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「別れよう」
聞き覚えのある声が聞こえたのは、バイトの休憩時間の事だった。
ランチの時間もすぎ、客足も減った午後二時半。そこそこ大きなカフェバーの、厨房から裏口を抜けた路地裏で聞こえた声に、私は思わず煙草を取り出す手を止めた。
もしかして……いや、もしかしなくても修羅場ってヤツですか?
たぶんあの声は、同じバイトの長谷将吾君だ。
長谷君はモテるタイプの男子だ。たぶん。そこそこ。恐らく。
わずか150センチの私・遠山梓と比べ、長谷君は180を越える長身。顔かたちは純和風。穏やかな物腰はいわゆる草食系男子に分類されるから、そういうのが好みの人には受けが良い。
けど、特筆すべきはその声だ。
甘いマスクにはやや物足りないけど、声の甘さは絶品。声優オタクの友達なんかは、長谷君の『声の』ファンだったりするぐらいだ。
路地裏の、さらに角を曲がった路地裏々から聞こえるにも関わらず、相手が誰なのか聞き分けられたのもそういう訳だ。
特別仲が良いって訳じゃないけど、不仲ってことも無い、私とは至って普通のバイト仲間。
そんな相手のこんな場面を盗み聞きする勇気は私にはない。
反射的に身をすくませ、そろりそろりと忍び足で店の中に戻ろうとする私。
けれどその足を止めたのは、長谷君のお相手の声だった。
「やっぱり……その話だろうと思った」
……をや?
いま……聞こえたのって……。
何となく、嫌な汗が背中を伝う。
――振り返るな。店の中に戻れ。今ならまだ引き返せる――
頭の中でそんな言葉が聞こえたけれど、同時に浮かんだ疑問の方が、私の思考回路を埋め尽くした。
「ごめん」
「謝るな……こっちも悪かったんだ」
をやをや…?
想像とは違って、円満に別れ話は進んでるらしい。
いやしかし、他人様の別れ話を覗き見するなんて、良識ある大人のする事じゃない。
けれど、私の良識はどうやらかなりヘボかったみたいだ。
店の中に向かっていたはずの足はUターン。息を殺しながら、そっと顔を覗かせると、果たして。
「和樹さんは……悪くないよ」
「いや……悪い、俺から切り出すのが筋だったのにな」
私の目に映るのは長谷君と、お相手さんの背中。
ただしその身長は、長谷君と同じぐらいか少し高いほど。肩幅だけをとっても、間違っても女性には見えない。むしろ見えた方が怖い。
長谷君は男。……お相手さんも男。
てえ事は……。
「俺が浮気したのは事実だし」
「いや……」
「殴ってくれても良かったんだぜ?」
「出来ないよ、そんな事」
「……そうか」
うーん……長谷君ってば、何とも謙虚だ。
別れ話の原因は、お相手さん――和樹さん? だっけ?――の浮気らしい。
そんな相手は殴り倒して丸めて海に流すぐらいの事は、してやっても良いと私なんかは思うんだけど、長谷君は穏やかさんだからなあ。
じゃなくて!
「ごめん……今までありがとう」
「俺も……和樹さんと一緒に居られて楽しかったよ。……ありがとう」
円満に話は終わろうとしているけれど、私の頭は混乱しっぱなし。
これは……あれか? やっぱホモ……いや、ゲイ? 同士のうにゃうにゃした話……なのか?
