ゲイという存在は知っていた。
あまり抵抗を感じたこともない。
ただ、まさか自分の身近に現れるとは思ってもみなかったし、
更に友人に近い付き合いをするとも思っていなかった。
この私が。異性間の友情全否定の私が。
しかしよくよく考えてみれば、ゲイとは恋愛関係に発展しようがないんだから持論を頑固に守り通す必要もない。
恋愛に多少のトラウマがあった私は異性との付き合いに慎重だったけど、
そんな気兼ねをしなくていい相手と出会えて私は浮かれていた。
気づいていなかったけど今ならわかる。浮かれすぎていたのだ。
「あーっ、やっばいなあ」
お気に入りの缶チューハイりんご味をひとくち。うまい。
就職を期に一人暮らしを始めた私の部屋は実家が近いこともあって、
生活必需品と趣味の本やDVDばかりの超快適空間だ。
服は元々頓着しない方だけど物持ちだけはいいというか捨てられない性分なので、
季節ものと通年使えるもの以外は全て実家。一度片づけに帰らなきゃいけないと思いつつ放置。
この快適空間に数ヶ月前からふらりと現れるようになったのが件のゲイ、水内裕竣(みずうちゆうしゅん)。
あだ名はそのままユーシュン。
ゲイとはいえ女の一人暮らしに男をほいほい入れるのはどうかとも思う。
しかしユーシュンは生粋のゲイだ。相手のどこに惹かれるって適度な筋肉と腰なのだ。
しかし決してやつは女っぽくも華奢な体つきでもない。まあガチムチでもないけど。
まあとにかく。そんな奴だから大丈夫だと思って今まで過ごしてきたのだが、
この前私は気づいてしまったのだ。「私は」ユーシュンを恋愛対象にし得るということに。
まさしく青天の霹靂だ。油断以外の何者でもない。うっかり私はユーシュンに惚れたらしい。
好みどストライクではない。しかしいいなと思うところが少しずつ散りばめられているのだ。
例えば見た目。長年武道を嗜んでいたからか男くさくない程度に男らしい体だ。
例えば気安さ。気分屋の私が突然話しかけたり突然何かに没頭し始めてもユーシュンは気にしない。
帰りたくなったら帰る。居たかったらいる。余計な気を回さなくてもすむ。
最初の数日は抵抗したがすぐに無駄だと気づいた。もう自分にとってのツボしか見出せない。
惚れた。恋の病だ。久々に。まだ制御できるけどこのままじゃやばい。
だってあたしはこの友情を絶対に壊したくないのだ。女友達とは絶対に築けないこの友情を。
最近はユーシュンにも彼氏ができたらしく、
――ああ、ユーシュンはそういえばネコだ。あたしには可能性のかの字もない――
あまり連絡も寄越してこなかったんだけど、今日は久々に我が家に来るらしい。
いつもならどっかで一緒に飲んだ後我が家のパターンが多いのに珍しいこともあるもんだ。
取り敢えず手作りもつ鍋は用意できた。味噌のしょっぱさとチューハイの甘さは無限ループ。
ユーシュンには前飲み残した焼酎と日本酒があるし、あとで何か適当に出せばいいだろう。
あとは、あたしの気持ちだけだ。
しばらく会っていなかったので、会った瞬間に何か粗相をやらかしてしまいそうな気がする。
いや、たぶん大丈夫だけど。
******
「よっ」
「ん、久しぶり。取り敢えず中、どうぞ」
久々に会ったユーシュンはカッコ良かった。
妄想のあたしは飛びかかる勢いで抱きついたが、現実のあたしはただ少し笑っただけ。
勝手知ったる他人の家。あたしはユーシュンを放置して台所に向かう。
「もつ鍋作ったんだけど他にもなんかいるー?」
無反応。
「おい、答えろや」
小さめに叫んで、取り敢えず大きめの鉢に盛ったもつやら大根こんにゃくやらと酒を運ぶ。
ユーシュンは定位置、ちゃぶ台とソファの狭いスペースに胡座をかき、ぼーっとテレビを見ていた。
「どっち?」
焼酎と発泡酒を両手に目の前で軽く振ると、ユーシュンは黙って焼酎を取った。
ふむ。ご機嫌ななめ。かつ、飲みつぶれたい気分なのか。
念のためゴミ袋や新聞紙を近くに待機させ、自分の缶を開けて。
「……いただきます」
ユーシュンは小さく頭を下げただけだがまあ良しとする。
目の前に不機嫌な人間が居ようと、どんなに空気が重かろうと、このもつ鍋の旨さに変わりはない。
煮玉子を入れたのは天才的発想だな。ネットからのパクリだけど。
