■騎士と水蛇(ハイドラ)の娘■
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エドレットは街道をただひたすらに歩いていた。
前を向き大股で歩みを進める彼が腰に佩く剣は、柄に典雅な彫りがあり、
身につけた服もくたびれてはいるが上等なものだ。
それに何より、媚びぬ光を帯びたその瞳が彼が貴人か、その階級に準ずる
人間であることを示していた。そのような貴人が供も連れずに旅路を
急いでいることは奇妙といえば奇妙と言えた。
「お待ちください、お待ちくださいませ!」
愛らしい声が彼の後ろから響いてくる。供もおらずというのは正しくはなく、
彼には連れがいたのだ。遅れること数歩後ろ、小柄な姿が見えた。
その体つきから少女であることが見て取れる。
少女は立ち止まり前のめりになると、膝に手をそえてエドレットに向かって顔を上げた。
「……そんなに早く歩かれては付いていけませんわ!」
美しい少女だ。巡礼をする婦人のようなフードをかぶっており、その中にみえる瞳は
つぶらでまるで黒曜石のようだった。フードからこぼれた髪は白金の色で
陽光の下ではさらに色素が薄く見えた。
わずかに疲れの色を瞳に浮かべ、長いまつげをしばたかせながら少女は
エドレットを睨んだ。だがその訴えに構わず、彼は歩みを進め続ける。
「……付いてこられぬなら結構。姉君たちの元へ帰ればよい」
振り向きもせずにそんなことを言う。
とりつく島もない態度に少女は頬をぷうっと膨らませた。
エドレットがどんどん先に行ってしまうので仕方なく小走りで追いかけた少女だが、
少し先で彼が立ち止まっているのを見てぱっと顔を明るくさせた。
「エドレットさま……っ」
「メリルジーヌ、さがって」
そう言って彼は左手を斜めに伸ばした。彼の目はずっと前へと据えられている。
「よう兄ちゃん」
するとそれまで隠れていたのか、木と木の間から数人の男たちが姿を現した。
身に着けているものはぼろぼろで薄汚く、見るからに柄の悪い男たちだった。
にやにやと笑いながら手にした刃物をこちらへと見せ付けている。
おそらくは、賊の一味。この街道を渡る旅人を襲っては、その持ち物や金を奪っているのだ。
エドレットは剣の柄に手をかけたまま彼らを見やっていた。まだ抜く気配はない。
そして強い口調で言った。
「やめておいた方がいい。怪我をしたくないのなら」
その言葉に賊の男たちは吹き出した。わざわざ嫌な調子をつけて彼の言葉を復唱する。
「格好いいねぇ、色男」
「彼女の前で良いところ見せちゃうぞってか」
「エドレットさま!!」
「いいから君は下がっていろ」
そうメリルジーヌを背後にしながら、エドレットは男たちと間合いを取った。
短剣を構えながらじりじりと近づいてくる男とにらみ合い、一瞬の間に放たれた
刃の旋回を見切って避けた。そのまま柄からは手を離し、拳を握ると男の首の後ろに
強く落とした。
「がっ……!」
たまらずガクリと膝を落とす男。そして次の男が顔をいびつに歪めて手斧を
振りかぶったのを見て懐に飛び込み、その胴体へ当て身を食らわせる。
「エドレットさま!」
一人、一人確実にのしていたエドレットだったが、悲鳴じみた呼び声に顔をあげた。
すると禿頭の大男がメリルジーヌを羽交い締めにするようにしてとらえているのが見えた。
「メリル」
「へへ、大人しくしなお姫さま。いい子にしてりゃあんたの細っこい首を折らずにすむからよ」
男はメリルジーヌの首の前に回した腕にぐっと力を込めた。だがメリルジーヌは全くおびえた様子も
なく、ひるむこともなく男の腕を掴んでもぎ離そうと爪を立てていた。
「いてぇ! なんだこいつ、猫みたいな女だな……」
「猫、なんかじゃ、ありませんことよ!」
エドレットは大男を見据えて言った。
「彼女を離せ」
彼から殺気が消えたのを見て、男は態度を大きくして笑った。
女を人質にしたのは正解だ、と思いながら。
「それは兄ちゃん、あんたの態度次第だよ。俺らの兄弟にした暴力行為を謝罪して
同じだけの傷を負ってくれるってんならあんたを許してやるし、詫びの品を寄越すってんなら
女の事を考えてやってもいい」
「この玉子頭、びっくりするくらい馬鹿ですわね」
するとメリルジーヌが軽蔑しきった声をあげた。
つるりとした禿頭に玉子頭という表現があまりに的を射ており、
エドレットは思わず吹き出しそうになったがこらえて、あえて厳めしい顔をつくっていった。
「……メリル、刺激するんじゃない」
