【保育園】  
 引っ込み思案で臆病で無口な私は、昔から友達作りが下手でした。  
 園内の運動場で遊ぶ時間になっても同じ組の子にどう声を掛ければいいかわからず、逆に誰かに声を掛けられても  
何も答えることができず、最後はどの子も痺れを切らせて他の子と遊びに行ってしまいました。  
 だから私はみんなが遊んでいるその時間、園の隅っこでじっと草花を眺めて過ごしていました。  
 別に植物に興味があったわけではなく、顔を上げてみんなが遊んでいる姿が視界に入ってしまうのが嫌で、  
しゃがみこんで俯いて、ひたすら時間が過ぎるのを待っていました。  
 
 だけどいくら目を逸らしても、皆の声が聞こえてきました。  
 一生懸命見ないようにしているのに、楽しそうな笑い声が絶えず聞こえてきました。  
 孤独で、惨めでした。近くで声が聞こえるのに自分だけが世界に取り残されているような気がしました。  
 そう思っていると、涙が溢れてきました。しゃがんで俯いて声を殺しながら、私は泣きました。  
 泣き虫なくせに泣いているところを人に見せないようにするのが、私の昔からのクセでした。  
 
「あ、イナバちゃんみっけ!」  
 そんな時、突然大きな声で名前を呼ばれ、私はビクリとして顔を上げました。  
 見ると、同じ組の男の子が私を指差して嬉しそうにしていました。  
「これでみんなみつけたからねー! つぎのおにはタローくーん!」  
 私が呆気に取られている間に、男の子はクルリと振り返って声を張り上げました。  
 その先では他の園児達が手を振ったり好き勝手に喚いたりしていました。  
「イナバちゃん、かくれよう!」  
 男の子はまたこっちに向き直ると、私の手を握って走りだしました。  
 私は何が何だかわからないまま彼に手を引かれ、気付けば二人して茂みの中に身を潜めていました。  
「ここね、ぜったいみつからないよ」  
 すぐ隣で彼がこっちを見て自信満々といった表情を浮かべてきました。  
 どうやらかくれんぼをしているらしいことと、彼が私をかくれんぼ仲間と勘違いしていることはわかりました。  
 勘違いであることを伝えるべきか悩んでいると、彼はふと不思議そうな表情に変わり、こっちの目をまっすぐに覗き込んできました。  
「イナバちゃん、めがあかい。ないてたの?」  
 ドキリとして、思わず顔を反らしてしまいました。泣いてなんかいないと言おうとしましたが、ここでも口が回らず  
私は黙り込んでしまいました。  
 すると彼はそれ以上何も聞かず、そっと私の頭を撫でてくれました。小さくて、温かくて、優しい手でした。  
 
「いたいのなおった?」  
 しばらくして、彼はそう尋ねてきました。その時彼は、私がどこか痛くて泣いていると思ったようでした。  
 色々と勘違いされてはいたものの、私の中にあった「いたみ」は確かに彼の手の平で掻き消されていたのでした。  
 私がぎこちなく頷くと、彼は満面の笑みで「よかったね」と言ってくれました。  
 思えば、この時から私はその笑顔が大好きで、彼の笑顔に何度も救われていたのでした。  
 
 その後、彼が私の手を引きみんなの輪の中に自然に入れてくれて、楽しく遊ぶことができました。  
 
 
 ――これが、私と彼との、最初の想い出でした。  
 
 
【小学生】  
 白兎(しらと)イナバという自分の氏名を、漢字でもある程度綺麗に書けるようになったぐらいの頃でした。  
 その日は台風の時期でもないのに激しい雨と風が私のいる地区を襲いました。  
 学校からは臨時の帰宅指示が出て、私は家で母の帰りを待っていました。  
 
 私の父は私が生まれて間もなく病死し、母が一人で働きながら私を育ててくれていました。  
 この日も母は働きに出ており、しばらく帰らないことは予測できていたので、私は部屋でじっと母の帰りを待っていました。  
 雨も風も時間が経つにつれて更に勢いを増し、日が落ちて外が暗くなる頃には荒れ狂うような暴風雨になっていました。  
 その上、時々窓の外が白く光り、間を空けて雷が何度となく落ちていました。  
 私は変に耳が良いせいか、雷や破裂音といった突然聞こえて来る大きな音が苦手で、雷が落ちる度にビクビクしていました。  
 少しでも気を紛らわせる為に、テレビの音量を大きくしたり好きな歌を口ずさんだりして、どうにか外の音をごまかしていました。  
 
