征士郎も由紀も、まだ、国元にいた頃。
藩主の座争奪に始まった政争に巻き込まれて、征士郎は由紀の父親を斬った――。
山深く領地も小さな津沢藩にも、政争というものはあった。
権力の中枢にいる者たちは、時に民のための政を忘れ、その行く末を見失い、己の欲に溺れてしまうことがある。
藩の財政を顧みず、交易により密かに私財を肥やす者。
無能な藩主を傀儡とし、自ら政を取りまわし、藩政を意のままにする者。
津沢藩も例外ではなかった。
由紀の父、深田省左右衛門は藩の財政を預かる要職に就いていた。
その深田が、材木商と手を組み私腹を肥やしている、という情報がもたらされた。
その財力をもって、現藩主の弟擁立派の後ろ盾になっている、と。
次期藩主は現藩主嫡男に、とほぼ決まりかけていた頃だ。
お家騒動は、幕府が藩を潰す格好のネタだ。
幕府に知られる前に、謀反の輩を取り締まってしまわねばならない。
その夜、国元の家老側――つまり現藩主側についた征士郎たちは、次の藩主擁立にかかわる謀反の疑いで、由紀の屋敷に踏み込んだ。
由紀の屋敷で、秘密裏に会合が持たれているとの情報が入ったからだ。
由紀の父、深田省左右衛門は、今は亡き征士郎の父と懇意にしており、父が亡くなった後も、何かと力添えをしてくれていた。
征士郎は、藩校である「孝省館」の教授方師範であるが、就任にあたり強く推薦をしてくれたのは、他ならぬ深田である。
なぜ?――征士郎は、謀反を企てた深田に憤りを感じていた。
深田は自分をも欺いていた、ということになる。
逆に、父親のように思っていた深田に対して、この命令は征士郎を苦しませていた。
しかし、若い征士郎にとって、周知の深田との関係を断ち切らなければ、己の生きる道は閉ざされてしまうのである。
命に従わざるを得なかった。
上役に頼んで、征士郎は最後まで深田省左右衛門に、潔く自刃を、と説得を続けた。
せめて武士として、最後を遂げさせたかった。
「心配にはおよばぬ」
深田は笑って取り合わなかった。
最後まで自身の本心を語ろうとはしなかった。
「儂の首を御所望とは……殿の本意ではござらぬよ、征士郎。おぬしも心得ておろう?」
「この期に及んで、濡れ衣と申されるか? 深田どの。これは、紛れもなく主命。お覚悟を」
「征士郎……儂が果てた後、お前にも類が及ぶことは必定……遅くは無い。目を覚ませ」
「……介錯はそれがしが相努めまする。どうか腹を召され……」
「若いな、征士郎……目を開いて、己のまわりをよく見てみよ……」
着流し姿で、折り目正しく座した深田省左右衛門は落ち着き払って、ほろ苦く笑った。
狭い屋敷内では、男たちの怒号と斬り合いの音がしている。
居室のすぐ傍で、激しい物音と女の悲鳴が聞こえた。
「これまでのようだな……。征士郎、娘らを……せめて由紀だけでも」
「それは……」
その時、ばたばたと荒々しい足音が、隣室まで迫ってきた。
仲間が踏み込んでくるまで時間が無い。
と、深田がわずかに腰を上げた。
刹那、その穏やかな相貌に剣気が奔った。
反射的に征士郎は、素早く右側に置いた大刀を取り片膝を立て、目を閉じた。
「上意!」
刀を抜きざま征士郎は踏み込んで、袈裟に振り下していた。
至近での動作だけに、右腕だけで振った大刀は、深田の左首根を充分斬り割っていた。
目を開けた時には、深田省左衛門は、どう、と倒れ伏したところだった。
直後、障子が蹴倒されて、男達がなだれ込んでくる。
征士郎は飛び起き、後を顧みずに縁側の障子を蹴倒し外へ出た。
深田が腰を上げかけたのは、征士郎の斬撃を誘うためだったのに気づいていた。
何故だ――。
疑問が頭の中をぐるぐる回る。
