あれから一週間が経った。桃姉を思わず押し倒し、正気に戻って逃げ出してから、桃姉のところには一度も行っていない。連絡すら一度も取っていなかった。  
当たり前の話だ。あんな事をしでかしといて、どの面下げて会いに行けばいいのか。  
そう考えていたはずなのだが。  
「なんで俺はここにいるんだろうな……」  
心の中のぼやきがつい口に出てしまった。俺は大きく嘆息し、目の前の安アパートから視線を反らす。  
まあなんというか、会いに来てしまった訳である。  
(会って何したいって訳でもないけど……)  
最初の3日くらいは俺は本気で落ち込んでいて、桃姉にはもう一生会えないと思い込んでいた。  
その様子は西田と大野に死人が動いてると評されるほどで、何かあったのかと聞かれたが、まさか「幼なじみのお姉さんに欲情して襲い掛かった」なんて言える訳がない。  
ただ、2人ともなんとなくそこら辺は察してくれていて、あまり桃姉の話題には触れずにいてくれたのはありがたかった。  
西田がふざけて言っていたような「胸くらい揉んだ」状態になってしまった俺はきっとその手の冗談を受け流せなかっただろう。  
そんな風に凹んでいた俺だったが、4日目辺りからどうしても気になることができてしまった。  
(俺が行かなくなったら桃姉はきちんと生活していけるのだろうか?)  
最初は馬鹿らしいと思った。桃姉だってもういい大人なんだし、俺が行かないなら行かないで自分でなんとかするだろう、と。  
だがすぐに思い直す。なんとかできる人ならそもそも俺が世話しに行くような事になっていないのだ。  
それからの3日間、俺は板挟み状態のまま悶々と悩み続けていた。桃姉の事は心配だが、桃姉に会うのは憚られる。ズルズル悩みを引き摺ったまま、気がつけばこの安アパートに足が向いていたのだった。  
「桃姉の事言えないよなぁ……」  
自嘲するように俺は笑う。  
家政婦扱いは嫌だと桃姉に言っておいて、こうして桃姉の生活が気になって来てしまう。結局の所、俺自身に使用人根性が染み付いてしまっている訳だ。  
 
桃姉の部屋の前に立ち、ドアに手を掛けようとして、俺の手はピタリと止まった。  
やはりまだ踏ん切りがつかない。2、3度同じような行動をして結局開ける事ができず、俺は大いに頭を抱えた。  
来てしまった以上、このまま帰るなんて事はできない。ならばさっさと覚悟を決めて中に入るべきなのだろう。だが、どうしても勇気が出なかった。  
せめて何かきっかけでもあれば……。そう考えていると――  
「うひゃああぁぁぁ!?」  
中から聞こえてくる桃姉のの悲鳴。続いて、ドスン!バタン!ガシャン!という破砕音。  
明らかに何かがあった音だ。血相を変えた俺は今までの躊躇いも忘れて部屋の中に飛び込んでいた。  
 