 ちょうど見ていたクイズ番組で正解が発表されようとした時でした。  
 一瞬、目の前でフラッシュをたかれたような強い光で視界が真っ白になったかと思うと、直後、鼓膜が破れそうな轟音が響き渡り、  
私が悲鳴を上げたかどうかというタイミングでぶっつりと目の前が真っ暗になりました。近くで雷が落ちたようでした。  
 照明もテレビも窓の外の街灯も、周囲の全ての光が一斉に失われ、辺りは完全に闇に包まれていました。  
 私はあまりの恐怖に叫ぶことすらできず、呼吸すら忘れてしまいそうなほど怯え続けました。  
 誰もいない、何も見えない。聞こえて来るのは叩きつける豪雨と吹きすさぶ強風と家がギシギシと軋む音だけ。  
 真っ暗な空間で聴覚が研ぎ澄まされたのか、そうした音がより一層激しくなったように聞こえ、私の恐怖を増々煽りました。  
 怖くて、怖くて、怖くて、私はそこから一歩も動けずうずくまり、その時も声を殺して泣きました。  
 泣きながら震える身体を抱え込んで、誰もいない家の中で必死に恐怖に耐えながら、それでも心では訴えていました。  
 助けて、誰か助けて、誰か。怖い、怖い、一人は怖い、と。  
 
 そんな時、声が聞こえました。  
 相変わらず雨も風も凄い勢いで、他の音なんて聞こえてくるはずがないのに、その時の私には確かに聞こえたのです。  
 玄関のドアの外から私の名前を呼ぶ、聞き馴れた声。私は衝動的に動き出していました。  
 真っ暗闇の中を這いずるようにしながら、声のした方に向かって必死に進みました。  
 途中で何度も腕や頭を机やら棚やらにぶつけ、痛みがジンジン広がっていましたが、それでもただただ玄関を目差して行きました。  
 そして辿り着いた先で鍵を回してドアを開けて、猛り狂う暴風雨の中、そこに立っている彼を見つけました。  
「イナバ、平気?」  
 その声はどこか陽気で、とてもこの天気の中を歩いてきたとは思えませんでした。ご近所とは言え、彼の家から私の家まで  
それなりの距離はあるはずなのに。  
 だけど実際、彼はやって来たのです。明かりもない道を、着ているカッパの内側も長靴の中もずぶ濡れで、吹き飛ばされないよう  
必死にドアにしがみついて。  
 私は急いで彼を家の中に入れ、ドアを閉めました。彼の方を振り返ると、暗闇の中、彼は私を見てにっこり笑っているようでした。  
 私の大好きな、あの優しい笑顔でした。  
 そして彼は水を吸った服を重そうに引きずって一歩私に近付くと、腕を伸ばして私の頭を撫でてくれました。  
「イナバ、泣いてた?」  
 ……泣いてない。そう言おうとしましたが、雨に濡れた彼の手がとても冷たくて、それなのにその手はすごくすごく温かくて、  
言葉の代わりに涙が溢れてきました。  
 嗚咽しながら延々ボロボロと涙を流す私を、彼は泣き止むまでずっと頭を撫でて慰めてくれました。  
 
 しばらくして目が真っ赤になるまで泣いた私は、彼にお礼をいい、手探りで見つけ出した毛布を彼に渡しました。  
 それから二人でソファに寄り添い、二人でハチャメチャな歌を歌ったりして、笑って、母が帰って来る頃には二人してぐっすり  
眠っていました。  
 
 ――後日聞いた話では、彼は自分の家に戻った後、彼のお母さんに相当叱られたそうです。  
 彼も私と同じく早くにお父さんを亡くしていて、彼のお母さんにとって彼は唯一の大事な家族です。  
 そんな一人息子が仕事から戻ってきたらいなくなっていたのですから、彼のお母さんには本当に心配を掛けたに違いありません。  
 ……と思ったら、別にそんなことはなく、彼のお母さんは彼が私の家に行ったであろうことは、すぐにわかったそうです。  
 彼が叱られた理由は家にいなかったことではなく、自分の家のドアを開け放しで出ていき、玄関を雨と風でぐちゃぐちゃにした  
ことだったということでした。  
 
