『奥様はマミー』前編
星河丘学園中等部に通う14歳の少女、田川ククルは生粋の「お嬢様」である。
田川家自体は、北関東のごくありふれた地主の家柄だが、彼女の父は世界的に著名な考古学者であり、母は日本でも有数のアパレルメーカーを経営している。
自宅は、23区外とは言えその郊外にあるとは思えぬ規模の大豪邸で、陳腐な言い方だが、幼い頃から「蝶よ花よ」と育てられた経歴を持つ。
周囲の環境ばかりではない。
ククル自身も、学年TOP10に食い込む学業成績を維持し、かつ小学生の頃からジュニアテニス界期待の星と嘱望されているという文武両道ぶり。
容姿も母譲りの端麗さで、とくにその歳に似合わぬ発達した胸部と、いつも穏やかな笑顔を絶やさぬ美貌は、同じクラスのみならず同学年、いや1年生や3年生の男子にもファンが多い。
普通ここまで恵まれていると、本人の性格が歪んだり傲慢だったりするものだが、両親の教育方針のおかげか、むしろ今時の女子中学生にしては珍しいほど、純真で優しい「いい子」なのだ。
ラノベかエロゲなら間違いなく正ヒロインを張っているだろう美少女だが、ククルも人の子、実はひとつだけ悩み──というか気がかりな事柄があった。
「そう言えば、おばさまって凄く若く見えるけど、幾つなんだっけ?」
放課後の帰路、電車の中で親友の武内ちはやに聞かれて、ピクッと背筋を震わせるククル。
小学生時代からの友人であるちはやは、田川邸に何度も遊びに来たことがあるので、ククルの母シャミーとも親しい。それ故に出た疑問だったのだろうが……。
「──じつは、おはずかしながら、わたくしも母の年齢を知らなくて……」
子供の頃から何度か尋ねたとはあるのだが、母からはサラリとかわされ、父も笑って教えてくれなかったのだ。
けれど。
その日の夕食で、久々にその疑問をククルが口にしたところ、両親は顔を見合せて、頷きあった。
「そうだな。ククルもだいぶ大きくなったことだし……」
「そろそろ冷静に受け止めてくれるかしら」
母の年齢を聞いただけなのに、何やらただ事でない雰囲気である。
「えーっと……」
そこまで重い話なら、わたくし遠慮します──と言いかけたククルだったが、すでに父は語る体制に入ってしまっていた。
「そう、あれは今から18年前。私が、とある私立大学のしがない准教授だった時の話だ……」
* * *
これは……どういうことなのだろう?
率直に言って私は混乱していた。あるいは傍目には落ち着き払って見えたかもしれないが、それは単に私が動揺が顔に出にくいタチだからに過ぎない。
「よし、落ち着こう。まずは状況を整理しよう」
私の名前は、田川孝司。東京近郊のとある私立大学で准教授として教鞭をとっている者だ。
専門は考古学、中でも古代メソポタミア文明に関してであり、職掌柄フィールドワーク(この場合、俗に言う発掘作業も指す)に従事することも多い。
教授方の中には、土埃に塗れて遺跡を掘り返すことを好まない潔癖(私に言わせればズボラ)なタイプもいるが、幸い私はそういう現場での作業を苦にならない。
今回も、とある文献から少々眉唾気味ながら画期的な情報を得た私は、単身渡航し、文献に記されていたと思しき場所へ予備調査のつもりで足を運んでいた……はずだ。
* * *
「ちょ、ちょっと待って下さい、お父様!」
本格的に回想の語りに入りかけた父親を、ククルは慌てて止めた。
「ん? 何かね、ククル?」
気勢を削がれつつも、相手が愛娘だからか、田川氏は声を荒げたりはしなかった。
「あ、あのぅ……水を差すようで恐縮なのですが、その……」
──と、父の背後で母が掲げている手書きのフリップボードを指差すククル。
「お母様が描かれたその絵の人物は、もしかして、若き日のお父様……なのでしょうか?」
一流アパレルメーカーのオーナーであり、自らも少なからず自社製品のデザインにいろいろ口出しをしているだけあって、シャミーはなかなか絵が達者だ。
多少デフォルメが効いているが、それでも有名人の似顔絵など描かせると、下手な漫画家よりよほどわかりやすく特徴を掴んだラクガキを仕上げる。
その彼女が描いた、「若き日の夫」の姿は──。
