【9】 −ありがとう、そして−  
 
 決壊したダム──獺の水瓶から溢れた水はシエドラに押し寄せ、街を飲み込んだ。濁流は、肉食獣  
が鋭い爪で獲物の体を抉るように、シェス地区にある石の建物の中腹を削っていた。  
 足元の石のタイルが、建物に叩き付ける水に揺さ振られ、ぶるぶると震える。救助のために建物の  
屋上まで泳ぎ着いたルルカは、呆然と立ち竦む。怖じ気づいたわけではない。思わぬ人物との再会に、  
体が硬直して動かない。  
 時間が無いのに──。  
 逃げ出し寄り添う人たちの中から一人、ルルカの前に歩み出たのは、美しい原色の糸が織り込まれ  
た布を纏った女性だった。厚い雲の下の夕闇ほどの暗さの中でも、はっきりと分かるその衣装に、  
ルルカは見覚えがある。その衣装が霞むほどに美しい、赤い毛並の狐族の女性は、馴鹿族の宿へ向か  
う道中でルルカに惨めな思いをさせたあの人物だ。  
 どんな相手であっても、助けなければ……。そう思うルルカであったが、いざ言葉を掛けようとし  
ても、声が出なかった。彼女にまた侮蔑の目を向けられるのではないかという恐れが心の中にあった。  
ルルカはあのときと同じ、全裸に鎖の垂れた胸環と、下腹部の焼き印の痕も露わな姿で立っているの  
だ。  
 互いに身を硬くして見詰め合い、互いに掛ける言葉が見付からないもどかしさを抱える。そんな均  
衡を先に崩したのは、狐族の女性の方だった。  
「何故、あなたがここに──?」  
 その問いに救われたような面持ちで「助けにきました」と答えるルルカに、女性は「違うの」と首  
を振った。  
「そういう意味で言ったんじゃなくて……」  
 女性は膝をつき、ルルカの足元に顔を伏せて、わあっと泣き始めた。  
「ごめんなさい、ごめんなさい……。  
 あなたには酷いことを言ってしまった。  
 言葉が通じるなんて、知らなかったから──」  
 緊張が一気に緩んだ。ルルカの心の中に有ったわだかまりも、あっさりと消え去っていく。  
「そのことは……、もういいのに」  
 ルルカも四つ足になって狐族の女性と顔を向き合わせ、泣かないでと言った。  
「それより、急がないと」  
「そうね。皆はあなたの姿を見て、獺が復讐に来たんじゃないかって言ってる。  
 水に引き込まれて殺されるんじゃないか、って」  
「そんなこと……」  
 ルルカの呼び掛けに誰も答えなかったのは、そんな誤解からだったとは。ルルカは胸環にしっかり  
と固定された鎖を見せ、自分がウォレンの指示で行動していること、ルルカが復讐などせずとも、あ  
とわずかの時間でこの建物が粉々に砕けてしまうであろうことを必死に訴えた。  
「うん、分かってる。あなたがそんなことをするはずがない。  
 だって……、私は知ってるの。言葉を話せる獺がどうなるか──」  
 そう言われて、ルルカもはっと息を飲んだ。気持ちの高揚で意識の外に追いやっていた死の恐怖が  
甦る。ルルカは忘れようと頭を振った。今はそんなことを考えている場合ではない。彼女らを助けら  
れなければ、ルルカの決意は無駄になってしまう。  
「私たちは皆、獺族に酷いことをしてきたのに」  
「いいの。私もシエドラの一員なんだって、思えるようになったから」  
 
 もう一度、時間が無いことを告げると、女性は自分が皆を説得すると言い、屋上に逃げている人た  
ちをルルカの前に連れてきた。シェス地区を歩いたあの日、ルルカの頭を撫でた豹族の少年とその母  
親、白髪が混じって全身が灰色になった黒豹族の老夫婦、角の先がすり減ったアンテロープの老夫婦、  
そして年長のクズリ族の少年。全部で八人。  
 ルルカは、ウォレンに言われている通り、女性と子供を優先して助けること、水を吸って重くなる  
衣服は全て脱いでもらうことを伝えた。状況は十分に分かっているはずなのに、それでも皆、顔を見  
合わせ、躊躇している。ルルカが泳いで来たといっても、轟音を立てて目の前を流れる水に飛び込ん  
で本当に助かるのか、保証は無いのだ。  
「ほら、みんな、彼女を困らせないで」  
 焦るルルカの目の前で、狐族の女性が衣服を脱ぎ始めた。美しい裸身が露わになる。薄い赤茶色の  
毛とはっきり境目の分かれた純白の腹部。雨水を吸う前のふわっとした豊かな胸毛とそのすぐ下にあ  
る形の良い乳房に、ルルカは目を奪われた。  
「きれい……」  
 すっかり衣装を脱ぎ捨てた狐族の女性は、ルルカの頬を撫でてにっこりと笑う。  
「あなたの体だって素敵よ。男たちが夢中になるのも分かる。  
 そうね、私は獺たちに嫉妬を感じていたのかもしれない……」  
 