「バイト、頑張れよ」
ポンと長谷君の肩を叩いた和樹さんに、長谷君は小さく頷きを返す。
そのまま、向こうの表通りに向かう彼の背中を見送って、長谷君は小さな溜め息を吐いた。
その表情は寂しそうで、切なさに満ちていて。けれど、確かに今、二人の関係が終わったと認識するには充分だった。
目の前で繰り広げられた光景――いや、半分は私が勝手に覗き見たんだけど――に、私は我知れず溜め息を漏らした。
他人様のこう言う場面ってドラマでしか見た事無かったけど……見てる方も切ないよなぁ。
私も何人かと付き合ったことはあるけど、今までこなした別れ話って、大抵は修羅場だったし。今じゃ笑い話に出来るけど、高校の時なんか、逆ギレされて、その事に逆ギレ仕返した私が、真冬の公園の噴水に相手を突き落とした事もある。
あれは壮絶だったなぁ……いやはや、若いって怖い。
などと、懐かしい思い出に浸っていたのが悪かった。
私がバイトの休憩中って事は、長谷君も同じくって事で。
「……遠山?」
「はい? …………あ」
店に戻ろうとした長谷君が、私の姿に気付いたのも当然の成り行きだった。
*****
その場は笑って誤魔化したものの、そんなもんで終わるはずもなく。
長谷君との気まずい空気の中、バイトを終えた私が店を出ると、先に出ていたはずの長谷君が、昼間鉢合わせした路地裏で待っていた。
「ちょっと……良い?」
「あ〜……うん」
もちろん、断れる訳がない。非は全面的にこちらにある。
あんな場所で、あんな時間に別れ話をしていた方も悪いと言えば悪いけど、気付いた時点で立ち去らなかった私の方が悪いのは、誰が見ても明らかだ。
長谷君は怒っている様子はなかったけれど、その代わり、しょんぼりと肩を落として私の斜め一歩前を歩いていく。
恋人――と思われる人――と別れ話をした上に、その現場を他人に見られたんだから無理もない。
「えーっと……お腹、空いてる?」
居心地が悪い私が声を掛けると、長谷君は肩越しに私を振り返った。
「立ち話って訳にも……いかない……よね?」
うう……ごめんね長谷君。そんな情けない顔をさせる私が悪かった。
捨てられた子犬のような眼差しに、自然と語尾が弱くなる。
捨て犬な長谷君は歩みを止めると、ショルダーバッグを掛け直しながら思案含みに眉を寄せた。
「そうだね……。遠山、酒は飲めたっけ?」
「ちょっとなら」
「じゃあ、こっち」
時刻は夕方。お酒を出す店でも、早い所ならもう開いてる時間だ。
頷いた私を見て長谷君は駅の方へと足を進める。
その歩みが、背の低い私を気遣ってゆっくりだったような気がしたけれど。たぶん、気のせいだ。
駅ビルの中のチェーン店の居酒屋は、さすがにまだ早い時間とあって他の客の姿は無かった。
座敷に案内された私達は、おしぼりを受け取ると、それぞれドリンクを注文する。長谷君はビール、私は梅酒。
ドリンクが運ばれ、フードの注文を終えると、長谷君はジョッキを手に私に視線を向けた。
「お疲れ」
「あ……お疲れ」
カチンとガラスのぶつかる音。
文字通り梅酒を舐める程度に口にする私とは対照的に、長谷君は良い飲みっぷりで、一息に三分の一を空にする。
思えば長谷君と二人で飲みに行くことなんてなかったし、バイト仲間との飲み会でも長谷君とは一緒になる機会が少なかった。
もしかして長谷君って、結構いけるクチなんだろうか?
何となくそんな事を考える私を見やり、長谷君は付きだしに箸を伸ばしながら口を開いた。
「遠山」
「あ、うん?」
「俺に訊きたいことがあるんじゃない?」
え?
まさか、そう来るとは思わなかった。
謝れと言われれば――言われなくても――そうするつもりだったし、内緒にしろと言われれば――やっぱり言われなくても――そうするつもりだった。
けど、質問するのを許されるなんて、私には予想の範囲外。
「あ〜」とか「う〜」とか逡巡する私に時々視線をやりながら、長谷君は付きだしを口に入れた。
「えーっと……まず、ごめん」
とにもかくにも、謝らない事には居心地が悪い。
そう結論付けて頭を下げると、長谷君はもぐもぐと口を動かしながら箸を置いた。
「覗き見するつもりは無かったんだけど……その……ね」
「いいよ、それは。俺の不注意ってのもあったし。他人のあれやこれやに興味が湧くのは不思議じゃない。それが女性なら尚更ね」
苦笑混じりにビールを飲む長谷君。その口調はいつもとはちょっと違って皮肉っぽい。
「それに、たぶん分かっただろうけど……相手が相手だったからじゃない?」
ご名答。
もしお相手が女の子だったら、私だって、ここまで興味が湧く事も混乱する事もなかった。
一度は店に戻ろうと思ったのだ。それを踏みとどまらせた挙げ句、方向転換させたのは、お相手さんが男性だと気付いたからに他ならない。
