◇‥‥‥◇
「ただいまカナちゃーん。外暑いよー。熱の字の方が正解なくらいよー」
「お帰り、ミツル」
大学の夏期休暇を利用して親しい飲み仲間との京都旅行から帰ってきた同居人、ミツルの第一声は艶のない低い声だった。
綺麗に整えられた化粧は崩れていないが汗が気持ち悪いのか、スーツケースはそのまま、挨拶もそこそこに洗面所に駆け込んで化粧を落とす。
「ふう、さっぱりした‥‥ってこの部屋も暑くない?」
「アンタが居ない時はかけてないのよ」
マンションの家賃と光熱費、水道代はミツルと私の頭割りだ。独り冷房の恩恵を貪るのはしたくない。
エアコンのリモコンを操作して冷房を利かす。その間にミツルがスーツケースを開けて、洗濯物や土産を取り出す。
「はいカナちゃん、これお土産」
「‥‥何コレ」
スーツケースから出てきたお土産は、なんとも奇妙なものだった。
器の内側が玉虫色――晴れやかな緑色に黄金や朱の色彩が輝く、少し大きめの御猪口だ。器の外側が落ち着いた乳白色である所為で、少しミスマッチな印象を受ける。
「京紅よ。舞妓さんや江戸時代の女性がつけていた口紅」
「ああ、これが『紅』か」
紅花の花のエキスを凝集させた『紅』は斯様に輝くのか。
『紅』のことは知識としては蓄えていたが、実際に目にするのは初めてで、感動する。
「顔彩絵の具みたいに水で溶かせばいいのか?」
参考までにと使用方法を尋ねると、ミツルは薬指を『紅』の器にこすりつけ(自分用にもう一つ買ったようだ)
「こうやって湿らせた指で取って‥‥はい」
と私の唇に紅を乗せる。制止する暇もなく、下唇、上唇、もう一度下唇と、薬指で撫で上げる。
「あら、綺麗」
「ふ、筆でもいいだろ」
動揺を押し隠して私が指摘すると、ミツルは「そうねー」と暢気に首肯する。こやつめ。
「それで、旅行は楽しかった?」
「ええ! アヤサワさんも土壇場で参加決定したから緊張したけれど、もうすっごく楽しかった!」
旅行話に水を向けると、ミツルは薔薇の花が開くように笑った。好きな人が格好良かった、他の仲間に優しくて嫉妬した、あの人とあの人できてるよね、とのべつ幕無しに旅行の思い出を語る。
反対に、私の心は鈍色に沈む。
そもそも、ミツルが旅行に行くのだけでも心は穏やかではなかった。
無事の帰宅に安堵はするが、ミツルとミツルが片思いする人との旅行話を――ミツルがいかに彼の人を好きかと語る様に心は千々に乱れてしまう。
旅行話をしなければいいとは思っても、努めて良き同居人、姉貴分であろうとする義務感と、恋の終焉への怖れからつい尋ねてしまう。そして仄暗い安心感と引き替えに、痛苦に心を浸すことになる。
白状しよう。私はミツルが好きだ。体は男性で、心は女性のミツルが好きだ。
けれど、女の私よりも、ミツルをミツルが望む性で愛してくれる人の方がミツルにとってもいいと思う。
しかし、諦めきれない。
「‥‥この旅行で改めて分かったんだけど、やっぱりアヤサワさんのこと好きな人多いのね‥‥」
「諦めるのか?」
「嫌よ。諦めたくない」
か細い期待を押し隠して尋ねると、ミツルは決然と言い切る。
「こう言っちゃ悪いけど男前になったなあ‥‥。嘘。アンタは魅力的な女の子よ。‥‥応援してる」
――恋と諦めの狭間で、同居人の義務感は主人の如く私を制御し、いつしか言葉は空疎になっていった。
今の私に、真は無い。
(おわり)