 この後、どうすればいいのと彼女はルルカに問う。  
「私を抱いて、二人の体に鎖を一周させたら強く握って」  
 ルルカと狐族の女性は向き合って立った。背丈はやはり二倍近くの差があるが、獺族の特徴である  
短い手足を除けば、胴の長さはそれほど大きく違わない。女性に抱き付くように手を伸ばしたルルカ  
は、彼女の体が小さく震えていることに気付いた。  
「お腹に子供がいるの。死にたくない……」  
 ルルカにだけ聞こえる声で、彼女は言った。  
(子供──?)  
 ルルカは体の芯が熱くなるのを感じた。手を伸ばして、女性の真っ白なお腹にそっと当てた。狐族  
の美しい白い腹部が、少し膨らんでいる。  
(ここに、新しい命が……)  
 母からオトナの衣装をもらったあの日、感銘を受けた命の連鎖の具象が、今、目の前にある。その  
ことにルルカの心は震えた。何があっても、これを絶やしてはいけないと思った。この命を救うこと  
で、生命の連鎖の中に自分も身を置くことができる。自身は決して新たな命を宿すことの無い体だと  
しても──。  
(守らなきゃ……)  
 そうすることで、ルルカはずっと憧れていた、生命の誕生の神秘に触れることができるような気が  
した。  
「必ず助けるから。私を信じて。私と……、ウォレンを!」  
 
 鎖を三度、引いて合図を送ると、ルルカは女性と一緒に濁流へ身を投げ出した。  
 戻るときはウォレンたちに引いてもらうだけといえばそうなのであるが、ルルカは水の流れを感じ、  
なるべく抵抗を受けないよう尾で舵を取った。  
 互いに強く抱き合い、ルルカの胸は狐の女性の胸に押し付けられていた。  
(何で女性にはおっぱいがあるんだろう──?)  
 命がかかってる場面だというのに、そんなことを考えている自分がおかしかった。陸上ではただ水  
の気配を感じるくらいだった獺族の長いヒゲにも役割があった。女性の乳房が膨らんでいるのにも、  
意味があるのだろう。乳首や股間の突起が敏感なのもきっと、そんな風に体が作られているからに違  
いない。  
 この世に意味が無いものなんてない。自分のこの命も、きっと──。  
 そんなことを考えているうちに、気付けばウォレンの大きな腕がルルカと狐族の女性を引き上げて  
いた。  
「よくやった、ルルカ。あと何人居る?」  
「残り七人だよ、任せて」  
 ルルカの顎の下から掻き上げるように手を差し出し、ざっと撫でてくれるウォレンの大きな手の平  
に頭を擦り付け、ルルカは再び、走り出す。  
 
 子供を先に、というウォレンの言葉を伝えるルルカに、自分は遠くまで行けない者たちを援助する  
ために残ったのだから最後でいいと言い張って聞かないクズリ族の少年を見て、嬉しくなる。異種族  
同士が支え合うのがシエドラの流儀なら、自分もその一員になれると思った。  
 いよいよ、その最後のクズリ族の少年の番になった。彼はルルカを前にして落ち着かない様子で顔  
を逸らす。  
「どうしたの? 怖い?」  
 思春期のクズリの少年は、裸のルルカを抱くのが恥ずかしくて堪らないのだ。そのことに気付いた  
ルルカは、優しい気持ちになって、ふふっと笑った。  
「行くよ……」  
 
 ルルカと少年が引き上げられた直後、背後で大きな音が響いた。側面を削り尽くされた建物は、  
粉々に砕け、濁った水に沈み、押し流されていった。  
(そうだ、ウォレンは……?)  
 崩れる建物を呆然と眺めていたルルカは、救助した人たちを安全な場所へ運んで行ったと思われる  
ウォレンの姿を探した。いつの間にか胸環の鎖が外されている。自由に歩いてもいいのだろうか?  
 歩を進めようとしたルルカは、地面がぐらぐらと揺れているような感覚に囚われた。今居る建物が  
揺れているのではない。足元が覚束ないのだ。数歩、ふらふらと歩いて、ルルカはぺたんと尻餅をつ  
いた。  
(体に力が入らない……)  
 ほっと一息をついたと同時に、ルルカの身に疲労感が押し寄せていた。いくら水の中で暮らしてい  
た種族の末裔とはいえ、激しい濁流の中を何度も泳いだのだ。限度を超えて酷使した肉体が悲鳴を上  
げていた。鎖を掴み続けた指にもほとんど感覚が無かった。  
 シェス地区を囲む高い建物の屋上は水流の中に浮かぶ島のようになっていた。そこに、騒ぎを聞き  
つけた人々が集まってきている。雨は気付かぬうちに止んでいた。街の路地という路地を満杯に満た  
している水も、じきに引くだろう。ルルカの居る建物の広い屋上に、木のやぐらが組まれ、暖を取る  
ために火が点けられた。  
 
 人と人の隙間に、ウォレンの姿が見えた。狼族の一人が、ウォレンに赤い上着を手渡そうとしてい  
る。ウォレンは手を振って、このままがいいと言っているようだ。衣装の色は、狼族の階級を示すも  
のだった。おそらくあの赤い衣装は、強い信頼を受ける地位にあるごく少数の者にだけ与えられるの  
だろう。ウォレンは、自分の想像以上に素敵な男性だった。そのことが嬉しい。  
『(ウォレン……、好きだよ)』  
 思わず顔が熱くなるような恥ずかしい言葉。本人にはもちろんのこと、誰にも聞こえないように小  
さな声で、それも獺語で呟くつもりだったのに、ルルカの口からは音が出ていなかった。  
(あれ……?)  
 こんなにも疲れてたんだ──。  
 仰向けになって空を見上げる。手足をだらりと開いて、ルルカはしまったと思った。疲れた体は、  
もう休ませてくれとでも言いたげに、ルルカの意思を拒絶する。しばらくこのままで回復を待たねば、  
起き上がることすらできそうになかった。  
 手足の感覚が無くなってくる。毒針を打たれたときの痺れるような感じとは違う。牝獺の体にいず  
れ訪れるという硬直が起これば、こんな風になるのだろうか。ルルカは突然、不安に包まれた。そし  
て、その不安は別の形で現実のものとなるのだった。  
 
