扉を開け放った瞬間、飛び込んできた光景に絶句した。
両手を拘束され、足を開かされ泣き叫ぶミオと、その股に顔を埋める庭師の少年。
そこから状況を推測するのは容易い事で、理解が追いついた瞬間、渾身の力を込めて男を殴り飛ばした。
この男を殺したい。今すぐに心臓を抉り取ってやりたい。いや、深い絶望を味わわせた上でじわじわと死に追い遣ってやろうか。
止め処ない殺人衝動に駆られたがそんな事よりもミオの精神状態が気がかりでならなかった。
腕の中の彼女は恐怖に震え、絶望していた。蹂躙されかけた恐怖とは全く別物の、途方も無く大きな恐怖に。
それは…孤独だ。
いつ捨てられるかわからない。いつ居場所を失うかわからない。そんな恐怖と毎日格闘してきたミオ。
その漠然とした不安は、身分の低い男を部屋に入れ、蹂躙されかけたという事実によって確定したものとなった。
契りを交わした者以外との関係を持てば双方に重い処罰が待っている。
そこに身分の差が加わった場合、どちらに非があろうとも刑が重くなるのは身分の低い側だ。
事実、先代国王の弟…ローラントにとっての叔父は、あろうことか兄の妻、即ち先代国王夫人と肉体関係を持ったため、辺境の地へ一家総出で追放されたのだ。
男を部屋に入れた事、合意がなかったとはいえローラント以外の男と肉体関係を持ちそうになった事。
それらの事実から来る後ろめたさが、今までぼんやりとしていた不安をはっきりさせてしまったのだ。
ミオにとっての最大の恐怖…それは、己の居場所を失うことなのだから。
そんな彼女に何をしてやればいい? どうしたら彼女をこの恐怖から救ってやれる?
内なる自分がそう問いかけてくる。――愚問だ。ローラントはそれをあっさりと一蹴した。
…してやるなんておこがましい事は言えない。自分も彼女を傷つけた一人なのだから。
だが、伝えるのは今しかないと思った。彼女を落ち着かせるために、彼女に自分の心の内を知ってもらうために。
ずっと心の奥底にしまっていた物語を、今紐解く時が来たのだ。
…
……
………
ローラントになって1年が過ぎた頃の初夏の事。その日は西の小国が四の姫、カルミアの生誕祭だった。
次期国王として強引に参加させられ、大嫌いな円舞曲を何度も踊らされ疲弊した彼は、逃げるように会場を後にした。
その頃の彼にはまだ、奔放な少年だった頃の心根が残っていた。
見知らぬ他国の城はまだ少年の心を失いきれていなかった彼の好奇心を大いに刺激する。
わずかな灯りを頼りに真っ暗な庭を駆け抜け、垣根を潜り、たどり着いたのは随分とわびしい石塔の前。
薄明かりの漏れる、窓と思しき穴を好奇心に駆られて覗き込んだその瞬間、彼の目は一瞬にしてその一点に吸い込まれた。
中は恐ろしいほど質素だった。古めかしいベッドと申し訳程度の燭台、簡素な作りの本棚だけが無造作に置かれた空間。
そんな空間の中に、同じように質素な召し物に身を包んだ少女が佇んでいたのだ。
濃い闇と蝋燭の薄明かりが少女をやけに奇麗に照らし出し、その不思議な空気に思わず息を呑む。
はじめ彼は、彼女を人形だと錯覚した。
床に座り込み、目を伏せ、一定の間隔でページを捲る所作が、いつか目にしたからくり人形と同様だったからだ。
だが、彼女が瞬きをしたこと、そして人形とは思えないような切なげな表情がその錯覚を打ち消した。
…今彼女に声をかけたらどうなるだろう。彼女は一体どんな顔をするのだろう。好奇心は留まる事を知らず。
「おい、お前」
ついに声をかけてしまった。ここから、一つの物語が始まりを告げたのだ。
「どなた…ですか?」
少女は肩を震わせる。こちらを見る目はやけに琺瑯質で、光を宿していなかった。
そこから読み取れるのは、彼女が受けてきたであろう耐え難い苦行の数々。
それは、自由を否定され続けた彼にこそ理解が及んだのかもしれない。彼は全く知りもしない彼女に深い同情心を覚えた。
「人に名を尋ねる前に、自分から名乗るのが礼儀ではないのか?」
「それは……失礼しました。ですがそれは出来ません。」
「何故だ?」
「貴方様は高貴なるご身分の方だとお見受けしました。です、私は空の姫。私は貴方様に名乗る資格はないのです。」
