽く呻く。  
(気持ちいい……んだよね?)  
 ルルカは、例のリングを着けられた牝獺のあそこが痙攣したように動くと言われていたことを思い  
出す。それが男の人たちにとって具合がいいらしい、ということも。では、その真似をしてみたら……?  
 ルルカは、試しに股間にぎゅっと力を込めてみて、すぐに緩め、それを何度か繰り返した。胡狼族の  
男が、驚いたような顔をする。  
「なんだ? 急にいい感じになったじゃないか」  
(えっ?)  
 ルルカはどきっとした。男の言った内容に驚いたわけではない。男の声を聞いた瞬間、股間から淡  
い快楽の波が湧き起こったからである。  
 ルルカはもう一度、男のペニスをそっと膣で締め付けてみた。男の表情に反応がないので、もう一  
度。そしてもう一度……。  
「奥を突いて欲しいのか?」  
 男はそう言って、ルルカの締め付けのタイミングに合わせるように、軽く腰を突き出し始めた。ル  
ルカの体はゆっくりと揺さぶられた。  
(なんだか、不思議な感じ……)  
 男のペニスがぐっと体の奥に押し付けられる度、じんわりと快感が広がるのだ。ウォレンに体を撫  
で回されたときほど強いものではないが、確かに気持ちいい。ルルカは、次第に自分の息が男と同じ  
くらいに荒く吐き出されていることに気付く。リズムを合わせて、二つの肉体がお互いを刺激し合っ  
ている……。  
 胡狼族の男は、最後にブルッと体を震わせて、ひときわ激しい飛沫をルルカの体の奥に叩き付けた。  
それが前立腺液を射出する犬科の牡の生理だということをルルカは知らないが、ウォレンのいつもの  
終わり方と同じだと思い、頬が緩む。  
(満足してくれた? 気持ちよかった……のかな?)  
 はあっと大きく息を吐いて、男はルルカの体から離れた。  
 身を起こしたルルカの頭に、男の手が載せられた。男はゆっくりとルルカの頭を撫でて言う。  
「すごく良かった。ありがとう──」  
 褒められた──。  
 嬉しさに体が震えた。心臓がドキドキと鐘を打つように鳴った。  
 
 この体験は、ルルカにとって天啓だった。ルルカが頑張ることで、相手の牡の快楽を高めることが  
できる。それは延いてはこの身ひとつでウォレンを喜ばせることができるという事実だ。ルルカはこ  
の新しい発見に夢中になった。  
 牝獺は、交尾の最中、相手の体に触れてはいけないことになっている。ルルカは相手の動きに合わ  
せて体を引いたり押し付けたりすることで、牡の期待に応えられるように努めた。種族ごとに交尾の  
流儀には違いがある。ルルカはそれに合わせて自分の動きを変えるよう工夫した。猫科のトゲの生え  
たペニスだけはどうにも苦手なままだったけれど。  
 数日もしないうちに、男たちの態度が変わった。もう誰もルルカを殴らなかった。交尾の後、胡狼  
の青年のように頭を撫でてくれる者も増えた。ルルカは驚いた。実に半年もの間、自分を苦しめてき  
たものが、ちょっとした見方の違いで嬉しいことに変わるのだ。  
 ジエルの言っていたことは正しいのかもしれない。誰も獺を憎み続けることはない。ルルカはシエ  
ドラの一員になっていた。辛い役目だけれど、独りじゃない──。  
 ルルカは男たちを受け入れるとき、自分からお尻を上げて誘うポーズを取るようにした。恥ずかし  
いけれど、胸がどきどきした。男たちが喜んでいる様子が分かって、ルルカも嬉しくなる。  
 牝獺たちが、最期に感謝の言葉を口にして死んでいくという話が、今では分かるような気がした。  
 シエドラの住人は、誰もが何らかの仕事に従事している。それは、獺族が隠れ里の生活の中で、一  
人一人役割を持っていたのと同じことだ。シエドラにおいて、ルルカたち牝獺の役割は、その小さな  
体で街の男たちを癒すことなのだろう。  
(ウォレンに早く会いたい……)  
 ウォレンにこの発見を伝えたかった。ウォレンにも自分の体を楽しんでもらいたいと思った。  
 ウォレンのことを想えば、それだけで性器が潤うのが分かった。  
 獺は交尾中に相手の体に触れてはいけない。ウォレンのあの胸の立派な毛は眺めているだけでも  
ルルカをうっとりさせる魅力があったが、もし触れることができたなら。ウォレンに体の奥を優しく  
突かれながら、指先にあの長い毛を絡めたら、きっと素敵な思いに浸れるに違いない。  
 ルルカの頭の中はウォレンとの交尾で一杯になった。しかし、待ち焦がれても自分では彼に会いに  
行けない。シエドラの街の構造はルルカの頭の中に入っている。でも、ウォレンがどこに住んでいる  
のかすら、ルルカは知らない。  
 
(ウォレン、どうして来てくれないんだろう──)  
 ルルカは突然、不安になった。あの魚を食べさせてくれた日から、もう一週間以上経っている。や  
はり彼はルルカに怒っているのだろうか。愛想を尽かせてしまったのだろうか。彼が別の牝獺の体を  
使っているのではないかと嫉妬しながら、自分が誰とも分からない男を彼に見立てていることに背徳  
感を覚えた。  
 ウォレンに会いたい──。そう思っても、鎖で繋がれた身分では、どうにもならなかった。  
 そしてルルカはやがて、泥沼のような性の罠に堕ちていくことに気付くのだった。  
 