始めて人を斬った。
それを反芻する間もなく、再び屋敷内に飛び込みまた一人を斬り、さらに奥へと進んでいく。
真剣は竹刀の稽古とは違うのに、初めてにもかかわらず体は自然に動いた。
次第に頭が働かなくなり、四肢だけが別の者のような感覚に陥った。
迫りくる刃に斬り裂かれる直前に、その部分が痛みを発し、咄嗟に体が相手の刀を避けていく。
体中の血がたぎり、斬り捨てた者の血や、斬殺時の感触に興奮した。
ふと、深田の最後の言葉が頭を過った。
『由紀だけでも』助けて欲しい。深田の言いかけたことは、それだろう。
深田がよく、「征士郎の嫁にどうだ」と冗談かどうか、笑って、征士郎をからかっていたのを思い出した。
よちよち歩きの幼い頃から、征士郎になついている娘だ。
しかし、俺が助けたところで、どうするのだ。
俺は、由紀の父を上意討ちとはいえ、斬り殺した――。
由紀にとっては、征士郎は、親の仇になるのだ。
進んでいくと、奥の納戸で、物音がしているのに気付いた。
もしや由紀が隠れているやも、と引き戸を開けて中に入った。
「あ!」
視界に飛び込んできた男の背中が、前後に動いていた。
「中野! 何をしている!」
目が慣れて……同門の中野が女を犯しているのを見た。
肥満した中野の脇に抱えられ、こちらへつき出された白い足先が、視界に入る。
足袋に包まれた足先は異様なまでに白く浮かび上がり、男の動きによって、ぶる、ぶる……と揺れている。
中野は何人目だろうか――女の着物は切り裂かれ引き千切れ、口に布がまげこまれていた。
血の滲んだ乳房の先の、蕾さえ赤く傷ついていた。
女と目があった。
征士郎の視線とぶつかった、哀しげなその瞳が大きく見開かれた。
あっと声をあげそうになりながら、刹那、征士郎は中野の背中を右肩から袈裟に斬っていた。
「ぎゃあっ」
「――――っ」
中野の体が傾ぎ、前にのめっていった。即死だろう。
女は――由紀の姉・早紀は、中野が征士郎に斬られる一息前に、心の臓を中野の大刀で一突きにされていた。
征士郎の喉に、大きな塊が突き上がってきた。
激しい吐き気に襲われ、よろめいて後ずさる。
ふとある気配に気がついて、振り返った。
由紀だった。
由紀は茫然と突っ立ってい、征士郎を見上げていた。
――見たのか、姉の姿を?
「っ……由紀どの!……さ、私と一緒に……ぐっ」
この場から由紀を連れ出さねば。
まだ十三の娘にはあまりにむごすぎる。
姉が犯されながら、殺されたのだ。
込み上がる吐き気を抑えて、由紀の手を取った。
征士郎達は、藩での主流だった一刀流の遣い手ばかりで、同じ道場の仲間だ。
その中でも征士郎の存在は、次期師範代になるのではと稽古仲間の最近の関心の的だった。
この行動の指揮を執っている上役も、同じ道場の先輩であった。
由紀を連れ庭に出て、足を止めた。おかしい――。
すでに家老側が手配した後発隊が到着してもいいはずだ。
火を放つ時には合図がされ、征士郎たちは引き上げることになっている。
ひとまず、屋敷内に由紀を隠して、合図とともに由紀を連れ出せばよい。
罪人の娘とはいえ、娘の由紀には咎はないはず。生きる道もあろう。
由紀の姿を庭の植栽に紛らせ、もう一度、殺戮の場に戻ろうかと、自分を奮い立たせようとした時。
ひゅっ、と夜気を引き裂くように、火の矢が屋敷へ飛んで行くのが見えた。
「なに……?」
次々と矢が屋敷へ飛び込んでいき、あちこちから火の手が上がり始めた。
いつの間にか油でも撒いていたのだろう、そうとしか考えられなかった。
あっという間に炎が屋敷を舐め始めた。
中から人が飛び出してくる。
征士郎の仲間の一人だ。
