――舞台袖に引っ込んで、一人で膝を抱えていた、あの時。  
おっかなびっくり、僕の手を握りしめてくれた、小さくて温かい手のひら。  
 
それが僕と彼女を結び付ける、原体験のようなものだったと思う。  
 
子供の頃の事。  
僕の通っていた幼稚園は、カトリックの教会が運営する所だった。  
朝の集会では、「てんなるちち」と「マリアさま」にお祈りを捧げ、給食の時間には皆で揃って「てんのめぐみ」に感謝を告げる。  
月に1度は、朝から――せっかくの日曜なのに好きなアニメを我慢させられて――隣の教会でのミサに参加させられる。  
そんな日々が、僕の日常だった。  
 
小学校に上がる前の最後の年になると、年長組はお遊戯会で演劇をやるのが、恒例になっていた。  
僕の年の演目は、「ノアの箱舟」。  
 
 『はるか昔の事。人類の愚かさに怒った神さまは、地上を洪水で押し流すことに決め、ただ一人ノアにのみ、  
啓示を与えました。  
 「巨大な箱舟を作れ。地上の生き物を1組の夫婦ずつ集めて乗り込み、洪水を生き延びさせよ」。  
 ノアは箱舟を作ろうと呼びかけましたが、人々は彼の言葉を信じませんでした。  
 彼は苦労しながらも、自分と家族だけで箱舟を完成させます。  
 やがて予言の通り、大洪水の日が訪れます。地上の全ては水に流されていきました――』  
 
――今読み返してみると、神サマの身勝手な理屈が鼻について、苛ついてくる話でしかない。  
ノアの他にも善人はいたんじゃないのか、とか  
人間以外の生き物まで、1組だけ残して滅ぼす理由はなんなんだ、とか  
そもそも勝手に人を滅ぼす権利なんてあるのか、とか。  
色々あるのだけれど、当時の僕は、「ノアのことばを信じなかったみんながワルイ」と思い、そうした点は大して気にしていなかった。  
 
男子の人気が圧倒的に集中したのは、ライオン役だった。  
そして主役にも関わらず、ノアの立候補は0。文句なしのワーストだった。  
まあ、無理もない。冴えないお爺さんの扮装とか、進んでしたがる子供はまずいない。  
一方、女子の一番人気はハト。  
さすがというべきか、女の子は小さい頃から抜け目がない。ハトはこの劇の、もう一人の主役だ。  
 
『洪水が起こってからしばらくして、箱舟の皆は陸地を探そうとしました。  
最初にカラスが陸を探しに行きましたが、帰ってきませんでした。  
次にハトが飛び立ちました。1日が経ち、2日が経っても、ハトは戻りませんでした。  
しかし7日目、皆が諦めかけた頃に、ハトはオリーブの葉をくわえて戻ってきます。それは新しい陸地の証でした。  
皆はハトの導きに従って、新しい大地へとたどり着き、幸せに暮らしたのです。  めでたし めでたし。』  
 
「なにがやりたいの」と先生に訊かれ、悩んだ末に、僕は「カラス」と答えた。  
イレギュラーな希望だった。先生の用意した台本では、カラスの失敗のシーンまでは、わざわざ設けてなかった。  
当たり前ではある。幼稚園児の為の、正味30分ていどの劇なんだから。  
けれど僕は、あえてカラスを希望した。  
何故か。せっかく大役を仰せつかったのに、報われなかったカラスが可哀想だったから?  
確かにそれもあったと思う。けれど何よりも、脚本から存在を削られてしまった事に、僕は同情していた。  
劇から姿を消し、最初から居なかった事にされてしまう――幼心に、それがとても酷い事に思えた。  
とはいえ、僕一人のワガママで台本が変更される筈もなく、結局僕は、「ハト組」あらため「トリ組」に編入された。  
 
それから本番までの間、練習時間には、決まって先生たちを困らせる事態が起こった。  
劇の途中で、僕が舞台袖に引っ込んでしまう事だ。  
 
『カラスは陸地を見つけられず、戻っても来なかった。だからぼくは、ここにいてはいけない――』  
 
子供というのは、時に、妙に頑固になる事がある。この時の僕もそうだった。  
フィナーレの全体合唱にも参加せず、舞台袖で膝を抱える僕に、先生たちもさぞ手を焼いた事だろう。  
最後には「勝手にしなさい」と叱られてしまい、放っておかれるようになった。  
言われた通り、僕は勝手にした。  
皆の反応は色々だった。  
はしゃいで面白がる奴、先生と一緒に怒る奴、気味悪がって遠巻きに見つめてくる奴――反応は様々だったけど、  
いずれにも共通する態度として、みんな、先生の前では僕と距離を取るようになった。  
 
