1  
 
新緑の季節が待ち遠しいのか葉桜は白い花弁を今日も散らす。  
夜更けの桜を眺める役得もじきに終わってしまうらしい。  
細い三つ編みを垂らした支岡くぬぎはアパートメントの小窓から目を逸らした。  
ベランダ側の大窓から桜が見えるのなら良かったけれど、残念ながら西側のベランダ前には隣のアパートがどんと立っている。  
塗装が剥げた赤い壁と、いつでもカーテンがかかっている窓しか見えない。  
カーテン向こうの灯りに一瞬、意識を向けてから天井を見上げる。  
昔、この部屋の主とパジャマパーティをしたときに見立てて遊んだ模様は今も変わらずそこにあった。  
そこで、ひとつ溜息をつき。  
くぬぎは葉擦れのような涼やかな声で、この部屋の主の少女の名を呼んだ。  
「ちお。あんた今日は全然身が入ってないじゃない。いったいどうしたの」  
ちお、と呼ばれた少女はローテーブルに打つ伏した頭をずりりと起こして、ベッドに座る幼馴染に顔を向けた。  
妙に切ない瞳である。  
「ちょっと。そんな目しないでよ。新歓の部活紹介、ちゃんと決めようっていったのはちおの方で」  
「くぬちゃんは頭いいよね?」  
「……せ、成績がいいだけっ。そんなこと言っても何も出ないわよ。それとこれとは、」  
やや赤い頬で言い返していたくぬぎを、じいっと見つめて、遠藤千緒はおもむろに立ち上がった。  
肩ほどの柔らかな髪がふわりと広がりまた落ち着く。  
「くぬちゃんっ!」  
ベッドまで突進して三つ編みに顔がつくほどにじり寄る。  
「助けて!!」  
「え、う!?……な、なに。宿題とか……?」  
「干してたぱんつがなくなったの!!」  
 
くぬぎは十数秒ほど絶句した。  
 
「ま……待って待って。干してたっていうのは、どこに」  
幼い頃から遊びにきていたくぬぎには、このアパートには室内に物干し場があり、おばさんが洗濯物はかならずそこに干していることくらい知っていた。  
それがなくなったとすれば――泥棒、の仕業ということすらありえるわけなのだが。  
質問の意味を正確に理解したのか、千緒が湯気が立つほど真っ赤になって首を振る。  
「ベランダに干してた……」  
「アホかあんたはッ!!!」  
「き!」  
思わず怒鳴って幼馴染の頭を叩くと謎の悲鳴をあげられた。  
「ベランダって、ベランダってあんたちょっと羞恥心がないの?!」  
「くぬちゃん怖い……」  
「怒りもするよ!」  
ベランダに隣接する隣のアパート(メゾンドけやき)と、このアパート(コーポそらまめ)のベランダ間にはほとんど隙間というものがない。  
当然乗り移ることも可能だし、メゾンドけやき側がカーテンを開ければベランダの洗濯物など丸見えだ。  
北側の外壁にはエアコンの室外機や配線やなんやらが張り出していて外から入る隙間もない。  
更に南側は別のビルの裏壁でありこちらも外部からの侵入はできない。  
必然的に、犯人がいたらこのアパートか隣のアパートの住人となる。  
「風で飛ばされた、ってことはないの。一階の庭に落ちていたりしなかった?」  
「探したもん……なかった…」  
「ああそう分かった。分かった分かった。なくなったのはいつ?」  
はぁと三つ編みに指を絡めて肩を落として聞きながら、くぬぎはベッドから脚をおろした。  
そのままベランダ側まで歩いて行ってカーテンごと窓の桟を横にを引く。  
靴が一足置けるくらいの狭いベランダに踏み出して、向かいの窓をカンカン叩く。  
やや強めに延々と。  
 
