*****  
 
 バイトを終えて家に帰ると、ルームメイトの悠生ちゃんが、今にも泣きそうな顔つきでビールを飲んでいた。  
 冷たいリビングの床にクッションも敷かずに座り込み、頬杖を突きながらグラスにビールを注ぐ姿は、とても綺麗だ。  
「ただいま」  
 夜食もかねたお土産の回転焼きを空き缶の転がるテーブルに置く。  
 大好物の回転焼きを目の前にしながらも、悠生ちゃんは私の方をちらりとも見なかった。  
 溢れそうなぐらいにビールを注ぎ、への字に曲げた口にグラスを近付け一気飲み。  
 空き缶は三本。六缶パックのうち半分。しかも500ミリ缶。  
 手にしているのが四本目だから、いくらなんでも飲み過ぎだ。  
「悠生ちゃん、どうしたの?」  
 コートを脱いでソファに置くと、私は悠生ちゃんの向かいに腰を下ろした。  
 さりげなく残った二本を手元に引き寄せると、悠生ちゃんは恨めしそうな眼差しで私を見た。  
「お帰り」  
「……ただいま」  
 もう一度、苦笑混じりに挨拶。  
 すると途端に、悠生ちゃんはボロボロと涙をこぼし始めた。  
「ちょ、悠生ちゃん?」  
「チィ子ぉぉぉ」  
 私の名前を呼んで、号泣。しかもテーブルに突っ伏して。  
 いったい何があったのか。高校時代からの付き合いとは言え、いきなり泣き出されちゃこっちも戸惑うしかない。  
 悠生ちゃんは、文字通りおいおい泣きながら、手にしていた空き缶をぐしゃりと握りつぶした。  
 
 
 
 悠生ちゃんこと渋澤悠生と、私・大峰千鶴子は、高校からの友人だ。  
 悠生ちゃん、と呼んではいるが、彼女の性別は戸籍上はれっきとした男。  
 いわゆる『オカマ』と言うやつなんだけど……知り合った時はすでに立派な『オンナノコ』だった。  
 高校には制服が無くて、私服通学が基本。悠生ちゃんが高校を選んだポイントも、そこだったらしい。  
 初めて見た時は、誰も彼もが悠生ちゃんを女の子と信じて疑わなかった。  
 私も最初は驚いたけどね。  
 でも悠生ちゃんは、そんじょそこらの男子よりも格好良くて、下手な女子よりも女の子らしくて、何よりすごく絵が上手。  
 同じ美術部の中でも、そのセンスは群を抜いていた。  
 
 純粋にその才能を尊敬する私に、悠生ちゃんが声を掛けたのがきっかけで、私と悠生ちゃんの友達付き合いが始まったのが六年前。  
 大学進学の時、一人暮らしが不安だと言う私に付き合って、ルームシェアを申し出てくれたのも悠生ちゃんだった。  
 最初は不安もあったけど、うちのお母さんなんか、未だに悠生ちゃんのことを女の子だと信じて疑わない。  
 悠生ちゃんのお母さんも、『ちょっと代わった娘』ぐらいにしか、悠生ちゃんのことを認識してないって言うんだから……。  
 
 
 
「チィ子ぉぉぉ、聞いてよぉぉぉ」  
 ぐずぐず泣きながら、悠生ちゃんが顔を上げる。  
 今時のマスカラは、涙ぐらいじゃ流れない。何とも優秀だ。  
 私がそんな事を考えているなんて知らない悠生ちゃんの右手が、ビールに向かって伸ばされた。  
「聞くから、その手は禁止。何?」  
 悠生ちゃんの限度は缶ビール四本まで。五本目を飲んだが最後、そのまま寝ちゃうのは経験済みだ。  
 私はわざと悠生ちゃんの手の届かない所にビールの缶を避難させると、ビールを求めてさまよう悠生ちゃんの手に回転焼きの紙袋を押し込んだ。  
 悠生ちゃんは不満そうに眉を寄せながら、のろのろと体を起こした。  
「今日、バイト先でさ」  
 紙袋を開き、中身を確認。一瞬、悠生ちゃんの頬は柔らかくなったけど、またすぐに悲しそうな表情に戻る。  
「『男じゃないって得だよな』って」  
「うん?」  
 確かに悠生ちゃんはオカマだけど。  
 もふもふと回転焼きを口に運ぶ悠生ちゃんは、それから暫く無言のまま。  
 話してくれなきゃ分からないけど、無理に聞き出すのもどうかと思う。  
 取り合えず、回転焼きは悠生ちゃんが独占しちゃったし……ビールでも飲もう。  
「チーフがね……明後日の飲み会で、腕相撲大会するって言って」  
 話があちこちに飛ぶなあ。  
「女子は女子組、男子は男子組で、って」  
 悠生ちゃんのバイトはチェーン店の居酒屋さん。  
 同じ年頃の子も多いから、働きやすい職場ではあるらしい。行ったことがないから知らないけど。  
「それで?」  
「でね……チーフに、『私はどっちですかー?』って聞いたの。冗談っぽくね」  
 まあ……そうなるか。  
 
