あれから、はるか先生の行方は知れなかった。  
学校を辞めたあと、どこへ行ったのかも、個人情報の保護とかいうのが邪魔して俺には教えて  
もらえなかった。  
 
俺は、完全に彼女を見失った。  
どうしようもない、自分のせいだ。  
嫉妬に狂って、彼女を穢した。  
彼女の身も心も、滅茶苦茶に傷つけた。  
せめて彼女の前に手をついて謝りたくとも、彼女はそれすら許さなかった。  
もう、彼女はいない。  
保健室には新しい養護教諭が入り、学校から彼女の残り香は消え去った。  
 
 
心の中にぽっかりと開いた穴を埋めるように、俺は勉強に打ち込んだ。  
他に何も知らなかったし、他に何もなかった。  
そして彼女もそれは望んでいるような気がしたのだ。  
『もう3年の夏なんだから、勉強しないと』  
そう繰り返す彼女の優しげな声は、穢されることなく俺の中にあった。  
 
縋るものは、もうそれしかなかった。  
あまりにも幼く、あまりにも馬鹿で、あまりにも無力だった俺。  
自分を変えたい。  
いつかまた、大切なものが出来たときに、傷つけずに済むように。  
ちゃんと守って、優しくしてやれるように。  
その想いだけが、俺を支え続けた。  
 
 
     *     *  
 
そして何年もの時が過ぎ、大学も卒業して社会人になった。  
その間に何人かの女性と付き合ってみたが、誰にも本気になれず、長続きはしなかった。  
大切で、大事で、大好きだった女に、結局は酷いことをしてしまったと言う記憶が、他人に  
踏み込むことを躊躇わせた。  
彼女──はるか先生のことは、ずっと探し続けていた。  
けれど、今日職員名簿からも名前を消してしまった彼女の行方は分からなかった。  
あの頃、彼女が住んでいたという住所も、何度か訪ねてみた。そこには、見知らぬ他人が、  
全く別の生活をしていただけだったけれど。  
 
俺は彼女のことを、何一つ知りはしなかった。  
どこで生まれ、どうやって生き、どんな風に大人になり、誰を心の中に住まわせていたのか。  
ただ彼女が俺に共感を寄せてくれて、味方になってくれたことに有頂天になって、彼女に依存した。  
彼女の事情など、知ろうともしなかった。いや、いずれ彼女の方から、教えてくれるだろうと  
のんきに構えていた。  
そして棄てられそうなって焦り、子供のように駄々をこねた。  
 
逢いたかった。  
もうとっくにあのときの男と幸せな家庭を築いていて、俺なんかと会う気はないのだとしても。  
懺悔したかった。謝りたかった。償いを、させて欲しかった。  
 
雑踏の中、雰囲気の似た人と擦れ違うと、追いかけずにはいられなかった。  
彼女と同じ姓を、同じ名前を、いろんなところで探した。  
外回りの多い営業職を希望したのも、そのせいだ。  
 
はるか先生──  
ねえ、どこにいるの。  
俺をまだ、憎んでいる?  
 
 
     *     *  
 
 
そして唐突に、彼女の消息がもたらされることになる。  
就職2年目の、夏のクラス会。  
久しぶりに会った同級生の一人が、彼女に偶然に会ったというのだ。  
「お互い、久しぶりー、って言ってね。今は、先生はしてないんだってさ。」  
同級生の女の子は、女同士の気安さで、あっさりとはるか先生とアドレス交換をしていた。勿論住所も。  
俺は震える手で携帯を操作した。  
S市。それほど離れていない。  
そんなところに暮らしていたのか。  
俺はすぐさま休みを取って、S市に向かった。  
 
 
駅を下りるともう、緊張で心臓が破裂しそうだった。  
この街のどこかに、彼女がいる。  
そう思うだけで、足が震える。  
突然俺が会いに行ったら、どんな顔をするのだろう。  
嫌悪か、怒りか、軽蔑か。  
いま彼女が幸せなら、波風を立てるつもりはないけれど。  
それでも、どんな反応をされても、彼女に逢って過去を清算しない限り、俺はもう一歩も前に  
進めないんだ。  
 
昼過ぎに駅について、炎天下、やっとの思いで目的の住所を探し当てた。  
表札には繁谷遥、と彼女の名前。  
そしてその横には──男の名。  
また緊張で、吐きそうになる。  
予想できたことだ。別に彼女が結婚していたって、会わなきゃ駄目なんだ。  
もう逃げない、過去の自分から。  
 
それから待った。体が石になりそうなくらい、待った。  
いっそのこと石になってしまえばいいのにと思った。そうして俺の想いだけを、彼女に届けられれば  
いいのに。  
いつしか夕暮れ時になり、家路を辿る子供の声が聞こえ始める。きゃあきゃあと甲高い、楽しげな声。  
「よーしトモくん、玄関まで競争だ!!」  
そしてその母親らしき人の声。  
矢のように走ってくる小さな男の子。俺の待つ部屋のドアにぶつかるようにして手をつき、叫ぶ。  
「いっちばーん! 勝った勝った!! おかあさーん、はやくー!!」  
俺の前で、足を止める人影。俺を見て目を見開く。  
 
「……はるか先生。」  
彼女は言葉を探すように、くるくると瞳を動かした。やばい。想像してたよりずっと可愛い。  
髪はあのときより短く切って、ゆるくウェーブのかかった髪が彼女の動きにあわせて揺れる。  
何よりその表情が、記憶にあるよりずっと生き生きして、弾けるように明るい。  
むしろあの頃より、幼くさえ見えた。  
「──元気そうだね。」  
他に何も思いつかず、陳腐な挨拶を口にする。  
「う、うん、元気。」  
彼女も答える。そのあとはゆったりとした沈黙が流れた。でも嫌な沈黙ではなかった。  
「お、か、あ、さーん。」  
男の子は玄関前でむずがって、彼女を呼ぶ。  
子供までいることを想定していなかった俺は、ひどく動揺していた。でも彼女には動揺を  
悟られないよう必死で平静を装う。  
 