空の姫君、という単語が妙に引っかかったが、それは少年の純な好奇心の前にあえなく流されていってしまう。
今の彼には彼女に対する興味しかなかった。名を名乗らぬ、人形のような琺瑯質の目をした娘。実に物語的ではないか。
「…お前が空の姫とやらだろうが俺には関係ない。そんなことよりも、あのくだらないパーティーに嫌気が差してたんだ。
あんな場所で他人のご機嫌取りを続けろなんて、正直反吐が出る。」
彼女は目を丸くする。予想だにしなかった言葉なのだろう。
「なあ空の姫。お前さえ良ければ、俺の気分転換の相手になってくれないだろうか?」
その時初めて、琺瑯質の目に蝋燭ほどの小さな火が灯ったのを、彼は見過ごさなかった。
………
……
…
「あの後、柄にも無く植物辞典を開いて必死にその花の名前を調べた」
腕の中の彼女が目を見開いてこちらを見つめる。一瞬だけ琺瑯質な目が垣間見えた。
彼女に想像できただろうか? あの時の少女が、今あの時の少年の腕の中にいる事を。
「その花の花言葉は『私を忘れないで』だそうだ。だから、忘れなかった。ひと時もあの少女を忘れた事はなかった。
俺が王族思想に染まりかけ、感情を失いつつあった時も。あの少女の事だけは忘れなかった。…忘れたくなかったんだ。」
あの花はもう枯れてしまったけれど、その直後からずっと欲して止まなかった花はまだ枯れていない。
「もうわかったか? …その花の名前は『ワスレナグサ』。そして、またの名を―――」
「ミオソティス……」
か細い声はわずかに震えていた。驚愕と感嘆の入り混じった吐息を感じる。
「なんだ、今の今まで忘れてたのか。」
「だ、だって…! 招待客の名簿に、教えられた名前はどこにも無かったから……。
だからあれは夢だったんだ、って思ったんです。私の寂しさが見せた幻だと……」
「だが、夢じゃなかった。幻でもなかった。」
抱きしめた腕に力を込める。それに応えるように、彼女もまた彼の首に手を回してきた。
「私のことを忘れないでいてくれて、あの頃からずっと想っててくれてありがとう…アスター様。」
やっと名前を呼んでもらえた。“ローラント”でも“陛下”でもなく、本当の自分の名前を。
母が愛した花を今度は彼女が愛する。そして、誰にも愛されなかった花を、彼が心から愛する。
偽りの姿―ローラント―ではなく、本当の姿―アスター―として。
五日後の昼下がりの執務室にて。ローラント…もといアスターはとある紙面を睨みつけていた。
「それを見ての通り、あいつの履歴はぜーんぶでっち上げだったよ。
その住所にある場所はただの農地、奴が卒業した学校にヒース=スプリングスなんて生徒はいなかったそうだ。」
「そうか…ご苦労だったな。」
ミオを陵辱しようとした憎き男の顔写真の載った紙などこれ以上見たくもない。力いっぱい握りつぶして、床に叩きつける。
窓際で煙草を燻らせながらその様子を見ていたシュロがひゅうと口笛を鳴らした。
「こんな単純なでっち上げ、選民意識の根付いた城の輩が見逃すはずはない。…やはり内部の人間が絡んでるのか。」
「ま、それ以外考えられないわな。」
あの男がミオを犯そうとしたのは、単に恋慕の情を拗らせたからではないと確信している。
あの男は牢にぶち込まれる前にこう呟いたらしい。「話が違うじゃないか。こんなにあの方を愛しているのに」と。
だが、言葉を発したのはそれきりで、現在は与えられた食事にすら口を開こうとしないという。
一体誰があの男をこの城に迎え入れたのか。現時点では暫定的な証拠は何もない。だが、アスターにはおおよその見当が付いていた。
「フローリスト……あいつの仕業か?」
あの男には疑われるだけの理由がある。ミオを正妻に招き入れる事に最後まで反対していたのがこの男だ。
全ては自分の娘であるサイネリアを王族に入れるため。王族の親類という立場を欲するが故。実にくだらない権力欲だ。
爪が食い込みそうなほどに拳を握るアスターの姿を察し、シュロは煙草の火を消した。
「確かにあいつにゃそうするだけの理由がある。お前がミオ姫一筋なのを見て、強攻策に出たとしてもおかしくはない。