 自ら積極的に牡を刺激する交尾のやり方は、激しく体力を消耗する。ルルカは以前より、蓄積した  
疲労で短い眠りに落ちていることが多くなった。ウォレンに会えないまま、ひと月ほどが過ぎていた。  
ルルカはペニスを体に受け入れたまま、夢うつつに男たちの会話を聞いていた。  
「何だ、最近いいって聞いてたけど、もうお終いか」  
「目を覚ましてるときしか良くないんじゃ、そろそろか」  
「早く──されないかな」  
 その男の言葉に、ルルカは驚いて目を開けた。はっきり聞き取れなかったのは、あまりにも恐ろし  
い言葉を意識が拒絶したからだ。しかし、確かに耳には入っていた。  
(うそよ……、そんなまさか……)  
 男は、"加工"と言ったのだ。  
 
 ルルカを囲んでいたのは、いつだったか彼女を輪姦した、五人組のアンテロープの男たちだった。  
「もう旬が過ぎたってことさ。ただ、こういうのは珍しいな。  
 普通は時間をかけてちょっとずつ良くなっていくんだ。  
 この牝はいきなりだろ?  
 後は坂道を転げ落ちるようなもんさ」  
(そんな……)  
 ルルカはパニックになった。秘密を隠し通すことに慣れ切った体は、平静を装っている。しかし、  
心は引き裂かれそうだった。素晴らしいと思ったルルカの発見は、ルルカ自身を追い詰めるものだっ  
たのだ。それでも一度男たちを喜ばせることを知ってしまった体は、アンテロープの男の動きに合わ  
せて反応してしまう。膣を目一杯締め付け、侵入してくるペニスを押し留める。先端が子宮口に到達  
するのと同時に力を緩め、一気に突き込ませる。  
 太いアンテロープのペニスはルルカの内臓を子宮ごと押し上げた。ルルカの体は大きく跳ねる。確  
かに男は強い快感を得るだろうが、こんなやり方ではルルカ自身の体が持たない。そのことに気付く  
のが遅かった。  
「おっ、まだ頑張るねえ、この牝」  
 ルルカを犯している男は満足そうな呻きを上げながら言った。  
「俺の見立てだと、あと一、二か月ってとこだね」  
(何が……)  
 男は指をルルカの乳首に当て、輪を作って見せる。その意味を悟って、ルルカは悲鳴を上げそうに  
なった。  
「賭けるか? あと何日でこの牝が"加工"されるか」  
 アンテロープの男たちはルルカを順番に犯したうえで、ルルカの体に金属の環が通されるまでの日  
数を予測した。ある者は最も短く、五十日だと言った。そして一番長く言った者でも、七十日という  
のが彼らの見立てだった。予想を当てるのは経験豊富なことを自慢するのが目的だ。それゆえに、彼  
らが的外れな数字を言うわけがない。  
「思ったより早かったな。  
 広場の牝でもこうなるには普通、もうちょっとかかる」  
「色んな牝獺を使ったが、こんなに変化の激しいのは初めてだ」  
 
 男たちから解放されたルルカは、水路へ駆け寄り、吐いた。  
 ウォレンは、ルルカがすぐには死なないと言ってくれたが、それは彼自身がルルカを守ろうとして  
くれていたからではなく、おそらく、他の牝獺と比べてルルカの感度が良くなかったからだ。  
 加工まで長くて七十日、その後の硬直までの時間も、かつて広場に繋がれた牝獺よりも短いのだろ  
う。八か月ほどと言われたルルカの寿命は、突然、半分になってしまった。しかし、ルルカが恐れた  
のは死ではない。このままウォレンに会えないかもしれないことだ。  
(ウォレンと何日会ってないの?  
 以前は週に一度は来ていたのに……。  
 あと……、四か月……、いや、三か月ほどで、私は……)  
 
 さらにひと月が経った。ウォレンはルルカの前に現れず、ルルカの気はおかしくなりそうだった。  
「少し緩くなったか?」  
 自分を使う男の、何気ない呟きに怯えた。  
 どうしてこんなことに──。  
 ルルカの体は、彼女の思いをよそに、男の動きに反応し続けた。無理に止めようとしても、反応が  
薄くなれば、男たちは狼族に牝獺を加工するように訴えるだろう。人々の言葉が分かるルルカだから、  
このような事態に陥ってしまった。普通の獺ならば、ただ何も知らず状況に身を任せるだけで済んだ  
のだ。少しずつ性に目覚め、シエドラでの自らの役目を悟り、そして感謝して死んでいく。ルルカは  
違う。迫る死の恐怖に怯えなければならないのだ。  
 ウォレンを喜ばせてあげたい。前より良くなったと誉めてもらいたい。頭を優しく撫でられたい。  
ただ、それだけが望みなのに──。  
 男たちはルルカの苦悩など露知らず、途切れることのない行列を作った。ルルカは錯乱していた。  
子宮の奥まで貫くサイズのペニスの持ち主に犯されると、ルルカはウォレンに抱かれていると思い、  
自ら腰を激しく揺すり、膣を必死に締め付けた。『ウォレン、ウォレン』と何度もうわ言のように呟  
くルルカの声を聞いて、男たちはいい声で鳴くようになったと感心した。  
(ウォレン……、どうして来てくれないの──?)  
 獺族の本当の悲しさとは、誰かを好きになってはいけないことなのだとルルカは思った。  
 以前は締まりのいい膣のおかげでしばらくは子宮に押し留められていた精液が、男が体を離した瞬  
間からだらだらと流れ出ていることに気付いたルルカは絶望した。膣が緩んできている──。  
 
