生暖かい風に、雨のにおいが混じり始めた。
織澤修二郎は、色街をあてもなく歩いていた。
国家老次男が供もつけず、ましてうろつく場所ではない。
特に美形でもないが涼しげな目元に整った相貌、引き締まった体躯。
剣術に秀でた修二郎は、東軍流免許皆伝、藩主親族の剣術指南役でもあった。
普段なら隙のない男の袖を、女たちはひき、いかがわしい声をかける。
他の重役からの婿にぜひ、との声が最近とみに多くなった。
家督は、嫡男総一郎が継ぐことになっている。
父の織澤忠右衛門も、いよいよ次男の心配を始めている。
綾姫の輿入れが決まり、お役御免となるからである。
綾姫六歳、修二郎十三歳の時から妹の奈緒と一緒にお遊び相手として仕えて十二年余り。
途中、綾姫の剣術指南を仰せつかり、東軍流を指導してきた。
綾姫は修二郎にとてもなつき、主従の関係以上の信頼を寄せていた。
それは修二郎と二人だけにしかわからぬ、秘めた想いでもあった。
妹奈緒だけは、それをたぶん察知していたであろう。
兄の悲恋のゆく末を、ひとり案じているらしかった。
身分違いの恋に、成就などありえない。
こんな小藩に、藩主の息女が降嫁した例などあろうはずがない。
たとえ心が通い合おうとも、己の想いのままに姫に触れることさえ許されないのだ。
綾姫は幼い頃から、江戸住まいの正室である母親にも思うように甘えられぬ境遇だった。
修二郎の同情と忠心はやがて姫の成長とともに、特別の想いへ変化していった。
宝物のように愛しい姫があと数月で江戸へ発ち、そののちに遠国へ嫁ぐ。
そして、見ず知らずの男のものになるのだ。
気づくと色街外れの川原沿いの堤道に出ていた。
提灯が無ければ、足元さえもおぼつかない闇夜だ。
歩を進めていくと、橋のたもとにある飲み屋の灯りがまだ届く薄闇に、人の気配がする。
反射的に左手を腰の物に添え、腰を落とした。
「お、おさむらいさま…」
上ずった声が暗がりから聞こえる。
娘の声だ。
目慣れてくると、筵をかかえた女がひとり立っているのがわかった。
この辺りは、夜鷹が客を引く場所だということを思い出しながら、何故か興味を覚えた。
修二郎のような者なら、早々にこの場から離れるところだ。
夜鷹か――。
未練がましい己をもっと貶めてみるか。
俺は、綾姫にふさわしい男ではない。
それを嫌というほど己に刻まなければ、この先何をしでかすか自分でもわからない――。
自棄の極致だった。
頭の中に何度も浮かんだ、綾姫を抱く見ず知らずの男の姿。
それを振り払いたかった。
修二郎の身なりから、上客であるのは一目でわかるはず。
しかし、夜鷹の女は突っ立ったままである。
「おんな、俺につきあえ」
修二郎から女の腕を掴み、居酒屋横の草むらの暗がりに誘った。
ここなら、飲み屋の灯りのおかげでかろうじて女のからだを確かめることができる。
この稼業に身をやつして日が浅いのか、緊張した様子で筵を引き延べる。
終るか終らぬかのうちに、修二郎は提灯を吹き消した。
おぼつかない態度に業を煮やしてか、またはそそられたか。
自分でもわからないまま、修二郎は性急に女を押し倒した。
「きゃ…」
驚いたことに、女は短い悲鳴とともに、抗うそぶりを見せた。
「……おい、こざかしいことは、するな……」
女の両手首をその頭の上で掴み、刀の下緒で括りとめる。
そのまま筵にうつぶせに這わせて、腰を突きださせた。
女の着物の裾をはだけ、程よい肉づきの尻を両手で掴む。
「や……ああ……」
尻のすぼまりの少し向こうに、尻を広げられて晒された秘口が見えた。
力なくかぶりを振る女に、情欲を煽られる。
――分別のある男など、くそくらえだ。
薄い繁みを乱暴に擦り、乾いた窪みに指をあてがう。
無言で、親指を突き立てた。
「ひっ」
ぐいと指を押し込まなければ押し返されるほど、そこは狭く窮屈だった。
「っく…い……っ」
「なんだ、気娘でもなかろうに」
うつろな表情で、なおも指を動かす。その時女がたまらず声をあげた。
「お侍さまっ、お、お慈悲をっ」
若い女の声に、修二郎ははっとなった。
「ひ…め……」
女の声は、綾姫の声音そのものであった。
よく見ると、恐怖に顔を引きつらせているものの、その面ざしもどことなく綾姫を彷彿とさせた。
組み敷いた夜鷹は、すれっからしの年増でなく、開いた襟からのぞく乳房もふっくらした
瑞々しい娘のものであった。
