人を斬った。  
今日は長屋へは帰れぬ。  
ぼんやりした頭でそう思いながら、刀に血振いをくれ、相手の袂で拭いをかけた後、のろのろと鞘に収めた。  
できれば、早く帰って刀の手入れをしてしまいたいが、そうもできまい。  
万が一。  
由紀が長屋に来ているかもしれない。  
また、あの日のようなことになっては絶対にならない。  
もやのかかった頭の中で、それを思い出しかけて頭を振った。  
しかし一度思い描きかけた禍々しい光景が、抑えていた凶暴な昂ぶりを表に一気に押し上げた。  
傍から見ても、目の血走りや荒い呼吸の征士郎の変化は明らかだった。  
人斬りを金を得る手段にしてしまった業の深さに、今更ながら激しい後悔の念を抱いたところで、後戻りはできなかった。  
 
仇は、見つけた。  
あとは、いよいよ討つのみとなった。  
たとえ相討ちになっても、絶対討ち取るという自信がある。  
いや、生きて果たし終えなければならない。  
征士郎には、己の仇討ちを果たし終えた後、もうひとつ成すべきことがあった。  
それが全て済んだとき、残された由紀のための金が必要だったのだ。  
 
それらを成しえるためには、日があまりない。  
だから、咎のある者とはいえ私的にその命を奪う、この仕事を請け負ったのだ。  
日頃の用心棒家業では、手にすることの出来ない報酬が一度に得られる。  
後一つその仕事を成せば、目標の金が貯まることになる。  
あと一度だ。  
 
由紀への想いをあらためて胸に刻んだ征士郎は、私娼窟に歩き出しながら、我知らず凄愴な笑みを浮かべていた。  
 
 
 
乱暴に組み敷いた躰は、しかし柔らかく絡んで、征士郎を遠い意識の縁から引き戻した。  
江戸に出てきてから、五年の間に二、三度女を買ったこの店に、この三月の間にもう三度も来ている。  
いちいち数がわかるのは、必ず事後にやってきたからだ。  
汚れた仕事をこなした数と一つ違いで一致する。  
今夜も店に入るなり、宿の主人は何も言わず女を呼んで、征士郎を二階の座敷へ案内した。  
 
この場末の私娼宿で、征士郎は仕事を請け負った。  
最初に仕事の話を聞いたのは、江戸に来て用心棒家業を始めた頃だった。  
用心棒の仕事が片づいて、一緒に組んだ仲間と、女を買おうとこの店に入った。  
江戸の町に慣れ、征士郎も若さを持て余していた頃だ。  
帰りしなに、征士郎のみ宿の主人に引き留められた。  
 
初めて入った江戸の女郎宿ゆえ、なにか粗相をやらかしたかと身を固くした征士郎へ、  
 
「かなりの腕とお見受けしました。この近くの悠木屋で用心棒をされていたのでしょう? どうです、用心棒家業より、割のよい仕事がありますよ」  
 
と、主は、人の良さそうな穏やかな笑みを浮かべた。  
 
およそこんな場末には似つかわしくない、物堅そうな男だった。  
どこかの商家の主だと言われれば、そうだとも言える品のある風情だ。  
それに、この日初めてこの主の顔を見た征士郎は、興味をそそられつい、「それはどんな仕事だ」と聞いてしまっていた。  
それほど、糊口を凌ぐのに窮していたともいえた。  
自分の身を削って、その日暮らしのような生計を立てているのだ。  
 
「あなた様がこのことを他へお漏らしなさらない、とお約束していただけましょうか」  
 
少し考えて、「漏らさぬ」と短く答えた。  
私娼宿の主が自分だけを呼び止めたうえに、もったいぶっていることにも非常に興味をそそられた。  
主はさらに相好を崩して、では……と舌で唇を濡らし話をし始めた。  
 
「お上の手が下らない者を、この世から消していただく、という仕事……」  
「殺すのか……!?」  
「お声が、大きいですねぇ。まあ、そういうことで」  
「…………お上の手が回らず、野放しになっている咎のある者を、ということか?」  
「ほほ、おわかりになるのが早いですなあ……まあ、そういうことです」  
 
気がつくと、主の目が炯々と、征士郎を射抜くように光っている。  
征士郎は腹にぐっと力を入れた。  
胴震いが起こりそうだったからだ。  
しかし、目はちらともその視線から離さなかった。  
 
「どうです、おやりになりますか?」  
「……いいや」  
「ふふ……お断りになる?」  
「………………」  
 
長い沈黙があった後、主が口を開いた。  
 
「突然に申し訳もないことでしたねえ。よろしいんすよ、その気になったらお声をかけてください。いつでもお待ちしております。そのかわり」  
 
主の表情が、一瞬にして変わった。獰猛な獣のように見えたのだ。  
まるで堅気のそれではない、この世の暗部に身を置く者特有の殺気を纏った相貌は、この世の裏を渡ってきた男の見せる凄みなのかもしれない。  
 