ひどく寂しい思いをしたのを覚えている。  
けれど同時に、僕は妙に納得した気分でもいた。  
 
先生からは見放され、周りの友達も、助けるどころか、僕の気持ちすら理解してくれない。  
神やノアが、海原に迷ったカラスを見捨てたように。  
ライオンもゾウも、カラスの事を忘れて、ハトの見つけた新天地に夢中になったように。  
――これだ、と思った。  
きっとこれが、カラスが味わっていた気持ちに違いないと。  
暗く、自虐的でありながら――ある種の満足感にも似た気持ちを、僕は味わっていた。  
 
彼女が僕に話しかけてきたのは、本番前日の、最後の練習の後の事だった。  
僕は例によって皆から距離を取られ、一人、舞台袖に膝を抱えていた。  
もう、独りでいるのが当たり前になっていた。  
だから、  
「あの……」  
と、あまり聞き覚えのない、細くて繊細な声が呼びかけてきた時、内心で驚いてたものだ。  
顔を上げると、目の前で、子犬じみた黒い瞳が不安そうに揺れていた。  
 
「しらき……さん?」  
彼女の名を呼んだのも、その時が初めてだったと思う。  
呼び慣れない名字は、口にしてみると、遠い異国の花の名みたいに感じられて、なにか妙な気持ちになった。  
「あ、あの、たかだくん、どうしていつも、かくれちゃうの?」  
「……ぼく、お話の通りにやってるだけだもん」  
僕はすぐに目を逸らし、ぶっきらぼうに、そう答えたはずだ。  
当時から、彼女には人見知りのきらいがあった。僕とも、別に仲が良かったわけじゃない。  
僕が彼女について知っていたのは、大人しい子だという事と、歌が好きらしいという事の、2つだけ。  
唯一の――『僕ら』の最初の接点が、この時、同じ「トリ組」に入った事だった。  
きっと彼女から僕に話しかけてきたのは、なけなしの勇気を奮い起しての事だったに違いない。  
けれど僕も、微かに濡れたような瞳に、上目遣いに見つめられていると、どんどん落ち着かない気分になっていった。  
 
「お話の、とおり? な、なんで?」  
「だって――いないのが正しいんだもんっ」  
「えっ、えっ? わたしたち、ハト――」  
「ぼく、ハトじゃない!」  
強い調子で言うと、彼女は弾かれたように目を見開いた。  
大きな瞳が、見る間に悲しみに沈んで、溢れて――涙が一筋、彼女の頬に流れた。  
泡を食った。  
仲間外れにされてるのは僕なのに、どうして泣かれるんだ――?  
自分の方が悪い事をしているのかも、という可能性を真剣に検討したのは、きっとその時が初めてだった。  
 
「ご、ゴメン。大きなこえ、出して」  
「ひぅっ――うぅ」  
「ゴメン……ほんとに、ゴメン」  
「っ、ぅっ――ど、して?」  
「え?」  
「ぅっ――ハトじゃないなら、ど、して、一緒の組なの?」  
まさかそんな質問をされるとは思っていなかったから、僕は思わず、彼女の顔を覗き込んだ。  
間近に見る彼女の目は、涙に濡れて、不安そうに揺れていたけれど、ちゃんと僕の視線を、正面から受け止めてくれていた。  
叱られも、からかわれもせず、真っ直ぐに疑問をぶつけられたのは、初めてだった。  
僕はまた目を逸らしながら、  
「カラス、やりたかった」  
答えていた。  
 