だけどなアスター、動機だけであのオッサンを追及することはできねーぜ? 証拠がねーんだよ、証拠が」
「それを探し出すのがお前の仕事だろうが」
「あのずる賢いオッサンが探し出せるような証拠を残してるはずねーだろ。だったら残されてる証拠はただ一つ。」
「…ヒース=スプリングスの自供のみ」
解ってるじゃねーか、と言いたげに口の端を持ち上げる。そんなことはとっくに解ってた。だからこそ、苛立つ。
ミオの心を抉り、ずたずたに切り裂き、それなのに未だにミオを愛しているなどとほざいている。
それを思うと殺人衝動が抑えられなくなる。あの男を拷問にかけ、全てを自供させた後にじわじわといたぶり殺してやりたい。
ローラント王が冷血非道と称されているのは、罪を罪とする正義感の強さが故だ。その為に拷問も終身刑に処する事も決して躊躇しない。
あの男は、これまで人生で最も憎悪を抱かせた男。その気になればどうとでもできるのだ。
「どうすんだ? あいつこのまま持っても3日が限度だぞ。今のうちに拷問にかけ……」
「止めろ……!!」
だが、そんな事をしたらきっとミオは傷つく。信頼を裏切られたとはいえ、実の弟のように思っていた男を殺されるのは、彼女にとっては苦痛のはずだ。
さすがのシュロもアスターの意外すぎる発言に驚いたらしい。鳶色の目を飛び出しそうなほどに見開いて、唖然とこちらを見ているではないか。
大きなため息が漏れる。アスターの想いがローラントの枷となるとは。全くの想定外だった。
「アスター様。今日もお疲れ様でした。」
私室へ戻るとナイトドレスを纏ったミオが一日の疲れを労ってくれる。現在この部屋はアスターの私室であり、同時にミオの部屋でもある。
夜、ミオに様々な話を語り、彼女と共に眠りに付く。それはミオにとっては出会いの日の延長。アスターにとっては幼き日の日課の再開だった。
あの日の夜、ミオの部屋の扉を派手に壊し過ぎてしまったらしく、修復には結構な日数を要するようだった。それならこれ幸いにと共用の部屋とすることに決めたのだ。
反対をする者はいなかった。ミオを娶る事に反対していた者達すらも彼女の優しさに触れて考えを改めたらしく、今では王に相応しいお方だと口を揃えて言い出す始末。
……ただ1人、フローリスト卿を除いては。
「どうしました? なんだかお元気がないようですが……」
知らずの内に顔を顰めていたらしく、ミオが心配そうに顔を覗き込んでくる。なんでもない、と微笑んでは見せたが、やはり胸のつっかえを取る事が出来ずにいた。
被害者の無念を第一に思い、どんなに非道な刑も躊躇無く科してきた。因果応報が適切だと考えていたからだ。
だが今回は。ミオの無念を思い、あの男に因果応報を適用しようとすると、被害者であるミオが傷つく結果となってしまう。
もうこれ以上彼女を傷つけたくないと思うアスターとしての思い。例外を作ってはならないというローラントの考え。この2つがせめぎ合う。
「…すまないミオ。今日は先に休んでもいいか?」
毎晩の安らぎを拒否してしまうのは忍びない。だが、今はすぐに休んだほうが得策だと思った。
ミオは自分の様子を察し、了承してくれるだろう。そう思い、彼女の返事を待たずにベッドへ向かおうとすると。
意外な事が起こった。
「待って……!」
アスターの寝巻きの裾をしっかりとつかんで離さないのだ。
「今日は、私の話を聞いてくださいませんか?」
ミオは感情を表に出す事はあまりない。自己主張も全くしない。だから驚いた。
彼女の表情はいつもと変わらず控えめなものだったが、その目には怯えながらもはっきりとした決意が宿っていたのだ。
正直すぐにでも休んでしまいたい。だが、初めて自分の前で感情を出してきた彼女を突き放す事など出来なかった。
「あ、ごめんなさい…! お疲れでしたら、無理には」
「いや、いい。たまにはお前の話も聞いてみたいからな。」
いつものように彼女を隣に座らせ、肩を引き寄せる。一瞬硬直を見せるも、次に聞こえるのは安堵したような吐息。
そうして今度はミオが、自らの想いを紡ぎだす。