「それじゃあ、お先に」  
 
後輩に戸締りを任せて僕は部室を出た。バスの時間が迫っている。  
バスの到着時刻は不安定で、三分から五分定刻より遅れることを考えても、乗車に間に合うかどうかギリギリの時間だった。  
校門を走り抜けたところで、リングロードの少し手前の交差点にバスが止まっているのが見えた。  
良かった、これなら無事に乗り込めるだろう。  
 
頬に垂れる汗を拭いながら乗車口の階段を登ると、見知った顔がそこにいた。  
「新納さん」  
クラスメイトの新納優以(しんのうゆい)が一番後ろの後部座席に座っていた。  
何度か話したことがある程度の面識。仲が良いわけでもなく悪いわけでもない。その小さな身体に合った、春の花のような笑い方が印象的な、かわいらしい女の子。  
「伊原くん……?」  
俯いていた顔がはっと起き上がる。心なしかその表情はどこか曇っているように見えた。  
「あ、えーと……。邪魔じゃなかったら、隣座ってもいい?」  
「……うん、どうぞ」  
思わず声をかけてしまったが、本音では邪魔だったのだろうか。僕が期待していた笑顔はそこに無く、彼女は困ったように微笑んでいた。  
 
「新納さん、バス通学にしたんだ?」  
どことなく空気の悪さを感じて、僕の口は新納さんの隣に着いてから滑りがよくなっていた。  
元からあまり賑やかなタイプの人ではないと思っていたが、僕が来てから彼女は殊更口を開いていない気がした。  
「家は変わらないんだけど……。引越しっていうか、住んでる場所が変わったの」  
家は変わっていないが住む場所が違うというと、何やら事情がありそうな話だ。それも家庭内とか、他人が踏み込み難い領域の。  
さっきから地雷を踏んでばかりの自分の会話術が、なんだか恥ずかしくなったきた。  
彼女が何か話し始めるまではこちらは黙っていよう、と思ったところで小さな口は言葉を続けた。  
「あるお屋敷で、住み込みで……メ、メイドを始めたの……」  
 
「……メイド?」  
「やだ、大きな声で言わないで」  
素っ頓狂な声を出した僕の口を、彼女が覆う。微かな、甘く柔らかい匂いが鼻をくすぐる。  
慌てて周りの乗客の様子を覗うと、幸い誰もこちらを気にしているふうではなかった。  
「ごめん。……その、本当に?」  
手を引いた新納さんが軽く頷く。  
彼女からそんな話をしてきたのは意外だった。てっきり僕は拒まれていると感じていたから。  
ただ、新納さんもあまり好ましい類の話でないことは確からしく、俯いた目は虚ろげにどこかを見ていた。  
 
「えっと、メイド服とか、着てるの……?」  
恐る恐る、尋ねる。  
メイドというからにはやはりメイド服を着用するものなのか。一般人からすれば非現実的な存在が、まるで現実に介入しているようで、密かに心は躍っていた。  
「そういうイメージあるんだね、やっぱり……。着るよ、ちょっと本格的なやつ」  
まさか本当に着るなんて。メイド喫茶でもなく、今時そんな仕事があるなんて……言ってみるものだった。  
僕は彼女がどこかの屋敷で働いている姿を思い浮かべた。  
メイド服の下につけた真っ白で艶やかな下着とガーターベルト。黒の慎ましいロングスカートを大袈裟にめくり、露になったマシュマロのような肌が、どこかの誰かに淫らに染められている。  
瞬時に浮かべた彼女の仕事姿は、僕の知らない男に陵辱される、新納さんの壊れそうな身体だった。  
「で、でも新納さんなら似合いそうだ。かわいいし、可愛がられそう」  
妄想をごまかすように出た言葉にしまった、と気づいた時にはもう遅い。慌てていたとはいえ、そう仲良くもないクラスメイトに『かわいい』だなんて、まるでナンパだ。  
手前で踏みとどまっていた会話を、ついに地雷原に突っ込ませてしまった。  
 
「…………」  
ほら見たことか。彼女の顔は完全に窓の外を向いてしまった。  
慌てて何か弁解の言葉を探すが、適当なものが浮かばない。  
しかししばらく悩んでいたところで、あちらから口火を切ってきた。  
「伊原くんもさ、メイドって聞いたらやっぱり、その……エッチなこととか、思い浮かべる?」  
背の低い新納さんが上目遣いで僕に尋ねている。これは、何を思っての質問なのだろう……。  
一瞬の妄想とはいえ、彼女の肢体が弄ばれる様を浮かべたことが見透かされたようで、思考が上手くまとまらない。  
「いや、エロいっていうか……かわいいっていうか、その。」  
柔らかい物腰の新納さんにしては珍しく、僕を強く見つめている。どちらかというと睨んでいると言ってもいい。  
「ごめん。その、色々考えちゃいました。エッチなこととか、色々……」  
「……ふうん」  
彼女はまた窓の外の風景だけを見て言った。  
住宅街と街路樹が延々と続く町の姿を。  
 
「そう違わないかもしれないよ。伊原くんの考えていることと」  
そう言って彼女は僕の前を通り、バスを降りていった。  
最後にいつもと変わらない、少しだけ柔らかい笑顔を残して。  
 

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