「今日からお世話になります。橘と申します」  
 「あらわざわざご丁寧に…。大家の黒石です。  
  何か困った事があったら遠慮なく言ってくださいね」  
玄関先で母が経営しているアパートの新しい住人と話しをしている。  
今度入ったのはどんな人だろう、と由璃がこっそり覗くとそこには中性的な顔立ちの青年が立っていた。  
柔らかな表情と釣り目がちな瞳が印象的な、所謂イケメンというやつだ。  
由璃が住人の容姿をまじまじと見ていると、橘という青年と目が合った。  
 
 「娘さんですか?」  
 「あら、由璃。こちら新しく2階に引っ越してきた橘さん。  
  橘さん、こちらは娘の由璃です。近所の高校に通ってて…」  
 「…こんにちは」  
お引越しのご挨拶に来てくれたのよ、と微笑む母の隣に立ちながら由璃は青年をじっと見上げた。  
背が高い。  
青年は由璃にこんにちはと優しく声をかけると、にっこりと微笑んだ。  
どんな女性だってときめいてしまいそうな優しい笑顔だ。  
由璃も一瞬胸のあたりが暖かくなるのを感じたが、それもすぐに消えた。  
そうやって男性に可愛がられるのは慣れている。  
由璃がじっと青年を見ている間、彼はこれといって由璃の様子には気にも止めず  
由璃の母親と軽く談笑をしたあと引越し祝いの石鹸を渡して帰っていった。  
彼が帰る一瞬、由璃一瞬甘い香りを感じた気がした。  
由璃はそれだけがやけに印象に残っていた。  
 
その日由璃はいつもの様に繁華街にいた。  
幼さの残る体を露出させ、派手な化粧で彩り、普段の様子を残さないように。  
風俗店やカラオケが立ちならぶこの通りは由璃の遊び場所だ。  
今日も数週間前に付き合った彼氏と遊びに来ていたが  
事の発端は、ほんの数十分前由璃が彼氏のケータイを盗み見た事からだった。  
 「ねえ。なんでユウが知らない人のメールがケータイに入ってるの!?  
  浮気してるんでしょ!?ねえ!しんじらんない!」  
 「何勝手に俺のケータイ見てんだよ!俺がどこの誰とナニしようが勝手だろ!」  
 「…まさかしたの?ひどい!ユウとその子どっちが大事なの!?」  
 「うるせえなあ!」  
問いただそうと彼の腕に纏わりついていると、そのまま腕を振り払われ投げ飛ばされた。  
細い体がどこかの店のポリバケツにあたり、存外に大きな音を立てる。  
脇腹に受けた痛みに小さく悲鳴を上げた。  
 「お前なんてヤるくらいの価値しかねえくせに!どうせ他の男にも股開いてんだろ!」  
浴びせられる汚い罵声に、由璃は悔しさと痛みで涙をにじませた。  
言い返そうと息を吸い込み、痛みで喉をつまらせた瞬間だった。  
すぐ傍のドアが開き、むっとする香水と煙草の匂いが溢れ出した。  
なんとなく由璃はその匂いに覚えがあったが、それを思い出す間もなく  
彼よりも野太く、強烈な罵声が左耳を痺れさせた。  
 「うっさいわよバカ共!!店まで聞こえてんのよ!!  
  痴話喧嘩ならホテルのベッドの上でもやってろ!!」  
突然ドアを蹴破り現れたオカマに驚いた彼氏は慌ててその場から逃げていった。  
勿論由璃を残して。  
急な出来事に痛みも悔しさも忘れ、呆気にとられた由璃が声の主の方に目をやると  
声の主も丁度地面に座り込んでいる由璃を見つけ、驚きに目を見開いている所だった。  
由璃は目を疑った。  
それは、先日自分の家のアパートに越してきた青年だった。  
ただ、それは以前由璃が見た好青年とは違い  
由璃よりも派手な化粧をし、胸元を大きくあけたシャツとむっとする香水で身を包んだ  
オカマの姿をした彼だった。  
 