狼狽し動かなくなった修二郎を訝しみながらも、括られた両手のまま娘は起き上がった。
「申し訳ございません。お侍さま、申し訳ございません……」
頭を垂れて、修二郎に詫びる。
「なぜ……だ。なぜここで客を取っている?」
愚問だ。しかし、聞かずにはいられない。
「母の薬代を作らなければならないので……」
素直に答える娘に、胸の奥がチクリと痛んだ。
両手を縛っていた下緒をはずしてやりながら、修二郎は娘を抱き寄せた。
「男を知らぬわけではあるまい」
答えを待たずに、娘の唇を乱暴に塞ぐ。
唇を舐め、吸い、開きかけた隙間から舌をねじ込んで歯列をなぞる。
うんっうんっ、と洩れる声を、あふれた娘の唾液ごと啜った。
綾姫の唇を凌辱していると、錯覚する。
ほどなく雨が落ちてきた。
「くそっ」
唇をやっと放し、恨めしげに真黒な空を見上げた。
娘は、たったこれだけの行為にも、すっかり放心したように座り込んでいた。
「おい」
「……はい」
声を聞くたび、胸が熱くなる。
――これは、綾姫じゃない、夜鷹だ。卑しい女なんだ。
そう思いながら、修二郎は娘の手をとり、引いた。
「場所を変える。金なら、払う。嫌なら去れ」
ぶっきらぼうに言い放つ。
「金が、欲しいんだろう?」
去れ、と言っておきながら、裏腹な言葉が口からこぼれる。
俺は、どうしてもこの娘が欲しいのか――。
娘は、視線を落したまま、顔を歪めた。
やがて意を決したように顔を上げ、
「行きます」
とだけ言って、修二郎の後ろに従った。
*
「ばばさま、今夜、離れを借りますよ」
老女の耳元で話しかける。
かつて修二郎の母に茶の湯の手ほどきをしていた婦人である。
今は亡き夫の田沢幸右衛門は、先代藩主の剣術指南役をしていた剣の達人だった。
先代さえも一目置く、無骨な昔堅気の武士そのもの、という男だった。
婦人の名を、安(やす)という。
今は一人身となり、下男一人とともに城下町から少し離れた所に住んでいる。
城下はずれの色街からは、程近く、賑やかかと思えばそうでもない場所だ。
「あ? 修二郎どの。あー……離れ屋、ね。よろしい。夜具は奥の部屋からお持ちなされ」
耳は遠いが、しっかりしている。
織澤家の遠縁で、幼い頃より家族ぐるみで世話になった家だ。
総一郎・修二郎・奈緒の兄弟妹を孫のように可愛がってくれた。
厄介者の次男坊など、自宅では何かとわずらわしい。
自宅を飛び出し、一人この家で一晩中太刀を振るったりしたものだった。
今夜のように、女を連れ込んだこともあった。
行儀作法など何かにつけて厳しく臨むので、親類縁者さえにもけむたがられていたのだが。
この老女は、次男坊の修二郎にはことのほか甘かった。
離れのなかに、行燈の明かりが灯った。
娘が、帯を解いて色の褪せた襦袢一枚になる。
「朝までに帰ればよかろう? 一晩付き合ってもらうぞ」
ここへの道々、娘が明日は母の薬を求めに薬屋へ行く、ということを聞いていた。
――夜鷹ごときを、ここへ連れ込むとは。俺は馬鹿なことをしている……。
「金は弾むと言った。俺の言う通りにしろ……それから、今夜のことは他言無用だ」
娘は黙ってうなずいた。
「こっちへ、来い……」
修二郎は下帯一つになり夜具の上に座って、立ったままの娘に手を伸ばし引き寄せた。
「あ!」
娘は修二郎の腕の中に倒れ込んだ。
「申し訳ございませ……ああっ」
娘を後ろから両腕に抱き締め、襦袢の上から乳房を掴んだ。
形良い膨らみを揉みながら、尖った先端を指先で捉える。
痩せて小柄ながら柔らかな娘の体は熱く、火照りが伝わってくる。
布の上から、硬くなっていく突起をくるくると指先で撫で、きつく摘まむ。
一方で、唇でうなじから首筋を上へと辿り、耳朶をくわえる。
柔らかな耳たぶを舐ると、娘が頭を弱く振った。
襟の合わせ目から、左胸へ右手を滑り込ませる。
ふっくらと張りのある乳房はあたたかく、掌の中でいくらでも形が変わった。
しっとりと瑞々しい肌が、掌にひたと吸いつくようだ。
乳房を弄りながら、左手は体の線を確かめるように撫でまわし、股間に伸ばす。
娘は、ふ、はっ、と息をつき、次第に高まる快感を逃そうとしているようだった。
襦袢もそのままに腰ひもを解くこともせず、娘を乗せた膝を開いた。
乗せられた娘の股間も一緒に開く。
襦袢の裾を肌蹴て、繁みの奥の湿り気を帯びてきた窪みに指を押し入れていく。
やはりそこは、ひどくきつかった。
埋めていく指の先が、肉の抵抗にあって奥へと進みづらいほどだ。