(もうだめ……、私……。ウォレン──)  
 ルルカは立ち上がり、ふらふらと噴水に向かって歩き始めた。牝獺の異常な行動に気付いて周囲の  
男たちはギョッとし、何事かと見守った。建物の壁に繋がれた長い鎖がピンと張り詰める。  
『あなたに会う方法があるよ、ウォレン……』  
 それは、「ウォレンに会わせて」と公用語で叫ぶことだ。たちまちルルカは取り押さえられ、毒針  
が打たれて声を奪われるだろう。乳首と陰核に穴が開けられ金属の環を通されたルルカは膣と肛門を  
間断なく犯される。ほんの一、二週間で全身が硬直し、槍で突き殺されるのだ。それまでに、ただ一  
度でいい。ウォレンに抱いてもらえたら──。  
(私はミルカのように動けなくなる。  
 もうウォレンを喜ばせてあげることはできないかもしれない。  
 ごめんなさいも言えない。助けてくれたお礼を言うことも……)  
 
『ウォ……、  
 ウォ……。』  
 
 噴水の前に、ルルカを加工するために縛り付ける十字架の幻影が見えた。三つのリングを体にぶら  
下げ、その強い刺激に足を閉じることが出来なくなって淫水を垂れ流して喘ぐルルカ自身の姿も──。  
 そんな体になってもウォレンが現れなかったら?  
 怖い──。もし、そこまでしてもウォレンが来てくれなかったら、と思うと、体が震えて声が出な  
かった。  
 まさか、ウォレンは獺に魚を食べさせたことがばれて追放されたのでは……?  
(ああ、やっぱりだめ……)  
 
 天を仰いだルルカの頬に落ちたのは、大粒の涙──ではなかった。  
『……雨?』  
 
 いつの間にか、空を雲が覆っていた。ざあっと音を立てて、大きな雨粒がシエドラの街に降り注い  
だ。広場の中心にある噴水の噴き上げる高さが、いつもより高くなったような気がする。  
 広場に居た人たちは、慌てて走り去っていく。ルルカの前に列を作っていた男たちも、無頓着な気  
質の種族を除いて姿を消した。  
(何故、皆慌てているの?)  
 ラッドヤートに居た頃、ルルカは時々こうした雨に遭うこともあった。それは世界に残った数少な  
い森林地帯に降るもので、平原に位置するシエドラではほぼ見ることはない。ルルカは、これがシエ  
ドラに来て初めての雨だと気付いた。ここの住人はきっと、それより以前からずっと雨を見ていない  
のだ。  
(みんな、雨に慣れてないんだ……)  
 シエドラの民の生活は雨とは無縁のものだった。降ったとしても通り雨程度のものだ。今、街を水  
蒸気で煙らせる強い雨が、これまでのものと違うとは、この時点で誰も気付いていなかった。  
 
 雨は少し弱くなったものの、止むことなく静かに振り続けた。街の住人は建物の中に閉じ籠り、必  
要なときだけ布を被って外出するようになった。獺族のルルカにとって、雨は水の中に居るのと変わ  
らない、心地よいものだ。ルルカは思わぬ休息を得ることになった。  
 しばらくして、市場で見る日除けのテントが雨を凌ぐためにルルカの頭上に張られたが、雨の中、  
わざわざやってきて牝獺を犯そうという者はほとんど居なかった。  
 
 
−/−/−/−/−/−/−/−/−  
 街の中央、噴水広場のすぐ近くに集会所があった。平屋のその石の建物にはいくつもの部屋があり、  
人々は何か相談事があるとそこへ集まった。普段は街を出歩かない狼族の姿がよく見られるのもここ  
である。集会所の裏に慌てて張られた小さな雨除けのテントの傍に、若い牝獺が立って、雨を体に受  
けていた。ここに繋がれて以来、凌辱にまみれてきた彼女に、激しく降り続く雨が思わぬ平穏をもた  
らしていた。犯され続けて熱を持った体に雨の冷たさが心地よい。  
 乾いているときはふかふかした手触りの獺の体は、水に濡れると黒くなり、しっとりとした質感に  
変わる。体が濡れると、もう傷跡が薄れてきてもいいはずの卑猥なマークが、下腹部にはっきりと浮  
かび上がった。今ではその焼き印が表しているものがよく分かる。そのすぐ下にある真っ赤な花びら  
のように口を開いた自分の牝の性器そのものだ。にやにやと笑みを浮かべた男たちにその性器と焼き  
印の痕を見比べられると、恥ずかしさが込み上げてくる。それは常に裸で過ごしていても、決して麻  
痺することのない感覚だった。  
 