「ぜんっぜん、今とイメージが違うのですけれど」
シェミー画の「田川准教授」は、和製インディ・ジョーンズと言うか、探偵ドラマの主役を演じる40歳前の柴田恭兵と言うか……「知性はありつつも、思索より行動を重んじるチョイ悪オヤジ」風のフェドーラ帽をかぶったタフガイそのものだ。
半白の髪をきれいに撫でつけ、パイプを片手に常に穏やかな目付きと口調で家族や友人知人と会話する目の前のダンディな知識人とは、どうしても重ならない。
「はは、まぁ、私も当時はまだまだ若かったということだ──と言っても、そろそろ30代半ばに差しかかってはいたのだがね」
「当時の孝司さんはすごくカッコ良かったのよ〜。無論、今も別の方向性で素敵だけど」
「ありがとう。シャミーも当時から変わらず綺麗だよ。いや、むしろ当時以上に魅力的と言うべきかな」
「もぅっ、孝司さんったら〜」
マンガなら「イチャイチャ」という擬音が特大の書き文字で表現されそうな惚気っぷりだが、生まれてから16年間この万年ラブラブ夫婦のスキンシップを目の当たりにし続けてきたククルは、今更これくらいでは動じない。
「えぇっと、それでお父様は、当時どちらへ予備調査に赴かれたのですか?」
「おお、すまんすまん。話を戻そうか」
* * *
昨夜は、調査のあと疑わしいポイントに目星をつけ、そのまま屋外に張ったテントで眠ったはずだが……。
「ここは、どこだ?」
人間、あまりに意表をついた環境に置かれると、存外芸のない言葉しか出て来ないものだと、痛感させられる。
なぜなら、眠りについたシュラフとは似ても似つかない大きくて豪奢なベッド(言うまでもなく見覚えはない)に埋もれるように横たわっていたのだから。
ベッドのクッションも布団の肌触りも極上で、このまま惰眠を貪りたい衝動に駆られる。
特に、人肌程度に暖かく柔らかなすべすべした枕の不思議な感触がまた最高で、一体どんな素材を使用しているのか製作元を問い詰めたくなる代物だ。
──コロン
「あン♪」
(んん!?)
枕の上で寝がえりをうった瞬間、間近から聞こえてきた女性の声(悲鳴というか嬌声に近い響きがあった)のおかげで、幸いにして二度寝せずに済んだ。
──と言うか、今のは何だ?
薄々その答えはわかってはいたのだが、それでも「いや馬鹿な、そんなはずがない」と言う思いから、私は自らの推論を否定……。
「あら、お目覚めになられまして?」
……しようとしてできなかった。
なぜなら、横になったまま私が見上げた視線のすぐ先には、ニッコリと微笑む褐色の肌の美女の貌があったからだ。
* * *
「えーと、それってつまり、お父様は膝枕をされていたというコトですか?」
「うむ、まさにその通り」
「で、流れからして膝枕していた方がお母様?」
「(ぽっ)♪」
はにかむ母の様子は、とても14歳の娘がいるとは思えないほど可愛らしいが……。
ククルは、あえて苦言を呈することを決意する。
「あの、無礼を承知でおふたりに言いたいことがあるのですが……」
「構わぬよ。言ってみなさい、何かな?」
愛娘の少し緊張したような表情を見ながら、田川教授は内心苦笑する。
(まぁ、いきなりこんな荒唐無稽な話を信じろという方が無理か)
長年、考古学者なんて職業(しょうばい)をやってきて、その調査先で妻を筆頭に幾多の怪異と遭遇した経験のある彼は、この世界の"常識"が以外に脆いものであることを知っているが、14歳という分別がつき始める年頃の少女に、話だけで理解しろと言うのは酷だろう。
──いや、世間的には「厨二病」なんて言葉もあるらしいが、親のひいき目を抜きにしても、娘にそれに罹患(かかっ)ているとは思い難い。
しかし、ククルの言葉は教授の予想の斜め上をいった。
「その……おふたりは、その時初対面だったんですよね? なのに、いきなり見知らぬ殿方に膝枕というのは少々段階を飛ばし過ぎだと思います、お母様!」
「あらあら」
「ソッチか!?」
──どうやら、我が子は間違いなく天然無敵な妻似らしい。
どこで覚えたのか「テヘペロ」と可愛らしく舌を出している妻に、詰め寄っている娘を見ながら、田川教授は心底脱力するのだった。
-つづく-