それでもぬめりが生じ始めていた。
今度は胸元の布の合わせ目を乱暴に開いて、両の膨らみを晒す。
つんと勃った二つの膨らみの頂が、そこだけ生々しく赤く、淡い灯りの中に淫らに揺れた。
次第に秘所が潤いを増して、粘りのある水音が聞こえだした。
「んん……んう……」
快感の中にいることは、上気した体や切なげに歪んだ表情からもわかる。
それでも娘は耐えているらしく、声を殺して震えている。
修二郎は娘の声がどうしても聞きたかった。
「声を、出せ」
顎を掴み、人差し指でぷっくりした唇の閉じ目を抉じ開けた。
「あ……っかは……」
歯の噛み合わせのその奥で、修二郎の指先が鍵の手に曲がった
娘は指を突っ込まれて、閉じることができない。
下に回した手のほうは、娘の女肉を抉るように、動きを速めていく。
「はっ……ああっああっ」
膣内に埋め込んだ中指と薬指で掻きまわしながら、抜き差しを続ける。
「ふあああああっ」
親指で花芽を弄り出して、押しつぶすように転がすと、娘は腰を浮かし高い声をあげた。
「くあ……あふ……あっ、あ――――」
同時に体が跳ねて、背中を反らしびくびくとした後、くったりと修二郎の膝に倒れ込んだ
娘は気を失ったようだった。
ぐったりした体をそのまま夜具にうつ伏せに下ろす。
その両足を広げて、修二郎は下帯を取った引き締まった腰に、娘の尻を引き寄せた。
張りつめた己の物を、濡れそぼった秘所にあてがった。
ぬちぬちとそこで音を立てながら、修二郎は耳に先ほどの『声』を蘇らせていた。
紛れもなく綾姫の声だった。
長い間耳慣れた、少し甘たるい、愛おしい声。
白くまろやかな尻に視線を当てながら、慎ましい姿を思い出す。
「姫……綾どの……」
目を閉じて呟くと、修二郎はゆっくり腰をすすめていった。
頭の隅ではわかっている。
胸の中に切なく苦しい思いが広がっていて、気を失ったままの娘に苛立ちすら覚えている。
綾姫ではない娘は、修二郎と繋がりかけているのに、目覚めない。
綾姫と思えば逸る気持ちを抑えての緩やかな動きに徹していたものを、もう堪え切れなかった。
ずんっと思い切り、娘の体に己を深く突き入れた。
娘の体が揺れて「んう……」と呻き声があがった。
構わず、ずいっと腰を引き、力強く腰を打ち付ける。
「やあああっ」
悲鳴があがった。
自分の体が男に苛まれていることに気付いたのだ。
男の数を知らぬらしい狭い膣壁を、穿つように修二郎は律動した。
「んやあっ……あぁっ……やっあああ……」
泣き声に変わったその声に、修二郎は少し動きを緩やかにした。
「すまなかった」
「お、お許しくださ……ん……あ……」
片方の乳房を包むように掌に納めて、やわやわと揉みあげる。
「……頼む。俺を『修どの』と呼んでくれないか」
耳たぶに唇を寄せ、甘く噛んだ。
「あんっ……ふあ……ああ……」
「客の頼みなんだぞ……」
手を回し、花芽をそっと撫でてやる。
「はあっ……あう……あぁんっ」
潤いが増し、抽送が自然と早くなる。
ぬるぬると締め付けてくる肉の襞は幾重にも修二郎を包み込み、
動きを止めても腰のあたりを疼かせる。
蠢きに誘われて抜き差しをすれば、とたんに奥へと引きずり込まれるように翻弄された。
娘の体は、生娘かと思えばそうでなく、今まで抱いたどの女とも違っていた。
繋がると、陰(ほと)が、別の淫猥な生き物のように蠢いた。
「ああっはああっ」
娘の声が動きに合わせて大きくなった。
声を聞くと、綾姫を抱いている……と、また錯覚する。
「あ、綾どの……あや……」
修二郎は乳房を両手で掴み、夢中で腰を前後に揺らした。
娘はもう、喘ぐ声を押さえることができないでいる。
「呼べっ、俺の名を呼ぶんだ……綾どの!」
獣のように腰を打ち付けて、修二郎は吠えた。
「っ……う……しゅう……ああっ」
うつ伏せで、突きだした娘の尻に修二郎の腰が打ち当って、
肌のぶつかる乾いた音が部屋に響く。
「修二郎だっ。修どのと呼べ!」
「しゅ……どの……しゅうど……」
「聞こえぬっ」
「しゅうどのっ……しゅうどのっ……」
「呼べ! もっとだっ」
「しゅうどのぉっ……」
綾姫が嬌声をあげ、自分の名を狂おしく連呼する。
娘の襞が、修二郎を逃すまいと収縮し始める。
腰に突き上げてくるものを感じながら、頭にある理性の欠片を振り払った。
「あや!」
肌と肌を密着させて、ぐいぐいと、娘の最奥に……綾姫の中に、欲望を注ぎ込んでいた。