味は濃いめだし、もう少ししたら野菜とおろしポン酢も用意して――
「――おまえ、よく食うな」
「ふぇ? ふぉーお?」
一瞬もつを噴きそうなくらい驚いたのを隠し平静を装う。どうやら構ってほしくなってきたらしい。
「だって美味しいよ? 自慢みたいだけど。後で大根おろしとポン酢も用意するから」
「あっそう……」
気のない返事である。しかしこのまま再びもつに没頭できるほど私の神経は図太くない。
不機嫌なユーシュンもステキ、などという不埒な人格が私を支配する前にレッツアタック。
「で。どうしたの。なんかあったからそんなぶすっとしてんでしょ」
ようやく箸でもつをつつき始めたユーシュンをちらっと見やる。
だいたい話の内容は読めるような読めないような。
「こないだの新しい彼、なんだっけ。タケさん? あの人はどーしたの」
「違う。トチ。トチさん」
「あー、そうだそうだ。その人とは? 最近どうなのよ」
「まあまあ」
「は? 全て順調なわけ?」
「いやー……、順調ではないけど」
男のめんどくさいと思うところは、いかにも悩んでいる、という態度をしながらなかなか口を割らないところだ。
なんでもかんてもぺらぺら喋るよりは格段にましだが、
それ程多くない男との付き合いの中でも、ユーシュンはこの傾向が強い方だ。
そして一度話し始めると、独自の視点から自分の考えを怒涛のようにまくし立てるのだ。
「――な? これは詐欺だろ。
別に俺は縛りたくなんかねーよ。縛られんならまだしもさー。最初から言ってんのにな」
「そーですねー」
1時間弱経ったころにはべろべろの酔っ払い完成。あたし生々しさにドン引き。
話をまとめるとこうだ。
見た目に似合わずネコでMっ気抜群の筋肉フェチ男は、所謂ハッテン場で好みの男を見つけました。
しかし見た目と嗜好がちんぷんかんぷんなのはゲイの常識。まずは嗜好を確かめると、
見事需要と供給が一致。めでたしめでたし、だったのは先週の初めまでだったようだ。
実はその男、隠れドMだったらしい。
「もうこっちはヤられる気満々でさ。そんなときにいきなり輪ゴムないか、って。
意味わかんねーし。この間際に、突っ込むより大事なことは何なのかと思ったね」
その、まあ、つまりは、そのトチという男は己のナニの根元を輪ゴムで縛って欲しかったらしい。
イきたくてもイけない状態を繰り返すことで最高の快感を得られる、という性癖の持ち主だったのだ。
「でも縛るだけなんでしょ? ちょっと譲れば済む話じゃないの?」
「いや、無理。想像してみ?
セックスの一番盛り上がった瞬間に、男にここ輪ゴムで縛って、って頼まれんの」
「指差すなバカっ」
しかし自分に置き換えると……、確かに別れは頭に過ぎるな。興奮も一気に冷めるだろう。
「じゃあ今はどうしてんの。別れたわけじゃないんでしょ?」
「あっちの仕事が忙しいのもあって会ってない。次会うときなんらかの結論出すと思う」
「ふーん……」
別れたらいいなとも思うけど、しかし今の話聞く限りやっぱ望みは薄いなあ。
だってあたしもネコだ。入れられないし入れられたい。
ペニパン着けてユーシュン犯すか? ……女として大事なものを失いすぎるでしょ。
「奈々絵は。彼氏作んねーの」
ぼんやりしていたらユーシュンに水を向けられた。
「もうひと月くらい経つじゃん。そろそろいんじゃないか」
「あー……、そうだねぇ」
まさか目の前のあなたですとは言えない。
「ぼちぼち、ね。やれることやってみるわ」
何本目かの缶チューハイ。低カロリー。でもそろそろお茶かなんかに切り替えようかな。
その後もだらだら、お互いの近況やら愚痴やらを話していると、いつの間にか眠っていたようだ。
突然襲ってきた寒気にぶるっと体を震わせると、私はがばっと身を起こした。
部屋は豆電球の明かりで薄暗い。視線をあちこちにやるとようやく自分の状況がわかり始めた。
背中の辺りで引っかかっていた毛布を抱え込むとまだはっきりしない頭で現実を把握する。
あちこちにあった空き缶はゴミ袋の中に入れてあり、皿もちゃぶ台の上から消えている。
シンクに刺さった箸が見えるから下げてくれたのだろう。
「でも、味噌……」
水に浸けてくれただろうか。こびりつくと後が面倒くさい。見に行く?