「このことは、他言無用に願います。あなた様と身の回りにもに危険が及ぶ」  
「何……!?」  
「まあ、まあ。ここで話したことは、忘れてください、ということですよ」  
 
言い終わると、先ほどの笑みを浮かべた穏やかな風貌に戻っている。  
 
「あなた様の腕に、惚れてしまったんですよ。私のほうも、きっと断られるだろうと思っていたのに、話してしまった」  
 
愉快そうに体を揺すって笑いだした。  
 
「では、もしも引き受ける気になられたら、その時はいつでも声をかけてください」  
「引き受けることは、おそらく無いと、思うが……」  
「いいえ…………必ずあなた様は、いつか声を掛けてくる、そんな気がいたしますよ」  
 
五年ほどたったある日、征士郎は主の言った通り、この店を訪れていた。  
女を買うためではなかった。  
 
三月前に最初にやってきた時も、奥から出てきた主は、一言二言征士郎に問いかけただけで、すぐ店へあげてくれた。  
一目でそれとわかるほど、青白い顔に、目だけ血走った征士郎は、殺気を漂わせたままの躰で、店に入ったのだ。  
主人に呼ばれて案内に出てきた小女が、ひっと小さく悲鳴を上げたのを靄のかかった頭の隅に記憶している。  
 
出された酒を飲むこともせず、あとから入ってきた馴染みの女が隣に腰を下ろすと同時に、押し倒した。  
女の裾をまくり上げて、いきなり硬く猛る己の一物を赤黒いそこに、押し込む。  
悲鳴とも嬌声とも着かない声を上げて、女は身を捩るが、征士郎は構わず腰を遣い始めた。  
女の荒れた陰は、前戯もなく剛直な男に穿たれても、いつものようにぬめりを醸す。  
商売女の不思議さを思いながら、激しく腰を打ち付けて、一度目を放った。  
 
征士郎に呼吸の乱れはほとんど無かった。  
女も慣れた仕草でさっさと着物を脱いで衝立に放り、征士郎の着衣を脱がしていく。  
女に、素肌に手を這わされたとたん、また征士郎は女を組み敷いた。  
 
薄汚れた壁に視線を当てながら、腰を打ち付けることに意識を戻そうとする。  
二度目の女の躰は、目眩がするような快感を征士郎に与えてくる。  
そして、忘れようとしても出来ない、生々しい記憶を呼び覚ましていく。  
 
腰からの快感が突きあがってきて、ぶるりと躰を震わせて精を放った。  
今度こそ、女から躰をどけて、ごろりと薄い寝床に転がった。  
 
 
 
征士郎が最初に人斬りの仕事を終えた夜――。  
ひどく昂ぶった心持ちを持て余しながら、そのくせ頭は、霞がかかったようにぼんやりとしていた。  
 
某藩の謀反を画策しているという、藩士三人が相手だった。  
対峙してすぐに手練だと看破した三人からは、鋭い殺気が一斉に征士郎に突きつけられた。  
一息を吐く間もなく藩士らが殺到したのを、斬撃の間境まで引きつけて抜き打ちにした。  
修練に没頭した時とは異なる、痺れるような鋭い気が、全身から腕へ、刀身へと駆け抜けていった。  
自分自身が発している殺気だった。  
 
頭は陶酔したように働かなかった。  
ただ、体だけが自然に動いた。  
繰り出される突きや、鬢をかすめる白刃をかわしながら、踊るように刀を振るった。  
血飛沫があがり、脳漿が飛び散っても、ただ目に映る光景でしかなかった。  
むしろ、血の匂いに酔ったのかもしれない。  
 
按摩の呼子を聞きながら、予め教えられた道で、町木戸を避けて長屋に戻って来た。  
返り血を浴びた姿を奇跡的に人に見られることもなく、無事に長屋の引き戸をあけ、中に入る。  
瓶から柄杓で一杯水を汲み、それを一気に飲み干しても、昂ぶった己を鎮めることが出来ないでいた。  
肩で息をしているかのようなはあはあという呼吸は、小さくなってはいたが荒く続いている。  
ひどく喉が渇いていた。  
霞がかかったような頭は、ある部分で妙に冴えている。  
この場に人がいたら、斬ってしまいそうな気がしていた。  
血飛沫のこびり付いた刀を鞘ごと腰から引き抜き、上がり框に無造作に置いた。  
 
酒を探してのろのろと部屋に上がった時、いつもの自分の夜具の上で人が起きあがる気配がした。  
女の匂いが視覚より先に鼻孔を刺激した。  
視覚は……見ているようで、見えていなかったのかもしれない。  
いや、見えていたのだ。  
女だ。  
考えるより先に、体が躍っていた。  
                  