(ウォレン……?)  
 気配を感じた。それは確かに想いを寄せる狼のものだ。彼が、仰向けになったまま動けないルルカ  
の尾の近くに膝を突き、見下ろしているのが、毛皮の擦れる音で分かる。労いの言葉くらいは掛けて  
もらえるだろうと期待したルルカは、ウォレンがいつまで経っても口を開こうとしないことを不審に  
思う。不安になって動かない頭を必死で持ち上げたルルカは、目に飛び込んできたものに驚いた。心  
臓が破裂しそうなくらいに脈を打ち始める。  
(ウォレン、どうして……!?)  
 ウォレンは股間をはだけ、狼族特有の巨大なペニスを露出させていた。両腕でルルカの足を抱え、  
引き寄せる。そして自由の利かないルルカの体に、その肉の槍をいきなり突き立てた。  
 ルルカの喉から、ぐうっと押し潰されるような音が出る。連日の雨でほとんど犯されることのなかっ  
た膣は締まりを取り戻しており、引き攣るような痛みが走った。子宮の入り口まであっさり到達した  
ペニスの先端は、そのまま躊躇なく女性の象徴である器官を貫いた。胃を突き上げる衝撃がルルカを  
襲う。ずっとルルカが望んでいたものが与えられようとしているのに、何かがおかしいと思った。  
(どうして? どうして──?)  
 何故、ウォレンは今ここでルルカを犯さなければならないのか?  
 パチパチという薪の弾ける音が、ルルカの記憶を呼び覚ました。大きな火やぐらの前で裸にされ、  
衆人環視の中、犯される自分──。これはあの断罪の儀式そのものだ。  
 これは見せしめなのだ。大勢の前で、牝獺に立場を思い知らせるための。  
 間違いない。最後の審判が下されたのだ。それも、ルルカが慕ってやまないウォレンの決断によっ  
て──。  
 
 ルルカの体の奥までペニスを突き入れ、ウォレンはゆっくりと腰を揺すった。ペニスの根本が大き  
く球のように膨らんでくる。ルルカの体は狼の股間に繋ぎ止められてしまった。  
(どうして?  
 何をしようとしているの?  
 ウォレン、答えて──)  
 必死で訴えようにも、声が出なかった。  
 動きを止めたウォレンはルルカを抱きかかえた。体を抱え起こされ、ルルカの小さな頭は仰け反る。  
周囲の様子が逆さまになった視界に映る。遠巻きにして見守るシエドラの住人たち。すぐ傍に立つ、  
数人の豹族と狼族の男たち──。  
 
 獺槍を手にした豹族の男が言った。  
「ウォレン殿、体を起こして牝獺の腹をこちらへ向けて下さい。  
 そのままでは処置ができません──」  
 
 水に浮かんだ島のようになった建物の屋上の一つで何かが行われようとしていることに気付き、  
人々が集まり始めた。ルルカたちを遠巻きに囲い、人垣ができる。仰向けになって狼にペニスを突き  
込まれている牝獣が、逃げ遅れた人たちを救った獺であることに、誰もが気付いていた。彼女が公用  
語を話せるという噂も、もう人づてに広まっていた。狼族と豹族が牝獺を取り囲む様子を見て、人々  
はもう一つの断罪の儀式が行われようとしていることに気付いた。  
 多くの人は知らない、ゆえに固唾を飲んで見守った。この世界に居てはいけない、言葉の通じる獺  
がどういう処遇を受けるのか。その末路は──?  
 
 ウォレンの行為に動揺していたルルカは、豹族の言葉を聞いて自分の置かれた状況をはっきりと  
悟った。悲しいほど冷静に、これからその身に起こる出来事を想像する。ウォレンはペニスを挿入し  
たまま、ルルカの体を半回転させ、抱え起こすだろう。かつての儀式のとき、惨めな牝獺の姿を観衆  
に晒すためにそうしたように。  
 "加工"を施されるとき、十字架に磔にされるというのはルルカの想像に過ぎなかった。実際にはこ  
んな風に犯され、性奴隷の身分であることを噛み締めさせられながら処置を受けるのがシエドラの牝  
獺の定めなのかもしれない。ルルカのまぶたに、ミルカの姿が浮かんだ。あの青い衣装の狼に犯され  
ながら、乳首と股間の突起に金属の装飾を施されていくミルカの姿が。  
(ミルカ、私もあなたと同じ姿になるよ……)  
 言葉を話せる獺に対してだけ、このような形が取られるのかもしれないが、そのことはルルカに  
とってどうでもよかった。自分とそっくりな牝獺の存在が、ルルカの想像を鮮明なものにしていた。  
 先ず、最初に喉に毒針が打たれ、声帯が潰される。そうなれば、もうウォレンの名前を呼ぶことも  
できなくなる。ルルカは最後にその名を口にしようとしたが、疲れ切った喉からは、微かに空気が漏  
れるだけだった。  
 声を奪われた後は、敏感な部分への施術が行われる。乳首が先だろうか、陰核が先だろうか。いず  
れにしても、これまで感じたことのない恐ろしい痛みが三度、ルルカの身を襲うのだ。  
 