少しだけ迷って私はのろのろと立ち上がり覚束ない足で台所に向かう。
「………………」
この状況で。ユーシュン。あなたは私を殺す気か。
ちゃーんと水に浸けてある。しかも余ったものは皿に分けてラップまで。
できればタッパーが良かったけどそんなのこの際些細なことだ。
あたしを床に転がしといてちゃっかり自分はベッドに寝ているのも些細なことだ。
ずるずると座り込みたいのを我慢して部屋に戻る。
ベッドに向かってしまったのは本能だ。許せユーシュン。
君に触ろうか触るまいか迷っているのも本能だ。許せユーシュン。
しかし好きな人に久々に会って、酒飲んで寝て起きたら触りたいとかどんだけ本能に忠実だよ。
でもこの状況は、私にとってひどく蠱惑的だ。
相手はぐっすりと眠り込んでいる。寝汚いというか、一度寝ると途中で目を覚ますこともほとんどない。
顎から首にかけてのライン。肩の張り。Tシャツから伸びる肘から手首にかけての美しさ。
「――う、わぁ……」
上半身はそのままなのと毛布のせいで気づいていなかったのだが、こやつ、パンツ一丁でいやがる。
なんと破廉恥な。いや、逆ならともかく男が女の家でどんな格好しようと問題はないか。いや、あるだろ。
もう触っちゃうぞ。あんなとこやこんなとこ触っちゃうぞきゃーっ! あたし破廉恥!
「………………」
とかいうのを私はじっとユーシュンを見つめながら心の中だけで騒いでいるのだ。
破廉恥というよりただの変態。
「……ユーシュン?」
でも止まらない。こんなチャンスもうないかもしれない。
この気持ちがバレる前に、関係が壊れる前に、ユーシュンを感じたい。
変わらない寝息にあたしはゆっくりとユーシュンに手を伸ばす。どこにしよう。
迷った挙げ句最初に触れたのは耳と顎の境目辺り。所謂えらの部分。
そこから少し指をずらして顎までの中間地点、上に滑らせて伸びかけの髭をなぞる。
ユーシュンは起きない。閉じた瞼は安らかで、呼吸も相変わらず規則正しい。
男の人にしては少し厚め下唇。キス、したい。きっと凄く気持ちいい。
けど、さすがにそこまでの勇気は出ないので、人差し指で軽くなぞるだけに留める。
そっとその指を自分の唇に寄せる。間接キスですらない、小さな接触。
なのになぜかあたしの快感値は高まっていく。心臓がうるさく鳴り響く。
「ユーシュン……、起きないでね」
無理なお願い。わかっているけど祈るような気持ちでユーシュンの右手を両手で持ち上げる。
失敗した、と気づいたのはその直後。ほんの数瞬だけ逡巡すると、私はそのまま続けることにした。
ゆっくりと体を寄せる。震えが止まらない。チリチリと皮膚が過敏になっているのがわかる。
「あ、ふっ、ぅん……」
手が。ユーシュンの手が私の胸に触れた瞬間、確かに私は小さな絶頂を感じた。
絶対にユーシュンが触らない場所。ゲイにとって一番嫌いな女の象徴。そこに、ユーシュンの手が触れた。
更にぎゅっと体に手のひらを押しつける。ブラジャーを着けたままなのが惜しいけど、
たまに指の腹が先を掠めるのがもどかしくも気持ちよくて、ますます興奮してしまう。
もっと。もっと。もっとあなたが欲しい。
こんなんじゃ足りないよ。
「ユーシュン……」
手を離し着ていたパーカーを脱ぐと、タンクトップの中に手を入れブラジャーだけ抜き取る。
ほぅ、と小さくため息を漏らす。
どうしようどうしようと頭の中はその言葉ばかりが駆け巡る。でも、気持ちはもう定まっている。
ユーシュンの額に張りついた髪の毛をそっとかき分ける。
脱いだパーカーでユーシュンの目を隠し視界を塞いだ。
これで大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫。
再びユーシュンの手を取り、今度は自分の頬に当てる。男の人の手。大きくて硬くて気持ちがいい。
これをナニに例えて舐める行為は何回かしたことがあるけど、今ほど熱望したことはないんじゃないだろうか。
皮膚の感触、ごつごつと節くれだった部分、きれいな爪の形、あたしのより長く伸びるその指。
――中指がいちばんおいしそう。
舐めたい。味わいたい。少しでもあなたをたくさん感じたい。
「はぁ……、んっ、むぅ……」
ぴちゃ、ぴちゅと我ながらイヤラシイと思う音が大きく響く。
耳から音にも犯されて、あたしは夢中になってユーシュンの指をくわえ込む。