華奢な肢体に抵抗されれば、先刻の男達との斬り合いを思い出して、ドス黒くたぎる血が体中を駆けめぐった。  
襦袢一つの女の裾をはだけ、腰ひもを解くのももどかしく、真っ白な内股を割って腰をねじ込む。  
繁みの奥の女の肉が、今まで見たこともなく美しく、桃色をしているのを見た。  
ほんの少し躊躇した。  
ふと、芳しい匂いが鼻先を掠めたからだ。  
凶暴な血が、そのほんの刹那だけ鎮まるような、愛おしく優しい、心底安堵させてくれる匂い。  
しかし、それもほんの刹那のことで、すぐさま征士郎は欲望に飲み込まれた。  
小さく悲鳴が聞こえた気がしたが、構わず昂ぶる先を女肉の窪みに突き入れた。  
あまりに狭いその中を無理やりに押し入り、ぎちぎちと音がするぐらいに抜き差しを繰り返す。  
 
「ぐっ」という呻きが聞こえた後、女の体が弛緩していくのがわかった。  
気を失ったようだった。  
恐ろしいほどの締め付けが少し緩み、更にぬめりを生じて征士郎の動きを助けた。  
己の重みをかけ、はずみをつけながら腰を打ち付けると、女の躰が動きに合わせて揺れる。  
ぬちゃ、ぬちゃ……と一定した水音が、気を失った女の喘ぎの代わりに征士郎を煽った。  
 
動きながら、肌蹴た乳房に手を伸ばした。  
小ぶりなそれは、しっとりと征士郎の掌に、吸いつくように弾力を伝えてくる。  
乳輪も乳首も女陰と同じ美しい桃色で――それは、おおいに征士郎をそそった。  
乳房を両手で掴み締めて、天を向いた乳首を二指で捩った。  
ほどなく股間を強烈な快感が突き抜けてきて、征士郎は腰を振って夥しい精を注ぎ込んで、果てた。  
 
心が空虚になっていくにつれて、次第に頭の霧が晴れていく。  
征士郎は、女の陰から自身をずるずると引き抜いた。  
すぐに力を取り戻しつつある自身に目をやって、我に返った。  
血が糸を引いてまとわりついている。  
思わず掴んだ掌に、白濁した粘液と混じった赤い滴りがべったりと着いた。  
滑りを助けたぬめりの正体は、おそらくこれだ。  
頭がすっと冴えた。  
――ここは、俺の長屋だ。  
この刻限にここにいる女は……。  
 
「由紀っ」  
 
躰が凍りつく。  
征士郎の前には、由紀が横たわっていた。  
征士郎が引き抜いたそのままの体で、初々しかった秘所から粘性の血を垂らしたままで。  
内股には、その血がこびり付き、苦しみの表情が顔に浮かんだままである。  
唇は、恐怖と痛みに耐えるためであろう、何度も噛みしめて裂け、やはり血が垂れていた。  
誰にも許したことのない肌には、征士郎の手指の圧迫痕がいくつも出来ていて、花弁を散らしたようだった。  
 
「…………っ!」  
 
俺が、やったのか。  
俺が由紀を犯したのか。  
口から漏れる嗚咽を、手で塞ぐ。  
何故だ……今まで大切に守り、慈しんできたものをこの手にかけてしまったのか。  
そうだ、俺が。  
人殺しで金を得たことに対する、天罰か?  
それなら、俺に罰を与えればよいではないか!  
こんなむごいことを、俺が!  
何故……何故俺は、由紀を……!  
 
 
征士郎は再び女の中にいた。  
三度目は快楽を貪るようにその躰を抱いた。  
この手に残る、袈裟掛けで切り殺した生身の感触を忘れようとしていた。  
肉を断ち、骨を砕いた瞬時の、刀に伝わってきた手ごたえ。  
首根から噴き出す血飛沫、噴出音。  
それらを記憶の中から消し去りたかった。  
 
あれから長屋へは帰っていない。  
あの後、由紀に手当を施し、江戸に来てからずっと世話になっている医者に連れて行った。  
わずかだが、出血が止まらなかったのだ。  
その後、由紀の世話になっている料理屋夫婦に、訳も話さず後を頼んで、姿を晦ました。  
もう、あのそれなりに穏やかな暮らしには、戻れない。  
 
――都合が良いではないか。  
 
あのような鬼畜の所業をした己を、由紀は嫌悪し、憎んでいるはずだ。  
この俺をこの世から消し去りたいと思っているなら、ちょうど良い。  
 
俺は、喜んで討たれよう。  
俺は、由紀の親の仇なのだから。  
 
征士郎は、暗い天井を見上げ、ぎこちなく笑みを浮かべた。  
 

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