部屋の中は相変わらず散らかっていた。  
ただ、いつものようにゴミが積んであったり衣類が脱ぎっぱなしといった生活のだらしなさからくる物ではない。  
タンスは倒れ、窓ガラスは割れて飛び散り、棚の上の物が散乱している。洗濯機からはマンガの一場面のように洗剤の泡が溢れ出し、台所ではフライパンの上で黒焦げの何かが煙を上げていた。  
「な……」  
あまりの光景に絶句する。まるで強盗でも押し入ったかのような荒れっぷりに明らかにまともな使用法がなされていない洗濯機と台所。  
そんな惨状の中、部屋の中央には呆然とした表情で桃姉が座っていた。いつも以上にボサボサの髪に目に溜まった涙。腰を抜かしたようにへたり込み、手には何故か掃除機を握っていた。  
「うぅ〜、ハルぅ〜……」  
俺の姿を見つけるやほっと表情を緩めながらベソをかきだす。まるで迷子がはぐれた親を見つけた時のようだ。  
「な、何があった……?」  
どう声をかけていいか分からず固まる俺は、なんとかそれだけ言葉を絞りだした。  
「自分で、家事……しようと思って……でも、洗濯機は泡吹くし、料理は焦がしちゃうし、掃除機かけたら棚ひっくり返しちゃうしで……」  
それでこの惨状という訳か……。さっきの破砕音はそのせいらしい。  
「ここまで何もできない人だとは思わなかったよ……」  
俺は脱力して思わず口から正直な感想が飛び出していた。それを聞いた桃姉は恥ずかしそうに顔を伏せる。一応自覚はあったらしい。  
少し可哀想な気もしたが、まさか俺だって掃除をしたら前より散らかったり、洗濯機から泡を溢れさす人間が本当にいるとは思わなかったのだ。  
と、その時、ボスン!という音と共にフライパンの上の物が新たな煙を吹いた。  
「と、とにかく片付けような!?いつも通り俺が指示だすから!」  
黒煙を上げ続けるフライパン上の物体と泡を吹き続ける洗濯機だけでも放置するのはまずい。  
俺は桃姉を立ち上がらせ、二人でいそいそと惨状への対処に向かった。  
 
二時間後、なんとか人の住む場所の様相を取り戻した部屋の中で、俺と桃姉はこたつにつっぷしていた。  
「つ、疲れた……」  
普段より散らかった部屋を普段より早いペースで片付けただけに二人ともへとへとだった。  
「でも良かったよ〜。ハルがいいタイミングで来てくれて。…………あ  
桃姉が嬉しそうにはにかむが、すぐに思い出したように気まずい顔を作る。  
「あ、えと……」  
その顔を見て俺も思い出す。部屋の惨状や片付けのドサクサで忘れていたけれど、そもそも俺は桃姉の前に顔を出すのも憚られる状態だった。  
「…………」  
「…………」  
互いに貝の様に口を閉ざしてしまい、緩みきった空気が一瞬で緊迫したものに変わっていた。  
俺も桃姉も相手の顔をチラチラ盗み見る事しかできない。しばらく静かな部屋の中にカチコチと時計の針の音だけが響いていた。  
(……黙ってても仕方ないよな)  
このままでいても何も始まらない。元より何か目的があって来た訳でもないが、少なくとも一言謝るくらいはできるはずだ。  
そう考え、俺は意を決して桃姉に向き直った。  
「も、桃姉!」「……ハル!」  
が、二人の声が見事にハモり、互いに次の言葉が止まってしまう。  
「……な、何かな?」  
「いや、桃姉から……」  
気勢を挫かれた俺は思わず話を譲ってしまう。  
「う、うん……。あの……こ、この間の事、なんだけど……」  
「……!」  
射抜かれたような衝撃に一瞬息が詰まる。結果的に同じ話をしようとしていた訳だが、自分からするのと相手から話を振られるのでは大違いだ。それでも俺は先んじて謝ろうと口を開いた。  
 