 怖い──。  
 ルルカは目を閉じる。こうなることはルルカにも分かっていたはずだ。受け入れなければならない。  
これがシエドラに生きる牝獺の定めであり、何よりウォレンの決断なのだから。  
 当のウォレンは、ルルカの子宮の奥にペニスの先端を強く押し付けたまま、身動きを止めていた。  
狼族のペニスは、多くの種族の中でもその大きさと形状で牝獺の体を完全に固定してしまうのに都合  
がいい。この役目はウォレンでなくともよかったのだろう。だが、ウォレンは自らその役目を買って  
出た。  
 ウォレンの決断はルルカにとってあまりにも残酷だ。長く待ち焦がれた狼との交尾に、本来であれ  
ばルルカは歓喜に包まれてもおかしくなかった。事実、肉体は無意識に反応し、ウォレンを包む膣の  
粘膜はねっとりとした液体を染み出させている。そのことが一層、ルルカの胸を締め付けた。  
(ウォレン、まだ射精はしないの?)  
 いつもの交尾とは違って、ただルルカを貫くだけのウォレンの態度が物語っている。これは、ルルカ  
に身分を思い知らせるための行為なのだ。身分を──。  
 
「ウォレン殿……」  
 豹族の男が、再びウォレンに催促する。無言のままのウォレンに痺れを切らしたように、無数の手  
がルルカの体に伸びた。荒々しくルルカの灰褐色の毛皮の上を這い回る手が、ぱっくりと口を開いた  
性器を模した焼き印の痕を擦り、ウォレンと結合している部分へ潜り込んでくる。男の指が、ルルカ  
の陰核の大きさを確かめる。陰核の根本をほどよく締め付けるサイズの金属プレートを選ぶためだ。  
ウォレンに貫かれ、数日振りの性の刺激に反応した体はルルカの意思とは独立した生き物であるかの  
ように激しい興奮状態にあった。摘まれ、容赦の無い刺激に痛みを感じる陰核は、膨れ上がり、赤い  
宝石のようになっているだろう。乳首も捏ね回されるようにして大きさが確かめられる。  
 ルルカは呻いた。  
(いよいよだ……)  
 
 力なく横倒しになった顔が、ルルカを囲む群衆の方を向いていた。そっと目を開けたルルカの瞳に、  
色とりどりの衣装を着たシエドラの住人の姿が映る。ルルカは自分が助けた人たちの姿を探したが、  
見当たらなかった。せめて、彼らの無事を確かめておきたかったのに……。  
 涙が次から次へと溢れ出してくる。  
 
(覚悟をしていたことなのに……。  
 見返りを求めたわけではないのに……。  
 どうして、涙が止まらないんだろう──)  
 
「ウォレン殿、準備はできています。そろそろ……」  
 豹族の言葉が耳に届いたそのとき、ルルカはお腹の中まで揺さ振るような強い地響きを感じた。洪  
水が生んだ濁流が、残った建物までも飲み込もうとしているのではないかと思った。  
 
 体がふっと宙に浮いて、ルルカは今居る建物の天井が崩れたのかと思ったが、そうではなかった。  
ウォレンがルルカを強く抱きかかえていた。  
「ウォ……レン……?」  
 ルルカのお腹の中にまで響いてくるのは、太古の野生獣の怒りそのもののようなウォレンの唸り声  
だった。  
「触るな!」  
 首筋から背中にかけての毛の塊をこれまでにないほど激しく逆立て、ウォレンが叫んだ。  
 ウォレンの剣幕に気圧され、ルルカを囲んでいた男たちが飛び退くように数歩、下がる。何が起き  
たのか理解できない顔で、牝獺と狼の姿を眺める。戸惑っているのはルルカも同じだ。  
「この牝獺に触るな。今、この娘に触れていいのは俺だけだ!」  
 ウォレンが再び怒声を上げると、シエドラの治安を任された最高位のこの狼が本気で怒っているこ  
とに畏れを感じた者たちは、取り囲む群衆の前まで後ずさった。獺槍を持っていた豹族の男は、思わ  
ず落とした槍を拾おうともせず、おずおずと距離を取る。  
 誰も近寄らないように周囲をひと睨みしたウォレンは背を曲げ、ルルカの小さな顔に鼻先を寄せた。  
「すまない、またお前を怖がらせてしまった」  
(えっ……?)  
 どういうこと──?  
 ウォレンの行動が示すのは、彼が今ここでルルカを裁く気はないということだ。言葉を話す牝獺を  
処分しようとした者たちを、ウォレンは退けた。では、何故、ウォレンはこうしてルルカの体を貫い  
ているのか。  
「じゃあ、どうして……」  
 ルルカは、声が出せることに気付いた。体力が少しずつ、回復してきている。ルルカはウォレンの  
行為の意味を問いただした。断罪が目的で無いのなら、何故、皆の前でルルカを犯す必要があるのか。  
 
「それは、お前が……、可愛いから……」  
「えっ?」  
 小声で答えたウォレンの言葉に、ルルカは戸惑う。  
「お前だって、分かっているんだろう?  
 これが、本来は好きな者同士がする行為だってこと──」  
「え──、うん……」  
 反射的に答えたルルカの頭の中は混乱していた。初めて見る、ウォレンの恥ずかしそうな表情。い  
つも分からなかった狼族の表情が、何故だか見て取れる。無機質な響きの公用語に載せられた強い感  
情の起伏が、今のルルカにははっきりと聞き取れる。  
 好きな者同士が──、する行為──?  
 ウォレンの言葉の意味を理解したルルカは、顔がかあっと熱くなるのを感じた。  
(つまり、ウォレンが私のことを……?)  
 
