ミオソティスが祖国へ召還されてから、長いようで短い時が流れ。 
本日、西の小国――今は新王国と名乗っているかの国から“代わりの”正妃が到着した。 
その少女が優雅な仕草で馬車を降りた瞬間、控えていた衛兵が刹那、一斉に言葉を失い、そしてどよめく。 
まず目に留まるのは、二つに結わえられた金色の小川のような艶やかな髪。滑らかで白い肌によく映える。 
微笑を湛えた顔立ちはこの世のものとは思えない……まるで、精巧なビスクドールと面しているかのように錯覚する。 
彼女の肌色によく似合う薄桃色の召し物からすらりと伸びる手足は、叩けばあっさりとへし折れてしまいそうだ。 
見た者を一瞬で目覚めさせる、朝の日差しのような優美。これが大陸一の美女と名高い、西の小国が四の姫カルミアか。 
あまりにも輝かしいその美貌は女である自分――ネリーですらも思わず息を呑む。 
だが。彼女とすれ違った時、ふわりと揺れた髪のシトラスの芳香と共に流れてきたもの。 
きっとそれは女にしか解らないだろう。…いや、シュロほどの観察眼を持つ男だったら解るかもしれない。 
女特有の底知れぬ強かさ。彼女はそれを、かぐわしい香りで巧妙に隠し、あどけなく微笑んでいることを。 
…ああ、この娘は、私が最も嫌う類いの女だ。言葉すら交わしていないというのに、直感した。 
ミオソティスとは確かに血の繋がりがあるはずなのに、この圧倒的過ぎる違いはなんなのだろう。 
 
ミオソティスは今時珍しいほどに裏のない女性だった。田舎の娘も裸足で逃げ出すくらいにピュアな姫君。 
顔を赤らめながらも幸せそうに「いつか彼に似合う花を贈りたい」と語る様は、心の底から可愛らしいと思った。 
だが、そんな彼女はもう戻って来られない。 
 