「あ、あのさ……桃姉!この間は……」  
「私……ハルに謝らないといけないと思って」  
「………………はい?」  
「いや、だから……この間の事をね、ハルに謝ろうと……」  
「ちょ、ちょっと待って!」  
思いがけない言葉に俺は慌てて口を挟んだ。何で桃姉が謝るんだ!?  
だが俺の剣幕に桃姉もまた戸惑ったように言葉を詰まらせる。  
「…………えと、ね……」  
しかし混乱する俺より早く気を取り直した桃姉は、ゆっくり言葉を選ぶように話し始めた。  
「謝らなくちやいけないのは、ハルを傷つけちゃった事……」  
その言葉に俺はますます混乱する。桃姉が俺を傷つけた?俺が桃姉をじゃなく……?  
「その……ハルにお嫁に貰ってとか言ったし……」  
「ああ……」  
確かにあれは地味にキツかった。額面通りに受け取ればすごく嬉しいのに、実際は脈が無いってところが特に。  
「私……ハルの気持ちに長い間気付かないで、無神経なことばっか言ってハルを凄く傷つけてたよね」  
「そんなこと……」  
「ううん、家事してくれるから好きとか、それでお嫁に貰ってとか私が同じ立場だったらやっぱりショック受けるもん」  
しゅん、と落ち込んだように頭を垂れる桃姉。俺は慌てて弁明する。  
「そんな、お、俺だって桃姉にひどいことしたし……」  
「?」  
心当たりがないのか、何のこと?という風に首を傾げられてしまった。  
「ほら、その……勢いに任せてとはいえ、胸……とか、揉んだりしたし……」  
聞いた途端、ぼっと顔を赤くしてしまった。多分俺も同じような顔をしてるはずだ。  
「そ、それは……まぁ、いいとして……」  
「いいんだ……」  
「それでね……ハルを傷つけちゃったから、ハルはもう怒ってここに来なくなっちゃうと……思ったの」  
桃姉の萎んだ声にそんな事ないと否定する事は出来なかった。実際に俺はもう桃姉に会えないと考えていたのだから。  
「だ、だから……家事とかも自分でやらなくちゃって思って、今日やってみたの……もう、その……ハルには、頼れないかも知れないから」  
それがあの惨状の原因か……。ということは元を正せば俺のせいである訳だ。  
「とにかく、そんな風に私はハルを傷つけたから、謝らなくちゃいけないの……ごめんなさい、ハル」  
話が最初に戻り、桃姉は深々と頭を下げ謝罪した。  
「謝らなくて……いいよ。さっきも言ったけど、俺も桃姉を傷つけたと思ってたから」  
「だから、それはいいって」  
「うん、だからさ、お互いに相手を傷つけたと思ってたから、おあいこってことで」  
「おあいこ……うん、そっか。そうだよね」  
俺の言葉に納得したように頷く桃姉。俺も内心でほっとしていた。桃姉の方からの謝罪には驚いたが、これでこの間の事を気にせず前のような関係に戻れると思った。  
が――  
「じゃあ、ここからが本題」  
「え……ほ、本題?」  
 
またも予想外の桃姉の言葉に俺はもう間抜けに鸚鵡返しする事しか出来なかった。  
そんな俺をよそに桃姉は話を続ける。  
「……どんな形でも私はハルの気持ちを知っちゃった。そうしたらもう今までみたいな知らないフリは出来ない。そう思ったの」  
思わずドキリと心臓が跳ね上がった気がした。それは俺が長年待ち続けた答えだ。そして同時に聞くのを避け続けてきた答えでもあった。  
「だから私考えたの、ハルをそういう風に見た時に私の気持ちはどうなのかって」  
「あ、あのさ、桃姉!そんな事より……お、お腹減ってない?俺なんか作るよ」  
「ハル……私、本当に色々考えたの。もしハルがここに来ないなら伝えられないかも知れなかった。でも今日、ハルが来てくれたから言える。だからお願い、黙って聞いて……」  
話を反らそうとした俺の言葉への返事は桃姉の懇願だった。誤魔化せない、そう悟った俺は覚悟を決めて居ずまいを正す。  
「あの、ね……私頭良くないしどんくさいけど、ハルの事色々何日も考えて……ハルが……恋人になった時の事とか想像してみたの。でも……それでもやっぱり……一番しっくりくるのは、ハルがここで私の為にお料理作ってくれてるところなんだ」  
「……そっか」  
意外な事に、桃姉の言葉に俺は少なからずショックを受けていたが、落胆してはいなかった。  
俺は桃姉の世話をする人になれても恋人にはなれない。はじめからわかっていた事を再認識しただけだ。そんな気持ちがどこかにあったのだろう。  
十年近くの片思いもこれで終わりか、といっそ清々しい気分になりかけていた。  
けれど俺が勝手に終わった気になっているだけで桃姉の話はまだ続いていた。  
「ただ、ね……私の側でお料理作ってくれてるのがしっくりくるのはハルだけだよ」  
「え……?」  
ポツリと放たれた一言に、それがどういう意味かわからぬまま俺は反応した。  
「私もさ、この歳になるまでに男の子を好きになったり、ときめいたりしたことくらいあるんだ」  
「う、うん……それくらいは知ってる」  
「例えばね、今までにそういう気持ちを持った人達が、今のハルみたいに私のご飯を作ってくれるって事が想像できないし、嬉しくもないの」  
それは……当たり前じゃないのか。その人達は桃姉が好きになった人達であって家政婦にしたいような人達ではないんだから。  
「桃姉、何が言いたいんだ?」  
話が掴めない俺の質問に、桃姉は答えない。というより桃姉自身理路整然とした結論を持っている訳じゃなく、話しながら整理している感じだ。  
 