(あの娘はどうしているだろう──)  
 儀式の後、広場に残された一頭の牝獺。交尾を強要される日常からいっとき解放されて初めて、心  
に余裕が生まれたのか、彼女はあの牝獺のことを思い出した。一緒に儀式を受けることになった見知  
らぬ仲間。同じ境遇のあの牝獺は、自分と同じように怯えながら、それでも自分ともう一頭の牝獺を  
守ろうとしてくれた。体を抱き寄せてくれたあの小さな手の優しさを忘れない。憎らしいクズリ族の  
男に、毒針を打てと腕を差し出したあの勇気を──。いつかもし再会することがあれば、そんな機会  
はおそらく来ないのだろうが、彼女にお礼を言いたいと思った。  
 集会所の裏手から、どこへ続くのか分からないほどの長い石の階段が伸びていた。普段は犯されな  
がら目の端に入れるだけだったその石段を見て、ふと思った。広場とこの集会所の間には、いくつか  
の建物があるだけだ。  
(あそこから広場が見えるかもしれない……)  
 人目があるうちは考えもしなかった発想だ。牝獺たちを繋いでいる鎖は、プールで体を自由に洗え  
るように非常に長く作られている。その牝獺の鎖も、階段を少し登れるくらいの長さがあった。  
 恐る恐る石段を登り始めた牝獺は、人の声と足音に驚いて足を止めた。こんな雨の中を──?  
 慌てて、帆布のテントの下に戻る。  
 牝獺は建物の裏から、集会所に早足で入っていく人々の影を見守った。細長い尾を緊張させて駆け  
つける豹族の男たち。体格に似あわぬ機敏さで雨の中を走る灰色の衣装を纏った狼族の男たち。その  
中に、見慣れない赤い衣装を着けた狼族の姿があった。  
 顔にまばらな灰色の毛が残っているものの、全身が白い毛並に変わりつつある初老の狼の姿に、牝  
獺は、不思議な畏敬の念を覚えるのだった。  
 
 
−/−/−/−/−/−/−/−/−  
 広間に十数人の狼族と豹族の男たちが集まっていた。白い毛の狼──狼族の族長が席に着くと、皆、  
濡れた体を拭く手を止め、彼の言葉に耳を傾けた。  
「水瓶を監視している者たちから、伝令が入った。  
 このまま雨が降り続けば……」  
 男たちの顔に動揺の色が浮かぶ。  
「水瓶から溢れた水が、シエドラを襲うだろう──」  
 
 族長は、大きな紙を木のテーブルに広げた。  
「これは……?」  
「少し前にウォレンが作って寄こしたものだ」  
「ウォレンが?」  
「シエドラ周辺の史跡を探索するのに人手が欲しいと言ってな」  
 その紙には地図が描かれていた。シエドラと獺の水瓶を結ぶ広大な土地を俯瞰したものだ。  
「皆も知ってると思うが、あの水瓶は太古に獺族が作ったものだ。  
 シエドラとの間にも砂に埋もれた遺跡があるが、誰も関心を持たなかった。  
 ウォレンは何故だか、それを調べると言い出した。  
 そんな折の、この雨だ」  
 獺の水瓶──巨大な治水ダムから、放射状に薄い線が描かれている。それはダムが大干ばつの発生  
する以前の時代に作られたことを意味していた。水瓶から供される水はそれらの水路を通って、周辺  
の平原に点在する集落へ運ばれるようになっていた。世界が乾き切った後、シエドラの民がその水路  
を埋め、全ての水が自分たちの元へ流れるように変えたのだ。  
「水が足りないときは、それで良い。  
 ただ、こんな雨が来ようなど当時の人間には想像もつかなかっただろう。  
 このままではまずいことになる。  
 見ろ──」  
 族長は、水瓶から一直線に伸びる三本の平行線を指した。  
「これは?」  
「中央の線が、今シエドラに水を運んでいる水路だ。  
 それを挟む二本の線は、水路が引かれた周辺の土地が窪地になっていることを示している。  
 水を溢れさせない構造らしいが……」  
 族長の深刻な面持ちに、皆が首を傾げる。  
「分からないか?  
 水瓶から溢れた水を拡散させる水路は、我らシエドラの先人が埋めてしまった。  
 下手をすれば、この窪地の幅いっぱいの大量の水がシエドラに押し寄せる……。  
 そう、ウォレンが言っておった」  
 
 事態を飲み込んだ男たちは騒然となる。  
「水瓶の監視はどうなってる?」  
「何かあっても、伝令では間に合わん」  
 街を統治する狼族の男たちは、彼らの手足となって働く豹族を全員、集めるよう指示を出す。水瓶  
からシエドラの間に通信係を立て、ランタンの光が届く距離で通信をリレーすることになり、集会は  
解散となった。  
 