「玉子が割れるからですの?」
そこで賊の男たちの何人かが噴いた。
そのやり取りに大男は禿げた頭を真っ赤にして叫ぶ。
「て、てめえら、なめてんのか!! ……おい、あの男やっちまえ」
そう言いながら男は顎で仲間にエドレットを襲えと促すが、一度崩れた戦いの空気と
いうのは元には戻しづらい。にやにやと笑いながらお互いを見ている。
だが、禿頭は慣れているようで仲間に発破をかけ始めた。
「おいおい、お前らお坊っちゃんの剣の柄を見てみろよ。ずいぶん年代物って
感じじゃねぇか。きっと良家のお坊っちゃんが広い世界を見てみたい、だなんて
ぬかして旅してるんだろ? きっとたんまり金持ってるぜ。
もしかしたら身代金も取れるかもなぁ」
金、の言葉に男たちの間にまた欲望の揺らめきが見えはじめた。
そうなるとエドレットも対峙せざるを得ない。
だが、睨みつけるだけで相手はすでにのまれた様子があった。エドレットはすでに
二人も一瞬で気絶させている。それに今も複数人に囲まれても脅えた様子ひとつ見せない。
男たちはその雰囲気に飲まれ始めていた。エドレットは目を細めて言う。
「もう一度警告する。怪我をしたくなかったら彼女を離した方がいい」
「う、う、うるせえ!! お前らまとめてたたんじまえ」
「お、おう……」
エドレットは襲撃にそなえ身構えたが、大男に押さえつけられていた
メリルジーヌが暴れて叫ぶ。
「卑怯もの! 大勢で一人を襲うなど、男の風上にもおけぬ卑怯ものです」
「うるせえ、あの男が悪いんだぜ。いつもなら金目のものさえ出しゃ道を
通してやるのに、妙に逆らうから。死んだらお前はみんなで可愛がってやるからよ」
「エドレットさまぁ!」
メリルジーヌが叫ぶ。
するとその叫び声とともに彼女の足下から、ぶちぶちぶち、と綱がきれるような音がした。
「な、なんだあぁ……」
ぎょっとして男はメリルジーヌの体を離す。エドレットの元に殺到しようとしていた
男たちも後ろを振り向き、事の成り行きに息をのんだ。
その一連の流れに、エドレットは苦い表情を浮かべた。
急に解放され、反動で転びそうになったメリルジーヌだが、踏みだそうとした足は
人のものではなくなっていた。二つの足はくっついて一つになり、みるみるうちに
銀の輝きを放つ鱗もつ蛇のそれになっていった。
上半身から上は美しいメリルジーヌのままだ。だがその下半身は大蛇のもの。
ぬらぬら鱗を輝かせながら、メリルジーヌはとぐろを巻いた。
「よくも、エドレットさまにひどい事をしようとしましたわね!」
くわっと開いた口は人間のものではあったが、男たちはすっかり腰を抜かし、
大蛇ににらまれた蛙のように動けなくなっていた。
だが、そのうちの一人が身の内の恐怖に耐えかね叫ぶ。
「ば、ば、化け物ー!!」
その言葉にメリルジーヌは顔色を変えた。
「ひどい……」
わなわなと体を震わせながら蛇の下半身をのたうたせる。そして涙目で叫んだ。
胸から上だけ見ればすっかり同情して慰めてやりたくなるような憐れむべき
美少女という風情ではあったが、いかんせんその下半身は大蛇。
ずるずる、ずるずるっとメリルジーヌの感情の揺らぎとともに滑らかに動く。
「もう、失礼ですわよ!!あなたのご面相の方がよっぽど化け物じゃありませんか!!」
すると、びゅんと音をたてて蛇の尾が鞭のように飛んだ。
そして失礼な事を言った男をはじき飛ばす。木にびたんと叩きつけられ、
男はきゅうと気を失った。そして別の男は癇癪をおこしたメリルジーヌに
指をつきつけられ、突如何もない場所から発生した水球に閉じこめられ
ごぼごぼと苦しんだあげくその場にばしゃりと投げ出される。
怒ったメリルジーヌには見境というものが全くなかった。
エドレットはといえば自分も被害を受ける前に早々に脇へと避けていた。
そこで木に寄りかかったまま、大騒ぎを見て一言呟く。
「……だから警告しただろう」
* * *
「あんなにおおっぴらに正体をさらしたりして、最悪、祓魔師を集団で呼ばれるぞ」
気絶してしまった男たちを一カ所に集めるだけ集めて縛って道の目立つ所に捨て置く。
エドレットはメリルジーヌに向かってため息混じりに言った。
だが彼女は堪えた様子もなく笑っていた。
「その時はエドレットさまが守ってくださるのでしょう?」
すっかり下半身も人間に戻ったメリルジーヌは、軽やかにエドレットの前に回り込み、
男の顔を見上げた。
「さあどうかな。私には教会に逆らう気はないから」