*
翌朝、修二郎は娘を残し、田沢邸を後に、登城した。
娘は力尽きて、起き上がることもできなかった。
娘のことは、老女のあるじ、安によく頼んできた。
娘の家には使いをやって、心配のないようにもしておいた。
さすがに、やり過ぎた、と思ったからだった。
最初は夜鷹を買って、荒んだ胸の内を晴らすつもりだった。
身分も、己の自尊も、叶わぬ想いごと、貶めてしまうつもりだった。
……耳に、絶叫がこびり付いているようで、離れない。
昨夜は娘を責めるように抱き続け、何度も己の名を呼ばせた。
自分がそうさせて、満足したはずだ。
抱いてみると淫らに狂う娘の体に、溺れてしまった、というのも否めない。
しかし己の名を叫ぶのを聞きながら果てた後、虚しさで胸が苦しくなった。
悲しみと、どうすることもできない怒りに苛まれ、それから逃れたくなって、また娘を抱く、それを繰り返した。
――俺は綾姫を抱いていたのではない。
わかっている。
恋しい人の声を持つあの娘の、声を抱いた。
わかっているのだ。
触れることはおろか、姫とはもう、言葉さえ交わすこともできない。
次に会えるのは、声も届かぬ場所で、顔も上げることも許されず、ただ見送るだけの、姫の出立の時なのだ。
――二度と、生きて見(まみ)えることは、叶わぬ。
ただ心で想うこと、それだけしかなかった。
***
下城すると、そのまま、田沢邸へと向かった。
娘は『阿乃(あの)』といった。
阿乃は元々城下のさる武家へ下働きに上がったが、母親が床に伏せったため、看病のために自宅へ戻ったのだった。
しばらくは内職と、蓄えを取り崩して凌いだが、薬代が嵩み、やがてその日の暮らしも立ちゆかぬほどになっていった。
やむにやまれず借りた金を、返すこともできず、とうとう色街に立つようになったのである。
夜鷹なら、ところの顔役へ断りをいれれば、店に縛られることも無く仕事ができる。
実入りはわずかだが、病人を抱えた娘には、これしかなかった。
母は、胸を病み、時々大量の吐血をするほどという。
いつものように阿乃を抱いた後、修二郎は阿乃にここに住み込み働くように言いつけた。
「けれど……」
「心配いらぬように俺が手配をしている」
「私は、借りたお金を返すためにあの仕事をするように言われました。
黙ってここへ来てしまって……修二郎様や田沢様にご迷惑が……」
「心配いたすな、そう言っているだろう。お前は何も考えなくていい」
「修二郎様……」
阿乃は袂で顔を覆って、声を抑えて嗚咽を漏らした。
修二郎は阿乃をここへ住まわせるつもりになっていた。
阿乃がここへ来てまだ一月ほどだが、阿乃と過ごす時間が修二郎にとって
安らげるひと時になっていた。
この安らぎを失いたくない、そう思うようになっていた。
もともと姫付きの役で、心穏やかな勤めの日々を送ってきたのだ。
修二郎は血なまぐさいことから疎遠なところにいた。
できれば目をそむけたままでいたかった。
それは日ごろから父を見てきたからである。
家老である父は、政の表向きより裏の事の成り行きに目を光らせている。
それは時に血なまぐさいことを自ら采配し、取り仕切って闇から闇に葬る――
そんな父を間近に見てきたからだ。
半月前の夜更け。
修二郎は、珍しく屋敷に戻っていた父の、その自室へ呼ばれた。
部屋にはすでに兄までが控えており、違和感を覚えつつ、促されるまま父たちの前に
折り目を正して座った。
久しぶりに親子だけで相対し、父から長年の勤めを労う言葉がかけられた。
修二郎は父の言葉に、素直に喜びを表に顕した。
父、織澤忠右衛門は、息子の殊勝な態度に親らしい笑みを刻んだが、一つ咳払いをし、
居住まいを正した時には、すでに射るように目を細めていた。
修二郎を見つめる父の視線が、次第に冷たい光を帯び始めた。
「お前も、江戸詰の者達の不穏な動きを知っておろう。その者達が国に帰参し、
殿の弟君擁立の機会を得ようと、暗躍しておる」
食い入るように修二郎は、顔色一つ変えぬ父を見つめていた。
「今、国に入っている者は、留守居役次席の坂木新五郎である。
まずこれを葬れば奴らの動きもある程度封じ込められるだろう」
ごくりとのどが鳴った。
坂木は、綾姫のお遊び役をしていた頃から見知っている男だ。
頭脳明晰で、誠実な青年だった坂木を、修二郎は記憶している。
父の細められたまなざしは、底知れぬ光を湛えて、修二郎の背筋を震わせた。