こっちだ、と知らせようとした時、もう一人飛び出してきた影が、仲間の男に後ろから斬りつけるのが見えた。
斬ったのは、征士郎と竹馬の友である、井川勝之助だった。
またしても、炎から逃げ出てきた仲間を、間髪いれずに勝之助が背中から斬り捨てた。
もう一人同じ仲間が、今度は別の男に斬られた。
上役でもある同じ藩校「孝省館」の教授方主席、田崎直次郎が刀を振るっているのを見た。
征士郎の頭は混乱し始めた。
『目を開いて、己のまわりをよく見てみよ』
深田の言葉が、耳に蘇る。
……濡れ衣……そう言った時の深田の、僅かに見せた苦悩の表情を思い出した。
すでに炎は魔物のように、夜空を焦がす勢いで燃え盛っていた。
征士郎のいる場所でさえも、熱くて顔をそむけなければならぬほどだ。
逃げなくては。
俺も仲間と同じに斬られてしまう……。
本能的に、自分も殺されると悟った。
ここから出ることも、もはやできぬのではないか。
どうしたらよいか。
いつのまにか、由紀をどうしたら助けられるのか、そのことを考えていた。
この屋敷から、逃げられる術はないか。
不意に、征士郎の袂がくいくいと引かれた。
「お屋敷を出られる場所を知っています」
由紀が手を引っ張り、闇に紛れて征士郎を導いた。
すばやく築地塀にぴたりと身を寄せ、しゃがみこんだ。
庭の角になったところに、大きな欅、灌木が無造作に密生している。
死角になったその塀の崩れたところに、由紀は這いつくばって、先導してくぐっていった。
夜空は晴れており、月明かりは頼りないが、星が瞬いている。
雪の残る茫漠とした集落のはずれの、国境に通じる追分まで走った。
小高い丘から振り返ると、深田の屋敷が燃えているのが見えた。
由紀は何も言わなかった。
黙って征士郎を見上げ、懐から袱紗に包まれたものを差し出した。
五十両あった。
由紀も覚悟の上、ということか。
さらに征士郎は、由紀の身なりに気付き、驚いた。
外出をしても良いような綿入りの羽織を着、蓑をつけ、足拵えまでもしている。
おそらく、今夜のことを予見していた、父深田省左衛門から命じられていたのだろう。
「よいのか」
否やはない。
戻れば由紀の命はなかった。
「私が由紀どのをお守りいたす。お父上のご遺言ゆえ」
思わず征士郎は由紀に言っていた。
由紀が目を見開いて、押し黙ったまま征士郎を見つめている。
『遺言』の言葉に、父がもはや生きていないことを悟ったはずだ。
由紀の目が潤んできたが、顎をくい、と引き涙を堪えたようだった。
小さな肩が震えているのは、寒さだけではない。
征士郎は鼻梁の奥に、痺れを感じた。
由紀は今、悲しみと恐怖と不安、それらに負けまいと必死に耐えている。
武家の娘であるが故か、由紀は父の遺言を守ろうとするだろう。
父を殺した男とも知らず、由紀はこの先を征士郎とともにするだろう。
征士郎は、熱いものが頬をつたって、落ちていったのを感じた。
同時に、己の体も、小刻みに震えているのに気付いた。
「国を、出る。よいのか」
もう一度、念を押すように由紀に聞く。
目を伏せたままだが、由紀は躊躇わず首肯した。
由紀の涙が、また滴になって、こぼれ落ちていく。
しかし、涙に濡れた顔を上げ、まっすぐ征士郎の顔を見つめた瞳には、強い意志が宿っていた。
「由紀どのは、必ず俺が守る。約束する――」
深田省左衛門の遺言でもある。
しかし、それのみではない。
由紀を守る――。
そして、由紀に、父の仇である俺を、討たせてやる。
その時まで、守り抜くのだ――。
そう、深く心に誓った。
いつの間にか征士郎の震えはおさまっていた。
その夜のうちに、征士郎は由紀の手を引いて、国を出奔した。