「それは嘘ですわ。エドレットさまはお優しいかた。
女の願いは無下にはできぬ、まことの騎士ですもの!」
エドレットは思わず苦笑した。
メリルジーヌの自分への信頼は異常といえるまでに篤い。
自分はそこまで善人ではないし、他人を盲信するものではないと言い聞かせてみても
彼女は聞く耳持たずのどこ吹く風だ。
何度、家族である姉妹のもとへ帰れと言ってもこうやってエドレットを追いかけて
付いてきてしまう。
「……困った奴だな、まったく」
そう口に出してみてもメリルジーヌは全く意に介さぬようだった。
エドレットとメリルジーヌとの縁は、少し前に遡る。
彼は元は貴族の息子であり、思うところがあり冒険者というような
無頼の生活に身を投じた。それからは旅から旅への日々で、便利屋めいたことも
しながら様々な場所を回っている。メリルジーヌと出会ったのはその旅の途中であった。
ある村が、大蛇の魔物に襲われているという話を耳にしてエドレットは
そこへと向かった。蛇は一月に一度くらいの頻度であらわれ、生け贄を要求した。
そして出せないのであれば金品や、財宝をよこせと。
住人は何度か金を出し合いなんとか凌いではいたが、もはや我慢の限界に
きておりエドレットは村の人間に懇願されるようにして大蛇退治へと向かったのだ。
エドレットは生まれつき魔法の力を帯びた目を持っていた。
いわゆる魔眼――邪視とよばれることもある――というやつで、まやかしの
魔法にかけられても真実を見抜く事ができたり、同じような力をもつ
魔物のように相手を金縛りにすることもできた。
ただ、これはけしてエドレット自身が望んで得た力ではなく、幼い頃には
見たくもない恐ろしい化け物を見てしまったり、厄介に巻き込まれたりして
これは呪いだと思い悩んだこともあった。だが、今ではこれも一つの
『良い贈り物(ギフト)』だと思えるようになった。旅をして魔性や妖にまつわる
厄介ごとに首を突っ込むのは、この力が人の役に立てれば、という思いもあった。
そして大蛇と対峙したエドレットは、その魔眼で蛇の弱点を見抜き、
逆立った鱗に剣を突き立てようと振り上げたのだ。
そこに現れたのがメリルジーヌだった。彼女は半蛇半人の姿で現れると
大蛇と戦っていたエドレットに襲い掛かり、飛び掛からんばかりに
爪や鱗で攻撃を加えてきた。
不意打ちではあったもののエドレットは、その攻撃をしのぐことはできたが、
いきなり現れた『腰から上は人間の娘で下は蛇』という尋常ならざる
見た目の娘の存在に、戸惑いを隠せなかった。
だがメリルジーヌと戦っているうちに大蛇が逃げていくのを見て、
いくら腰から上はたおやかそうな娘だからといって、騙されてはいけない、
大蛇の仲間の魔性なら斬らねばと思いきり、エドレットはメリルジーヌを
追い詰めると、その足を刺して動きを封じた。
それでもなおメリルジーヌは蛇の下半身をのたうたせながらエドレットに
その爪を向けており、その執念深さに彼は戸惑い、この蛇娘に問うた。
お前は何者だ、なぜ人間を襲い苦しめる大蛇の味方をするのか、と。
するとメリルジーヌはその瞳に憎しみと涙と両方を浮かべ、答えたのだ。
忌々しくも愚かな人間ども! わたくしのお母様を殺させはしないわ。
ぜったいに!
「――エドレットさま?」
過去の記憶に浸っていたエドレットは声をかけられてはっと顔をあげた。
メリルジーヌはそれを見て笑う。
「どうなさいましたの、珍しく呆けなさって。
まさか……わたくしのことでも考えていたんですの?」
「そうだ」
その答えにメリルジーヌは一瞬喜びを感じたが、エドレットにはそんな
メリルジーヌが嬉しく想うような他意は何もないことは分かっていた。
そのことは自覚しているだけにメリルジーヌは彼に気が付かれぬよう
微笑みを浮かべた顔に寂しさをにじませた。
*
街につくとエドレットは衛士に一応野盗のことを話し、それから旅籠を探した。
「部屋は二つで」
「ひとつでかまいませんわ」
エドレットが帳場でそう話をすると、メリルジーヌがそんな事を言う。
宿の主人はを二人を交互に見ると、にやっと笑ってみせた。
「……部屋は一つで充分なんじゃないですかね、にいさん」
「二つで、お願いします!」
部屋に向かう廊下でメリルジーヌはエドレットについていきながら、
つまらなそうに唇を尖らせていた。
「わたくしは構いませんのに……」
「私が構うんだ!」
かっ、と叫んで振り返ったエドレットはため息をつく。
「……なぁ、メリル。なぜそんなに私に固執する?