「それでね、私達ずっと昔からいっつも一緒にいたじゃない?でも、この間の事でハルがもう来てくれないかも知れないって思った時、なんだか凄い悲しかったの」  
「…………」  
桃姉の言わんとしている事がおぼろげにわかってきた。  
桃姉にとって俺は家事をしてくれる人間である事は確かだが、家事をしてくれればそれでいいという訳ではない、ということか。  
「ハルはね、私にとってただ家事をしてくれるだけじゃダメ、そばにいてくれなきゃイヤ、そんな人なんだよ」  
「……」  
俺は黙って桃姉を見つめた。よく見ると頬に少し赤みがさしている。  
「私はハルが好き」  
言った瞬間、桃姉の顔が(恐らく俺の顔も)真っ赤になった。  
「家事をしてくれる人としてじゃなく、もしかしたら恋人としての『好き』でもないかも知れないけど、それでも今まで一番近くにいた男の子で、これからも一番近くにいて欲しい男の子だから……」  
「桃……姉」  
それはある意味俺が望んでいた答えより遥かに嬉しいものだった。桃姉は、俺が一番だ、そばにいて欲しいと言ってくれたのだから。  
考えてみればこれだけ長くいっしょにいるのに、今更恋人としての『好き』にこだわる俺の方が2人の距離を掴めてなかったのかも知れない。  
「だ、だからね、ハル……その……私の為に……」  
更に続ける桃姉だったが、今の告白よりなお言いづらい事なのか、そこで突然言い淀んだ。  
「……ま、毎日お味噌汁を作って下さい!」  
顔を真っ赤にして、絞り出すように叫んだ声に、俺はぽかんと固まってしまった。言葉の意味は理解できるが、高校生の俺には実感として追い付いて来ない。  
「えっと……」  
だが桃姉は今言っていたばかりだ。これからずっとそばにいて欲しい、と。  
そしてこれは前回俺を怒らせる原因にもなった「ハルがお嫁に貰ってくれればいい」という言葉と同じ意味だ。  
桃姉なりに真剣に俺への気持ちを考え、同じ結論に至った。だが今度は冗談ではなく真面目に俺にそうして欲しいと思っているからこその答えなのだ。  
「お、俺で良ければ……」  
対して俺はそう返すだけで精一杯だった。気の利いた粋な一言もスカしたキザな台詞も安心させるような優しい言葉も出てこない。  
でもそんな俺に気を悪くした風もなく、桃姉は「うん」とだけ優しく微笑んだ。  
「改めてよろしく、ね」  
「ん、こちらこそ……」  
桃姉の差し出してくる握手におずおずと応える。触れ合った桃姉の手は暖かく、何だかとても安心した。  
そうして俺たちは前より一歩、しかし大きく決定的な一歩を踏み込んで仲直りしたのだった。  
 

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