「……眼鏡、やめたんだね。」  
「ああ、うん。営業だから見栄えをよくしろって言われて、コンタクトに。」  
って、6年ぶりに会ったのに、いきなり眼鏡の話か。俺のことは?  
もっと何か言ってよ。ねえ、はるか先生。  
 
「おまえ、なんだよ。」  
俺を見上げてくる生意気そうな目。男の子は泥のついた運動靴で、俺の足にキックを繰り出している。  
この子を見ていると、酷い既視感に襲われる。それに、あの名前。  
「俺はおまえのお母さんの、えっと、友達だよ。古い友達。」  
「ふうーん。」  
胡散臭そうに、俺を精一杯睨んで見上げる。ああ、こんな表情が更に、似ている。  
 
「ボク、名前は。」  
「ボクじゃない。おれは、シゲタニトモヤだ。」  
表札にあった名前はこの子か。道理で彼女の姓が変わってないし、彼女の名前が先にあると思った。  
「じゃあトモヤ君。君のお父さんは。」  
「そらのうえ。」  
「飛行機?」  
「てんごく。」  
彼は素直に俺の質問に答えた。この年頃にありがちなぶっきらぼうな喋り方だけど、  
割と分かりやすくて、素直な性格みたいだ。  
「お父さんに、会ったことはある?」  
「ない。でもお母さんがいつも言ってる、お父さんはやさしくてかっこよくて、とっても  
すごい人だったって。おれもそうなる。それで、お母さんをまもってやるんだ。  
おまえもお母さんにわるいことしたら、おれがやっつけるからな。」  
子供なりに、ぎゅっと凄んでみせる。俺は核心の質問をぶつけた。  
「お父さんの名前は。」  
「──トモくんっ!!」  
彼女がやめるようにと叫んだ。でも彼は俺との会話中だった。  
小さい子供は、ふたつのことを同時にできないものだ。  
そして俺の予感は的中した。  
「トモキ。」  
 
がつん、と頭を殴られたような衝撃だった。どういうこと。どういう。  
「いま、いくつ?」  
「5さい。来年は、小学校だぞ。」  
彼は誇らしげにふふんと胸を張った。  
あれから6年。計算は、多分合ってる。  
なにより、どこかで見たような目つき。  
男の子の、手を掴んで広げた。指の形も、爪も俺とよく似ている。  
細長い爪で、特に人差し指の先が尖っていて、指のきわまで爪がついてる。  
昔ピアノを習っていたころ、鍵盤が弾き辛くて苦労した──  
 
彼女は両手で顔を覆って、でも耳朶まで赤く染めている。  
「どういうこと。」  
俺はなるべく動揺を隠して訊いた。  
「俺の子だよね?」  
強い口調でそう問いただすと、彼女は否定しなかった。  
そしてゆっくりと、顔を覆っていた手を下ろす。悪戯を、見つかった子供みたいな顔をしていた。  
「……うん。」  
 
「どうして知らせてくれなかったんだよ。」  
「だって……、トモキ君はまだ学生で……大事な時期だから……」  
「高校はすぐに卒業しただろ?!」  
「でもいい大学に入って、これからって時に、子供が生まれたなんて言われても、困るでしょう……。」  
「困る困らないの話じゃなくて……。俺の子なんだろ?  
もし知ってたら俺、なんでもしたのに。学校辞めて、働くことだって。」  
 
「そういうのが駄目なの。せっかく優秀なんだから、みんな君に、期待してるんだから。」  
彼女は先生のときのままの口調でそう言う。  
どうなってるんだ。あのときの男とは、別れたのか。  
どうして彼女は、俺の子を産んで一人で育ててるのか。  
一人で育てるくらいなら、俺に知らせてくれればよかったのに。  
学校を中退しなくても、何かの支えに、なれたかもしれないのに。  
 
足元では友也、と俺と同じ字を持つ男の子が、  
「おかあさんをいじめるなー!」  
と、俺の足を蹴り付けている。  
ああ、もうめちゃくちゃだ。  
用意してきた台詞がひとつも役に立たない。  
「逢いたかったのに。ずっと、探していたのに。居場所すら、知らせてくれないなんて。」  
「えっと、ご、ごめん……。」  
「許さない。結婚してよ。そうでないと許さない。結婚して。今すぐ結婚して。」  
ばかか俺は。どこの駄々っ子だよ。  
あれから6年も経っていながら、もっとこう……上手い口説き文句のひとつくらい、出てこないのか。  
 
「でも私、もうおばさんよ。」  
「それが何だよ?! ……今も、可愛いよ。」  
彼女は俯いて黙り込む。その左手には、鈍く光るようになった、あのときの指輪。  
「今なら、その指輪よりずっといいやつ、買ってやれるから。」  
あのときの男を、本当は忘れていないのだろうか、とちらと思う。  
でも、俺の子を育てていてくれた。  
再会した彼女が見せたのは、嫌悪でも怒りでも軽蔑でもなかった。  
脈がないわけではないはずだ。これは俄然、頑張るしかないだろう。  
 
「……結婚してよ。」  
とりあえずもっと、いい口説き文句が言えるようにならないと。  
 
 
 
 
 
     ──続く──  
 
 

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