申し訳なくて頷くことでしか返事が出来ない私を見て、長谷君は苦笑混じりに頭を掻いた。
「隠すつもりは無いからさ。むしろ、遠山だったら知られても平気だと思ってる。この際だから、何でも訊いてよ」
「それは……信頼してるって事?」
「信頼と言えば信頼かな。少なくとも遠山は嘘は吐けないと思ってるから。このまま疑問を残しても、俺も遠山も居心地が悪いだけだろ? だったらいっそ、打ち明けた方がお互いのためだと思わない?」
成る程。悔しいけれど、確かにそうだ。
このままうやむやにしてしまうには、私にはあまりにも荷が重い。
たかがバイト仲間、されどバイト仲間。長谷君は私の性格を理解してらっしゃるようで。
だったらこっちも遠慮なんてすることないか。
「じゃあ訊くけど、あの人って誰?」
景気付けに梅酒を一口飲んだ私は、あぐらに座り直すと、まずは小さな疑問から口にした。
「和樹さんは、俺の元恋人。東通りのバーの店長さんだよ」
「へえ。だからか」
「何が?」
「平日の昼間に私服で、別れ話に応じられる余裕がある大人だったから。バーの店長さんなら納得だ」
ふむふむと頷く私に、長谷君は一瞬目を丸くして、それからくつくつと喉の奥を震わせた。
「そんな事まで気にしてたんだ」
「だって……普通の人だったら、私服はともかく別れ話に応じるには妙な時間じゃない」
偏見かも知れないけど。
そう言う話は仕事の合間にするもんじゃなく、もっと余裕を持ってするもんだと思う。
枝豆を運んできた店員さんに長谷君はお代わりを注文して、少し首を傾けた。
「遠山って変な所で細かいね」
それは褒め言葉じゃないでしょうに。
面白いと言いたげな長谷君の表情が小憎らしい。
この姿だけを見れば、今日、つい数時間前に、彼が恋人と別れたなんて誰も思わないに違いない。
「気のせいだよ。しかし相手の浮気が原因で別れ話って……長谷君も大変だったね」
その相手が男かどうかも、気になるところではあるけれど。さすがにそこまで訊くのは無粋ってもんだ。
「まあ……ね。和樹さんは仕事柄顔も広いし、いずれは別れると思ってたけど」
「でも、付き合ってる間はそうじゃなかったんでしょ?」
「そりゃあ。遠山だって、別れるのが前提で誰かと付き合ったりしないだろ?」
「当たり前でしょ」
「うん。だから、俺もね……和樹さんが浮気する前後ぐらいからかな……駄目かも知れないって思い始めたんだ」
「そうなんだ」
枝豆とビール。親父臭い品を目の前にしながらも、長谷君の表情はどこか明るい。
「だから、別れられて逆にすっきりしたよ。あの人、優しいところがあるからさ。俺から言わなきゃどうなってたか」
優しい人は、そもそも浮気なんてしないと思う。たぶん。
相手にほだされて浮気をするのは優しさなんかじゃなく、恋人に対する不満をオブラートに包んでひた隠しにして、優しさを言い訳に誤魔化してるだけ。
とは言え、そんな事を言ったところで長谷君には慰めにもならないだろう。
梅酒と一緒に言葉を飲み込み、私は箸を割った。
「長谷君って、優しい人が好みなの?」
「優しいって言うか……暖かい人? 俺が冷たい人間だから」
「そうかな……?」
あまりに似合わない単語に、私は付きだしを食べる手を止めた。
人当たりが良くて、朗らかで穏やか。それが長谷君に対する印象だ。少なくともバイト仲間はそう思ってると思う。
決して「冷たい人間」なんて評価は上がらない。それが長谷君だと思ってたけど。
「仕事じゃ、当たり障りのない所でしか接さないからさ。その方が余計な摩擦もないし、お互い気持ち良く仕事が出来る。接客業なんだから客に優しいのも当然だしね」
「ふーん」
肩をすくめた長谷君は、ビールを飲み干すとジョッキを床に置いた。
冷たいと言うよりは合理的なのかな。どちらにせよ、さっきから感じていた「長谷君らしからぬ皮肉さ」は、あながち間違いじゃないのかも知れない。
「じゃあ長谷君は、本当は黒いんだ」
「黒とはいかなくても灰色ぐらいにはね。人間だし、真っ白じゃないのは確かだよ」
そう言って二杯目のビールを口に運ぶ。
結構ペースが早い。
「じゃあ次。長谷君ってゲイ?」
これこそ本題。
一番の疑問を口にすると、長谷君は楽しそうに目を細めた。
「むしろバイ」
「……え?」
にっこりと笑うその顔は、営業スマイルなんでしょうか?
意外な返答に思わず凍り付いた私を見やり、長谷君は困ったように眉を下げた。
「和樹さんと付き合う前は、女の子と付き合ってたよ。その前は男。その前は女。奇しくも交互にね」
「……え……っとお?」
ちょっと待って。頭の整理が追い付かないから!
頭と同じく言語中枢も混乱の極みで、私はぱくぱくと金魚のごとく口を動かす。
てことはアレですか? 男も女も、どちらも残さずイタダキマス……?
