『九毒蝕む我が龍姫』(中編)  
 
 井出 歩。性別・♂。年齢・28歳(当時)。職業・自営業(古本屋)。  
 職業柄(と言うのは言い訳か)、社会生活に役立つ知識は乏しいクセに、下らない無駄知識だけはかなりの量貯め込んでいる、若干ビブリオマニア気味なアラサー独身男。  
 ──3ヵ月前、俺が失踪した時の世間的な認識は、こんなモンだろう。  
 
 念のため断わっておくと、俺だって自分から好き好んで失踪したわけじゃない。  
 かと言って、某国なり某マフィアなりの陰謀に巻き込まれたとか、そういうカッコいい(?)理由じゃなく、単なる事故ってヤツだ。  
 
 そう、あれは店の整理とか棚卸とかが珍しくスムーズに終わった休業日の午後。俺はふと気まぐれを起こして、近く(と言っても自転車で15分程かかるけど)の海まで釣りに出かけてみたのだ。  
 趣味と言えるほど精通しているわけでもないが、学生時代に買ったマイロッドは一応健在だったし、たまには静かに海でも眺めつつ、水面に糸を垂れてみるのもいいかなぁ、くらいの気持ちだったのだ。  
 ところが。磯辺で釣り糸を垂れてるうちに、うつらうつらしちまったくらいはともかく、地震、それも結構震度の大きいのが来ても居眠りしたままで、ハッと気付けば高波に飲まれてるってのは、我ながらウッカリが過ぎるだろう。  
 日本人の平均程度には泳げる自信はあったが、波に飲まれた際にしこたま水を飲んじまったらしく、たちまち息苦しくなって、巧く身体も動かせず、正直もうダメかと思ってたんだが。  
 意識を喪う寸前に何やらふたつの蒼い光みたいなモノが見えて……。  
 
 左胸に焼けた火箸が突き刺さるような激痛に飛び起きたところ、俺は何やらクリスタルで出来た宮殿(?)みたいな場所に座り込んでいたんだ。  
 「あら、意外な反応。案外悪運が強いのね」  
 状況がつかめず茫然とする俺に、すぐ背後から笑みを含んだ柔らかな声がかけられる。  
 「!」  
 とっさに振り向いた俺の目の前にいたのは……。  
 
 俺の貧弱な語彙では「絶世の美女!!」としか表現しようのない人物だった。  
 よほどのロリコン・ツルペタ好きでもない限り、男なら思わず唾を飲んで見とれてしまうような見事な曲線を描く肢体。  
 この薄暗い闇の中にあっても、ほのかに光っているようにさえ見える白く滑らかな肌。  
 仏蘭西人形の優美さと京人形の繊細さを同時に兼ね備えたような美貌。  
 そして。  
 ぬばたまの如き黒髪──というには、僅かに青みがかったその髪は、身の丈より長く、それどころか遥か後方にまでうねうねと長く伸びている。  
 ギリシャ彫刻風のシンプルな白いドレスに身を包んでいるのが、また、女神かと思えるほどハマっている。  
 
 おそろしく魅力的だが、同時にどこかエキセントリックで畏怖すら感じさせる──そんな迫力ある雰囲気をまとった美人さんが、俺のすぐ背後に置かれた椅子(と言うか玉座?)に腰かけて、こちらを見て嫣然と微笑ったのだ。  
 
 正直に言うと、その時背筋を冷たいものが走ったね。  
 目の前の女性が見たままの存在じゃないと、本能的に覚ってたんだろうなぁ。  
 「──どちら様?」  
 それでも、あまり普段と変わらぬ平静な(彼女に言わせると「間抜けな」)声を出せたのは、我ながら称賛に値すると思う。  
 「ふーん。人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るのが人間の礼儀だったと思うけど……まぁ、いいわ。どうせ、知ってるしね、イデ・アユム」  
 !  
 「えっと……どこかでお会いしたこと、ありましたっけ?」  
 恐る恐る俺がそう聞くと、なぜだか突然その女性はクスクス笑い始めたのだ。  
 「ウフフッ、おもしろい冗談ね。私と「以前」会ったか、なんて。もしかしてキミ、メトセラの末裔? それともマーメイドのレバーでも食べたの?」  
 メトセラ──確か、旧約聖書で1000年近い長寿を保ったとされる人物だっけ。それにマーメイドのレバーって、つまり「人魚の生肝」!?  
 どっちにせよ不老長寿に関わる単語ってことは……多分、この美人さんはやっぱり見かけどおりの年齢じゃない。多分とんでもなく長生きしてるってことか。  
 てことは、人間じゃない可能性も高いわけだ。  
 幸か不幸か学生時代の友人にソチラ方面を商売にしている人間がいる(そして実際、学生の頃にそういう事件にも巻き込まれた)から、数は少ないとは言え、妖怪とか妖精とかいった人外の存在が実在することは、俺も一応認識していた。  
 「ふふっ、せーかい。そうね。あんまり焦らすのもナンだから教えてあげるわ。私の正体は……コレよ!!」  
 
 一瞬──正確にはふた呼吸するほどの僅かな時間、俺達がいる部屋の床が透明になり、その下が透けて見える。  
 さらに、どこに光源があるのか常夜灯に照らされた程度の明度しかなかった部屋が、ほんの少しだけ明るくなった。とは言え、せいぜい停電時に懐中電灯を付けた程度の明るさだが。  
 しかし、それだけで十分だった。  
 俺達の足下──正確には床の下には、全長十メートルは下らないだろう、とぐろを巻いた大蛇が眠っていることはハッキリ見て取れたのだから。  
 しかも、ただの大蛇じゃない。  
 一瞬だったから正確な数は確認できなかったものの、蛇には複数──たぶん8本か9本の首があることも、俺にはわかってしまった。  
 