「三島。三島兄弟ー。ちょっと、ねえ、顔貸しなさい」  
 
深緑のカーテンがややあって開き、同い年頃の少年が二人、顔を出した。  
くぬぎは、二人を順繰りに見つめてから、こほんと咳払いをし。  
涼しい声で厳かに告げた。  
 
「あんたたちのどっちか。ちおのパ……、ん…洗濯物、盗ったでしょ」  
 
 
2  
 
「……は?」  
三島恭平は隣家からの突然の詰問に、口をぽかんと開けることしかできなかった。  
窓の外、向かいのアパートから顔を出してこちらを見据えているのは、よく知った幼馴染みの少女、  
支岡くぬぎだった。  
無遠慮に窓を叩かれ、近所迷惑になるので仕方なく応対すると、いきなり盗人呼ばわりである。  
わけがわからない。  
「何よその目は」  
気の強そうなくぬぎの目つきが、さらに剣呑なものになる。ちょっと思っていたことが顔に  
出てしまっていたらしい。「お前は何を言ってるんだ」という内心の声を、恭平は気取られない  
ように打ち消す。  
「こんばんは。突然どうしたの、くぬぎちゃん?」  
隣にいた弟の純也が、小首をかしげて少女に問いかけた。恭平とは双子なのだが、二卵性の  
ためかあまり似ていない。無愛想な恭平とは違って、純也は人当たりがいい。そのせいか、  
くぬぎの強気な物言いも純也に対しては柔らかくなる。それが恭平には少しおもしろくない。  
「いや、その……ちおがベランダにパ……洗濯物を干してたらしくて、それがなくなって困ってるの」  
「……洗濯物?」  
純也はもう一度首をかしげると、隣の兄に目を向けた。恭平は顔をあわせずに答える。  
「知らん。そもそもここしばらく、窓を開けた覚えがない」  
偉そうに言うことじゃないよ、と純也は苦笑いをする。  
「換気のために、起きたときに一度窓を開けたよ。15分くらいかな。でもそれだけ。昼は  
いなかったから知らない」  
「俺もいなかった。帰ってきたのはたしか夕方の5時ごろだったか。そのあとテレビ観て  
飯食って、部屋に戻ってきたのはさっきだ」  
「ぼくも同じような感じかな。朝はそもそも洗濯物なんて干してなかったと思うけど」  
すると、くぬぎの後ろから遠藤千緒が、真っ赤になった顔をおずおずと出して、こちらを覗いてきた。  
「こんばんは、ちおちゃん」  
「う、うん。こんばんは」  
のんきに挨拶などをしている弟を尻目に、恭平は単刀直入にもう一人の幼馴染みに訊ねた。  
「洗濯物って、ベランダに干してたのか?」  
「……ん」  
小さくうなずく。くぬぎが睨んできたが、恭平とてセクハラをするつもりは毛頭ない。  
それに、質問する側もこれで結構気まずいのだ。  
「身に覚えがないのに、一方的に犯人扱いされちゃたまらないからな。ちょっと訊くだけだ。我慢してくれ」  
「……うん」  
今度は幾分はっきりとうなずいた。隠れていたくぬぎの背中から出てきて、ベランダの正面に  
立つ。背は千緒の方がずっと低い。くぬぎも決して大きいわけではないが、小動物のように  
小柄な千緒と比べると、背が高く見える。とても同学年とは思えない。  
 
「いつ干した?」  
「えっと、昼の2時くらいに……」  
「なくなったことに気づいたのは?」  
「夕方には取り込もうと思って、ちょっと外に出てたの。だけど帰ってきて、6時くらいに  
窓を開けたらどこにもなかった。物干しごとなくなってたから、最初はお母さんが取り込んだのかと  
思ったんだけど、訊いても知らないっていうし、下にも落ちてないし、どこ行っちゃったん  
だろうってもうわかんなくなっちゃって……」  
次第に声量が小さくなっていく千緒の様子に、恭平は何も言えない。女性の衣類は男性よりも  
ずっとデリケートなものだろう。加えて千緒は思春期真っ只中の女の子だ。同年代の男子に  
洗濯物をどうこうと話題にされて恥ずかしくないわけがない。それを言うなら同年代の男子が  
住む部屋の真正面に洗濯物を干すことがすでにおかしいが、千緒は昔から恭平と純也に対して  
だけは気を許しきっている節があり、警戒心皆無だったりするので、恭平はその行動を特に  
不可解だとは思わなかった。家族ぐるみでの付き合いがあるので、半分は家族のような意識  
なのだろう。  
恭平個人としては、そう割り切れるものでもないが、それはともかく。  
「物干しって、あの洗濯バサミがたくさんついてるやつか?」  
「うん……」  
物干しごとなくなったとなると、風で飛ばされたという線はほぼ消える。鳥や動物が持って  
行ったというのも考えにくい。  
ということはやはり人為的な行為によるものと考えていいだろう。平たく言えば誰かが盗んだのだ。  
恭平は違う。純也も違うと言っている。ならばどこかのコソ泥の仕業か。  
いや、と恭平は思い直す。周りの立地と角度的に、この位置の洗濯物を確認できる場所は恭平たちのいる部屋しかない。  
ベランダの足場が邪魔になって、下からは見えないだろう。  
「……あのさ、本当にあんたたちじゃないの?」  
「違うって言ってるだろ」  
「ぼくも違うよ」  
恭平はうんざりと、純也は平然とした声で返す。  
「だってその部屋からしか盗れないじゃない。それともなにか、空き巣にでも入られたって言うの?」  
「可能性としてはありえるんじゃ……すまん」  
千緒が泣き出しそうな顔になったので、恭平は即座に謝った。  
純也が安心させるように言った。  
「大丈夫。泥棒が入ったとして、そういう人は金品が目的だから、無駄なものは持ち去らないよ。  
それに誰かに見られてしまう危険があるから、不用意に窓際に近づいたり、カーテンを開けるなんて  
こともしないはず。安心して」  
純也のフォローはある程度説得力があったようで、千緒は安堵の息を漏らした。  
弟の手腕に感心しつつも、恭平は今の話に何か引っかかるものを感じていた。  
「……ん」  
「どうしたの、三島兄」  
「兄言うな。いや、もしかしたら……」  
くぬぎの軽口をあしらいながら、恭平は千緒に向き直った。  
「千緒。その、洗濯物って、要は……下着、だよな?」  
「ふえ!? え、えっと」  
「デリカシーないなあんたは!」  
千緒の狼狽とくぬぎの怒号を同時に受けながらも、恭平は続ける。  
「今から確認してみるけど、見られたくないだろ。こっちに来てくれるか?」  
「え?」  
 