「坂木新五郎を亡き者にし、奴が引き連れている者を残らず斬り捨てよ」
修二郎は非情な命令をまるで夢のように聞いていた。
「他言無用。これは上意であるぞ」
長年の修二郎の勤めぶりを傍で見ていた藩主からも、厚い信頼を得ているそうだった。
「儂や兄の片腕となり、その腕を生かして存分に働いてもらいたい」父はそう言った。
密かに命令を受けて、刃向かう者、謀反の企てなどを未然にしかも根絶やしにする。
新たな役目は、今後ゆく道が、闇の中、日陰をゆくものだと修二郎は悟った。
そして踏み出したら、後戻りできぬことも。
***
阿乃の母が、死んだ。
病が軽くなれば、田沢邸へ引き取るつもりでいた。
このところ阿乃は、母の元へ戻り、最後は枕元から離れず看病していたのだ。
阿乃は悲しみ打ちひしがれて、しばらく食事をとらないほどになった。
それは綾姫が旅立って行った頃のことだった。
修二郎はなす術もなく、姫を見送るしかなかった。
阿乃と同じく、しばらくは悲しみにくれた。
綾姫の涙で潤んだ瞳をを振り払うかのように、剣の稽古に打ち込んだ。
しかし、稽古場で木大刀を振っていると、姫との最後の稽古を思い出して手が停まってしまう。
最後の稽古の日は早春とはいえ、冷え込みのきつい、雲の多い日だった。
綾姫の袴姿はいつも、凛として可憐だった。
今も瞼の裏に焼き付いている。
ひととおり素振りを終えたところだった。
突然、姫が「あ」と言って、素振りの手を止めた。
藩邸にある、板張りの稽古場で、姫の見つめている方――庭へと目を向けた。
「あ」と修二郎も声をあげた。
「牡丹雪」
「そのようですね」
厚い灰色の雲に覆われた空から、白い羽のようなものが、ふわりふわり落ちてくる。
綾姫と修二郎は、稽古場の板張りの上に正座して、しばらくその光景に見入っていた。
「花びらのようですね、修どの」
「雲の上で、牡丹が咲いているのでしょうか。美しい……」
「雲の上の牡丹。真白な牡丹なのでしょうね」
「……冷えてきました。戸を閉めて……稽古はこれにてお終いに……」
「修どの……」
綾姫の見つめる目が、次第に潤んでいくのがわかった。
「今しばらく……このままでいたい……」
「………………」
涙を堪えて震える肩を、抱き寄せて、心の内を告げてしまいたい。
その衝動が突き上げてくるのを、必死に押し殺した。
膝に置いた拳を、爪が食い込むほどきつく握りしめる。
――わかっています。
綾姫の声が聞こえた気がして、はっと顔を上げた。
綾姫がこちらに微笑みかけ、こくんと頷いてみせた。
その眼から、涙がはらはらとこぼれ落ちていく。
しばらくお互いに無言で見つめあっていた。
それだけで、心が通い合っているような気がした。
あの日二人きりで見つめていた景色を、また鮮やかに思い出した。
修二郎は再び素振りを始めた。
人を教え導く勤めから、時に人の命を奪う勤めへ……。
闇の中、もがき惑う日々の中で、綾姫というよりどころを失ってしまった。
あの時と同じように木大刀を振ってはいるが、現実の勤めには真剣を振るうことさえある。
虚しさが修二郎を満たしてゆく。
それでも修二郎は木大刀を振り続けた。
それは、これからの勤めのための鍛錬でもあった。
坂木を斬らねばならないことに、本当は迷いがある。
上意とはいえ、誠実な人柄に好感を抱いていた男だった。
探りを入れると、坂木の方でも警戒の色を強めているが、国に連れて入った下士の一人が、
逃走したという話も聞いた。
お互い、無理をしている、という気がしてならない。
今、坂木に会って腹を割り話をしたならば……などと考えてしまう。
真剣ではなく、木大刀で立合うように、とことんお互いをぶつけ合ってみたい、と思った。
どうして、このような抜き差しならない関係になってしまったのか。
政の摩擦やゆがみに、深い憂いを抱いたところで修二郎にはどうにもできない。
――俺は父上のようにはなれぬ。
父の非情さをあらためて思い知るようで、肌が粟立った。
阿乃の母の喪が明けた頃には、すっかり阿乃は田沢邸になくてはならぬほどの
存在になっていた。
子のおらぬ安は、下働きに精をだす阿乃を、娘のように可愛がっている。
阿乃は次第に元気を取り戻していった。
修二郎も、何かと気の抜けぬ日々の中で、阿乃と過ごす時間がかけがえのないものとなっていた。
*
春の兆しをあちこちに感じ始めたある日、阿乃が田沢邸を一人で抜け出した。
