「Untidy Peach」
「桃姉、入るぞー…………うわ……!」
1K独り暮らし用の安アパートのドアを開けると、俺の目に飛び込んで来たのはゴミの山だった。
ゴミ袋に入れてあるのはまだいい方で、そこら中にカップ麺の空き容器だの脱ぎ捨てられた服だの紙くずだのが散らかっている。
(今回は特にひどいな……)
前回掃除に来た時から2週間しか経ってないが、すでに部屋の中は足の踏み場もない。どうやったらここまで汚せるんだ?
「桃姉、生きてるかー?」
とりあえずじっとしていてもしょうがないのでゴミを掻き分けて中に進むと、奥の方から微かな声が聞こえてきた。
「ハルー……こっちー……」
見れば部屋の真ん中に鎮座したこたつに、つっぷしたままの人影がある。なんとかそちらに近づくと人影は顔を上げて恨めしそうな声を出した。
「遅いよ、ハル……あたしが死んじゃったらどーすんのよぉ……」
「人間一食抜いたくらいじゃ死なねーよ」
「……一食じゃないもん。買い置きも無くなっちゃったしお風呂にも入れてないし、ろくに寝てもいないし大変なんだから……」
「〆切前は原稿に集中したいから来ないでって言ったのは桃姉だろ」
きゅるきゅると情けなく腹の虫を鳴らすこの部屋の主に、俺は一つ大きくため息を吐いた。
「まあいいや。軽く片付けたらなんか作るよ。食ったら本格的に掃除するからな」
「ん、ありがとー。頑張ってね」
「手伝えよ!」
傍観決め込む気満々の桃姉に全力で突っ込みを入れる俺だった。
浅井桃は俺、栗原春生にとって小さい頃から憧れの存在だった。小学校に上がる前から7歳も下の俺とよく遊んでくれたし、喧嘩で同級生に泣かされた時も慰めてくれた。
今になって考えると7つも年下の少年と精神年齢ががっちり噛み合っていたかなりアレな人なのだが、当時の俺は『優しい年上のお姉さん』にときめきまくっていた。
だが年月がたち、成長するに伴って俺はある事に気付いた。
桃姉はいわゆる『残念』な人なのだと……。
この人はまず家事が全く出来ない。料理も掃除も洗濯もダメで、放っておくと今のようなゴミ屋敷を形成してしまう。
しかもかなり面倒くさがりで、全自動の洗濯機を購入したもののほとんど使いこなせていない。
仕方なしに俺が3日に一度、遅くとも1週間に一度は様子を見に来て、家事をこなしている。
事情を知っている友達からつけられたあだ名はもちろん『通い妻』だ。ほっとけコンチキショウ。
人が通れる程度のスペースをなんとか確保し、俺が持ち寄った食材で簡単な食事を作ると桃姉は大喜びでそれを食べ始めた。
「ん、おいしいおいしい」
空腹のせいか、やけに嬉しそうに食べ進める桃姉。それを見ているとなんとなく気恥ずかしくなってきて、俺はそこらに放置してあった文庫本を手遊びに開いた。
そこの著者近影の部分に目が止まる。理知的な容姿でスタイル抜群の美人がスーツ姿で写っていた。
著者の名前は浅井桃。つまり今俺の目の前にいる女性の事だ。
(やっぱ詐欺だよなぁ……)
一心不乱に飯を食う桃姉をしげしげと眺め、写真と現実の差に嘆息した。
桃姉は小説家をしている。デビューして四年になるがそこそこ食えていけるくらい繁盛しているようだ。
元々文才はあったのだろうが、就職したとして時間にルーズなこの人がまともな勤め先で働けたとは思わないので、ある意味天職なのかも知れない。
作品の評価は『女性らしい細やかな心理描写で奇想天外な物語を書く』というなんだかよくわからない物なのだが、若い男女の間ではなかなかに有名な作家らしい。
顔出しの時は思い切り着飾るので、世間ではこれでも美人小説家で通っている。そこら辺も人気の一因なのだろう。
(でも実際はこれだもんなぁ……)
ぼさぼさのひっつめ髪に野暮ったい大きな黒縁眼鏡、服装は高校時代のもっさりしたジャージ。放っておけば際限なく部屋を散らかし、こたつに入って年下の高校生に家事をやってもらう。
素晴らしいダメ人間ぶりだ。ダメ人間コンテストとかあったら上位入賞も夢じゃないと密かに思っている。
「何よう、人の事じろじろ見て」
俺の視線に気付いた桃姉が不満そうに口をとがらせる。俺は慌てて立ち上がり誤魔化すように言った。
「な、何でもねーよ。それより掃除するから早く食っちまえよ」
「あーい」
愛想よく返事する桃姉の笑顔が俺にはとても魅力的に見えた。
元々着飾れば美人、という程度には顔の造形は整った人だし、10年近く片恋慕を抱き続ける身としてはその笑顔にときめかずにはいられなかった。