 
3  
 
下着が入った紙袋を恥ずかしそうに抱えながら、千緒は窓から再び自分の部屋へと戻った。  
「ごくごく簡単な話だったのね」  
くぬぎは得心がいったようで、うんうんとうなずいている。  
恭平はため息をつく。疑いを晴らすのも楽ではない。  
「でも兄さんよく気づいたね、お母さんが取り込んでいたことに」  
千緒の下着を盗ったのは、三島兄弟の母親である弘子だった。正確には盗ったわけではなく、  
一時的に預かっていたのだが。  
「俺も純也も、昼間は家にいなかった。そうなると必然的にうちの親父かお袋しか、窓を開ける  
人はいない。部屋の掃除をするときには、換気のために窓を開ける。俺たちの部屋を勝手に  
掃除するのなんてお袋以外にありえないから、窓を開けたのもお袋ってことになる。そのとき  
洗濯物を干してあるのが見えたんだろうな。で、年頃の女の子が同年代の男子にそういうものを  
見られるのはきっと嫌だろうと、俺たちが帰ってくる前に気を遣って取り込んだ。本当は直接  
注意したかったのかもしれないが、千緒は間が悪く留守だった。まあ、そういうわけだ。  
よかったな、盗られたんじゃなくて」  
気恥ずかしさも手伝って、恭平は一息にまくしたてた。  
千緒は一瞬呆けたような顔になったが、しばらくしてにっこりと笑った。  
「うん、ありがとう、きょうちゃん!」  
その屈託のない笑顔に、恭平はどことなくむず痒くなって、顔を逸らした。  
「いや、たいしたことは全然してないし」  
「ううん。ごめんね、迷惑かけて」  
どうにも調子が狂う。恭平は軽くうなずくと、もう閉めるぞと窓に手をかけた。  
「あ、そうだ!」不意にくぬぎが声を上げた。「あんたたちさ、明日ちょっと手伝ってくれない?」  
「?」  
くぬぎは、三つ編みにした髪を軽く撫でながら、  
「今ちょっと新歓の部活紹介どうしようか、ちおと考えてたところでさー。明日も日曜で休みだし、  
ちょうどあんたたちにも手伝ってもらおうかと思って」  
「困ってるの? くぬぎちゃんたち」  
何で俺たちが、と文句を言おうとしたら、純也が先に反応したため、恭平は口をつぐんだ。  
おい、余計なことを訊くな弟よ。  
「うん、ホント困ってるの。助けて純ちゃん! ついでに兄の方も」  
「誰がついでだ!」  
「あの、私からも、お願いしていいかな。きょうちゃんが手伝ってくれたらすごく助かるんだけど……」  
千緒の頼みに恭平は言葉を詰まらせる。  
くぬぎに対しては真っ向から言い返すことができる。しかしこの小さな幼馴染みに対しては、  
どうにも調子が……。  
しばらく黙っていた恭平は、観念したように深々とため息をついた。  
「……明日だけだぞ」  
その瞬間、花が咲いたように千緒の表情がぱっと華やいだ。  
 
   〈了〉  
 

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