拝啓  
 永遠に続くのでは、と思われた猛暑も鳴りを潜め、途端に過ごしやすくなった今日この頃。如何お過ごしでしょうか。  
 四年前、貴女が引っ越して以来、僕からは初めての手紙となるのでしょう。貴女からは幾通も送ってくれたにも関わらず、それを黙殺し返事を寄越さな  
かったこと、誠に申し訳なく思います。今更どの面を下げて送ってきたと思われるでしょうが、どうか、最後まで読んで頂ければ幸いです。  
 さて、此度の手紙の主題としては、まあ、すでに察しているではあろうと思いますが、例の件に関することです。ただ、早速その話題に入るには、少しば  
かり僕の度胸が足りませんので、回想でお茶を濁したいと思います。御存じの様に、僕は全てを先延ばしにする悪癖があるのです。  
 僕と貴女の出会いは、いつになるのでしょう。物心ついた時には既に一緒に居ましたから、あまり良く分かりません。母曰く、「あんたら二人が初めて会  
ったのは産婦人科の病院」だそうです。ただ、母の趣味は息子に嘘を吹き込むことですから、真偽のほどは定かではありません。はっきりとした記憶となる  
と、僕の場合は六歳の頃に行った、あの旅行です。  
 どこかの温泉街で、そこまで遠くなかったことを鑑みるに、多分箱根や小田原の辺りでしょう。そこらじゅうから立ち上る湯けむりと、硫黄の匂いを覚え  
ています。旅館に泊まったのですが、二家族分ということもあり畳敷きの妙に広い大部屋でしたね。折角広いんだから有効活用しようということで各自布団  
を大きく離して寝たのですが、日頃くっついて寝てるもんだから中々怖くて眠れませんでした。それでも眠らなきゃ眠らなきゃと思い、じっとして目を閉じ  
ていると、あなたが僕の布団に潜り込んできました。多分僕と同じように怖かったのだとは思うのですが、普通、そういう時は親の布団に潜り込むものでし  
ょう。それにしても、このころはこんなにも素直だったのですね。今ではとても考えられない。時の流れとは残酷なものです。  
 ――そういえば、こんなこともありましたね。射的屋で遊んでいたとき、僕はキャラメルやら飴玉やらを数個落としていたのに、貴女は何も落せていませ  
んでした。僕がそれをからかった所、店を出てから貴女は僕を湧き出ている温泉に突き落としましたね。知っていますか? ああいった路上にある温泉は、  
人が入ることを考慮していないため相当に熱いのです。僕はあの時初めて知りました。今でも少し根に持っています。  
 
 次の貴女との思い出となると、少し飛んで小学三年生の頃の運動会を思い出します。  
 僕と貴女は運動会で二人三脚に出場することになり、放課後を利用し近所の公園で練習していました。練習の際は、貴女がほとんど全力と言って良いレベ  
ルで走るので、中々合わせられずに困りました。僕は、二人の足が揃わなければむしろ遅くなるだけだ、と主張したのですが、貴女は、そんなことは知らな  
い合わせられないあんたが悪い、と理不尽極まりない理論を展開しましたね。強弁にもほどがあるとは思いますが、生憎当時の僕に反論する度胸はありませ  
んでした。今もありませんが。そんなわけで、全力疾走する貴女に対して僕は必死で歩調を合わせたのです。あの時期は女の子の方が体も大きく往々にして  
身体能力でも男を上回りました。それでもどうにか合わせたのだから中々頑張った。当時の僕に心からの拍手喝采を贈りたいと思います。  
 そんなこんなで迎えた運動会当日。二人の走順は三番目。リレー形式で、先達からバトンを受け取りました。練習の成果でしょう、素晴らしい速度で、他  
の組を次々に追い抜きました。これはもしかしたら一気に一位に躍り出るんじゃないか、そう思ったのですが――一つ誤算があった。二人三脚は、片道三十  
メートルを走り、その後コーンを回って再び三十メートルを戻る、と言うものでした。しかし、二人は直線の練習しかしてこなかった。例え普通の徒競走だ  
としても、カーブでは速度が多少落ちるでしょう。Uターンなら尚更です。しかし貴女は、全く速度を緩めずにほぼトップスピードのまま回ろうとしました  
しかし、僕は速度を緩める。――すると、貴女はとんでもない勢いで前に傾き、そして、頭から転倒しました。そりゃあもう、あれは凄かった。僕は急い  
で足首の紐をほどき、駆け寄ると、どうにか頭は守ったようですが手首と足首を怪我をしたようで。そんな状態にもかかわらず貴女は前へ進もうとしました。  
僕は放棄するつもりでしたがそうもいかず、結局あなたをおんぶして歩き、バトンを回しました。  
 一時はトップだったものの、あっというまに最下位になり、そのまま順位を上げることなく二人三脚は終了しました。貴女は体育座りのままずっと俯いて  
いるので、どうしたのかと思ったら、なんと、泣いていたのです。いや、あんな状況だったのだから泣いてもおかしくないとは思いますが、天真爛漫でどん  
な時でも気丈に振る舞う貴女、あるいは傍若無人に振る舞う貴女しか知らなかったから、余計に驚いたのです。多分、後にも先にも貴女が泣いた姿を見たの  
はこの一度きりだったと思います。これは格好良く慰めるところだろう、と思い声を掛けると貴女はひたすら嗚咽交じりに、私のせいでごめんなさい、と繰  
り返すもんだから冗談でなく死ぬほど驚きました。あまりに驚いたもんだから何を言って慰めたのか覚えていません。多分、ろくなことは言っていなかった  
でしょう。結局、先生に背負われて保健室へと行く貴女を目で追っていました。我ながらあの時の僕は惨めだった。今なら多少はマシでしょうから、出来る  
ことならあの頃に戻って声をかけてあげたいです。  
 ――少々、好き勝手に書き散らし過ぎてしまったかもしれません。あまりの長文を送りつけられても迷惑でしょうから、今回はこれぐらいに留めておきた  
いと思います。  
 例の件に触れたくないから先延ばしにしてるだけでしょ、という貴女の声が聞こえたような気がしますが、気のせいでしょう。  
 今は過ごしやすい気候ですが、寒さに震えるようになるのも、きっと、あっという間でしょう。お体には十分にお気を付け下さい。  
 敬具  
 
とある平成の長月に  
先延ばし男より 強弁娘へ  
 
 

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