 
−/−/−/−/−/−/−/−/−  
 街が騒がしくなった。いつの間にか体を丸めて寝ていたルルカは、足元の水路を流れる水が今にも  
溢れそうになっていることに気付き、飛び起きた。これは、雨のせい──?  
 人々が激しく降り続ける雨の中を駆けていく。何か荷物を詰め込んだ大きな袋を抱えている者も居  
れば、着の身着のまま慌てて走っていく者も居る。方角を考えれば、皆、高台に登る石段の方へ逃げ  
ているようだ。  
「早く避難しろ」  
「家を離れられない者は、建物の一番高いところへ上がるんだ」  
「水瓶が溢れ始めたそうだ──」  
 何故、人々が避難しているのか、ルルカにも状況が飲み込めてきた。石畳に突いた手のひらが水に  
浸かっている。シエドラの街は浸水していた。おそらく、街の低いところは水没するだろう。この広  
場だってそうだ。人の姿が消えると、ルルカは不安に包まれた。広場が水没しても、ルルカを繋ぐ鎖  
は充分に長い。獺族にとって水はそんなに恐ろしいものではないし、息が続かなければ、建物の壁に  
でもしがみ付けばなんとかなるだろう。ルルカはそれでいい。では、動けない牝獺は?  
 体に金属リングを穿たれた牝獺は、満足に体を動かすことができなくなる。きっとまともに泳ぐこ  
とは不可能だ。水が頭の高さを超えたら、彼女たちは死んでしまうう。ルルカは、ミルカのことを想っ  
た。広場の石畳に溢れた水は、すでにお尻を着けたルルカの尾の半分ほどを浸している。ミルカは街  
のどこかで恐怖に怯え、震えているに違いない。  
(牝獺は見捨てられたんだ──)  
 ルルカは水に流されそうになっていた木のお椀を手に取り、ぎゅっと握り締めた。  
(私たちも、この街の一員だって思えるようになったのに……)  
 
『何だぁ? 噴水がえらく噴き出してやがるな』  
『えっ? ジエル……?』  
 突然声がした方を振り返り、ルルカは飛び上がりそうになった。ジエルのすぐ後ろに、ウォレンの  
姿があったからだ。相変わらず、上半身を自慢げに露出させたウォレンの豊かな毛は、水に濡れて無  
数の針のようになっていた。ルルカが驚いたのは、突然の再会であることばかりではない。ウォレン  
は右手と左手、それぞれに胸環を掴んで牝獺の体をぶら下げていた。腕を曲げ、足を大きく開いたそ  
の姿は、金属リングの"加工"を施された牝獺であることを示していた。  
(ウォレン……。その娘たちを助けてくれるの?)  
 
 両手が塞がっているウォレンの代わりに、鍵を受け取ったジエルがルルカの鎖を壁から外した。  
『ウォレン殿から、お前に頼みがあるそうだ』  
『……殿?』  
『ああ、そうか。知らなくて当然だな。  
 普段はこういう呼ばれ方を嫌う人だが、今はそんな事態じゃない。  
 この人は、シエドラの治安を守る最高責任者だ』  
『え──?』  
 ルルカは待ち焦がれていた狼の顔を見る。いつもと同じウォレンだ。鋭い狼の目つきと裏腹に、調  
子のいい言葉が飛び出してきそうな、懐かしい顔。  
(ウォレンが……最高責任者?)  
 ルルカは戸惑った。ウォレンも獺語の会話の内容を想像できるのか、照れるように顔を逸らす。  
『時間が無いから、かいつまんで話すぞ。  
 お前はあの人について行け』  
『えっ?』  
『ウォレン殿は、お前が牝獺の中で一番、この街の構造を知っていると言うんだ。  
 俺にはとても信じられないが……、本当か?  
 歩ける獺たちに、高台までの道を教えるんだ。できるな?』  
『うん……、大丈夫……。だけど──』  
『高台で、ジルフが牝獺を保護してくれる。  
 俺は街の北側、お前はウォレン殿と一緒に南側を回るんだ』  
(一緒に……)  
 ジエルはルルカの鎖をウォレンに手渡し、代わりに加工されて動けない牝獺の身柄を引き受けた。  
ジエルはすぐに高台への階段がある方へ走り去っていく。取り残されたルルカとウォレンは気まずそ  
うに向き合った。  
 
「えっと、久し振りだね……、ウォレン……」  
 ルルカは嬉しさに頬が緩むのを気付かれないように必死になった。会いたかったとは言えない。獺  
が狼を待ち焦がれるなんて、おかしなことだ。さらには好きになってしまっただなんて──。  
「あの、ごめんなさい、私──」  
 ウォレンはルルカの言葉を遮った。  
「時間が無い。話は後だ。ジエルから事情は聞いたな?」  
「う、うん」  
「じゃあ、頼む。手伝ってくれ」  
 ルルカは頷いて、鎖を引くウォレンについて走り出した。  
(どうしてだろう、大変なことが起きているのに、胸がわくわくする……)  
 ウォレンと一緒に居られることが嬉しかった。そして、彼の役に立てるということ。  
 走りながら、ルルカはウォレンに声をかける。街にはもう人通りも無い。今なら存分に話ができる。  
「自警団って、本当だったんだ」  
「ああ」  
「遊び人だなんて言って、ごめんなさい」  
「そんなことを気にしてたのか?」  
 ほんの少し言葉を交わしただけだったが、この短いやりとりで、ルルカはウォレンがもう彼女に対  
して怒ってないことを知った。これまで抑揚が無く、感情を読み取れないと思っていた公用語の響き  
から、ウォレンの気持ちが伝わってくる。  
(ウォレン……、許してくれたの?)  
 思わず、笑みがこぼれる。いつもの言葉足らずで強引なウォレン。そしてそれに振り回される自分。  
この関係が心地良かった。これまでと違うのは、ルルカがウォレンに好意を寄せているということだ。  
 