「……両刀?」
「そう、両刀」
ぽつりと、何とか口に出来た言葉に、長谷君はあっさりと頷いた。
それを見た瞬間、私は何故か力が抜けて、大きな溜め息とともに机に突っ伏した。
「遠山?」
「……びっくりした」
そりゃあ、人の好みは千差万別、十人十色。異性が好きな人も居れば、同性が好きな人だっている。長谷君はたまたま、どちらも許容範囲だって事なんだろう。
ただ、頭では理解していても、今までそんな人が周りに居なかっただけに、私の中ではかなりの衝撃。
「ごめん。けど、ゲイってのは違うからさ。今更隠す必要もないかなあ、って」
「あ〜、うん。分かる。だいじょぶ」
よろよろと顔を起こすと、苦笑混じりの長谷君と目が合った。
人当たりが良くて、穏やかな長谷君。けどその本質は合理的な思考回路の持ち主でバイセクシャル。
これ……他の人に言ったところで、信じてもらえるとは思えないな。
「ごめん。ゲイってだけでも大概なのに、バイだもんな。……そりゃあ驚くか」
独り言のように呟きながら、山盛りの野菜サラダを小皿に取り分けた長谷君は、それを私の前に差し出した。
「それって……昔から?」
ふうっと呼吸を整えて、差し出された野菜サラダに箸を伸ばす。
長谷君は自分の小皿にも野菜サラダを取り分けながら、小さな頷きで肯定した。
「たぶんね。昔は女の子だけだって自分に言い聞かせてたんだけど。一回男と付き合ってからは、開き直る事にしたよ。好きになったら、男も女も関係ない。むしろどちらも好きになれるって人より得なんじゃないの? ってね」
「ああ、そう言う考え方なんだ」
合理的。うん、長谷君は合理的だ。間違いない。
もしゃもしゃと野菜サラダを食べながら納得すると、長谷君は自分も野菜サラダを食べながら小さな笑みを浮かべた。
「その代わり、別れも人より多いかもだけど」
……ああ、そうか。別に吹っ切れてる訳じゃなかったんだ。
結果的に長谷君から別れを切り出しただけで、長谷君はまだお相手さんの事が好きなんだ。
何でもない風にも見えるけど、嫌いになって別れたのなら、こんな寂しそうに笑う訳がない。
今更ながらに申し訳なくて、私は長谷君から視線を外した。
「……ごめんね?」
「何が?」
「いや、何か……励ますならまだしも、こう……掘り返すようなことばっか訊いて」
「変な遠山。何でも訊いてって言ったのは俺だよ?」
「そうなんだけど……」
長谷君は穏やかに笑うけれど、私はもにゃもにゃと言葉を濁すばかりで彼に視線を合わせられない。
我ながら、ちょっとデリカシーが無さ過ぎたかも知れない。友達と呼ぶには少し距離のある長谷君に対して、根掘り葉掘り訊くにしても、もうちょっと気を使うべきだった。
「気にしないで……って言ったところで、気にするのが遠山か」
箸を進めるスピードが落ちた私を見て、長谷君は苦笑混じりの溜め息を一つ。
私に向けられたと言うよりは、独り言めいたその言葉は、何かを考えるような響きを持っていた。
「じゃあ、一つだけ頼みがあるんだけど。それでチャラになるなら、遠山も負い目を感じなくてすむかな?」
「あ、うん」
励ますことも出来ない私に、何を出来るのか分からないけれど、それで長谷君の寂しさが紛れるなら。
頷いた私に長谷君は申し訳なさそうに眉を下げた表情で、改まるように箸を置いた。
「今日は一日付き合って欲しい。本音を言えば、一人で居るのが辛いんだ」
真っ直ぐに私を見据え、長谷君はぽつりと呟いた。
「どうしても、思い出しちゃうからさ……和樹さんのこと。忘れるとまではいかなくても、遠山が居れば、落ち込まなくてすむような気がする」
「……ん、分かった」
残念ながら、私はそこまでお酒が強くない。その代わり、酔いつぶれることもないから、いつまでも長谷君に付き合えるのは間違いない。
それで長谷君の気が紛れるって言うなら、今日はとことんまで付き合ってやろうじゃない。
「じゃあ今日は飲もう! って言うか、長谷君は飲もう!」
励ますつもりで声を掛けると、長谷君は少しだけ驚いたように目を見開いて。ぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、くっと小さな笑いを漏らした。
「ありがと。もちろん遠山のおごりだよな?」
「う……し、食事代ぐらいなら」
念を押すような物言いに、思わず口ごもってしまう。長谷君がどれだけ飲めるのか分からないけど、今のペースでいくのなら、正直ちょっときつい。
またも口ごもった私に、ジョッキを手にした長谷君は、今度は声をあげて笑った。
「冗談。付き合わせてるのはこっちだよ。せいぜい割り勘が良いところだろ」
「うう……重ね重ね申し訳ない」
「気にするなって。付き合ってくれてるだけで、こっちはありがたいんだから」
今の長谷君には誰かが側に居るほうが良いらしい。そして出来るなら、事情を知っていて愚痴を溢せる相手。
それぐらいなら――例え覗き見が発端でも――私にも出来る。
そんな軽い気持ちで承諾したことが、後々にまで響くなんて、この時の私には考えることも出来なかった。
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