 悠生ちゃんは、自分の性癖を隠さない人だから。バイト先でも、学校でも、一応はみんなが悠生ちゃんの事情を知っている。  
 信じない人や、毛嫌いする人も居るだろうけど、悠生ちゃんは「私は私だから」と強気の姿勢。  
 そんな所も悠生ちゃんの魅力だと私は思う。  
「そしたら……」  
「そしたら?」  
「……言われたのよ、さっきの言葉」  
「チーフに?」  
「じゃなく、スネ夫に!」  
 ああ、なるほど。これで話が繋がった。  
「前々から私の事が気に入らないのは知ってたけど、あんな風に言う事ないじゃない!? 私だって、顔を合わさないようにわざわざシフトずらしてやったり、代打入ったりしてやったのに、あんなあからさまに嫌味言うなんて……私、もう悔しくて悔しくて!」  
 言って、悠生ちゃんは回転焼きにかぶりつく。  
 通称スネ夫は、悠生ちゃんのバイトの先輩。その口からこぼれる嫌味と自慢があだ名の由来。  
 どうやら悠生ちゃんとは馬が合わないらしく、私も前から色々と話は聞いていたんだけど、今回の事で悠生ちゃんは完全に頭に来たみたいだ。  
「そんなの今更でしょ? 悠生ちゃんは悠生ちゃん。男とか女とか大した問題じゃないって、悠生ちゃんだって言ってるじゃない」  
 慰めついでにビールを傾ける私に、悠生ちゃんは回転焼きをもふもふ。  
「でも、悔しいじゃない! こっちがどれだけ尻拭いしても、『ありがとう』の言葉も無いし、むしろ嫌味ばっかりでさ!」  
 そうとうフラストレーションが溜まってたのか、悠生ちゃんはまた涙をボロボロ流しながら回転焼きにかぶりつく。  
 正直、かなり壮絶。とっても男らしい。  
 もぐもぐごくん、と回転焼きを食べ終えて、悠生ちゃんは動きを止めた。  
「もう辞めたいよ、あそこ」  
 小さな小さな弱音を吐いて、二個目の回転焼きに手を伸ばす。  
 普段、あんまり弱音を吐かない悠生ちゃんだから、その言葉がどれだけ重いのか、私には容易に想像がついた。  
 