私程度の男なら他にもいるだろうに」
「……あなたみたいな方が他にいるとは思えません」
メリルジーヌはかたくなであった。エドレットの瞳を見上げてそう言い張る。
「あなたのように強くて、高潔で、優しい方……」
そう言ってメリルジーヌはエドレットの顎のあたりに指で触れた。
エドレットが大蛇退治の依頼を受けてメリルジーヌたち姉妹と出会ったとき。
あの時メリルジーヌは死を覚悟で、やってきた“騎士”とやらに向かっていった。
母蛇を殺されたくない一心で彼と刺し違えるつもりだったのだから。
だが、彼はメリルジーヌを殺さなかった。それどころかエドレットは一方的に
襲ってきたメリルジーヌの話を聞いて、彼女の大切な者を救ってくれたのだ。
人間なのに魔性を恐れることもなく、偏見も持たず、助けるのも当然のことだと
いうように救ってくれた。そんな彼をどうして好きになれずにいられるだろう。
「メリルジーヌ?」
恋する瞳は夢を見るように熱を帯びていく。
この人を手に入れたい。その思いがメリルジーヌの心の中で渦を巻いていった。
じっと見つめていると、エドレットの手が伸びてきてメリルジーヌはどきりとした。
「……ごみがついている。葉っぱかな」
そう言ってエドレットはメリルジーヌのフードの後ろをぱっぱっと払う。
あまりにあまりな反応にメリルジーヌは思わず俯いたまま、わなわなと震えてしまった。
エドレットはそれを気にもしないようで明るい声でいった。
「一休みしたら下の食堂で飯でも食べよう。久しぶりにまともなものが食べられるよ」
「エ、エ、エドレットさまの馬鹿あーーっ!!」
メリルジーヌはエドレットを突き飛ばすように離れると、わーっと泣きながら駆けていった。
「なんだ……」
エドレットにはその豹変の理由が分からない。
ただ急に走っていってしまったメリルジーヌの背中をみて戸惑うだけであった。
*
メリルジーヌは部屋でめそめそと泣いていた。
エドレットは悪くない。何も悪くないことはわかっていたが、
それでもなお心を占める感情は、馬鹿馬鹿エドレットさまの馬鹿、だった。
最初に好きだと告げた時、「気持ちはありがたいが応える気はない」と
はっきりと断られた。それでもあきらめずに追い掛けてきたものの、
何をどうやったら彼の気を引けるのかが分からない。
母譲りの金の髪を揺らすことも、黒玉の瞳で見つめることも、そんなものは
何の役にも立たなかった。
エドレットが見ているのは進む道の先だから。メリルジーヌを見てはくれないのだ。
――それでもエドレットを恋い慕う気持ちは日に日に募るばかり。
メリルジーヌは嗚咽をかみ締める。
すると扉をノックする音と共にエドレットの声がした。
「メリルー、いきなりどうしたんだ? ……パンとシチューだけ
もらってきたがどうするね。昨日から歩きどおしで腹は減ってないのか?」
その言葉にメリルジーヌは思わずかっとなり、叫んだ。
「放っておいてくださいまし!!」
そうは言ってみたものの、エドレットに言われた通り昨日からろくなものを
食べていないのだ。確かに空腹を感じていた。どうしようかと思い悩んだ挙句に
お腹が鳴り、メリルジーヌは苦渋の決断をした。
「や、やっぱり……いただきます」
そう返事をすると扉の向こうから笑い声がした。
だが、扉をあけると笑っていたエドレットがぎょっとした顔になる。
「……泣いてたのか」
「そうですわよ。悪いですか?」
エドレットは木の椀と固焼きパンを持っていた。シチューのいい匂いを
ただよわせる椀を受け取り口をつけると、いかに自分がお腹がすいていたかを
自覚して滋味豊かなそれを、あぶあぶと食べた。エドレットの視線を感じる。
意地を貫き通そうと思っていたのに食欲に負けた自分が情けなかった。
「足は平気なのか?」
メリルジーヌが食べ終わると、おもむろにエドレットがそう言った。
「なにがですか?」
「君は良くついてきたなと思って。私はちっとも手加減なんかせずに
歩いてきたのに。だから足の皮は大丈夫なのかと思って」
「そんなこと……」
正直なことを言えば痛かった。だが足が痛いなどと言えば帰れと言われることが
明白だったのでずっと黙っていたのだ。
「……見せてみろ」
渋るメリルジーヌにエドレットはいいからと靴の紐をほどかせて足を
あらわにさせた。すると足の裏を見てエドレットは顔をしかめた。
「やっぱりな」
メリルジーヌの足の裏はまめや水ぶくれだらけだ。水ぶくれは破けてもいるし
靴擦れが傷になっている所もある。みっともないのであまり見せたくは
なかったのに、とメリルジーヌは唇を噛んだ。
「泣くほど痛いなら、早く言えば良かったのに……」
別に足が痛くて泣いていたわけではない。メリルジーヌは反論しようとしたが、
エドレットは立ち上がると薬を持っている、と言いおいて一度自分の部屋へと戻った。
「知り合いに作り方を教えてもらったんだ。痛みがマシになると思う」
戻ってきたエドレットは手のひらに収まるくらいの小さな木の器を持っていた。
その中には茶色っぽい軟膏が入っている。それを指ですくうとエドレットは
メリルジーヌの足をつかんだ。
「きゃっ」
傷跡に丁寧に軟膏をすりこんでいき、細く切った布を器用に巻いていく。
「治ったら今度は滑らぬよう靴の中に粉を打つといい。この傷も
跡にならないといいな。君の足はきれいだから」
その声はあまりにも優しげで、メリルジーヌは自分のつま先をつかむ
愛しい男の顔を見て悲しいまでに胸をときめかせていた。
触れてほしいのは足だけではない。それを告げるには今が絶好の機会に思えた。
メリルジーヌはエドレットの手からすっと足を引いて床につけると、
上半身を乗り出した。思わず頬が火照る。さぞ決意に満ちた顔なのだろう。
エドレットがわずかに目をみはった。
「わ……わたくし、わたくしっ、エドレットさまが好きなんです!