 
書庫への長い廊下を歩いていると、ふと背後に気配を感じた。 
よく知った気配だ。あの男がこの城に現れてからというものの、いつも悩まされてきたものだ。 
振り向く事もなく、足を止める事もなく。その気配の主に言葉を発する。 
「2輪の菊は、」 
「和棕櫚の木の下で。」 
背後から声が聞こえる。奴は依然姿を現さない。これは内密に話したいことがあるという合図だ。 
「そうですか。では、お目にかかりましょう。」 
そのまま書庫へ歩いてゆき一呼吸。誰もいないのを確認し、扉を三回叩く。 
背後に気配を感じたのと、自分を後ろから抱きすくめられたのはほぼ同時だった。 
「…こんなことするためにアタシを呼び出したんじゃないだろ? さっさと用件を言え。」 
「冷たいなぁ、ネリーは。最近ご無沙汰で寂しいんだ。ちょっくら、慰めてよ。」 
首筋に顔をうずめ、遠慮無しに体中を撫で回す。すっかり一戦交える気の…一応恋人に呆れつつ、肘鉄を一発。 
奴がよろめいた隙に腕を掻い潜り、向き合う体制になってから再び頭を小突いた。 
「てっ……! 容赦ねーな、おい」 
「当たり前だこのエロ執事めが。…あんたが話したいことって、アスターの近況?」 
ミオがいなくなってからのアスターは、ローラント王だった。 
堅実に公務をこなし、依然変わらず冷徹に罪を裁く様は、民の目から見ればいつものローラント王と変わらないだろう。 
だが、ローラント王には必ず素の姿――アスターという一青年に戻る時がある。最近はそれが全く見られない。 
その瞬間こそが、アスターにとって…ローラント王にとっても一番大切な時間であるというのに。 
このままアスターがローラント王に飲まれてゆき、いつかアスターを見失ってしまうのではないか、と、ネリーは心配でならなかった。 
心配しているのはシュロだって同じだ。でなければ、こんな昼間から素のままで話すことなどない。 
「んーん、残念。俺が聞きてーのは、アスターのことだけじゃない。…お前さ、カルミア姫をどう見た?」 
なんだ、違ったか。…カルミアの名を聞いて、真っ先にあの愛くるしい姿を思った。だが、それも一瞬のこと。 
すれ違わなければ、あの香りを嗅がなければきっとその美しい容姿そのままの姿を思い浮かべていたはずだ。 
しかし、もう遅い。ネリーはもう彼女を信用しきれない。…あの時感じた、腹黒い女の感覚が既に染みていてしまっている。 
「はっきり言うよ。アタシはあの子、嫌いだ。確かにカルミア姫は噂に聞く以上の美少女だった。だけど、それは見た目だけだ。 
中身は真っ黒な性悪女だよ、アレは。隠す気ないのかってくらい解り易い。」 
率直な感想だ。まあ、この男にどれだけ嘘を言おうがすぐに見破られてしまうのだから、率直に言わざるを得ないのだけれど。 
正直な言葉を述べたというのに、シュロは顎を2,3撫で声を発しようとしない。 
怪訝に思い、ネリーが声をかけてようやく、シュロは口を開く。 
「そっか。わかったよ。俺とお前じゃ、珍しく考えが違うみてーだ。」 
「なっ……」 
予想外だ。シュロのことだから、自分と同じようにカルミア姫を見ているだろう、とそう思っていたのに。 
「シュロ、あんたわかんないの!? あんだけわかりやすい性悪滅多にいないよ? それが違うって、どういうこと」 
「さーてね。ネリーには教えてやんない。」 
本当に読めない男。その飄々さは、アスターを支えるために必要なものだという事は理解しているが。 
ネリーには到底解せるものではないし、シュロの軽さには何度も苛々させられた。 
結局こいつも、カルミア姫の愛くるしさに魅了されたのだろう。…ああ、本当に苛々する。 
「もういい。何の話かと思ったらとんだ無駄足だった。あんたもさっさと仕事に戻りな。アタシだって、暇じゃないんだ。」 
終わりの句を告げ、踵を返したその時、再び後ろから抱きすくめられた。 
「嫉妬してんだ?」 
「たわけ。誰が嫉妬なんかするか。そろそろ放さないと、またさっきみたいに肘鉄食らわせ…」 
白い手袋に包まれた指が、髪を掻き分ける。そして、言葉を遮るように耳の付け根に口付けられた。 
「!! ひゃん……っ!」 
無意識に声をあげる。慌てて口を押さえるも既に遅し。背後のシュロが、不快になるくらいににやついているのがよくわかる。 
「エロイ声。相当溜まってんじゃねーの?」 
「そ、そんな、わけっ……!」 
「素直になれよ、ネリーちゃん?」 
服の上から、遠慮無しに胸を揉まれる。激しいようで優しい手つき。巧妙に女の性を引き出そうとしてくる、いやらしい手つきだ。 
巧みに上着の中に手を滑らせ、今度はベストの上から。そうやって流れるようにボタンを外して、今度はシャツ越しに。 
…ああ、まずい。シュロのペースに乗せられそうになっている。その証拠に、身体が昂ってきている。 
拒まないと。必死に身を捩じらせた瞬間、ふと、シュロの動きが止まった。 
「ネリー、香水変えた? なんか、いつもと香りが……」 
好機。そう言わんばかりに思い切り足を踏んづけ、怯んだ奴の腕からようやく抜け出す事に成功した。 
衣服を整えながら、シュロに向き直り一言。「下衆野郎」と吐き捨て、足早に立ち去った。 
小走りでローラントの執務室に向かいながら、そっと胸を押さえる。…まだ、あのいやらしい手つきの感覚が残っている。 
刺激された女の性が静かに疼く。…シュロの言うとおりなのかもしれない。きっと――― 
「っ―――! 何考えてるんだ、アタシは!」 
顔が赤いのを悟られないよう、俯いたままアスターの待つ執務室へと急いだ。 
 