「でも、どうして……?」  
(どうして助けてくれるの?)  
 誰もが見捨てようとしていた牝獺を、ウォレンは──。  
 彼の答えは、ルルカの気持ちを裏切らないものだった。  
 
「誰も見捨てようとしていたわけじゃない。  
 牝獺が溺れて死んでもいいなんて、誰も思っちゃいない。  
 これは狼族の仕事だからだ。待たせてすまなかったな」  
「あの娘は……、ミルカは?」  
「ミルカ?」  
「あの……、青い服の狼が連れてた」  
「そうか、ミルカっていうのか」  
 ウォレンは、物事には順番があるんだ、と言った。街の住人を避難させることを優先したのは、獺  
族は少々水に浸かっても命を落とすことはないからだ。動けない八頭の"加工"された牝獺は、すでに  
ジルフの下に避難させているという。  
「そうだ、みんなの食器を……」  
 ルルカは手に握ったままだった木の椀を見せる。これは牝獺にとっては唯一の宝物だ。  
「分かっている。ほら」  
 ウォレンは腰に着けた袋に集めた食器を見せ、ルルカの食器も預かった。  
 
 街の南側半分に居る牝獺を、ウォレンは次々に解放し、ルルカは彼女たちに道順を教えた。胸環か  
ら完全に鎖を外して回収するウォレンに、ルルカは何故自分は鎖に繋がれたままなのかを問う。  
「次にどこへ行くか、俺の指示を牝獺が理解できるのはおかしいだろう?  
 誰が見ているか分からないんだ。注意しろ」  
「あ……、うん、そうだね」  
(やっぱりウォレンには何でもお見通しなんだね)  
 ルルカはこの狼に抱き付きたくなる衝動を必死に堪えた。  
 十頭の牝獺を解放し、あちこち声を掛けながら街に残った少数の住人が建物の上階に避難している  
ことを確かめたウォレンは、ルルカと共に高台へ向かった。  
「そろそろいいだろう」  
 ウォレンはルルカの胸環の鎖を外した。引きずる金属の重さが消え、ルルカは随分体が軽くなった  
と感じた。  
「ここからはもう、話しかけるな。  
 何度も言うが、公用語が話せることは決して誰にも知られるな」  
「うん、ウォレン」  
 あと数段、石段を上がれば高台に着く。そこにはシエドラの牝獺が全員、集まっている。少しくら  
い、会話をしても許されるだろう。どんな風に挨拶をしようか。ルルカはこの雨が獺族にとって恵み  
の雨であると思った。ウォレンにも会えた。彼の本当の姿を知った。自分が好きになった狼は、ルル  
カの心をこれまで以上に惹きつけて止まなかった。最初で最後かもしれないけれど、思わぬ天からの  
贈り物だ──。今、この瞬間まで、ルルカはそう思っていた。  
 
 背後で、ドーンという音がした。驚いて振り向いたウォレンとルルカの目に、恐ろしい高さまで噴  
き上げた広場の噴水が見えた。ウォレンの表情が険しくなる。  
「まずいな、あれは」  
「どういうこと……?」  
「浸水が始まる前に、噴水に変化はなかったか?」  
「そういえば……」  
「あの噴水は、危険を知らせるためのものだ。  
 おそらく、水路と並行して地中に埋められた細い管を通して、  
 水瓶から流れる水量の変化が事前に分かるようになっているんだ。  
 水瓶が溢れたと聞いてから、雨の量は変わっていない。  
 つまり、水瓶に何かあったということだ」  
「何かって──」  
 
 高台の広場からウォレンの姿を認めた数人の狼族と豹族の男が駆け寄ってくる。  
「ウォレン殿、通信がっ」  
「何が起きた?」  
「ダムの上部が決壊して、大量の水が津波になってシエドラに向かっているとのことです」  
「やはり、そうか」  
 報告を受けたウォレンは街を北から南まで見渡した。ルルカも背を伸ばして眼下の光景を見る。街  
を南北に貫く大通りは、今や川のようになっている。水深はさほど深くなく、建物の一階が浸水した  
程度だろう。こうして見るとシエドラの街は、水瓶が溢れたとき、街全体が水路になって水を受け流  
すように設計されているのだ。でも、どうして? ルルカは不思議に思った。この街は世界から水が  
消え去った大干ばつの後に作られたのではないのか。  
「……駄目だ」  
 そう言ってウォレンが指差した先は、街の南端、シェス地区だ。  
(あそこは……)  
 ルルカはついさっき、シェス地区で何人もの人が建物の最上階に残っているのを見た。そして、思  
い出した。石畳の色が違っていたこと。後の時代に作られた新しい建物──。  
 
「水はあとどのくらいでシエドラに到達する?」  
「おそらく、十分も無いかと……」  
「まずいな。手の空いてる者は俺についてこい」  
 ウォレンは駆け出した。狼と豹族の男たちが後に続く。ルルカも気付けば後を追っていた。ウォレン  
ともう離れたくないと思った。  
 ウォレンを先頭に、男たちは統率の取れた動きで走る。彼らがシエドラの自警団であり、ウォレン  
がその長であることがルルカにも実感できる。ウォレンは石段を逸れ、最短距離を探るように建物の  
屋上に飛び乗り、屋根伝いに走った。男たちもそれに従い、遅れまいとするルルカは四つ足になって  
駆けた。体が軽い。鎖から解放された身に、こんな動きができるとは。ルルカは男たちの足元をかい  
くぐり、先頭のウォレンに並んだ。  
(ウォレンも気付いたんだね……)  
 走りながらウォレンの顔を見上げたルルカの視線に気付き、ウォレンが頷く。  
 