 突然のことにどういう反応をしていいか分からないまま呆然とするルルカを、ウォレンはさらに強  
く抱き締めた。  
「俺はあの儀式のとき、お前が他の牝獺を庇ったのを見た。  
 毒針を打てと腕を差し出したのを見た。  
 お前は──、  
 素晴らしい女性だ。いや、獺族ってのは皆、そうなんだろう。  
 獺が俺たちと変わらない心を持っているなど、誰も思っちゃいなかった。  
 考えれば分かりそうなことなのにな。  
 それでも、古くから続く慣習に逆らう道理が無かったんだ。  
 お前が言葉を話せると知ったとき、俺は思った。  
 お前なら、有事の際に獺たちを統率できる。俺の指示を伝えられる。  
 だから、何度も街を連れ回した。  
 その期待に、お前は応えてくれた。いや、それ以上に……」  
 
「俺は──」  
 ウォレンは体を起こし、今度はルルカにではなく、取り巻く人々に呼び掛ける。  
「シエドラ周辺の獺族の史跡を調べている。  
 そこに、彼らと共存する道が示されていると思うからだ。  
 この牝獺は、シエドラの仲間を洪水から救ってくれた。  
 それでもお前たちがこの娘を許さないというのなら、  
 言葉を話す獺の存在が認められないというのなら……」  
 ウォレンは大きな胸にいっぱいの空気を吸い込むと、ひときわ大きな声で宣言した。  
「今ここで、俺の体ごと、この娘を槍で貫くがいい。  
 こいつを一人だけ、死なせたりはしない──」  
 
 人々の間に動揺が走るのが、空気を伝ってルルカにも感じられた。誰もが耳を疑いながらも、かね  
てより信頼してやまないウォレンに逆らうことできずにいた。ただ、無言で立ち尽くすばかりだ。  
「これでしばらくは邪魔をするものは居ないだろう」  
 ウォレンが気を回すまでもなく、すでにルルカは周囲の様子を意識していなかった。自分を抱く狼  
のことしか目に入らなくなっていた。  
(ウォレンが私を──? そんな、まさか……)  
 今、耳にしていることは、夢なのではないだろうかと思った。  
 観衆たちと同じようにウォレンの宣告に戸惑うルルカの頭をゆっくりと撫で、彼は優しい声でルルカ  
に語りかける。  
「星を見に行ったときのことを覚えているか?」  
 ルルカはどきっとする。異種族との交尾の中で初めて感じた淡い快楽を思い出した。  
「シエドラの街並みを見下ろすお前の横顔があまりにも可愛くて、  
 俺は欲望を抑えられなかった。  
 体を重ねる度にお前のことが好きになった。  
 広場に繋がれたお前を、死なせたくないと思った。  
 だから、何度も連れ出した。  
 狼族との交尾なら、お前は体を休めることができるからな……」  
(うん、知ってたよ……)  
 ルルカは、ウォレンが今こうしていることの理由に気付いた。ウォレンの口からもはっきりと聞い  
た。彼が自分を好きなのだと──。  
 こんな状況なのに自分を抱きたいと思ってくれたこと、それは嬉しいことのはずだ。  
 嬉しい──?  
 意識したとたんに体が熱くなる。そう、嬉しい。本当に。  
(私だって、ウォレンのことが好きだから)  
 あまりの嬉しさに涙が溢れてくる。ルルカは改めて、膣の入り口から子宮の奥までしっかりと満た  
し、小さく震えるように脈動するウォレンの分身をはっきりと体内に感じ、熱を帯び始めた性器で優  
しく締め付けた。  
「ずっと守ってくれてたんだね、ウォレン。  
 ありがとう」  
 本当は気付いてた。だけど、自分は獺だからと否定し続けていた。  
 お礼を言わなければと思っていた。  
 やっと言えたよ──。  
 
 顔を見上げようとして身を捩るルルカに気付き、ウォレンが腕を伸ばすと、その手に体を預けてい  
たルルカは、彼の豊かな毛に包まれた大きな胸に向き合う姿勢になった。すでに乾き始め、ふかふか  
になった灰色の被毛。体が動く。疲れが徐々に癒えてきている。ルルカは思わずウォレンの胸に手を  
伸ばそうとして、引っ込めた。憧れていた彼の毛並。しかし、シエドラの牝獺は、交尾をしている相  
手の体に触れてはならないという掟が、ルルカを躊躇わせる。  
「どうした?」  
 ウォレンが優しく問いかける。  
「触っても……、いいの?」  
「ああ、触っていいんだ」  
 言われるままに、ルルカは手を伸ばし、柔らかい綿のような毛にてのひらを埋める。そして自分か  
ら、ウォレンの体にぎゅっと抱き付いた。ルルカは、初めてのときに一度だけ、こうしてウォレンに  
抱き付いたことがあったのを思い出す。あのときと違って、彼の体に爪を突き立てることはなかった。  
優しく体を支えてもらっているのだ。  
 ウォレンは少し腰を浮かすと、狼族特有のブラシのような尻尾を巻き込んで、ルルカのお尻をそっ  
と包んだ。ウォレンの尾に、ルルカは自分の尻尾を絡ませる。  
「こんな風にお前と交尾をしてみたいと思ってた」  
「私も……」  
 ルルカはウォレンの長い胸の毛に指先を絡めた。同時に、ウォレンの射精が始まる。お腹の奥を優  
しく叩くような脈動にルルカはうっとりとする。異種族の自分の体に精を注ぎ込んでくれることが嬉  
しくて堪らない。  
「ウォレン、ありがとう。こんな私に……」  
 ルルカの中に強い感情が渦巻く。  
(ありがとう、うれしい、気持ちいい、好き……、大好き、そして──)  
 胸の奥から言葉が込み上げてくる。きっとこのときのために、母がルルカに教えてくれたのだと思  
う。一番大切な感情を表す言葉、それをウォレンに言いたくて堪らない。  
 