満遍なく舐めているからふやけてはいないけど、手のひらまで唾液でべとべとだ。
あたしの口の周りは言わずもがな。
さっきから下腹部の奥がすごく切ない。胸も服にこすれたてっぺんがうずうずする。
私は片手でタンクトップをたくしあげると、ぎゅうっ、と自らの左胸を握りしめた。
痛いくらいの刺激で、ようやく体を駆け巡る痺れが弱くなる。でもその分、今度は下腹部の切なさが強くなる。
躊躇は一瞬だった。
大型スーパーで買った安いパンツとショーツ、そして繁みをかき分け、
私は潤みだしているそこに手を伸ばした。
「あ……、……んんっ」
自分でするときも人にされるときも、絶対にその上の突起がいいのに、今日は迷わず自分の中に指をはわす。
口はとうにユーシュンの指をくわえていられず、頬に僅かに引っかかっているくらいだ。
でもその感覚が、口の中に残る感触があたしの指と重なっていく。
いつもは1本だってキツいのに、今日は最初から2本差し込む。ユーシュンの太さに少しでも近づけたい。
声は漏らせない。でも、下の方から響く音はどんどん大きくなる。
目の前にある膨らみは最初は誘惑だったけれど、今は戒めだ。見るだけで、我慢しなさい。
今だって充分言い訳の効かない状況だけど、出しちゃったら、舐めちゃったら、
あたしは入れてしまうかもしれない。
そしたらもう明白な事実しか残らない。ユーシュンは気づくだろう、あたしの所業と気持ちに。
イってしまおう。そうすればこの気持ちも治まる。だからごめん、もう少しだけ、ユーシュン。
「ユーシュン……、ごめんね……」
ユーシュンの膨らみに顔を寄せる。空いている手でその形を確かめる。
柔らかいそれを触ったことはなかった。不思議な感触。ちょっと強く握りたくなる。
下にある丸い2つの膨らみをころころと弄ぶと、根本から先端まですーっと逆撫でする。
何回か繰り返すと少し芯が入ってきた気がして、手の動きを速めると少しずつ硬度が増す。
手をはずす。顔を埋める。はずした手を下に持って行き、あたしの一番感じるところを強くこねる。
汗の混じった匂いと肌に感じる硬さ。それらを今までの記憶と自分の指に重ねてあたしは陶酔する。
ぐちゅぐちゅと中をかき回して、同時に小刻みにその上の部分も擦りあげる。
今までで一番感じる。
手がどんどん早くなって体中を駆けめぐる快感の粒がぎゅぅっと集まって体を満たし破りそうな――
「んんん――っ、……ぁあっ、ふぅ、んん――――っ!」
――最後、彼のモノを少し口にくわえてしまったのは許してほしい。
******
それからしばし放心したあたしは、暫くしてからもぞもぞと着衣の乱れを正しそっと立ち上がった。
今更なのは承知で、なるべく物音をたてずに台所に向かい、布巾をお湯で濡らし甘めに絞った。
今はもう乾き始めているユーシュンの手を慎重に、でもしっかりと拭い清める。
逡巡したものの、結局股間はそのままにして毛布をかけ直すだけにとどめた。
大判の膝掛けをとりだし体に巻き付ける。
イルカの柄のそれは手触りといいデザインといいあたしの一番のお気に入りだ。
ユーシュンのちょうど向かいの壁に、クッションをいくつか重ねてもたれ掛かるように寝る。
冷静になったあたしは、それでも後悔していなかった。
バレたらどうしようと思わないこともないが、終わってしまった今となっては些細なことだ。
だって、気づいていたのに止めなかったのだとしたら、明日以降ユーシュンはどう切り出すというのか。
あたしだったら何もいえないだろう。事情がどうあれ結局は黙認したのだから。
それに問い質したところで、もし関係を壊す何かが起きたらどうする。
自惚れではなく、ユーシュンにとってあたしの存在はもうなくてはならないのだ。
自分を許容し、適度に距離を保ち、付き合ってほしいと迫ってこないオンナ。
挿入もフェラもしなかった。匂いは嗅いだし頬擦りもしてしまったけど、でも決定的なものはなかった。
あたしは、ユーシュンを使って自慰をしたにすぎないのだ。
ただそれだけの話。
視界が歪む。覚悟はしていたけど、この虚しさはやっぱりキツい。
明日の朝は定番のお味噌汁を作ろう。豆腐とわかめのオーソドックスなやつ。
そしたらいつも通りの朝が、いつも通りのあたしたちが始まる。
だからどうか、眠るまでのひとときだけ、始まることのないこの恋に浸らせて、ユーシュン。