話すうちに彼女は落ち着き、黙って耳を傾けるようになった。  
一方、僕も少し余裕が戻ってきていた。  
と言っても、決して良い意味での余裕じゃない。  
暗く卑屈な、自己憐憫に浸るだけの余裕だ。  
――どうせ分かっちゃくれないだろ?  
――『でも先生の言う事が正しい』、最後には、そう言うに決まってるさ。  
けれど、僕の暗い期待を裏切って、聞き終えると彼女は、ホウッと息を吐いてみせた。  
「……そうだったんだ。よかった」  
「よかったって、なにが?」  
面食らって尋ねると、彼女は目元をフニャッと緩めて、はにかんだような笑みを浮かべてみせる。  
訳が分からなくて――そしてその笑顔に、何故だか顔が熱くなって――僕は目を逸らした。  
「たかだくん、おしばいがイヤなのかなって思って……それが、心配だったから」  
「……イヤじゃ、ないけど」  
「ねえ、どうしてカラスが好きなの?」  
少し、言葉に詰まった。  
好き、というのとは違う。  
ただ、  
「可哀そう、だったから」  
そう言うと、彼女はパチパチと目をしばたかせ――ややあって、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。  
「やさしいね」  
耳まで燃え上がった。  
嬉しかった。  
同時に、どうしようもない恥ずかしさと、穴にでも入りたくなるような、やるせなさが湧きあがって――  
気持ちはグチャグチャに乱れた。それでいて、決して不快というわけでもない。これはなんなんだ?  
「――ねぇ、でもさいごの歌は、いっしょに歌おうよ」  
「っ? な、なんで? ぼく、いなくなるし」  
「ハトはね、みんなに平和をあげるんだもん。仲間はずれなんて、作らないんだよ」  
「だ、だって、お話じゃ……」  
真意が理解できず、混乱する僕に、  
「たかだくん、あれ」  
彼女は笑顔のまま、壁際の窓の向こうを指さして見せた。  
 
つられて視線をやると、外の木の枝に、黒い鳥が留まって、呑気に毛繕いをしていた。  
街中でもどこでも、普通に見かける鳥。  
「カラス? ――あ」  
「ね? カラスはいっぱいいるよね」  
しんでなんかいないんだよ。きっと、みんなといっしょに新しい陸について、子供をいっぱい生んで、幸せにくらしたんだよ――。  
そう語る彼女は、明るい確信に満ちていて、まるで神さまの言葉を聞いた人みたいに――それこそノアや、  
先生のお話に出てくる「聖人さま」みたいに感じられた。  
 
何の事は無い。  
僕がカラスに入れ込んでいたのと同じくらい――いやそれ以上に、彼女はハトを信頼していた。  
皆を救う筈のハトが――あるいは、神が――愛の与え惜しみなんてする筈がないと、強く信じていたのだ。  
「わたしもね――だれもカラスを助けてくれないの、おかしいなって思ってたから」  
たかだくんがやさしい人で、わたしうれしいな――。  
嬉しくて、恥ずかしくて――体中がカッカと熱く、でも背筋はツンと冷たいような――妙な興奮の中で、僕は打ちのめされた。  
「ぼく……でも」  
「だいじょぶだよ」  
言って、彼女は僕を覗き込んだ。  
すぐそばに黒い瞳があって、僕は頭の中が、ぼうっと白くなり――。  
「たかだくんは悪くないよ。やさしいだけ。……わたし、やさしい人、すきだよ」  
そして、僕の手は、暖かくて、柔らかい物に繋がれた。  
まるで夢の中のようで、その感触は、はっきりと思い出せない。  
 
――「れんしゅうしよ?」「いっしょにセンセイとお話しよ」「わたしがいっしょにいるよ」――。  
 
翌日、本番の舞台で、僕は彼女の隣で歌った。  
下手な歌だった。  
今でも、僕は音楽には、さっぱり才能がない。  
まして子供の頃で、全然練習してなかった歌だ。形にすらなってなかったと思う。  
反対に、隣で聞く彼女の歌は、高く澄んでいて、本当に天国まで届いてゆきそうな歌声だった。  
さすがに恥ずかしかった。  
僕の歌声はサビにたどり着く前から、風船がしぼむように、どんどん小さくなっていった。  
 
――右手が柔らかい温もりに包まれたのは、ちょうど最後のサビに入る前だった。  
隣の彼女は、横目で僕に笑いかけながら、自分の声を落として、僕の歌声の先を導いてくれた。  
 
気が付くと、上演は終わっていた。  
 
この日から、僕達はよく話をするようになった。  
『幼馴染』という関係を始めたのは、この時以来だったのだろうと――そう、思う。  
 
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