たとえどれだけ残念だとしても、桃姉は昔から変わらず俺の大切な人なのだ。
桃姉の実に2日ぶりとなる栄養補給が終わると、俺たちは荒れに荒れた部屋のゴミを除去しにかかった。
とはいっても主に働いていたのは俺で、桃姉自身は所在なさそうに立ち尽くしながら、時々俺の出す指示に従うだけだったが。
「じゃあこの書類は捨てていいな。こっちの段ボールの中のは?」
「うん、それもいい」
「オッケ。んじゃこっちはもういいから向こう頼む。ゴミを袋に入れるだけでいいから」
「ん、わかった………………ねーハル、この古い雑誌とかって要ると思う?」
「知らんよ……。捨てるものくらい自分で判断してくれよ」
呆れを混ぜた声で返した俺はふと妙な手応えを感じ、自分の手にしているものを見た。
色は薄いブルー。手に持っている部分は紐状になっていて、その下に三角形の部分が二つ連なっている。レースで編まれているそれは女性が胸部につける下着、いわゆるブラジャーというものだった。
「ぶっ!?」
驚愕に声にならない声を上げ、思考が一秒完全にフリーズする。再起動した俺は慌てて目を反らし、手の中のものを遠ざけるように桃姉に突きつけた。
「も、桃姉……こ、これ……!」
「えっ…………ひゃあ!?」
桃姉が普段は見せない機敏さで俺の手から下着をひったくった。見れば真っ赤になりながら涙目でこちらをにらんでくる。
「うぅ……ハルのえっち……」
「し、仕方ねーだろ。ていうかこうならないように下着くらいは自分で洗ってくれって言っといただろ」
「だ、だって暇なかったんだもん……」
元々自分が散らかしているのが原因だとわかっているからか桃姉はそれ以上追及してこなかった。
俺としてもさっき見たものをすぐに記憶から消そうとする。だが目を反らす直前に見えた「G」の表記が瞼に焼き付いて離れなかった。
(でっけぇ……)
思わずジャージの胸の辺りを押し上げる膨らみにチラチラ目が行ってしまう。
「だ、大体桃姉はだらしなさ過ぎなんだよ。いい大人なんだしもうちょっときちんとしなきゃ」
「…………」
誤魔化すようにいつも通りの文句を言ってみるが予想に反して桃姉は黙りこくってしまう。
「やっぱりそうかなぁ……」「も、桃姉……?」
「この間お母さんにもおんなじ事言われた。そんなんじゃ嫁の貰い手もないよって」
「そ、そうなんだ……」
嫁スキルは軒並み死んでるからなぁ、桃姉。にしても桃姉はまだ24のはず。社会人として働いてはいるが、結婚を急かされる歳でもないと思うが。
「お母さん、早く私に安定して欲しいんだと思う。なんだかんだ言っても小説家なんてヤクザな仕事だし」
桃姉は本人はともかく小説家としてはそれなりの評価を受けているはずだが……。まあ、親の心理からしたらあまりそんな事関係ないのかも知れない。
「えーと、誰かいい人いないの?」
こういう場合の常となるような質問を投げかけてはみたが、俺は内心このデリケートな話題を早く切り上げたかった。何が悲しくて好きな人の結婚の話題なんか聞かないといかんのだ。
「いないよー。私、男の人の知り合い少ないもん」
「えーと……合コンセッティングしてもらうとか……」
「大学の頃の友達は合コンとかしない人ばっかだし……」
「仕事先の人とか」
「担当さんは女の人だし、他はオジサンばっかだし……」
八方塞がりです、とばかりにため息をつく桃姉。俺としては男の影が全くない桃姉に少し安心したのでほっと胸を撫で下ろしていた。
と、思ったら不意討ちが飛んできた。
「いっそハルがお嫁さんに貰ってくれればいいのに」
「…………っ!!な、な、何言ってんだよ!」
自分でも驚くほど狼狽し、それだけ返すのが精一杯だった。心臓がバクバクと鳴っている。顔だけは背けたから赤くなっているのは気付かれていないはずだ。
「だって今もハルが家事してくれるから私生きてけるし。代わりに私が小説でお金稼ぐからさ」
「……んで、一生桃姉の家政婦でいろってか」
「ダメかな?」
「ダメです。そんな事よりさっさと掃除」
そっかぁ、と残念そうに笑う。本人にしてみれば恐らく冗談のつもりなのだろうが、こちらとしては心臓に悪い。
(ったく、人の気も知らないで……)
心の中でだけ悪態をついておく。冗談だとわかっていながらも、いまだ心臓の鼓動は早まったままだ。
結局その日の最後まで俺はその事を意識したまま過ごす羽目になった。