 一行の目の前にシェス地区が迫ったとき、轟音が響き渡った。  
「遅かったか……」  
 
 ルルカたちの目の前に、恐ろしい光景が広がった。街の北側から、建物の隙間を縫うように水が押  
し寄せた。水は口を開けた龍のように、うねりながら街を飲み込んでいく。建物の屋上に立ち止った  
ルルカたちの眼前にあった空間は、一瞬で荒れ狂う濁流に変わった。  
「こんなことが……」  
 目に入るほとんどの建物の一階から三階あたりまでが水に沈んでいた。先ほど、住人たちはすべて  
さらに上階へ逃げていることをウォレンと確かめた。ただ、安心できるのはこの洪水を想定して作ら  
れた古い建物だけだ。  
「この街は、洪水を受け流すように造られている。  
 ただ、あそこは違う。後からこの街に来た者が付け足した居住区だ」  
 ウォレンの言葉を裏付けるように、水の流れはその新しい建物の石壁を削っていた。積まれた石の  
ブロックが次々に弾け飛ぶのを見て、ルルカは顔を覆った。こんな恐ろしい水の姿は見たことがない。  
(怖いよ……、ウォレン……)  
 
 屋上へ逃げ出した人たちが、助けを求めて叫んでいるのが見える。その声は水の流れる轟音に掻き  
消され、届かなかった。  
「水はじきに引くだろう。だが、あの建物はそれまで持たない」  
「では、彼らは……」  
「助けられないのか?」  
「どうやって? こんな水の中を──」  
 
(水の中……?)  
 ルルカは、すぐ傍に立つウォレンの視線が自分に向けられるのを感じた。ルルカがそれに気付いて  
見上げると、彼は慌てて視線を逸らす。  
 ウォレンが何を思ったのか、ルルカには分かった。同じことを自分も考えたのだ。あの人たちを助  
ける方法が、一つだけ、ある。  
(ウォレン、今、どうして私の顔を見たの?  
 その手に持った鎖の束は何なの?  
 言ってよ、あなたがどうしたいのか──)  
 ウォレンが考えていることは明白だ。でも彼に言えるはずがない。それを実行したら、ルルカの秘  
密を公にすることになるのだから。ルルカの体に死のリングを嵌めることになる。でも、だったら、  
助けを求めている人たちを見捨てるしかないのか?  
 ルルカは、自分の小さな手を見つめた。  
(これは、私にしかできないこと。そう、私なら、彼らを助けられる。  
 そのことをどうやって皆に伝える?  
 ジエルを呼びに行ってるうちに、みんなあの水に飲まれてしまう……。  
 私が、言うしかないんだ。  
 でも、怖い……。怖いよ。  
 私は言葉を話せる獺として、生きることを許されない。殺されるんだ──。  
 それでも……)  
 知ってしまった。気付いてしまった。あの人たちを助ける方法を。  
 ルルカは自分の胸をギュッと抱きしめた。  
(皆を助けたら、代わりに私は死ぬ。死ぬんだ……)  
 背筋が凍る。これまでに無いほど強い死の予感がルルカを襲う。  
 
(ウォレン、私はどうしたらいいの……?)  
 ルルカは鋭い目つきで崩れる建物を睨み付けるウォレンの手をそっと握った。そして、彼の指と指  
の間にあるものを確かめる。指の付け根に残る小さな膜のようなもの。  
(狼の……、水掻き──だ)  
 ルルカの体の震えが、止まった。  
 
「分かったよ、ウォレン。私、やってみる──」  
 
 驚くウォレンに、ルルカは手のひらを広げて見せた。  
「ウォレンは言ったよね。  
 狼族の水掻きは遠い祖先が持っていたもの。  
 そして、私のこの水掻きは、泳ぐためにある──。  
 獺族だって、狼族だって……、  
 いや、他のどの種族も、姿は違っても同じなんだよね」  
 
 ルルカは大きく息を吸って、周囲に響き渡る声で言った。  
「私にしかできないことなんでしょう?」  
 
(ウォレン、あなたの水掻きは、きっとその大きな手で多くの人を救うためにある。  
 だから、私はあなたの力になりたいの──)  
 
 これだけが、小さな体の、獺の私にできることだとルルカは言った。  
 有り得ない牝獺の申し出に、ウォレンは戸惑っていた。  
「危険すぎる。それに……」  
 何故、大勢の前で公用語を話してしまったのか──。  
「あれほど言ったのに、どうして」  
 いつも冷静で落ち着いていたウォレンの声がうわずって聞こえた。  
 それはルルカにも充分、分かっている。狼族と豹族の男たちが見ている前でウォレンと言葉を交わ  
してしまった。事態が落ち着けば、自分は喉に毒針を打たれ、声を奪われるだろう。乳房と性器を加  
工され、動けない惨めな裸身を晒すことになるだろう。そして、体の穴という穴を犯され、最後は無  
情な槍に突き刺されて死ぬのだ。  
「獺がしゃべった……?」  
「確かに聞いたぞ」  
 場に居合わせた男たちの間にも動揺が走っていた。しかし、ルルカの気持ちは嘘のように晴れてい  
る。迷いは無い。  
「ごめんね、ウォレン。あなたの言い付けを守れなかった。  
 もう、皆知ってしまったよ。私が公用語を話せること。  
 でも、後悔はしてないから」  
 