 
いくら戸を叩いても、扉の向こうからの返答はなかった。 
懐中時計を確認する。時刻はまだ15時を過ぎたばかり。この時間には確実にこの執務室に篭っているはずなのに。 
ふらりと何処かへ行ってしまったのだろうか? 試しにそっとドアノブを回してみる。すると、驚くほどにあっさりと扉は開いた。 
「ローラント陛下。サイネリアにございます。兼ねてから議題に上がっていた南方の鉱山地区開発についての書類を…」 
部屋の中は静まり返っていた。静粛な空間は、主の不在を物語っている…ように見えて。 
か細い息遣いが聞こえる。耳を澄ましながら歩を進めると、乱雑な書物の塔に埋もれるように、部屋の主は確かにいた。 
「ローラント陛下…寝ておられるのですか?」 
聞くまでもなかった。今目の前で絨毯の上に無造作に転がっている国王は、小さな寝息を立てて眠っていた。 
無防備な寝顔の、目下にうっすらと刻まれたくまを眺めていると、彼が哀れに思えてくる。 
まだ恋という言葉すら知らないほど青い頃から、ずっと彼の心の中に在り続けたたった一人の姫君。 
紆余曲折を経てようやくお互いを理解し合い、見ているこちらが恥ずかしくなるほどに純粋に、ひたむきにお互いを愛し続けていたというのに。 
そんな唯一無二の存在が、再び視線を交わすことすら許されない程遠く引き剥がされたのだ。酷く居た堪れない。 
自分の前に現れてからというものの、弟同然に思ってきたアスターの頬にそっと触れる。 
少し痩せた……いや、やつれているのだろう。傍目にはわからないが、触れてみて初めてわかる冷たい感触。 
―――と、その時。彼の瞼が僅かに震え、青い瞳がゆっくりと現れた。 
「お目覚めですか、陛下。…随分とお疲れのようですわね。」 
焦点の定まっていない瞳に微笑みかける。しばらくネリーの姿をぼんやりと眺めていた彼は、掠れた声でその一言を発した。 
「……ミオ…?」 
「ふふっ、随分と寝ぼけていらっしゃいますのね。わたくしは、ミオソティス様では…」 
書類を手にし、振り向いたのとそれはほぼ同時だった。すぐ目の前に姿を確認したかと思うと、彼は突然ネリーをきつく抱きしめる。 
急すぎる展開に脳内が追いつかない。混乱するネリーなど意に介さず、彼は首筋に噛り付くように顔を寄せた。 
「…ミオの、香りだ……。ミオ、戻った、のか……!」 
「な、何を……!」 
香り。その言葉を聞いて思い出す。つい先ほど、書庫で首筋に顔を埋めたシュロが放った言葉を。 
鼻をひくつかせてようやく気付いた。これは、自分が使っている香水の香りではない。 
そしてこの香りには覚えがある。この香りは…ミオの髪の芳香だ。 
「ミオ、行くな…もう何処にも行くんじゃない……」 
抱きしめる力が強くなる。下腹の辺りの固い感触の正体に気づくと同時に、今現在の状況がようやく整理できた。 
アスターはこの香りのせいで自分とミオを間違えているのだ。そして、アスターは今、自分に垣間見えるミオの香りに発情している。 
「ちょっ…アスター目を覚ませ! アタシはミオ姫じゃ……」 
首筋に生温かい感触が走る。鳥肌。怯んだ隙に、服の中へ彼の手の侵入を許してしまう。 
シャツの上から撫で付けられる感触。まずい。やばい。本気で身の危険を感じた。それなのに、抵抗がままならない。 
アスターの熱が、ネリーの性を刺激する。久しく感じていない肌の熱を、本能が求めてしまっているのだ。 
「や、やめ……っ!」 
どんなに声を挙げても、アスターには届かない。彼の瞳は虚ろで、何も映してなどいなかった。 
彼が見ているのはミオの幻想。ネリーの身体から漂うミオの芳香が作り出した虚像なのだ。 
その顔はまるで、ようやく帰る場所を見つけた迷子の少年のようだった。ただ嬉しそうにネリーの身体に縋り付く。 
足がもつれ、2人して絨毯の上に倒れこむ。その隙を付いて逃れようとするも、すぐに引き寄せられ、上に覆いかぶさってくる。 
上着を肌蹴させられ、ベストを、シャツを引きちぎられる。弾け飛ぶボタン。露わになった胸に、無遠慮に顔を突っ込むアスター。 
ストッキングを引き裂き、強引に下着をずらしにかかる手と必死に戦いながらも、思った。 
アスターの心は傷ついている。そんな中で、たとえ幻想といえども愛しのミオ姫に拒絶されたならば、アスターの心は壊れてしまうのではないのか。 
依然すがりつくようにネリーを蹂躙するアスターは、呪文のように何度もミオの名前を呟いている。 
―――受け入れるべき、なんだろうか……? 
葛藤の中で生まれた一瞬の隙に、ついに下着が引きずりおろされる。露わになった性器に、指がねじ込まれる。 
快楽を感じることなんて出来やしなかった。雌の本能がいくら悦んでも、ネリーは悦べない。 
力がどんどん抜けていく。アスターの心を壊す事なんてできない。自分がミオ姫の幻想とされている以上、拒絶する事も許されない。 
膝を割られ、両足がこじ開けられる。滑り込むように割ってはいるアスターの体をぼんやりと見つめ、思った。 
自分が受け入れることで、アスターの心を守る事ができるのであれば、いっそ―――そっと目を閉じる。 
 
すると。すぐ近くで鈍い音が聞こえた。体を押さえつけていた重みがなくなり、手足が軽くなる。 
 
「…おい、絶倫野郎。誰の女に手ぇ出してやがる!」 
声が聞こえる。それは紛れもなく…悔しいけれど…今一番聞きたかった声に違いない。 
ゆっくりと目を開く。自分の顔を覗き込んでいる、褐色の肌の……愛しい男だ。 
「しゅ、ろ……アタシ……」 
シュロは何も言わず、首を振る。そして、ゆっくりと口づけ。かさついた唇の感触と、喉を伝う生温い液体。 
「何も考えるな。息を大きく吸って、そのまま目を閉じて…もう眠れ。」 
珍しく優しいシュロの声に安堵し、そのまま静かに意識を闇の中に落とした。 
 
 
 
続く 

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