 「八岐大蛇……いや、九頭竜、か?」  
 思わず俺の口から漏れた言葉を、彼女が拾う。  
 「コチラでは、そう呼ばれることもあるわね。私はHydraって呼び方の方が好きだけど」  
 「ま、まじデスカ……」  
 驚きのあまり、思わず片言になってしまったのも無理はなかろう。  
 ヒュドラ、あるいはハイドラとも呼ばれるそれは、単なる妖怪変化の類いとは一線を画する存在だ。  
 逸話として有名なのは、ヘラクレスの難行と関連した「レルネーのヒュドラー」だろう。  
 伝承によればテュポーンとエキドナの子で、女神ヘラがかの英雄を抹殺すべく直々に育てた神話級の魔獣だ。善戦したものの、結局ヘラクレスには勝てなかったが、その死後、健闘を讃えて夜空のうみへび座になった……とされている。  
 「で、おそらにいるはずのうみへびさんが、なんでここに?」  
 先程の余韻で思わず"ひらがなしゃべり"になってしまったが、質問を返せただけでも御の字だと思っていただきたい。  
 「その前に誤解を解いておくけど、私は例の筋肉マッチョ坊やに焼き殺された「あの」個体本蛇(ほんにん)じゃないわよ」  
 その言葉から、推測できることは……。  
 「なるほど。ヒュドラってのは種族名なんですね」  
 「そ。頭の回転の速いコは、おねーさん好きよ」  
 からかうようにウィンクされるが、俺としては怒る気にもなれない。彼女の話が本当なら(そしてたぶん嘘はないと思う)、それこそメトセラか八百比丘尼でもない限り、千年単位の寿命を誇る相手に、子供扱いされても無理はないだろう。  
 「へぇ、おもしろい事考えるのね」  
 感心したような彼女は、つぃと「玉座」(実はさっき光の中で見ると大口を開けた蛇の顎そのものだった)から立ち上がると、俺のすぐ傍らに歩み寄ってくる。  
 人外の者への恐れ3分、美女にそばに来られたことによる照れが7分といった心持ちの俺は、それを紛らわせるために言葉を口にのぼらせた。  
 「えっと……ひとつ聞きたいんですが、もしかして、テレパシーか何かで俺の思考、読んでます?」  
 「うーん、キミの思っている超能力とはちょっと違うわ。ま、キミ本人にも関係あることだから教えたげるけど」  
 そう言うが早いか、彼女は俺の両肩に手を置き(ちなみに身長にほとんど差はなかった)、一瞬まじまじと俺の瞳を覗き込んだかと思うと……。  
 次の瞬間、俺は彼女に唇を奪われていたのだ!  
 「んんっ、んむっ!?」  
 驚いて半開きの唇の間に、彼女の長い舌が侵入し、俺の口の中に甘い香りが伝わってきた。それだけで、かぁっ、と頭に血が昇り、体温が上がるのを感じる。  
 そのあいだに、彼女の右手がスルリとシャツの胸元から滑り込み、左胸のあたりを優しく撫でさする。  
 たったそれだけのコトで、俺の息子はたちまち臨戦態勢に入ってしまっていた。  
 
 一応断わっておくと、これでも俺は全く女性経験がないわけじゃない。大学時代にふたりほど女の子とつきあった経験があるし、その内のひとり、ゼミの1学年先輩の女性と最後までヤッて童貞も捨てている。  
 生憎、先輩の卒業とともに疎遠になり、以来恋人のひとりもできたことはないが、そっち方面には元々割合淡白な方なので、特に性欲をもてあまして困った記憶もない。自慰の頻度など月に2、3回あるかないかだ。  
 ところが、そんな俺が如何に絶世傾国クラスの美人とは言え、初対面の女性にいきなりキスされ、それだけで股間がギンギンにいきりたっているのだ。  
 どう考えても、尋常な事態ではなかった。  
 
 「なん…で、こんなことを?」  
 それでも、俺は全自制心を振り絞って、彼女の肩をつかみ、乱暴にならない程度の力で引き剥がす。  
 「あら、びっくり。この状況でも情欲に抵抗できるなんて。キミ、意外に掘り出し物かもね」  
 言葉の内容ほど驚いた様子はなく彼女は俺の手を引いて、「玉座」に並んで座らせる。  
 「頭のいいキミだから分かると思うけど……ねぇ、その身体の疼き以外に変なことはないかしら?」  
 下半身の熱から意識を逸らしつつ俺はその問いかけの真意を探る。  
 「どういう、ことです?」  
 「ヒントをあげましょうか。私は「ヒュドラ」なのよ?」  
 いつもの半分も回らない頭を、それでもその言葉から、懸命に思考を連鎖させる。  
 
 (ヒュドラと言えば……九つないし百の首を持ち、斬られても死なない不死身で……あぁ、でも火には弱いんだっけ。それと……ヘラクレスの逸話だと、毒気にやられないように、口と鼻を布で覆いながらレルネーの沼に……)  
 
 カチリと思考のピースが嵌まる。  
 「え? なんで、俺、平然と生きてるんだ?」  
 そう、ヒュドラの吐く息や体液は、強い毒性があり、かの古代ギリシャの半神の英雄ですら耐えきれなかったほどのはずなのだ。  
 それなのに……霊感も魔力も(少なくとも学生時代に例の友人にみてもらった限りでは)ほぼ人並にしかなかったはずの俺が、なんで!?  
 「正確にはちょっと違うけど、キミはね、私の眷属になったのよ」  
 
-つづく-  
 

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