 「…えーとぉ…由璃ちゃん、だっけ…。まさかこんな所でね…」  
2重につけられたつけまつげの下で、綺麗な釣り目が泳いでいる。  
由璃は未だぽかんとしながら、彼をまじまじと見つめた。  
彼に見つかったあと、由璃はドアの奥…彼の務めるオカマバーに連れ込まれてしまった。  
由璃も少し焦ったが別段何をされるでもなく、こうして控え室に通されジュースをご馳走になっているわけだが。  
先日見たときは普通にカッコイイ人だと思ったが、こうして見ると別の意味で綺麗だった。  
丹念に化粧された顔と派手な格好、片方だけ開いたピアスが彼は同性愛者だと主張している。  
不躾にじろじろ見つめる由璃に、青年は少し嫌そうに顔をしかめて睨み返した。  
 「…何よ。珍しいかしらオカマが。ていうか何よその格好とメイク。  
  この前見た時は、普通の女子高生だと思ってたのに随分やんちゃしてるのね」  
 「それ、全部そのまま返す」  
由璃が言い返すと、青年はそれ以上何も言わなくなった。  
ただ少し不機嫌そうに由璃を睨み、それからは肘をついてテーブルに視線を落としていた。  
 「…オカマさんだったんだ」  
少し続いた沈黙の中由璃がそう切り出すと、青年は眉根を寄せて冷たい視線を送る。  
 「…そうよ。びっくりした?」  
 「うん。全然気づかなかった」  
 「だって内緒だもの」  
 「なんで?」  
 「変だから」  
 「なんで?」  
 「なんでって…。………。…なんでもよ。変な子」  
冷たかった青年の表情がようやくふっと和らいだ。  
オカマであっても、その顔は整っていて改めて由璃は綺麗だと思った。  
 「オカマさん」  
 「なんか嫌ねその呼び方…ハルでいいわよ。春彦って名前だから」  
 「じゃあ、ハル。ありがとう」  
一瞬春彦の表情がきょとんとした。  
 「ああ、喧嘩の事?ひっどい男ねー。アンタさっさと別れちゃいなさい」  
 「うん、多分別れる」  
春彦は自分も適当にお茶のようなものを取り出すと、自分もグラスに注ぎ出した。  
真っ赤なデコネイルが施された手が、優雅な仕草でペットボトルを弄ぶ。  
由璃も遠慮なくジュースを飲みながらじっと春彦の様子を見ていた。  
 「あら、あっさりしてるのね。さっきあんなに怒ってたじゃない。  
  好きなんじゃないのあの酷い彼氏が」  
 「どうかなあ」  
 「…は?」  
 「元々、ナンパされてエッチしたのがきっかけだから…別に特別好きとかではないと思う」  
春彦は驚いた表情で由璃をまじまじと見てから、また一気にお茶を呷った。  
 
 「…アタシも貞操観念とかゆるい方だから人の事言えないけど…。  
  アンタ可愛い顔してとんだ小悪魔ね。慰めて損した」  
 「いいでしょ別に。それとも説教でもするの」  
由璃もジュースを呷り、音を立ててグラスを置いた。  
春彦は黙ってまたジュースの紙パックを取り出すと、静かに注いでいく。  
 「しないわよ。出来るほど立派な人間じゃないし。ただね、自分の体は大事にしなさい。  
  …女の子なんだから」  
そういう彼の顔は、由璃を哀れんでいるようにも、自嘲しているようにも見えた。  
ジュースを注ぎ終えると、春彦は紙パックと自分のグラスを片付けた。  
 「それ飲んだら帰りなさい。アタシが送って行ってあげる」  
彼が傍を通る時、由璃はまたあの甘い匂いを感じた。  
どこのメーカーの香水だろう、と思ったがそれ以上は何も聞かなかった。  
まだ脇腹が少し痛かったが彼の後について繁華街に出る。  
由璃の家までの道すがら、二人は取り留めのない話をしながら帰った。  
由璃は春彦の稀有な生い立ちを聞きたがったが、春彦はそれには答えようとしなかった。  
かわりに春彦も、由璃の事をあまり聞こうとはしなかった。  
 「お母さんは、アンタの遊びっぷり知ってるの?」  
唯一、春彦は家の前でそれだけ聞いてきた。  
 「…あんまり言ってない。心配はしてるみたいだけど…」  
 「そう。…まあああいう無茶はしないほうがいいわ。何かあったら言いつけちゃうわよ」  
 「何それ!じゃあ、ハルが言いつけたらユウもハルがオカマなこと言いつけちゃうから」  
むくれて顔を背ける由璃を、春彦はまた眉根を寄せて軽く睨みつけたが  
今度はすぐに肩を落とすと、そのまま勤め先のバーまで足を向けた。  
 「じゃ、アタシお店戻るから。…おやすみ」  
すれ違いざま、彼の派手なネイルの手が由璃の頭を撫でていった。  
その見た目と違う男性的な感触に、一瞬由璃は胸が跳ねるのを感じた。  
慌てて振り返ると、そこには派手な異性装の青年が背を向けて遠ざかっているだけだった。  
甘い香を残して。  
 「…変なオカマ」  
由璃は聞こえないよう零し、黙って明りの灯る我が家に帰っていった。  
 
 
 

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