大学に入って、3度目の春。  
自分の名前についているこの季節が、私はあまり好きじゃない。  
正門から続く桜並木はまだ4月の初めだというのに散り始めていた。  
地元ではやっと満開になったばかりだというのに。  
都会の性急すぎる季節の変化も相まって、どこか悲しい気分になる。  
少し伸びた前髪が風に煽られて、肌をくすぐる。  
昨日、とても嫌な夢を見た。  
 
「サークル入りませんか?」  
差し出されたチラシにハッとして顔を上げた。  
 
「私は新入生じゃ…………あ、先輩」  
 
優子先輩がいたずらっぽく笑っている。  
「何ぼーっとしてんの?」  
一瞬、誰だか分からなかった。  
「先輩たち、何やってるんですか?勧誘は2年の仕事でしょ?」  
「そうなんだけどさ〜、あれ、黙ってれば見た目は悪くないからさ」  
と言って優子先輩は新入生の女の子に声をかけているハナ先輩を指差す。  
どうしてだろう髪の毛を切っただけなのに、先輩は普通の男の人に見える。  
「けど…すぐバレるんじゃないですか?先輩有名だし」  
「まぁね〜」  
ハナ先輩目当てで入って来た女の子はきっと、悲しい真実を知る事になる。  
それは少し、胸が痛むようだ。  
 
「かわいそうに…」  
 
「え?」  
「…え?」  
「今、何か言った?」  
「私、…何か言いました?」  
「陽気でぼーっとしてんの?ね、来週の新歓行く?」  
「あ〜…えと。何日でしたっけ…」  
「え、お前行けないの?!」  
お前?  
いつの間にかハナ先輩が私達の近くに来ていた。  
「あ〜、バイトのシフトとまだ見てなくて。それに月末にもありますよね。  
両方は…ちょっとツラいかな〜って。すいません」  
「…そっか」  
「しょうがないね。月末おいで」  
そう言ってハナ先輩は私の頭を、チラシの束でポンと叩いた。  
 
オマエ…。  
「……先輩。」  
「ん?」  
「あ、…何だっけ…忘れちゃった」  
「ちょっと高山大丈夫?」  
優子先輩がちょっと呆れた声を出した。  
 
 
 
4月の終わりの、新歓。  
待ち合わせ場所の部室には、もう多くの人が集まっていた。  
「あ、お疲れ様です」  
優子先輩と、ハナ先輩を見つけて声をかける。  
「お〜、今日は2次会まで出れるの?」  
「はい」  
「アンタ、連休は地元に帰るんでしょ?」  
…!  
「はい!明日帰ります!」  
「はは、元気いいね。お祖父様とお祖母様によろしくね」  
「ありがとうございます。おばあちゃんも『また遊びにおいで』って。」  
そう言うと、ハナ先輩は嬉しそうに笑った。  
先輩と何だか久しぶりに話をした気がする。  
 
************  
 
「うわ、出たよ。関のミスチル」  
2次会のカラオケで優子先輩が苦虫を潰したような顔をした。  
「あ〜、あれでオチる子多いですからね」  
「相変わらず手がはえ〜な、あいつ。もう新入生隣にはべらしてんじゃん」  
酔っ払って幾分言葉使いが乱暴になった優子先輩。  
 
カラオケも終盤になると、部屋の中で小さなグループが出来て歌よりも会話がメインになって来る。  
私は、優子先輩や奈緒たちと新入生の女の子たちの相手をしていた。  
関君のミスチルから始まった優子先輩の「アホな男に騙されない講座」は新入生にも大いにウケていた。  
ハナ先輩とは、部室で話をしたきりだった。  
仕方がない、これは新入生のための飲み会なんだから。  
女子に囲まれた関君を見つめて  
「どこがいいんだろうね〜」  
と、奈緒が言う。  
「彼女、いるくせにね…」  
相槌をうつ私。  
「けどさぁ、あたし達が1年の時もあんな感じだったんだろうね〜」  
「あ〜…」  
「富岡先輩の回りに女子鈴なりだったもんね」  
「そうそう、そんでそこにいきなりオカマがさあ!!」  
私達は顔を見合わせるとお互いに噴出して、笑いを堪えられなくなった。  
「い、痛い痛い…腹筋が!」  
「は〜っ…涙出た。あれはね〜一生忘れらんないね。くっ…」  
奈緒は涙をぬぐいながら、再び思い出してツボにハマったらしい。  
 
いつの間に『懐かしい』と思える程時は過ぎ去ってしまったんだろう。  
 
 
「洋楽?うまっ」  
「え、誰?」  
「ハナ先輩??」  
サビから始まったその曲がかかると、部屋の中が少しザワついた。  
マイクを握って歌っているのはハナ先輩だった。  
いつもより低い歌声は、英語の歌詞と相まって別人のようだ。  
私は、グラスに残っていたお酒を一気に飲み干した。  
この場所からはモニターが見えず、ときどき聞き取れるフレーズがあるだけで  
酔いの回った頭では、どんな歌なのかさっぱり分からなかった。  
先輩は歌いながら立ち上がると、ちょっと怪しい足取りでこっちに来て  
私の隣に勢い良く腰を下ろした。  
先輩はへらへらした笑いを浮かべている。  
「やだ近い近い!先輩!ちょっと!!近いったら!」  
わざと私に顔を近づけて歌う先輩のマイクが、私の悲鳴を拾って、皆が笑う。  
サビが終わって間奏になると、先輩は昔のように私の首を軽く絞めると頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。  
「きゃ〜〜〜〜〜〜〜〜!」  
 