 彼はその話をふて腐れながら話していましたが、私はそれを聞きながら内心嬉しく思っていました。  
 だって、彼はドアを閉め忘れるぐらい急いで私の家に駆け付けてくれたということですから。  
 そう思うとなんだか熱くなってきてしまう頬を、私は彼に気付かれないようそっと両手で覆い隠しました。  
 
 
【中学生】  
 彼が家を飛び出したと、電話で彼のお母さんから連絡を受けたのは、風が冷たく感じられるようになった秋の夜でした。  
 
 電話を切ってすぐに彼を捜しに外に出て、昔よく遊んだ公園の隅っこに座り月を見上げる彼を見つけました。  
 その日は満月で、夜でも彼の表情がよくわかるぐらい月明かりが綺麗に挿していました。  
「やっぱ、イナバには見つかっちゃうか」  
 彼は私に気付くと、顔をこちらに向けてごめんなと謝りながら、またいつものように笑おうとしていました。  
 ですがその笑顔はとても苦しそうで、私は胸がズキリと痛むのを感じていました。  
 彼はそんな顔を見られたくなかったのか、すぐに私から目を逸らし、再び月に視線を向けてしまいました。  
 私は黙って彼の隣まで歩き、そっと地面に腰を下ろしました。ひやりとした感触と懐かしい土の匂いがしました。  
   
「今日、母さんに結婚を考えてるって言われた」  
 しばらくして、空を見つめたままぽつりと言った彼の言葉に、実のところ私はあまり驚きませんでした。  
 数年前から彼のお母さんにお付き合いしている人がいることは母から聞いて知っていたからです。  
 彼も何度か相手の方には会っていて、彼とその方とお母さんの三人で食事に行ったりしていたようでした。  
「向こうはすごくいい人なんだ。その人が父親になるなら全然文句なんてないってぐらい。でも……」  
 ぐっと言葉を詰まらせてから、彼は絞り出すように言葉を続けました。  
「母さんとその人が一緒にいると、何か……何か、俺、自分がその場にいない方がいいような気がして、居辛くなるんだ。  
 二人が俺のこと邪魔に思ってるとかそんな感じは全然無いのに、俺が勝手に居場所をなくしてる。……ガキだよな。  
 で、母さんに結婚のこと切り出されて、そしたら異様に怖くなって……逃げた」  
 
 ショックでした。彼の行動がではなく、そんな彼の気持ちをずっと見逃し続けていたことが。  
 その時の彼の姿は、まるで昔の私を見ているようでした。独り取り残されて、うずくまって、泣いている私。  
 彼なら、そんな時には必ず私のところに来て、助けてくれていたのです。  
 いつから私は、彼に助けられる自分を当たり前のように考えていたのでしょうか。  
 いつから私は、彼が自分と同じように孤独を怖がる人間だと考えないようになっていたのでしょうか。  
 寂しがり屋のウサギが私だけだなんて、どうして思っていたのでしょうか。  
 今、目の前にいる私の大好きな人が、寂しさでこんなにも押しつぶされそうになっていたのに。  
 
「イナバ、大丈夫か?」  
 俯いている私を心配して彼が私の顔を覗き込もうとしてきました。  
 こんな時まで私に気遣ってくれるその優しさが辛くて、愛しくて、私は思わず彼の頭を抱きしめました。  
「お、おい、イナ……」  
 彼の戸惑った声を無視して、私は彼の頭をぐっと腕の中に抱えこみました。  
 いつも彼が私の頭を撫でてくれたように。少しでも彼の寂しさが紛れてくれるように。  
「…………イナバ、泣いてるのか?」  
 泣いてない、そう言おうとしましたが、もしかしたらやっぱり私は泣いていたのかもしれません。  
 だけど、彼の声もどこか掠れていて、泣いているようでした。  
 私達はお互いに泣いているのをごまかして、寄り添って、暖かいねと言って、少しだけ笑いました。  
 