お願いです、妻にしてくださいまし……。思い出が欲しいのです……、
あなたの子供が、欲しいのです」
メリルジーヌは一息にそう言うと、エドレットの唇に自分の唇を
ぶつけるようにして口付けた。さすがにメリルジーヌにのしかかられたくらいでは
エドレットの体は動かない。だが、やや顔を仰向かせてメリルジーヌの口付けを
受けていた。そっと顔を離すと、エドレットはただただ驚いたような表情をしていた。
「エドレットさま……」
呼びかけるとエドレットの顔が、かああっと赤く染まっていく。
だが、彼は手のひらをメリルジーヌと自分との間に広げるとかすれた声で言った。
「すまない」
それは謝罪の言葉だった。そして遠まわしながら明らかな拒絶の言葉。
しばらく何か言いたげに口を開け閉めしていたが、ぽつりと言った。
「……私には、想う女性がいるんだ」
それは初耳だった。
「想う、かた……が?」
そう言いながらも自分が口にした言葉の意味をメリルジーヌは理解できてはいなかった。
ただ、遅れてその言葉が頭の中に入ってきて、その言葉で殴られたような衝撃を
覚えメリルジーヌは放心していた。
エドレットは堅物でおまけに赤面しやすい性質で、女性と話すのも
あまり得意ではない。それが心に決めた想う女性?
メリルジーヌは自分の声が遠く響くのを感じながらぽつり、と唇に言葉をのせた。
「お約束、した方ですの……?」
「いや、何の約束もしていない」
そう言うとエドレットは苦笑した。
「そもそも向こうは私を愛してはいない。私が一方的に想いを寄せているだけだから」
「……ならば」
メリルジーヌはこくりと喉を鳴らした。我知らず涙がまたもやせりあがってくる。
「わたくしが付けこむ隙はありませんの?」
「メリル……」
「エドレットさまの一生を縛ろうなんて、そんなことは思っておりません。
ただ子種をいただければそれだけで」
「何を言ってるんだ、そんなことできるわけがないだろう。だ、だ、抱いて、
そのまま打ち捨てるような真似が」
「わたくしはそれで、それだけでいいんですっ!!」
そう癇癪を起こしたメリルジーヌをエドレットは抱き締めた。
抱き締めてくれた、とメリルジーヌは思った。だがエドレットは兄が妹に
するような仕草でメリルジーヌの背中をぽんぽんと叩いた。
「メリルジーヌ、聞いてくれ。私は君の気持ちには応えられない。
……君を、不幸にはしたくない」
「でも……」
言い掛けたメリルジーヌの唇にエドレットが指をあてた。
「おやすみメリル」
そう言い残しエドレットは部屋を出ていった。
(もう、本当におしまいですわね……)
ぼすんと寝台の上にメリルジーヌは腰を落とした。じわり、と目尻に雫が盛り上がっていく。
すぐ上の姉が、エドレットを追い掛けていこうとするメリルジーヌに言った
言葉が思い出される。人間など好きになって、どうするのだと。
我らの母は偉大な蛇の妖であり、神として振る舞うことすらできたのに
人間である父に恋をして身を持ち崩し、結局魔性としての誇りをも失って死んだ。
悪心を持った魔術師に、弱い人間である父を質に取られ、母は囚われ、
使い魔として扱われる身となったのだ。それが母の身の破滅であった。
救い出された後もその傷は深く、もはや此の世に留まることはできなかった。
蛇は眷属に与えられた屈辱を忘れない。メリルジーヌも人間を憎むべきだと
姉は言った。己が身に流れる人の血を恥とせよ、と。
それでも、三姉妹の長姉たる一番上の姉はメリルジーヌの気持ちを分かってくれた。
彼女はエドレットが悪の魔術師から母を救いだし自分たち姉妹の元へ帰してくれた事を
感謝していた。だから姉妹で母を看取ることもできたのだ。
そして長姉には、メリルジーヌがどんな手を使ってでもエドレットの花嫁に
なりたいのだということもお見通しであった。そして旅立ちの日、必要があれば
使いなさいといくつかの魔法薬や道具をメリルジーヌへと渡してくれた。
メリルジーヌは涙をぬぐうと冷たい笑みを浮かべた。そして自らの荷物袋の中をあさる。
手にしたのは青い色をした小瓶だ。中身はブリーセンの魔法薬。
かつて自らになびかぬ英雄に恋をした姫君がお付きの魔女に命じて作らせた魔法の薬だ。
長姉はその処方を応用し、香の形で使えるようにしていた。
小瓶の蓋を開け、メリルジーヌは中身を自分の体にふりかける。すると蠱惑的な香りが
部屋の中にも広がっていった。その香りを身にまといながらメリルジーヌは瞳を閉じる。
自分は今夜、罪を犯すのだ。エドレットから向けられた友情と信頼を裏切る。
おそらくエドレットは自分を許さないだろう。だから、絶対に失敗は許されない。
首尾よく孕めるか、孕めないかは運次第だ。だが、それを気にしていては始まらない。
(いいえ、わたくしは絶対に運を引き寄せてみせる――)
自分自身に発破をかけてメリルジーヌは目を開いた。その瞳が闇の中で爛々と輝く。
そっと音をたてぬよう部屋を出ると、メリルジーヌは隣のエドレットの部屋へと
忍んでいった。鍵がかかっていたのでそっと呪文を唱えて錠を解除する。