密かに探しまわり、夕暮れにようやく見つけ連れ戻させたが、修二郎は訝しんだ。
自然、詰問も厳しくなったが、それでも阿乃は口を割ろうとはしなかった。
修二郎は詰問を止めて、障子を閉めた。
驚いて、顔を上げた阿乃に飛びかかるように組みついた。
「やっ……」
阿乃が小さく悲鳴を上げるのを黙殺し、袴の紐を緩め裾を捲り上げ、向い合せに膝上に抱き上げた。
「嫌……っ」
「抗うのか」
阿乃の腕が、修二郎の胸にばたばたと当たる。
「今宵は、お許しを……」
「何故だ!」
「お許しくださいませっ」
撒きつく逞しい腕から、逃れようと、激しく身を捩る。
「だめだっ」
初めてみせる激しい抵抗に、修二郎は加虐心を煽られた。
肩を押さえ込み、開いた股間を己へ引き寄せた。
女陰に一物をあてがい、乾いたそこを下から一気に穿った。
「あああっ」
ぎっちりと絡みつくような女陰の奥の襞に、修二郎が締め付けられる。
着衣も脱がぬまま阿乃を貫いて、修二郎は腰を遣い始めた。
わずかな動きもさせまいとするかのような、阿乃の締め付けに驚くばかりだ。
かつてない阿乃の拒みように、強烈な快感を覚えた。
阿乃がいつも泣くように悦びの声をあげる場所を、腰を回しながら執拗に擦り、
小柄な体を持ち上げ、己の膝に落とす。
同時に下からも腰を突き上げた。
「んやああ――っ」
貫かれた衝撃に、絶叫をあげ、阿乃が後ろへ逃れるように仰け反った。
穿ったまま、夜具に阿乃の体を押し倒し、裾を腰まで捲った。
繋がった場所が目の前に晒されている。
猛々しい修二郎がまさに阿乃の桃色の女陰を割り押し開き、根元近くまでずぶりと入れられていた。
先ほどまで乾いていた陰(ほと)は、今はたっぷり潤っていた。
たらたらと滴るその蜜に、白濁した粘液が混じっている。
「何だ……?」
修二郎は気付いて顔を寄せた。
「お前……客をとったのか」
阿乃は激しくかぶりを振った。
「では、これはなんだ。昼間どこへ行った?」
指で掬って、阿乃の前にかざした。
修二郎の目が厳しく細められていく。
阿乃は怖気て、目をぎゅっと瞑った。
「言え! どこかで男に会っていたのだな?! 言わぬか!」
修二郎が阿乃の片脚を肩に担ぐように持ち上げた。
娘らしい張りのある腰を引き寄せ、上から突き込むようにのしかかった。
「くっ……あああああっ」
「言わぬなら、二度とここから出られぬようにしてやる」
「っん、おゆるし……はっあっあっあぁっ」
妬心に苛まれ、だんだんと抽送が激しさを増す。
阿乃の表情が哀しげに歪んで、両目から涙がこぼれおちていく。
拒みぬくことができぬ体が恨めしいのか。
それほど、修二郎と馴染んでしまった、と思い知ったのか。
しだいに阿乃がいつものように、自分から修二郎の激しすぎる律動に、体を合わせていく。
片脚の膝が折れ曲がって、胸に押しつけられている。
もう片方の乳房を弄ろうと、胸元が乱暴に押し開かれて、修二郎の手が押し込まれた。
痛いほど掴み締められ、揉みあげられ、勃ちあがった乳首をきゅっと捻られる。
「やぁっ……はぁっあぁんっ」
腰を回しながら突き上げられ、阿乃の叫びは嬌声に変わっていった。
部屋には、修二郎の獣のような息づかいと呻き、阿乃の甘い悲鳴、そして律動に合わせて起こる、
ぬちぬちという水音が満ちている。
ふたりは、着物も脱がずに下半身だけを露出して、ある一点で繋がれていた。
修二郎と阿乃を繋ぐもの。
それは愛情ではない。
修二郎はそう思っていた。
現に、いつも綾姫を想いながら、阿乃を抱いている。
色街で出会った、夜鷹の娘。
金で買った、愛しい女の声をもつ娼婦。
荒んで昂った己を鎮めてくれる、ただの情婦だ。
いや。
修二郎は焦燥に駆られながら、気づかないふりをしていた。
苛み味わいながらも、しだいに感じ始めたのは、情愛だということを。
この娘を手放したくない、そういう感情は、これからの修二郎には
持つべき感情ではないのかもしれなかった。
主の命令一つで、命の遣り取りをせねばならぬ役目を負ったのだ。
それが修二郎の心を揺さぶり続けている。
なにかにすがらなければ、平静を保つことなど、出来なかったに違いない。
それを今、阿乃を貫き、その温かな襞に包まれながら、嫌というほど感じ始めていた。
阿乃にすがって、己の生をその体の奥の温もりの中で、確かめたかった。
阿乃を手放したくない。
あれほど激しく拒絶の態度を示した阿乃が、今は従順に修二郎の下で汗をほとばしらせ、快感に震えている。