「俺、イナバに頼りっぱなしだな」  
 公園からの帰り道、彼のつぶやいた言葉に私は割と真面目に彼の正気を疑いました。  
 だって、いつだって頼るのは私の方で、私が彼に頼られた覚えなんてまったくありませんでした。  
「いや、頼るっつーか、何だろ? 昔から一人でいると、イナバの顔見たいなぁって思っちゃうんだよ」  
 …………それは。  
「だから今日もイナバだったら見つけてくれるかな、とかどっかで思ってて、実際見つけてもらえて……嬉しかった」  
 それは、いったい……だから、つまり……。私の頭は混乱して、何て言えばいいのかわからなくなっていました。  
「あ! いや、別に何か返事を期待してるとかそういうんじゃなくて!」  
 私が困っていると思ったのか、彼は慌てたように言い繕い、恥ずかしそうに頭を掻きました。  
「つか、さっきまで自分の家の事で悩んでたってのに、何言ってんだ俺! ごめん、ナシ! 今のナシ!!」  
 彼があまりにワタワタしているので、私は口を押さえて笑いました。  
 その様子に彼は「まいったな……」と一人ごちて、それから真剣な表情にで私を見つめました。  
「あのさ、今はまだ俺、精神的に色々ごちゃごちゃしちゃってて、こういう気持ちが何なのかちゃんと考えられてないんだけど」  
 彼は咳払いを一つして、そして力強く言いました。  
「もう少し家のこととかすっきりしたら、イナバに聞いてほしいことがある」  
 
 
 ――その後、彼から申し出があって私が返事をして、互いの関係が変わるのはもう少しだけ先になりました。  
 
 
【高校生】  
 その時が訪れたのは、卒業を間近に控えた、高校生活最後となる彼の誕生日でした。  
 ……お互い、そういうことに関心がなかったわけではないと思います。  
 ただ、小さい頃から近くに居すぎたことで、私達はいわゆる一線を越えるタイミングを図りかねていました。  
 時々キスをすることはあっても、それ以上となると二の足を踏んでしまう、まだ臆病な間柄でした。  
 だけど、卒業が迫っていました。卒業後、彼は少し離れた公立大学に通う為に一人暮らしをすることが決まっていました。  
 対して私は地元で就職。これまでのように毎日顔を合わせられなくなることは必然でした。  
 そうした中で日々募っていく未来への不安と寂しさが、不確かな愛情を確かめ合うきっかけになったのかもしれません。  
 
「……今日、泊まっていかないか?」  
 彼の部屋で誕生日祝いのケーキを食べ終え、ふとした沈黙が訪れた後、彼は切り出しました。  
 この日は私の母も彼の両親も町内会の旅行で次の日の夜まで帰らないこともわかっていました。  
 後になって思えば、あれは大人達が画策してその日が旅行になるように仕向けていた気もしますが。  
 とにかくお膳立てはできており、私も心の準備はしてきたつもりでした。……一応、替えの下着の準備も。  
 それでも破裂しそうなぐらいドキドキしている鼓動が彼に聞こえないよう身体をギュッと縮め、私は小さく頷きました。  
 
 初心者同士の行為は、想像以上の悪戦苦闘ぶりでした。  
 私にも多少知識はありましたが、実践でその知識を思い出す冷静さはまるでありませんでした。  
 それよりも発育の悪い自分の裸を彼に曝している羞恥心や、初めてはものすごく痛いという友人の有り難くない助言による恐怖心で私はガチガチになってしまい、頭の中も完全に真っ白になっていました。  
 彼は私の緊張を少しでもほぐそうとゆっくりゆっくり丁寧に私のカラダに触れてくれました。  
 それでも意識が張り詰めてしまった私は、彼が望んでいるような反応を返せずにいました。  
 状況が変わらないまま時間だけが過ぎていき、焦れば焦るほど快感と呼べるものから遠ざかっていくようでした。  
 彼が汗だくになって私を気持ち良くしようと頑張っているのが伝わる分、申し訳なさが広がっていきました。  
 ごめんなさい、と思わず呟いてしまった私の声に彼が気付き、上から顔を覗き込んできました。  
「バカ、謝んなよ。好きな人から大事なものもらうんだから、努力すんのは当たり前だろ?」  
 小さく笑ってから彼は唇を重ねてきました。私の心を解きほぐすような優しく、深い口づけでした。  
 