「ウォレン──、愛してる」  
 
 小さな獺からの大きな告白に、狼は間髪を入れず、応える。  
「俺もだ」  
 ウォレンはそう言って、愛しい牝の獺に顔を寄せる。  
 二頭の獣は、そうすることが自然であるように、互いの口を近付けた。  
 舌と舌がそっと触れる。温かい感触と、ぞくぞくするような快感が体を貫く。  
 教わらなくても分かる。その言葉が、こうして体を合わせ繋がること──交尾という行為そのもの  
を表す言葉を兼ねていること。  
 ルルカとウォレンは、初めて本当に愛し合っていた。  
 
(気持ちいい……。ウォレン……)  
 ルルカはウォレンの体にゆっくり腰を押し付け、ときおりぶるっと体を震わせた。街の男たちを喜  
ばそうとしていたときのように、ウォレンのペニスを刺激する。ただ、それはルルカが意図的にやろ  
うとしているのではなく、体が勝手に動いてしまうのだ。股間の突起がウォレンの体に触れると、痺  
れるような快感が体中に広がる。久し振りに感じる、交尾の歓喜。ウォレンとの交尾の中でだけ感じ  
ていたそれは、いつもよりずっと激しくルルカを突き動かす。  
 いつだったか獺の窯牢の中で予感した、快楽の先にあるもっと強い感覚がすぐ近くに、手の届きそ  
うなところにあるような気がした。ルルカはウォレンに抱き付いたまま、激しく喘いだ。その感覚に  
どうしたら辿り着けるのか分からない。もどかしさがルルカを包む。ウォレンはそんなルルカの様子  
に気付いたようだった。  
「どうした、ルルカ? イッてもいいんだぞ」  
「……行くって? どこへ?」  
「いや、そういう意味じゃなくて……」  
 生まれてから一度も性感の極みを迎えたことのないルルカには、ウォレンの言葉が何を意味してい  
るのか分からないのだ。  
 
「そうだ、これはお前に失礼だったな」  
 ウォレンはそう言って、腰を宙に浮かすと、下半身を纏う衣装を器用に脱ぎ捨てる。  
「え……?」  
「これで、同じ姿だ」  
 ルルカはウォレンと体が繋がっているあたりに目を落として、ドキッとした。二人は完全な裸で抱  
き合っている……。ウォレンが伝えたいことが分かって、ルルカの胸は熱くなった。これまで恐ろし  
いと思っていた、獺族の自分よりもずっと大きな異種族の体。今は怖いと思わない。愛されているこ  
とを知った今では、その大きな体格の力強さと優しさに、ただ惹かれた。  
 そしてウォレンは、こんな獺の自分と対等だと言ってくれているのだ。  
 嬉しい──。  
 ルルカは、おねだりをするように腰を揺さ振った。人目を憚らず、小鳥のような可愛らしい獺の声  
で喘いだ。  
「ああ、ウォレン、私……、恥ずかしい……」  
 でも、昇り詰めたい。そのためにどうしていいのか分からない。  
「恥ずかしがることなんてない。  
 お前の体は、喜びを感じるようにできているのだから──」  
 
 そのウォレンの言葉が合図になったかのように、「それ」はルルカの体の奥から湧き起った。股間  
の突起に感じていた快感が油を注がれた火のように強くなり、そのまま全身に広がっていく。頭の先  
から足の先、尻尾の先端まで強い感覚に包まれ、頭が真っ白になる。ルルカの性器はすでに奥まで押  
し込められたウォレンの体をさらに深く迎え入れようと、脈動する。  
(ああ、ウォレン、ウォレン……)  
 背中を仰け反らせ、尾をぴんと張り詰めたルルカは、そのまま気を失ったかと思った。実際にはほ  
んの短い時間、あまりに強い快感に我を忘れていたようだ。涙が次々に溢れ出た。嬉しくて堪らない。  
全身が喜びに満ち溢れている。やっと感じることができた、快楽の先にあるその強い感覚。これが  
ウォレンの言う「イク」ということなのだろう。一人では得られなかった。ウォレンと二人で初めて、  
到達できた。二人だから──。  
 意識が戻った後も、まだびくびくと痙攣を続けているルルカの性器に刺激されているのか、ウォレン  
が吐き出す精液も、いつもよりずっと激しいように感じる。  
(ウォレンも気持ちいいの? 嬉しいよ……)  
 そう思った次の瞬間には、ルルカは再び絶頂を迎えていた。快楽の波が過ぎ去ると、ルルカは  
ウォレンが変わらず優しく抱き続けてくれていることに気付く。その手の温もりを感じて、またルルカ  
は身を仰け反らせる。ウォレンの手が、ルルカの頭をそっと包む。慈しむように背中を優しく掻く。  
滑らかな尾を、楽器を奏でるように撫でる。その度に、ルルカは何度も何度も絶頂を迎えるのだった。  
 
 長い交尾の時間が終盤に近付く頃、狼族の長い射精を体に受け続け、すでに体力を消耗していた  
ルルカは、息も絶え絶えな様相でウォレンにしがみ付いていた。腕の中で小さく身を震わせるルルカ  
を優しく抱きながら、ウォレンは最後の前立腺液をルルカの体の奥に流し込んだ。  
 
 ウォレンが肩を喘がせるルルカの体をそっと降ろして立たせると、二人を取り囲む群衆の中から、  
拍手が起こった。小さな拍手の音は連鎖をするように広がり、やがて周囲を包む大音響となる。その  
音が鳴りやむまでルルカは呆然と立ち尽くしていた。  
 
「ウォレン、これって……」  
「まあ、落ち着くところに落ち着いた、という感じだな」  
「それじゃあ、ウォレンはこうなることが分かってて……?」  
「最悪の結果だってあり得たさ。覚悟はしていた。  
 誰も、自分の中の常識を覆すには相当な勇気が要るものだからな」  
 