扉を開くときかすかにきぃぃ、ときしむ音がしてメリルジーヌはぎょっとしたが
中で眠っている人物が起きる気配はなかった。
寝台にエドレットが丸くなって眠っている。くぅくぅと寝息を立てており、
メリルジーヌはいとおしさに胸がつまった。
(エドレットさま……)
メリルジーヌはその場でばさりと服を脱ぎ捨てた。一糸まとわぬままに
寝台に近づいてその上へと乗りかかる。するとエドレットがぱちり、と
目を覚まし、ばっと枕元の短剣を手にした。
だが、何度か瞬きをくりかえすとエドレットはぽかんとした表情で
メリルジーヌの姿を眺め始めた。だがメリルジーヌは慌てはしない。
そう、夜気を侵して広がるこの香りが彼に魔法をかけるのだから。
「え……、なんだ……どういう……こと?」
こしこしっと目をこするその仕草は思いの外、少年じみていた。
だが何をどうしても目の前にいる女の姿がエドレットには変わらずに
見えているために彼はこう結論づけた。
「これは……夢か?」
メリルジーヌはその問いにこくりとうなずいてみせる。
そう、これは一夜の夢だ。
今、エドレットには自分の姿が、彼の想い人に見えているのだった。
想い人の姿を見て、彼はどんな顔をするのだろうと思っていたが、
エドレットは、くっと声をあげて小さく笑った。
それはメリルジーヌが見たことがないような皮肉気な笑みで、
メリルジーヌは少し驚いた。
「……私は本当に都合の良い夢を見るのが得意だな」
吐き捨てるように言ったエドレットだが、顔をあげるとメリルジーヌの
頬へと指を伸ばす。
「夢ならば許されるだろうか。……君に触れたいと思ったこと」
そう呟き、エドレットはメリルジーヌに唇を寄せた。熱く口付けられ、
メリルジーヌは涙が出そうだった。
――ずっとこんな風に、触れられたかった。こんな風に、見つめられたかった。
男の手がメリルジーヌの乳房をまさぐっていく。その手が胸から脇腹に降りていき
腰の線を辿り、手のひらの熱が躰をかすめる度、ぞわりとした感触が身の内を走り
メリルジーヌの肌を粟立たせた。それはくすぐったさと紙一重の感触でメリルジーヌは
ぴくっと震えて身をよじる。だが男に体を押し付けられその重みで抵抗を封じられ
メリルジーヌは息をのんだ。見交わした相手の目が発情した獣のそれになっており、
喰われる、という本能的な恐怖にメリルジーヌは怯えた。
「あ、あの……」
どうしたら良いのかわからずそう口走ったメリルジーヌの唇が塞がれる。
男であっても唇はやわらかいものなのだとメリルジーヌは思った。
ちゅ、という音がしてついばむような口付けをされ、水音だけが部屋に響いていく。
矢継ぎ早に唇を求められ、言葉をはさむ隙がない。閨での交合というものは、
もっと甘い言葉や愛の言葉を交わしあう、ロマンチックなものかと思っていた。
だが、想像とは違い交合とは言葉ではなく肉体と欲望を交し合うものだと
メリルジーヌは思い知った。
「う……ん、う、う……」
濡れた襞を探られ、音と感覚の両方からの刺激にメリルジーヌは高ぶっていく。
内側からこみあげる熱は男の指と自分の体との境目をあいまいに溶かしていき
メリルジーヌは切なげに声を漏らした。
「エ、ドレットさま……っ」
名前を呼ぶと切なさは、更に募っていった。
「エドレットさま、愛しい方……」
感極まったメリルジーヌがそう囁くと、エドレットが奇妙な表情を作った。
焦りが冷水を浴びせたようにメリルジーヌの体から一気に熱を引かせていく。
「エ、エドレットさま。どうなさいましたの? わたくしでしてよ」
そう取り繕おうとするとますます怪訝な顔になる。
暗闇の中でエドレットの瞳が蒼い光を放った。彼は魔眼を使ったのだ。
そしてまやかしの魔法を破り、自分の身体の下にいる女の正体を見抜いて
その名を叫んだ。
「メリルジーヌ!!」
「きゃあ」
「だ、だ、なんで君がここに」
「えっと、あの……」
しどろもどろになったメリルジーヌにエドレットは何か言おうと
したようだったが、一瞬迷ったあげく自分の頬をばしっと叩いて、
やはりこれが夢でなくまぎれもない現実だと分かったようで
顔を赤くしてわなわなと震えた。そしてメリルジーヌを直視せず叫んだ。
「もういいから何か着てくれ!!」
*
とりあえずシーツをぐるぐる体に巻き付けたメリルジーヌは
ベッドの上にぺたりと座ったまま、しくしくと泣いていた。
「……要約すると、つまり私は魔法にひっかかったってことか?」
「ごめんなさい、エドレットさま。ごめんなさい……」
服を下に身につけたエドレットはあきれたような声で言った。
「まったくなんて事するんだ。もう、なんていうか……驚いたよ。
君はもっと自分を大事にしろ。何かあれば姉君たちが悲しむだろうに」
だがその言葉にメリルジーヌはわーっと顔を覆う。
「おねーさまはむしろわたくしの失敗をなじりますわっ! つめの甘い娘だと!」
失敗して悔しいのか、エドレットの想い人への慕情を見てしまったから
悲しいのかもう分からない。それより何よりいたたまれないのは