 舌の絡み合う音をフワフワした頭で聞いている間に、彼の手が私の頬をそっと撫でました。  
 その手がそのまま私の髪をかき分け、私の耳を軽く摘んだ瞬間、私の背中がビクンと跳ね上がりました。  
「え……あれ? イナバ、今の……」  
 彼にとっても予想外の反応だったのでしょうが、私自身はそれ以上に驚いていました。  
 彼の指が耳に触れただけで、未知の感覚が微弱な電気のように私のカラダに走ったのです。  
 つまりそれは、耳が私の……。それに気付いた途端、私は全身がカァッと熱くなり、咄嗟に耳を防ごうとしました。  
 ですがその腕は彼に押さえられてしまいました。彼も当然私の態度が意味するところに気付いていたのです。  
 彼がちょっとだけイジワルな笑みを浮かべ、私の耳たぶを舌と歯で挟みこむように噛み付きました。  
 さっきより更に激しく背中が反り返り、自分から出たとは思えないような大きく甲高い声が漏れました。  
「イナバ、すっごく可愛い」  
 耳元で言う彼の息が触れただけでゾクゾクする感覚に耐え切れず変な声が出てしまいました。  
 水を得たとばかりに彼の集中攻撃が始まり、私は両方の耳をたっぷりと弄ばれました。  
 最初こそ抵抗していた私も徐々にその感覚を受け入れ、身を任せるようになっていきました。  
 私の緊張が薄まったからか、さっきは触られても何ともなかった他の部分でも指が軽く這うだけで身体が敏感に反応しました。  
 恥ずかしさも怖さもまだまだありましたが、それでもこれが気持ちいいってことなんだと実感していました。  
 
「……つ、あ」  
 充分に前準備を行い、私の方もそれなりに受入態勢を整えられたと思っていましたが、認識が甘すぎました。  
 ゼリー付きのやつだから少しは入りやすいと思う、と彼は言っていましたがほとんど気休めにもなっていなかったと思います。  
 少し前まで僅かにあった快感は激痛にあっさり吹き飛ばされ、シーツを必死に掴んで痛みに耐えました。  
 彼も私の中が狭すぎて痛いのか、苦痛に顔を歪めながら少しずつ奥へと突き進めていました。  
 長い時間をかけて彼のが私の中に全て埋まった時、私の顔は涙でグチャグチャになっていました。  
 彼はそんな私を強く抱きしめて、頭を何度も何度も撫でてくれました。  
「ごめんな、ごめんなイナバ。泣かせてごめん」  
 彼の謝罪に私は首を振って否定し、動いていいよと無理やり笑顔を作って言いました。  
 それでも彼は私の痛みが和らぐのをしばらく待ってから「動くぞ」と断ってから腰を動かし始めました。  
 彼が動く度に傷口をえぐられるような痛みに襲われ、つい叫んでしまいそうになりました。  
 それを防ぐ為に彼の頭に一生懸命手を伸ばして引き寄せ、押し付けるように唇を塞ぎました。  
 彼も応えるように激しいキスをして、少しでも私の意識を痛みから遠ざけようとしてくれているようでした。  
 彼の動きが段々と速くなり呼吸も荒くなってくると、更に私を強く抱きしめました。  
「く……っ、イナ、バ! 好きだ! 愛してる!」  
 絞り出すような彼の叫びに、私も何度も頷いてぎゅっと抱擁を返しました。  
 最後にぐっと強い突きが最奥まで突き立てられ、私の中で彼のがビクビクと断続的に震えているのがわかりました。  
 彼が私の身体で気持ち良くなってくれた。そのことに、私はこれ以上ない幸福を感じていました。  
 
「ありがとな」  
 二人でベッドに横になり、彼が私の髪を撫でながらお礼を言いました。  
 私は何か返事をしようとしましたが、急激な眠気に襲われてそのまま意識が落ちてしまいました。  
 
 
 目覚めると、私の左手の薬指に指輪がはめられていました。気付いた私が呆然としていると、  
「悪いけど、ダイヤじゃないからな」  
 と彼が照れ隠しなのかぶっきらぼうに言いました。  
「まぁ、お守りっつーか虫よけっつーか……予約の前予約みたいなもん、かなぁ?」  
 彼はうまく言えないらしく、もどかしそうに頭を掻いていました。  
 だけどもう言葉なんていりませんでした。この指輪がある。それだけで充分でした。  
 それだけで、この先彼と離れる寂しさも不安もきっと乗り越えていける。  
 きっと……きっと……。  
 私が涙を浮かべながら笑うと、彼も優しく微笑んで、そして言いました。  
 