 ジエルも言っていた。シエドラの住人を縛っているのは、古くからの慣習だと。ルルカもその呪縛  
に囚われていた。狼が獺を好きになるはずが無いと。ウォレンが自分に好意を寄せているかもしれな  
いことなど、想像もしなかったのだから。  
 今はとても素直な気持ちで言える。誰にも憚ることはない。この獺と狼が互いを好きであるという  
こと。愛し合っているということを──。  
 
 ルルカは自分の股間に手を当て、膣の入り口がしっかりと閉じて、ウォレンの精液を一滴も漏らさ  
ず体内に留めていることを確認して、また嬉しくなった。このまま、彼の流し込んでくれた愛の証は、  
自分の体に染み渡り、同化していく。そのことが無性に嬉しかった。  
 
「ウォレン殿、族長がお呼びです」  
 灰色服の狼族の男がまた、ウォレンの正装である赤い衣装を差し出している。ルルカが、ウォレン  
の精液によって大きく膨らまされた自分のお腹を見詰め、想いに耽っている間に、ウォレンはズボン  
を身に着けていた。ただ、上半身はいつもの通り、自慢の毛並を露出させたままだ。  
「ウォレン殿……、お願いですから、族長の前では上着を着てください……」  
 そう言いながら、狼族の男はルルカにちらちらと視線を送っては、気まずそうに目を逸らす。  
(え……、そうだ。私は裸で──)  
 ルルカは慌てて尻尾を股の間から巻き込むと、股間と胸をしっかり隠して体を丸めた。もう自分は  
性の玩具などではなく、シエドラの人間として扱われているのだと意識した途端、裸で居ることが恥  
ずかしくなった。  
 ウォレンが男の手から赤い上着を受け取り、呆気にとられる男を横目に、それをルルカに着せる。  
「ウォレン、これ……」  
「似合ってるぞ」  
 袖の無いその衣装はルルカの体を首から足元までしっかり包むサイズだ。  
 
「お前たちも皆、服を脱げ」  
 ウォレンは近くの狼族に命令する。  
「ジルフの所へ行って、獺の娘たちにその服を着せてやるんだ」  
 男たちはウォレンの指示に素直に従い、走り去っていく。  
 一人、残ったのは、青い衣装を着けた狼だ。それはルルカもよく知った顔だ。  
 
「ウォレン、お前ってやつは……」  
「ユアンか、お前の分も代弁してやったぞ」  
「それは……」  
 ユアンと呼ばれた青い服の狼は、ウォレンの言葉を聞いて目を見開いた。そして、ルルカに視線を  
投げかける。何かを言いたげな目で、口をぱくぱくさせる。  
(この人は……、もしかして?)  
 会話の調子から、二人が親しい関係であることが分かる。そして、似た者同士であることも想像が  
付いた。  
「気付かないと思ったか? いや、この物言いはおかしいな。  
 気付かれてはいけなかった。  
 狼が獺を庇っているなんてことが知れたら、俺たちだけじゃなく、  
 相手の獺の娘にも制裁が及ぶだろう。  
 だから、本当は好きで堪らない相手に辛い思いもさせてきた。  
 俺も、お前も。  
 同じ隠し事をしている者だけに分かる匂い、ってことさ」  
「俺はどうしたら……」  
「高台であの娘が待っているぞ。早く行ってやれ。  
 そして、あの忌まわしいリングを外してやるんだ」  
「あ、ああ……」  
 走り去ろうとするユアンの背中に、ルルカは声をかける。  
「あの娘は"ミルカ"っていうの。  
 名前を呼んであげて──」  
 
 ミルカは公用語で自分の名前がどういう発音になるのか知らない。それでも、きっと伝わるはずだ。  
(だって、ミルカにとってもあの狼は……)  
 
 ユアンの後ろ姿を見送ったルルカは、ふと不安になった。  
 これからどうしよう──?  
 ずっと繋がれていたルルカには、この先どうやってシエドラで暮らしていくのか、まだ想像が付か  
ない。ウォレンと顔を見合わせる。ウォレンは服の上から、ルルカの胸に手を当てる。  
「お前がいつも乳房の形が崩れるのを気にしていたのは知っている。  
 いずれ、この環も外してやりたいな。  
 もっとも、俺たちが赦された先の話だが」  
「赦される?」  
「まだ俺たちは命を長らえたってだけだ。  
 これから獺族がどうなるか。俺の処分がどうなるか。  
 全て、族長が判断することだ。それが狼族の規律なんだ。  
 他の国や民族との協定の問題もある。シエドラだけの話に留まらない。  
 前途多難といったところだが、まずは何より、この壊れた街の復興だな。  
 獺族の協力も必要だろう。力を貸してくれるか?」  
 ルルカは、大きな声で、「うん」と答える。  
 
「それはそうと、今日のところはどうしたものか」  
 族長の下へ出頭しなければならないウォレンは、ルルカの身柄をどこに預けるか、頭を悩ませてい  
るようだった。ひとまずジルフと一緒に居る牝獺のところへ行け、とウォレンが言ったとき、もう一  
人のクズリ族の男、ジエルが駆け寄ってきた。  
 