 たぶん本心なんだろうな、辞めたいって言うのは。  
「けどさ」  
 半分に減ったビールの缶をテーブルに置いて、私は悠生ちゃんに視線を向けた。  
 弱々しい女の子にしか見えないその姿には、いつもの強気な気配はない。  
「チーフや他の人たちは、悠生ちゃんのこと気に入ってくれてるじゃない? スネ夫一人の事で辞めたらもったいないよ」  
 私の言葉に、悠生ちゃんは顔を上げた。  
「チィ子……」  
「むしろスネ夫を辞めさせてやるぐらいの姿勢でいかなきゃ。ね?」  
 にっこり笑ってそう言うと、私の慰めが効いたのか、悠生ちゃんは回転焼きをテーブルに置いて。  
「チィ子ぉぉぉ」  
 むぎゅっ。  
 女の子にしては強い力で、私を思いっきり抱き締めた。  
「うわっ!」  
 ビールを2リットル飲んだ悠生ちゃんは、完全に酔っ払いと化しているのか頬ずりまでしてくる。  
 普段は女の子然としているけれど、抱き締める力は間違いなく男の子のそれ。  
 息苦しくて思わずもがいたけれど、酔っ払った悠生ちゃんは、気付いてくれそうにない。  
「そう言ってくれるのはチィ子だけよぉぉぉ。もう、チィ子大好きぃ!」  
「分かったから……ちょ、腕緩めて……」  
 もがきながらも、何とか悠生ちゃんの腕から顔を出す。  
 悠生ちゃんはそれでも、腕の力を緩めようとしない。  
 私の体に回した腕はしっかりと固定されていて、悠生ちゃんのふわふわした長い髪が頬に当たってくすぐったい。  
 やや体格の良い女の子、で通じる悠生ちゃん。けれど、こうして抱き締められると、ちゃんと男の子なんだなぁって言うのが分かる。  
 普段あんまりスキンシップが激しくないだけに、それは余りに顕著で。そんな事を意識してる場合じゃ無いけれど、悠生ちゃんも男の子なんだと認識した瞬間、私の心臓は大きく飛び跳ねた。  
 コレッテマズクナイデスカ……?  
「チィ子……?」  
 動きを止めた私を不審に思ったのか、悠生ちゃんはひょいと顔をのぞき込む。  
 うわっ、近い近い近いっ!  
「やだ、なに赤くなってんのよ」  
「な、なってないから! ビールのせいだって!」  
 黒い綺麗な瞳が際立つ端正な顔立ち。それが間近にあるせいで、私は苦し紛れの言い訳を放つ。  
 いつもの悠生ちゃんなら、冗談混じりにかわしてくれたんだろうけど。  
「ふふふっ、かーわいー」  
 ビールのせいか潤んだ瞳が、妖しく細められた。  
「か、可愛くないし! て言うか、そろそろ離して」  
「やーよ」  
 
「ちょっとぉ!」  
 じたばたともがいてみるも、力の差は歴然。  
 悠生ちゃんは再び私を抱き締めると、私の耳元に唇を寄せた。  
「チィ子は可愛いわよ」  
 低い声。  
 今まで聞いた事のない男の人の声音に、今度こそ私は抵抗する意思を奪われた。  
「ちょっとぉ!」  
 じたばたともがいてみるも、力の差は歴然。  
 悠生ちゃんは再び私を抱き締めると、私の耳元に唇を寄せた。  
「チィ子は可愛いわよ」  
 低い声。  
 今まで聞いた事のない男の人の声音に、今度こそ私は抵抗する意思を奪われた。 口調はいつもの悠生ちゃんなのに。  
「分かったから……離して」  
「どうして?」  
「だって……」  
 女の子じゃない悠生ちゃんの色気を感じたから、なんて……絶対に言えない。  
 今までずっと、女の子として接してきたのに、これは余りに唐突すぎる。  
 しかも悠生ちゃんは酔っ払い。さっきまで、あんなに泣いて喚いて弱音をこぼしていたのに。  
「だって?」  
 少し体を離した悠生ちゃんが、また私の顔を覗き込む。  
 泣いた跡の見える悠生ちゃんの頬は、うっすらとピンク色に染まってる。  
「……恥ずかしい、から」  
 真っ直ぐに私を見下ろす視線が痛くて、私は悠生ちゃんから目を逸らし、口の中でもごもごと呟く。  
 そんな私に、悠生ちゃんはいつもの調子で囁いた。  
「可愛い、チィ子」  
「や、だから……」  
「そんな顔されたら、チューしたくなっちゃうじゃない」  
 
 ……何ですと?  
 
「や、待って待って待って!」  
 何なの、この展開は!  
 って言うか、私、いつそんなフラグ立てました!?  
 悠生ちゃんのバイトの愚痴から、なんでこんな風に話が進んじゃってるの!?  
 恥ずかしさと混乱で慌てて顔を上げると、悠生ちゃんは少し意地悪そうな笑顔を浮かべ。  
「チィ子だったら、私、チュー出来ちゃう」  
 はいぃ!?  
「いや、悠生ちゃん、男の子が好きなんじゃ?」  
「もちろん、男の人が好きだけど、チィ子の事も好きだもの。それともチィ子は、私の事、嫌い?」  
「好きだけど、それとこれとは――」  
 話が別。  
 そう言葉を続けようとした私の唇に、悠生ちゃんの人差し指が押し当てられた。  
「だったら良いじゃない。チィ子にチューしたくなっちゃったんだもの」  
 悠生ちゃんの魅力は強気なところ。  
 酔っ払っているからか、強引な部分も二割り増し。  
 「ね?」と微笑まれた私は、その魅力にあらがえず、渋々小さく頷いた。  
 