 ルルカの覚悟を受け止めたウォレンの決断は速かった。  
「時間が無い。頼めるか?」  
「うん、私はどうすればいいの?」  
「鎖を全て錠で繋ぐ。水流の幅はゆうに超える長さになるはずだ。  
 鎖を絡めて一人ずつ運ぶんだ。  
 合図を決める。鎖を強く三回引いてすぐ水に飛び込め。  
 そうしたら皆で引き上げる。お前が──」  
 ウォレンは小柄な牝獺の頭を、大きな手でそっと撫でた。  
「泳いで行くんだ」  
 
 住人に説明する口上をウォレンから教わり、ルルカは真っ直ぐに走り出した。目の前に広がる濁流  
に向かって、何の躊躇いもなくその小さな身を躍らせた。  
 怖くなんか、ない──。  
 
 激しい水の流れに目を開けていることはできなかった。厚い雨雲のせいで周囲は夕闇のように暗い。  
視覚は元より頼りになどできない。ルルカの体は水中で翻弄されるようにぐるぐると回った。水流が  
殴り付けるように体を押す。それでも、ルルカは恐れなかった。武者震いと共に、全身に血が巡り、  
筋肉が熱を帯びる。獺の体が知っている。本能がルルカに告げる。ここが、獺の生きていた世界なの  
だと。  
 ルルカは獺の長いひげで水の流れを探る。水は均一な塊ではない。流れは複雑に絡み合う糸のよう  
なものだ。その緩急の差をルルカは感じ取り、体をくねらせ、水流を縫うように進んだ。誰からも教  
わっていないのに、体が自然に動いた。  
(これが、獺の血なんだ──)  
 水に沈みかけた建物の壁にしがみ付き、ルルカは水面に顔を出した。  
(せっかく着いたのに……。これじゃだめなんだ)  
 ルルカの小さな体は、濁流に流され、助けを求める人々の待つ建物よりずっと下流に流されていた。  
鎖を三度引いて合図をすると、対岸のウォレンたちがルルカの体を引き戻した。  
「大丈夫か?」  
「やはり無理なんじゃ……」  
「心配しないで。次は、きっとうまくいくから──」  
 水に流されるのが分かっているなら、上流から飛び込めばいい。ルルカは建物を伝って走ると、再  
び濁流に身を投げ込んだ。  
 水流を受ける胸環の鎖の先で、ルルカが泳ぎやすいようにウォレンが鎖の長さを調整してくれてい  
ることが分かる。ずっと自分を縛りつけていた鎖が、今はウォレンと繋がっていることを頼もしく感  
じる。鎖の先にウォレンが居る、そのことがルルカに勇気を与えていた。  
 
(今度はうまくいったよ……)  
 水流から体を跳ね上げるようにして沈みかけた建物の壁に手を掛けたルルカは、その屋上に顔を出  
し、ふっと息をついた。大きな帆布を被り、身を寄せ合う人々の姿が見えた。  
 
「助けに来ました。自警団が来ています。  
 一人ずつ、対岸から鎖で引き上げます」  
 濁流の轟音に掻き消されそうになりながら、ルルカはありったけの声で叫んだ。しかし、帆布の下  
でしゃがんでいる人たちは、互いに顔を見合わせているようだが、誰一人動こうとしなかった。  
 
「お願い、私の言うことを聞いて。  
 時間が無いの……」  
 鎖の長さに思ったほど余裕が無く、ルルカはそれ以上彼らに近寄れない。  
 ルルカがもう一度大きな声を張り上げても、返事は無かった。  
(どうして──?)  
 自分が獺だから、信用してもらえないのか。やはり人々の心の中に獺族に対する憎しみが残ってい  
るのか。いや、単に言葉を話す獺を目の前にして戸惑っているのかもしれない。あるいは、恐ろしい  
濁流に怯えるあまり、望みを捨ててしまったのか。引き上げると言われても、助かる保証は無い。最  
初の一人になるということは、恐ろしく勇気の要るものなのだ。  
 諦めるわけにはいかない。もう一度叫ぼうとしたルルカの目に、近寄る一人の女性の姿が映った。  
美しい原色の繊維を散りばめた布を巻き付けたような民族衣装。赤茶色の美しい毛並の持ち主──。  
 
「あなた、あのときの──」  
 そう呟いたのは、あの"おつとめ"の日、ルルカに軽蔑の目を向けた狐族の女性だった。  
 
 
 
次回、かわうそルルカの生活 第九話『ありがとう、そして』  
 
ルルカの決断は、自分の寿命と引き換えに人々を救うことだった。  
そんなルルカに、街を治める狼族と豹族は残酷な審判を下す。  
『覚悟をしていたことなのに……。  
 見返りを求めたわけではないのに……。  
 どうして、涙が止まらないんだろう──』  
 

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