「こんな所に居たのか。えっと……」  
「私は、ルルカっていうの」  
 ジエルが言葉を詰まらせた訳を悟って、ルルカはすぐさま答えた。シエドラで一番長い付き合いに  
なるのに、まだ彼に名前を言えてなかった。  
「ああ、ルルカ。息子から話を聞いたんだ」  
「息子って……?」  
「お前が助けてくれたんじゃないか。息子の命の恩人だ」  
「えっ?」  
 ルルカは驚いた。あのクズリ族の少年が、ジエルの息子だったなんて。ジエルは街の反対側、ラムザ  
の市場の方に住んでいると思っていたから、想像もしなかった。実際、ジエルは仕事場である肉の市  
場の近くに住居を持ち、息子とは離れて暮らしていたという。  
「礼を言うぞ、ルルカ。そして、お前の勇気を称えたい」  
 背丈があまりにも違うため、ジエルはほとんど跪くようにしてルルカに抱き付いた。ルルカもその  
大きなクズリ族の体を抱き返す。  
「私の方こそ、あなたにずっとお礼を言いたかった」  
「ん? 俺が何か……したか?」  
 ジエルは、ルルカを自分の家に招待したいとウォレンに申し出た。  
「この娘に魚をいっぱい食べさせてやりたいんだ」  
 
 水が引いた後の街は、荒れ果てていた。市場のテントは全て流されていた。石畳が剥がれ、シエドラ  
全体を網の目のように結ぶ地下水路が露出している。石畳の残骸が瓦礫となり、足の踏み場を選ぶの  
に困るほどだ。ただ、古くからある頑強な建物は、何事もなかったかのような外観で聳え立っていた。  
それでも、浸水した階で生活できるように片付けるには相当な労力が要るだろう。  
 ジエルは、彼の母──クズリ族の少年の祖母が住む家にルルカを誘った。そこはシエドラを南北に  
結ぶ回廊へ続く斜面に在り、水害を免れていた。  
 
 三人のクズリ族と獺一人で囲む食卓。木のテーブルと木の椅子。ルルカにとってこんな食事風景は  
初めてだ。ルルカの前に、魚料理が運ばれてくる。最初は姿焼きだった。ルルカは初めて、魚という  
生き物の形を知った。それがジエルの気遣いだということも分かる。  
「美味しい……」  
 次から次へと出てくる料理を、ルルカは夢中になってお腹に収めた。獺族の旺盛な食欲に、クズリ  
族の少年とその祖母は目を丸くする。  
「魚料理が何でもこんな風に美味いと思ってもらっちゃ困る。  
 俺の腕がいいんだからな」  
 ジエルは大はしゃぎで、「明日から街中の獺に魚料理を配るんだ」と言った。  
 
 日が暮れ、ルルカは寝室の一つを与えられた。隠れ里の住居よりずっと広いと思っていた地下牢の  
部屋よりも更に広いその部屋には、ルルカの見たことが無かったテーブルやカーテン、細々とした調  
度品が備え付けられている。  
 嵐が過ぎて空は嘘のように晴れ渡り、眩しいほどの月明かりが部屋に射し込んでいた。  
 ベッドの代わりに、天井から数本の縄で吊るされた弾力のある布が用意されていた。それはクズリ  
族の伝統的な寝台で、獺族も同じようにして寝ていたのではないかという説があることを、ジエルは  
教えてくれた。  
 寝台の布に包まれると、ルルカは母に抱かれ、揺られていたときのことを思い出す。それはまだ  
ルルカが小さい頃の引っ越しの記憶──。  
 
 夜中に、ルルカはふと目を覚ます。  
 老クズリ──ジエルの母が、起こしてしまったのね、とルルカに謝った。  
「獺族はすぐお腹が空くんでしょう?  
 眠れなかったら、これを食べなさい」  
 彼女はテーブルに籠を置いて部屋を出ていった。  
 
(キイチゴの匂いだ……)  
 ハンモックに揺られながら、月明かりに照らされたキイチゴの籠を見たルルカは、慌てて飛び起き  
る。  
 
「どうしてこれが……?」  
 テーブルに駆け寄ったルルカは、果実が床に転がり落ちるのも構わず、籠を手に取る。  
 シエドラの調度品とは思えない不格好な、それでいて温かみのある手作りの籠。  
 間違いない、この形と手触りは、母が蔓を編んで作った籠だ。  
 
(ジエルが拾っておいてくれたんだ……)  
 いつだったか、ジエルの言った言葉が、ずっとルルカの胸の奥に突き刺さっていた。ルルカの両親  
が、彼女を囮にして逃げたということ。それが真実なのか、ずっとルルカを悩ませてきた。これは彼  
がそうしてルルカを苦しめたことへの埋め合わせなのかもしれない。いや、通訳として牝獺たちを見  
詰め続け、やるせない思いを重ねてきたクズリ族の彼こそ、いつかこんな日が来ることを待ち望んで  
いたのではないだろうか。  
 
 籠に鼻を押し当てると、微かに感じる母の匂い。永遠に失われたと思っていた家族とルルカを結び  
付けるものが、今、この手の中に還ってきた。籠を胸に当て抱き締めると、ずっと思い出せなかった、  
思い出すのを恐れていたあの日の情景が浮かび上がってくる。  
 
『ルルカ、キイチゴを採ってきて欲しいの。  
 特別に、料理をしようと思うから』  
『……料理って?』  
『そうね、普段はしないから、分からないわよね。  
 お菓子を作ってあげる。  
 もうすぐあなたの、誕生日だから──』  
『……お菓子って?』  
 ルルカの脱いだ飾り布と引き換えに、籠を渡してくれる母。  
『それは、帰ってきてからのお楽しみ』  
 
 母は──、  
 記憶の中の母は、優しく微笑んでいた。  
 
 
 
次回、かわうそルルカの生活 エピローグ『いっしょに暮らそう』  
 
獺たちの悲劇の終焉は、新たな時代の幕開け──。  
獺族の語り部ミルカと狼族の族長によって明かされる、  
シエドラの歴史と二つの種族の悲しい過去。  
 

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