彼を騙してその体を奪おうとした、そのあさましさを彼の眼前に
さらしたことだった。恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。
そのまま身を折って泣くメリルジーヌを見てエドレットは困ったように佇んでいた。
だが、えいやとばかりにメリルジーヌの隣に腰掛けると、子供にするように
背を軽くぽんぽんと叩いた。
「もう……そんなに泣かなくていい。今夜のことは私も忘れる、
君も忘れる。それでいいだろう」
「ほんとうですか」
「本当だ」
メリルジーヌは顔を上げると隣の男の顔をじっと見つめた。
一瞬たじろいだように身を引かれたが、その表情に怒りはなかった。
彼は自分がこんな事をしでかしても、こんな風に許してしまうのだ。
その寛容さがますますメリルジーヌ自身の罪悪感を深くしていく。
「……ごめんなさい」
メリルジーヌはもう一度詫びた。強引に気持ちをぶつけるにしろ、せめて
自分自身として彼に対峙すべきだった。断られ、拒まれるのだとしても。
「いくらなんでも、最低な方法を取りましたわ……あなたの大切な方の
姿を利用して閨に忍び込むなど」
エドレットの顔が一瞬こわばり、取り繕ったように笑みになる。
「誰かの身代わりでも、それで良かったのか?」
「……構いませんでした。それであなたを得られるならと。愚かでしたわ。
でも……エドレットさまから、口付けしてくださったとき嬉しくて、
舞い上がるような気持ちでした。わたくしに……じゃないこと、
わかってましたけど……それでも嬉しかった。あ、あなたの気持ちを
無視してかすめとった口付けですのに」
メリルジーヌは平静を保とうと、笑おうと心がけた。
だが、声が震えるのはどうしようもなかった。
「君は馬鹿だ」
するとエドレットは低い声で一言そうつぶやいた。
そして黙ったまま服を着て、振り返るとメリルジーヌの頭にかるく触れた。
「私は少し……外で頭を冷やしてくるから。君はこの部屋で寝ていい」
「……はい」
出て行くエドレットの背中を見つめながらメリルジーヌは自分の
気持ちを諦めるにはどうしたらいいか考えていた。
彼は怒ってはいない。だが、さすがにメリルジーヌの所行にはあきれ果てただろう。
どうしたらいいのか、わからなかった。
*
「…………さむい」
エドレットは宿の主に一言伝えてから戸の外に出た。
冬は去ったとはいえ、夜になると風が冷たい。だが血が上った頭を冷やすには
ちょうどいいだろうと思えた。ふーっと息を吐き、空を見上げる。
空に点々と白く光る星があり、エドレットはそれを見ながら頭の中で
その光をじぐざぐと繋いでいった。見たことのある星だ。
「うみへび座………」
そう呟くとエドレットは顔を赤くした。メリルジーヌを思い出したからだ。
シーツから出た白い足や乱れた金髪を思い浮かべてしまい、口元に拳をあてた。
(あの子は本当に、とんでもないことをする……)
まさか彼女がいきなり部屋に忍んでくるとは思わなかった。
彼女はもう情の薄い自分の事など想い切り、姉妹の元へ帰ってくれると思っていた。
エドレットはメリルジーヌが嫌いではない。人間、好きだ好きだと言われれば
悪い気はしないし、自分のような面白みのない男を好きになる相手がいるとは
思っていなかっただけに、嬉しく思う気持ちもあった。
だが、自分は己の天分を知りたいがために旅に出たのだ。
与えられた力の意味、この力で何ができるのか、魔眼を持つ自分は本当に
禍つ者ではないと言い切れるのか。それを知りたかった。
騎士として名をあげたいという気持ちもある。
まだ何も知らず、功もなしていない自分が恋情におぼれていいはずがない。
(いや……それも言い訳か)
ぎゅ、と拳を握りエドレットは思う。元々旅に出たきっかけは本当に
そんな大層なものだったのか、と自問する。ただ単に想い破れた女性から
離れたかっただけではないのか、と。
メリルジーヌの見せた幻影が魔法とわかった時、ほっとした事も確かだった。
いまだに夢にみるほど気持ちを引きずっているのかと自分が情けなかったからだ。
だが、忘れられないのは確かだった。思い切らなくてはいけないと思いつつ、
だらだらと気持ちを捨てられずにいる。相手はもう人妻で、エドレットの想いが
叶う可能性など万に一つもなく、エドレット自身ももうそれを望んでは
いないにも関わらず。
メリルジーヌには勇気がある。たとえ好意を持っていたとしてもその想いを
相手に告げるには戦いに赴くのとは別種の思い切りや勇気がいる。
自分にはできなかったことだ。
それなのにエドレットは何度彼女の勇気を踏みにじっただろう。
それでもメリルジーヌはまっすぐに好意を向けてくれる。いつだって
満面の笑みを自分に見せてくれる。このままだとうっかり彼女の事を
好きになってしまうかもしれなかった。むしろ、既に。
――あなたのように強くて、高潔で、優しい方……。
メリルジーヌはそう言った。だが、とんでもない。自分には弱さもずるさもある。