花弁のようなふっくらした唇からは、もう甘い鳴き声しか聞こえてこない。
修二郎は阿乃の涙の跡を見ぬふりをし、最後の律動を深く力強いものにした。
事後に阿乃は出奔の顛末をようやく語った。
夫婦約束を交わした男がいる、阿乃はそう言った。
予想していたものの、修二郎の胸は波立った。
江戸へ旅立ったその男は役目上帰参したが、阿乃との約束のために、主人の元から逃れてきてた、
ということ。
ともに国を出ようと誓いあったこと。
そして今日、その手筈を打ち合わせてきたこと。
「けれど、私は……どうしたらよいか、迷っているのでございます」
そう言って、修二郎の手を押し頂くように両手に包んだ。
「今すぐにでもあの方の元に飛んでまいりたいはずなのに……」
「……」
「……なのに、何故か修二郎様を思うと、胸が苦しくなるのでございます」
阿乃が眉根を寄せて、口を引き結んだ。
自分の胸に、握った修二郎の手を押し当てる。
その様子が、頼りなげで、修二郎は震える阿乃の肩を抱き寄せた。
「お前を、その男のところに行かせたくないな」
顎に指を添え、こちらを向かせて唇を吸った。
「行くな」
阿乃が戸惑った表情をして、また涙を溢れさせた。
修二郎の胸のあたりが、ちりちりと痛んだ。
口の中で、苦い味が広がっていくような気がした。
「私は、どうなってしまったのでしょうか。自分がわからなく……」
「わからなくてもよい。今は俺に抱かれろ。お前の想い人を忘れさせてやる」
「あ……お許しを……」
「許さぬ」
今度はできるだけ柔らかく笑って、引き寄せた阿乃の帯を解き始めた。
***
阿乃は、修二郎の元を去るようなことはできないと思い惑っていた。
愛情なのかもしれなかった。
会えぬ想い人より、何度も自分を欲してくれる男。
数日前の、想い人に抱かれた悦びより、修二郎の存在が大きくなるのが恐ろしい気がした。
安の元に仕えて、穏やかな日々を送る幸せを感じてはいる。
けれど安婦人も老齢で、いつまでこの生活が続くかもわからない。
その上に、最近修二郎の存在が、急に儚く感じることがあって、不安になることがあった。
時折狂ったように自分を欲する修二郎の、心の歪みを知るようになった。
同情と憐れみが綯い交ぜになり、自分がそれを癒せるなら、と思い始めていた。
しかし、身分が違いすぎる。出過ぎたことだ。
金で買われた娼婦なのだから、いつか捨てられるのだと、始めからわかっていたはずなのに。
阿乃は安婦人の使いで外出をした道々、これからのことを考えて、思い惑った。
昨日まで暖かかった春先の陽射しが、今日は雲に覆われて、真冬ほどではないが冷えてきている。
肩をすぼめて、冷たくなった指先に、ほうっと息を吹きかけた。
外出は、いつも修二郎があまりいい顔をしないが、今日は仕方なかった。
身内の不幸で実家へ帰っている下男の代わりに、安の持病の薬をとりに行くところだ。
それが、いけなかった。
色街へ渡る橋の前を過ぎようとした時、阿乃は悩み事で頭がいっぱいだった。
だからすぐ後ろに、男がつけてきたのに、気付かなかった。
人通りのない路地へ入ったところで、阿乃は急に当て身をくらい、意識を失った。
*
阿乃が目を覚ました時には、修二郎の顔が心配そうに目の前にあった。
「ばかもの。あれほど外出をするなと言っておいたのに」
ごめんなさい。
そう言おうとしたが、口がうまく動かない。体も同じだった。
修二郎が縛めを解いていることにようやく気づき、次第に状況が掴めてきた。
頭が働き始めると、次に、鼻孔に強烈な金気の匂いが入ってきた。
吐き気が込み上げる。血の匂いだ。
「ひっ」
慌てて口を塞ぐ。
男が狭い部屋の中でふたり、無残に斬殺されて倒れていた。
修二郎は手に持っていた、折れた脇差を投げ捨てた。
狭い家屋の中で、修二郎は脇差を振りかざし、ここまでやって来たのだろう。
それは、斬り合いの凄まじさを物語っているようだった。
「ここを出るぞ。立て、阿乃」
修二郎が、急いで阿乃の腕を引きあげた。
死体は、見覚えのある、娼家の主とこの界隈の元締めのようだった。
修二郎に手を引かれて、娼家らしい店から外へ出た。
廊下にも用心棒なのか、浪人の死体が数人転がっている。
店の外には予想どおり、手下や浪人者が待ちかまえていて、修二郎と阿乃を取り囲んだ。
修二郎はたったひとりで、阿乃を連れ戻しにきたのだ。