「もうっ!!」  
歌いながら元の席に戻ろうとする先輩の背中をメニューで叩くと、歌声に笑いが溶けた。  
髪の毛を梳いていると優子先輩が  
「なんか懐かしいわね、今の」  
と言ったので、私は少し笑ってみせた。  
 
 
トイレを出ると、ロビーのソファでタバコを吸っている先輩を見つけた。  
「あ、いっけないんだ。タバコはお肌に悪いのよ?」  
というと。先輩はふっと笑った。  
「ね。」  
そう言って、吸殻を潰すとまたタバコに火をつけた。  
「先輩、歌上手なんですね。ビックリしちゃった」  
隣に座ると、小さくソファが音を立てた。  
「そう、上手いの俺♪いつも女の歌しか歌わねぇから」  
ご機嫌さん。素で男言葉になっている。  
先輩は楽しそうだ。  
「ふふふ。英語が得意なんて知らなかったです」  
「まあね、留学するつもりで必死に勉強したしぃ」  
ふぅ、と煙を吐き出す。知らなかった。  
「留学って?」  
「昔ね〜、行きたかったんだよね。どこでも良かったんだけど。とお〜いところに行きたくて」  
「どうして?」  
 
「もう、ここじゃ生きて行けない気がしてたから」  
 
 
「今も、行きたいですか?」  
 
先輩は笑って煙を吐き出しただけで、何も言わなかった。  
 
 
私は、会話の糸口を見失ってしまった。  
深夜のカラオケボックスは来客もなく、ロビーは閑散としている。  
手前で奥に入ったこの場所からは、フロントまでは見えない。  
先輩はソファに寄りかかって、天井に向かって煙を吐いていた。  
他の部屋から洩れる歌声に合わせて鼻歌を歌っている。  
私は思ったより酔っ払っていたようだ。  
感覚が遠く、一秒先の事を考える事すら難しい。  
 
頭痛がしそうな予感がしている。  
 
 
たいして珍しくもないのに、初めて見るもののように店の中を見ていた。  
ここはどこだろう。  
膜を隔てたように全てのことはぼんやりとして、私だけどこか別の世界にいるような感覚すらする。  
 
ほんとうに、ここにいるのだろうか。  
 
誰かが歌う、いつかの歌。  
子供の頃、通っていたスケートリンクで何度も聞いた。  
『かかってる曲の、ここで跳ぶって決めるとタイミングを合わせる練習になるよ』  
と少し年上のお姉さんが教えてくれた。  
自分で少し振りつけの真似事をして、曲のサビが来たときに丁度踏み切れるように何度も何度も跳んだ。  
背伸びをして、意味も分からない悲しい恋の曲をお気に入りにしていた、小さな私。  
 
題名も思い出せない歌を聞いていたら、少し泣きたくなった。  
どうしてだろう、今日はとても楽しいのに。  
それでもどうしても涙は出てこなくて、先輩の鼻歌が、調子を外したのでなんだか笑ってしまった。  
 
 
どれぐらいこうしていたのだろう。  
先輩はまた新しいタバコを咥えて、火をつけようとしていた。  
ずいぶん仕草が手馴れている。  
ライターを持つ指の関節がやけに目立って見えた。  
先輩の指は、こんなに骨ばっていただろうか。  
あんな男らしい足の組み方だったろうか。  
何度も見たことがあるのに、思い出せない。  
 
「…せんぱい…?」  
空気が漏れるようにつぶやくと、視線だけが合った。  
私を見るあの瞳がだれのものかすら分からない。  
 
手入れを止めたらしい眉毛は、まだ少しまばらで変だ。  
瞬きの度に揺れる下向きの睫毛、額から高めの鼻を通って喉までのライン。  
タバコの為に軽く開かれた薄めの唇は、横から見ると上だけ少し突き出た感じがする。  
その横顔を、私は初めてキレイだと思った。  
震えるような何かの感情が確かにあるのだけれど、私の感覚は麻痺してそれをどこか遠くへ置いておく。  
 
ああ、目にかかる前髪を直すことすら億劫だ。  
 
知らない。  
 
 
 
こんなひと、私は知らない。  
 
 
 
 
「…あなたはだれ?」  
 
 
その人は少し笑ったようで、かすかに空気が揺れた。  
タバコを持つ左手に体重をかけて私に近づいて来ると、ソファが軋む音がした。  
反対の手で私の目にかかる前髪を耳にかけるように払うと  
 
 
私にキスをした。  
 
 
おわり  
 

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