「いつか、本物を渡すよ」  
 
 
――それは、私達の未来を照らす、永遠の言葉でした。  
 
 
【それから……】  
「ただいまー」  
 あ、彼が帰ってきました。昔のアルバムを見ていたらそれなりにいい時間になっていたようです。  
 廊下に出て、玄関で靴を脱ぐスーツ姿の彼にお帰りなさいと声を掛けます。  
 すると彼はそわそわした様子で私の前まで歩いて来ると、私の耳元に顔を寄せて小声で尋ねてきました。  
「病院、どうだった?」  
 今日は病院に行くと言ってあったので、彼も気になっていたようです。  
 私は何となく口に出すのが恥ずかしくて、代わりに自分の下腹部に軽く触れながらこくりと頷きました。  
 ……先生の話では10週目に入っているということでした。  
 
「うわぁ、うっわあぁ……」  
 彼の顔がぱぁっと明るくなり、私はぎゅっと抱きしめられました。だけどちゃんとお腹を庇って強さを加減されているようでした。  
「おめでとう! おめでとうイナバ!」  
 子供のように全力で喜ぶ彼に私は思わず吹き出してしまいました。  
 そんな私の様子が不満なのか、彼は少し赤面して唇を尖らせます。  
「何だよイナバ、笑うなよ。俺だけ大はしゃぎしてるみたいで恥ずかしいだろ」  
 いえ、もちろん私も嬉しいのは間違いないのです。でも、  
 
「あ、お父さんお帰りぃ〜!」  
「おぉしゃん、おかりぃ」  
「あぅ〜、あぃ〜」  
 ……でも、もう四人目なのに、まるで初めての子のように喜ぶあなたが可愛く見えたのです。  
 
 彼は足元にしがみついてくる子供達をあやしながらも、まだ子供が出来たことへの興奮が冷めていないようでした。  
「これで子供らだけでダブルスとかできちゃうなぁ。いっそ野球チーム作れるレベルを目指すか!?」  
 目差しません、と適当にあしらっていると、ふと彼が玄関に並んだ他の靴に気付きました。  
「あれ、父さんと母さん来てるんだ? もしかしてお義母さんも?」  
 私は頷いて、三人が客間にいることを伝えました。  
 病院に行っている間、子供達の面倒を母と彼の両親に見てもらっていたのです。  
「お父さん。あのねー、おじいちゃんにおかしもらったー」  
「もやったー!」  
「うー」  
 子供達の報告に彼は「なにぃ?」とわざとらしく驚き、怖い笑顔をしてみせます。  
「まーた父さんは。虫歯になるから勝手にやんなっつってんのに」  
 お義父さんのことを話す彼は何だか楽しげで、昔の陰はもう感じられません。  
 時々二人でお酒を飲んだり、他愛のない親子ゲンカを当たり前にできるようになっていました。  
「よっしゃ、お前ら今からおじいちゃんとこに突撃すんぞー!」  
 彼に追い立てられ、子供達はキャーキャー叫びながら彼と一緒に客間に走り込んでいきます。  
 
 私はその後ろを見送って一人玄関に残り、みんなの声をそっと聞いていました。  
 騒がしく、賑やかで、楽しそうな、私の家族の声。私の幸せの声。  
 お腹の中にいるこの子にも聞こえているでしょうか? 私がどれ程満たされているか、伝わっているでしょうか?  
 
「イナバ、冷えるからお前もこっちに……イナバ?」  
 私を呼びにきた彼が何かに驚き、私の顔をぐっと正面から見つめてきます。  
「イナバ、泣いてるのか?」  
 さっきまで昔の事を思い出していたからか、妊娠で気持ちが昂ぶっていたからなのかはわかりません。  
 ただ、私はいつの間にか涙をこぼしていました。それは、とてもあたたかい涙でした。  
 そんな私に彼はあの頃と変わらない優しい笑顔を浮かべ、ポンと頭に手を置いてくれました。  
 彼のてのひらの温もりもずっと変わりません。これからも、ずっと。  
 私は泣きながら、それでも笑って、目一杯笑って、言いました。  
 
「ううん、泣いてない」  
 
 
 ――きっと私の話はあまりに平凡で、ありふれていて、「むかし、むかし」で始まるような人に聞かせる物語ではありません。  
 だからこれは寂しがり屋で臆病な私の、あまりに平凡で、ありふれていて、そして、とても幸せな、  
 うさぎ、うさぎの物語です。  
 
おわり  
 

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