今日も祖父の指導による、真剣での訓練が終わった。
稽古場は祖父宅の中庭。この古い日本家屋は、華美ではないが広いながらも
手入れが行き届き整然として、当主たる祖父の厳格さを現してもいた。
その中央に佇む黒髪の少女もまた、和の風を纏いながら、凛と隙ない佇まい。
少女の名は、黛 皐月。
皐月は、両手に持つ刃を真摯な目で見つめる。
傾ぎはじめた陽光が抜き身の刀にきらりと金に跳ねる。
この一瞬の輝きに皐月は鈴の音のような緊張を覚えると同時に、
手にしている刀が力強い仲間であるような、
疲労感と入り混じった不思議な安堵を感じるのだ。
この感覚は、真剣を振った時以外には感じられない。
額に汗を浮かせ、未だ全身に残る緊張感を払うように息を吐き、前髪と共に汗を拭うと
刀剣を仕舞う前の手入れを始める。
最後まで緊張の糸は切れず、動きは理の通り正確だ。
「良い刀だろう。三ツ胴落としの品だ」
不意に縁側から祖父の低い声が夕闇に響く。
多くの武芸者達さえ、震え上がる重い声は、孫娘の前でも変わらない。
完全に手入れを終え、鞘へと収めたのちに、皐月は振り返った。
「三ツ胴落とし?」
「そう。刑死した死体を三つ重ねて、一刀両断できる程の逸品、ということだ」
一瞬、皐月の頭が真っ白になる。
刑死――死体――一刀両断――……真剣を扱いながら、
今迄意識していなかった死の生々しさ、
美しく力強い刀が『殺人の道具である』という事実が、
友と感じた刀を遠く感じさせる。
手入れされた深銀の刃には血の痕など残っていないのに――
皐月の見開かれた双眸は取りつかれたかのように、右手に携えた刀から外れなかった。
そんな孫娘の驚愕を面白がるように、祖父は目を細める。
「どうした? 手が震えておるぞ」
「そ、そんなこと、……ありません。おじい様」
「怖いか」
皐月は躊躇した。ここで怖いと認めてしまえば、祖父はもう自分に
真剣の扱わせないかもしれぬ。ひいては剣道さえも。
だが、この刀が人間をいかほど斬れるか、で価値が計られるような、
殺人の道具であるのもまた事実であり、皐月は率直にそれを怖いと思ったのだ。
嘘をつくことはできなかった。
「怖いです」
「良い子だ。
……だが、道具を恐れる必要はない」
緩やかに祖父が立ち上がる。実際の年齢は知らないがかなりの高齢だ。
一度足腰を痛めたこともあると聞くが、皐月を含め誰も祖父に勝てず、
それは力や技の有無よりも彼のもつ気配によってではないかと、
皐月はこんなとき、思う。まるで満月の夜のような気配。
立ち上がった祖父はその年代の人間に相応しく、決して長身ではないが、
伸びた影に負けぬ気迫があった。
「刀は人が使わねばただの鉄隗。
お前の恐れは、お前の意志の弱さに対する恐れ。
つまりは、刀を誤って抜きはせぬか、
或いは、刃を操るお前が刃に操られぬかという怯え」
皐月は固唾を飲んだ。
――その通り……かもしれない。
私は、大きな力を持ちすぎたような気がするのだ。
こんな、人を殺すための道具……… キュッと皐月の柳眉が寄る。
祖父が破顔一笑した。それは束の間であったが。
そしてまた、老齢な低い声が紡がれる。
「――わしは刀を見世物でも鍛錬の結果としてでもなく、
使うことを想定して教えておる。何故ならば、装飾を凝らせど刀は刀。
戦い、命を守り、友を守る”道具”だからだ。」
祖父は皐月に視線を合わせた。真っ直ぐで、覇気のある、明るい黒の瞳を見る。
「お前は間違った使い方はすまい。
ゆえにおそらく、一度も刀を実際に使うまい。――ならば僥倖」
そう言って、祖父は皐月の頭を撫でた。
皺の刻まれた手が、孫娘のなめらかな黒髪をくしゃりと滑る。
皐月はくすぐったそうに笑い、子供じゃないんだよ、と小さく呟き、
また祖父の哄笑を誘った。
実際に刀を使うべきと、この少女が判断するような、非道な事態は起こるまい。
それは祖父ならずとも、誰もが思っていた当たり前のこと。
今もこうして日は緩やかに落ち、穏かな夕暮れが庭を包む。
母屋から流れてくるのは、皐月の母が作る夕餉の香り。
変わらぬ日々が続くのだという、寄る辺なき確信は祈りでさえなく。
皐月は、変わらず、稽古に明け暮れた。
振るえば振るう程、刀の美しさは意志の美しさだと彼女は思った。
戦い、命を守り、友を守る意志。そして、正しく生きる意志。
祖父が他界したのは、皐月が学園に入学する前の冬であった。
「制服、見て欲しかったよ」
入学式の朝。マリンブルーの制服に身を包んだ皐月は、祖父の写真の前で呟いた。
――私を可愛がり、導き、いつでも"本当のこと"しか言わなかったおじいちゃん。
"一度も刀を実際に使うまい"
この言葉だけが、嘘となるのを、皐月はまだ知らない。
嘘にならなければならない悲劇が起ころうと、誰が思ったろうか――?