身分が身分だけに、自分の囲い者のことで、だれかの手を借りることもできなかった。
以前は、修二郎が金で話をつけたのだが、それであきらめられなかったらしい。
それほどに、阿乃は上玉なのだろう。
修二郎に囲われてからも、以前夜鷹の阿乃を抱いた客が、あきらめきれず、
色街の元締めに手を回したようだった。
あの時は隠して手配りしたが、今は修二郎の正体も掴んでいるだろう。
目の前の無頼の者たちは、ニヤついた顔で、珍しそうに修二郎と阿乃を眺めている。
「元締めがヤラレた!」
店の奥から、叫び声があがった。
目の前の男たちの顔色が変わった。
「こいつらを街から出すな! 切り刻んであの世へおくってやる」
男たちの中でも、一番屈強な男が、ずいと前に立ちはだかった。
「あの世で元締めに会っても、手が出せないようにしてやる」
修二郎はすらりと大刀を抜き放った。
男たちの囲みが、斬撃の間合いから、さっと退いて広がった。
「阿乃、行けっ」
するどく修二郎が言った。
「でも……」
「いいから。俺が足を一歩進めたら、橋へ向かって走るのだ」
「……」
「そうしたら、お前の想い人の所へ行くがよい。迷わず行けよ。よいな?」
「修二郎さま……安さまは」
「後のことは案ずるな、俺に任せておけ」
「でも……」
「お前の懐に、いくらか入れておいた。それを使って好きなところへ行くがよい」
「……いいえ……いいえ!」
阿乃は激しくかぶりを振った。
「ばか! 言うとおりにしろっ。主人の言うことが聞けぬのか?」
「いいえっ、私は……っ」
じりっと包囲がわずかに狭まった。
修二郎は包囲から鋭い目をそらさずにいたが、声だけ和らげ阿乃に言った。
「行け、阿乃。幸せになれ。必ず想い人と添い遂げて幸せになれ」
阿乃はかつて坂木家に奉公していた。
その下士の男と想い合うようになったのだ。
江戸にいってしまった男が、自分を捨てたのだ、と阿乃は思っていた。
だから、夜鷹家業に身をやつしたのだ。
想い人の男は、実は役目上、詳しいことが言えぬまま、阿乃を置いて国を出たのだった。
想い人というのは、江戸から坂木とともにこのたび帰参したが、主の元から逃走したという
下士の男だった。
修二郎は坂木への探りの中で、それを知った。
阿乃との約束を守るためか。
それとも、政争に巻き込まれ、変わりゆく主にいたたまれなくなったものか。
修二郎はその男が羨ましかった。
自分にはとうていできぬことだった。
いや、そういう方法もあったのだ、と阿乃の想い人のことでようやく思い至ることができた。
しかし、今となっては、遅すぎることだ。
「修二郎さま……」
「行け」
刀を正眼から上段に移した修二郎は、左足を一歩間合いに進めた。
同時に阿乃は身を翻した。
包囲が修二郎めがけて狭まった。
修二郎がするするとその中へすすみ、阿乃に近い位置の男から、斬り払う。
喚き声をあげ転倒するのを合図に男たちが入り乱れて修二郎に迫ってきた。
無造作に大刀を振り回しているように見えて、確実に修二郎は包囲網を斬り崩していった。
あと五人倒せば、ここを斬りぬけられるだろう。
――阿乃は、走っているか?
一瞬橋の方を見やると、阿乃が立ちすくんでいるのが見えた。
離れたところにいたが、修二郎を案じて泣き顔になっているのが見えるほどのところだ。
「ばか! 走れ、阿乃!!」
修二郎が叫ぶと、阿乃は弾かれたように踵を返した。
包囲の一人がそれに気づいて、阿乃に向かって駆けだした。
追いつかれてしまう。
しかし、修二郎が追っても間に合わぬ。
追ったとしても、ふたりともに危うくなる。
男たちの凄まじい殺気の中で、修二郎はやむを得ず、手にした大刀を後方へ投げ放った。
「きゃああ!」阿乃の悲鳴が聞こえるのと同時に、男の断末魔の叫びが聞こえた。
狭い店の中での斬り合いで折れた脇差は、その場に捨ててきていた。
得物は、今放った大刀のみだ。
「走れっ、阿乃! 走れえっ」
「しゅじろうさま!」
最後に耳朶を打ったその声は、もう綾姫の声ではなく、阿乃の声そのものだった。
得物がなくなり丸腰となった修二郎に、白刃を振り上げた四人の男が殺到してゆく。
修二郎は、迫り来る男達を認めながら、一瞬視界に入った舞い散る白い羽のようなものに、
目を奪われた。
阿乃の声を胸の内に繰り返しながら、修二郎は体の力を抜いて、空を仰ぎ見た。
いつの間にか、牡丹雪が、落ちてきていた。
===終===