 これが他の人だったら、なんとしても拒否していただろうけど、悠生ちゃんだったら……まあ、良いか。  
 そう思える自分が少しばかり情けないけれど、そんな事を考えているうちに、私の唇には指とは違う柔らかな感触が押し当てられた。  
「……っ」  
 反射的に体を強ばらせる私の背中を、悠生ちゃんの手が優しく撫でる。  
 熱い吐息を漏らす唇が何度も何度も重ねられ、背中を撫でる手の感触に、徐々に緊張がほぐれていくのが自分でも分かる。  
 下唇を優しく噛んで、悠生ちゃんの舌がその上を這う。  
 くすぐったいけど、ちょっと気持ち良い。  
 何だか不思議な感じ。  
 悠生ちゃんは『女の子』で友達なのに、唇が触れ合うたびに私の心臓のドキドキが大きくなる。  
「チィ子」  
 閉じた瞼の裏、名前を呼ばれて薄目を開けると、悠生ちゃんは薄く笑ってまた私の唇に自分の唇を重ねた。  
 今度は触れ合うだけじゃない。  
 少し強引に私の唇を割ったのは悠生ちゃんの舌。唇を味わうように這わせたかと思うと、今度は歯列をなぞってくる。  
 あくまで優しく。それでいて強引に。  
 悠生ちゃんの性格そのままのキスに、気付けば私は悠生ちゃんのシャツを握りしめていた。  
 もっと口を開けてと催促するような舌の動き。  
 優しいのにいやらしいキスは、頭の芯がぼーっとなって喉の奥から声が漏れる。  
 力の抜けた私の中に悠生ちゃんの舌は易々と侵入を果たし、今度は縮こまっていた私の舌を、誘うように絡めてきた。  
「ふ……ぅ、んっ」  
 まるで別の生き物みたいに動き回る舌に、私もおずおずと自分の舌を絡めてみる。  
 一瞬、悠生ちゃんは笑ったみたいだったけど、確認する暇なんてない。  
 舌の表も、裏も、悠生ちゃんに味わわれて、そのたびにゾクゾクした快感に襲われる。  
「っ……は、悠生、ちゃ……」  
 とろりとした熱い唾液が注ぎ込まれても、私はあらがう事なんて出来なくて、喉を鳴らしてそれを飲み下した。  
「ゆ、きちゃん」  
「あー、やべ」  
 長かったのか、短かったのか。どれぐらいの間キスを続けていたのか分からない。  
 私の息も絶え絶えになった頃、悠生ちゃんはようやく私の舌を解放したけれど。  
 聞き慣れない男言葉でポツリと呟くと、少し困ったような笑顔で私を見下ろした。  
「勃ってきた」  
「……え」  
 言われた意味を理解するより早く、悠生ちゃんは私を抱き直して、より体を密着させる。  
 
 お腹の少し下辺りに、固い物が押し当てられて、そこでようやく私は我に返った。  
 これって……アレ、だよね。  
 私にはなくて、悠生ちゃんにはある、アレ。  
「どうしよう」  
「ど、どうしようって……」  
 耳に掛かる髪をかき上げられながら、私は悠生ちゃんの顔を覗き見る。  
 悠生ちゃんは苦笑したまま、固くなったソレを持て余しているみたいだった。  
「あー、もう……チィ子が可愛い声出すから」  
「なんでそうなるの! チューしたいって言ったのは、悠生ちゃんの方じゃない」  
 責任転嫁も甚だしい。  
 私だって、いきなりこんなモノ押し付けられたって困るんだって!  
「もう、やっちゃおうか」  
「ちょ、な、え、えええ!?」  
 爆弾投下。  
 慌てふためく私と対照的に、悠生ちゃんはやけに冷静な表情を浮かべると、私の体を離して立ち上がった。  
「チィ子なら出来ると思うのよね、私」  
 い、いやいやいや、そう言う問題じゃなくて。  
「女の子相手は始めてだけど……何とかなるでしょ」  
 いや、だからぁ!  
 何とか思いとどまらせようとするけれど、私の喉は引っ付いたみたいに声が出ない。  
 陸に上げられた魚みたいに口をぱくぱくさせる私の目の前で、悠生ちゃんは自分のショルダーバッグから、小さな四角い袋を取り出した。  
「ゆ、ゆ……悠生ちゃんっ!」  
 
 
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