他の女への想いも捨てられないままに、向けられる好意に惹かれる。
おまけに高潔どころか騎士の精神的な愛だなんだいったところで女を夢に見れば、
欲望に引きずられてしまう体たらくだ。
夢だと信じ込んで最後まで抱かなくて良かったが、さすがに二度も恥をかかせたのだ。
メリルジーヌは今度こそ自分を見限るだろう。けれども気持ちに応えてやるつもりもない
くせに、いざ彼女がいなくなると思うととたんに寂しいと思うのだから本当に自分はずるい、と
エドレットは自嘲した。
*
「おはようございます、エドレットさま!」
次の日、メリルジーヌはいつものように愛想良く挨拶をした。
実際の所、どんな顔をしてエドレットの前に立てばいいか悩んだのだが
彼の前ではいつも愛らしく朗らかに振舞っていたかった。
「…………おはよう」
ばつの悪そうな顔をしてエドレットは返事をする。
彼は優しいから顔を合わせてすぐに追い出すようなことはしないだろうと
メリルジーヌはそう考えていた。だからこそ、決定的な言葉を言われる前に
自分の考えを伝えておこうと思った。
「お支度はできまして? もしよろしければ出発いたしましょう」
そう言いながら荷物を持って外へ出る。何か言いたげなエドレットの
機先を制しながら彼の体を街道へと押していった。
「あのな、メリル……」
「おっしゃらないで!」
振り向こうとするエドレットの顔を見ないままメリルはそう叫んだ。
うつむいて必死に言い募る。
「昨日一晩ずっと考えておりましたの。今度こそ、エドレットさまは
わたくしのことあきれて、嫌いになってしまったかもしれないと。
ですから……どうにかして諦めなくてはいけないと思いました。でも、すごく
むずかしいです。やっぱりわたくし、エドレットさまが好き。
もう二度とあんな破廉恥な真似はいたしません。ですからどうかお傍に
置いてください……それだけでいいんです」
ぎゅうっとエドレットの服の背中を握り締める。メリルジーヌは鼻声で続けた。
「それでも、エドレットさまが駄目だ帰れとおっしゃるならそう致します……」
「メリル………」
困ったようなエドレットの声にメリルジーヌはぱっと彼の服を離した。
そして前にくるっと回り、笑顔を向けた。
「分かりました! ……では、あそこの角までで構いませんわ。そこでお別れします。
ほんの少しの道中でかまいませんから貴婦人としてエスコートしてくださいません?」
そう言ってエドレットの左手に自分の腕を絡める。
「騎士は貴婦人をエスコートするものでしょう? ……わたくしちょっと
憧れてましたの。愛する殿方に手を引かれて歩く道中というものに」
そういったメリルジーヌだが、エドレットに左腕から引き剥がされさすがに
ショックを受けた。だが彼はメリルジーヌの手を取ると自分の右側へと導いた。
「……エドレットさま?」
「エスコートは貴婦人を利き手側に。それが基本だ。そうでないと、ええと……。
剣を抜くとき当たってしまうだろう」
説明をしようとしているのかエドレットは手を左右に振った。
「君はよく私の左側にくるけど、なるべくなら右にいて欲しい。
そうでないと、もしもの時に守りづらい。
まぁ別に私が気をつければいいだけで、左にいても構わないが」
そのわずかな言葉のあやにメリルジーヌは気が付いて顔をあげた。
「ご一緒してもいいんですか……!?」
エドレットはそれには答えず、背筋を伸ばすとすっと肘を引いて
メリルジーヌに向けた。
「エスコート」
メリルジーヌはおずおずと手を伸ばし、エドレットの肘に手を添える。
触れるか否かに合わせてエドレットが口を開いた。
「私が帰れ帰れと追い詰めるから、あんなことをしたのか?」
そう問われ、メリルジーヌは慌てて首を振る。
「違います。……エドレットさまのせいじゃありません。
あくまでわたくしの問題です。どうしても……あなたの愛を受けたくて。
愚かなことをしましたわ。あなたの意思を無視して、その体を奪おうとするなんて」
「……淑女らしく振舞うと誓えるなら一緒に来ても構わない。
快適な旅にはならないということだけは覚悟してもらうが」
「ち、誓います! 誓いますわ! それにどんなに辛くたってわたくし、構いません。
エドレットさまといられるなら……」
「平気ならば良い」
そういってエドレットは歩みを進めた。水蛇の娘は淑女のように、騎士に従って歩く。
しばらく黙ったまま歩いていたが不意にエドレットがぽつりと言った。
「……君のことを嫌いだと言った覚えはない」
「え?」
聞き間違いかと思ったが、見上げた顔は仏頂面であるもののかすかに頬が赤かった。
それを見て、メリルジーヌは胸がどきどきしてきた。手を添えた右手にわずかに力を入れてみる。
するとエドレットは一瞬メリルジーヌの方に視線を動かしたが、別段何も言わず、止めもしなかった。
たわいもない事だ。だが、メリルジーヌは今この瞬間とても幸せだった。
ずっとこの瞬間が続けばいいのに。そんな事を思いながら、メリルジーヌは上品に
すり足で歩みを進めていた。
(おわり)