第二話 悩めるキツネくんと迷子の仔猫ちゃん  
 
爽やかな朝。  
肌を切るような鋭い冷たさは鳴りを潜め、  
木々が芽吹き始める季節ももうすぐだ。  
 
我が家の境内の、朝露に濡れた木々を抜け、  
一般道に降り立つと、そこにはすでに彼女がいた。  
 
「お、おはようございま、ふ、ふわわぁああ」  
 
先日、俺のクラスに転入してきた栗色の髪の乙女。  
一見可憐な女性だが…その正体はタヌキだと言う。  
 
挨拶が途中でアクビに変わり、目尻に涙を滲ませたりして。  
そんな様も非常に愛らしいと言うか微笑ましいと言うか。  
 
「いきなりアクビかよ?」  
「私、夜行性ですから…朝は弱いんです」  
「うん、せめて夜型、くらいにしておこーね  
 仮にもヒトの姿をしてるんだから」  
 
えいくそっ、タヌキなのに。タヌキのくせに。  
なんでそんなに可愛いんだよ。  
 
「えへへ。そうですわね、気をつけます」  
 
…その笑顔に思わず頬が熱くなる。可愛い。  
タヌキのくせにタヌキのくせにタヌキのくせに!  
 
て、待てよ?  
 
「てゆーか、そう言えばどうやって入学したんだ?」  
 
戸籍とか無いだろうに。だって、タヌキだし。  
 
「簡単でしたわよ?」  
 
タヌキなのに?  
 
「学園の理事長が私の伯父にあたる方だったので…」  
「へーそうなのか…って、理事長もタヌキ!?」  
「もうタヌキの住処もほとんどありませんのよ  
 生き延びていくために人里に下りた仲間はたくさんいるそうです」  
 
しんみり呟くタヌキさん。  
人里に下りるて…人間になりすましてるのか!?  
メン・イン・ブラックみたいだなー  
宇宙人が人間にバケて社会に紛れ込んでるっていう…  
 
「今は私、伯父さまのお宅に御厄介になっていますの。  
 せっかくこのようなたおやかな乙女になれたのに  
 いつまでも野生児じみた森での生活は続けられませんもの」  
「自分でたおやかゆーな」  
「あ、ヒトミ」  
 
幼馴染のヒトミが、不機嫌な顔で現れた。  
弓道部所属の幽霊部員、ヒトミが手にする長い棒は当然、弓。  
どんと地面に突き立てて、仁王立ち。  
 
「おはようございます、ヒトミさん」  
「…おはよ。つーか、近い近い。はい、離れた離れた」  
 
ぶすりとヒトミが呟く。  
さっきからタヌキさんは俺にぴったりくっついてる。  
それを指摘したのだろうが、タヌキさん、スルー。柳に風と受け流し。  
 
「キツネくんの傍から離れるのは少し寂しいですけれど…  
 朝も弱い私ですけれど…こうして朝のご挨拶が出来るのもいいものですわ」  
「こらっ!擦りよるな!」  
 
とまぁ、お馴染みになったようなこの光景。  
俺を中心に丁々発止のやりとりを交わす二人の美少女。  
 
それはもちろん、登校後も続くわけで。  
 
「ヒトミさん、席、変わって頂けません?」  
「寄るな触るな、キツネくんの隣は私なのっ」  
「理不尽ですわぁ、愛し合う二人の間に3つもの机という障壁…  
 って、無粋じゃありませんこと?この机たちときたら」  
「そこ!机に当たるな机に!てゆーかいつから両想いに!?」  
「あら?お気づきになりませんでした?それはもう出会った時から…」  
「むきーーーー!勝手に決めるなーー!」  
 
クラスの連中はその様子を遠巻きに見ている。  
突如現れた美少女転校生の関心を一身に受ける俺を  
男どもは羨ましげに、女生徒たちは不審げに。  
 
不審?そう、俺なんかがこんな美少女の気をひいているのが不思議でならないのだ。  
 
「きっと何か弱みを握られてるんだわ」  
「ひどい男…あんな可愛いコになんて事を」  
「え?じゃあヒトミも?ヒトミもヤツの毒牙に?」  
「決まってるわ、そうに決まってるわ」  
「きっと口に出すのも汚らわしいあんな事やこんな事を…!」  
 
ひどいのはどっちだよぉ。  
 
…もちろん、解ってはいるよ。  
俺が、ハッキリすればいいだけなんだって事は。  
俺が二人に対して何か「ひどい事」をしてるとすれば、そこん所。  
二人の気持ちに対して、明確な返事をしていない事。  
 
え?二股かけちゃえ?  
それはいかん、二股はいかん。  
俺はどちらかの女の子を、俺に想いを寄せてくれる二人の女の子を、  
どちらかを選ばねばならない。断腸の想いで!  
しかし方や俺の理想を具現化したかの容姿ながら正体は化けタヌキ、  
方やこれまでろくに異性として意識していなかった幼馴染。  
 
…決定打にかけるんだわ、これが。  
優柔不断と言わば言え。でもな、向こうが本気だって言うなら。  
こっちだって本気にならなきゃ、なれなきゃ失礼ってもんだろう?  
俺だって、そういう事をちゃんと考えてはいるんだが。  
ちゃんと考える時間を、彼女らが与えてくれないのも事実なんだよぉ。  
 
例えば、ある日の夜も…  
 
「はぁ…」  
 
真ん丸な月を見上げて思わずため息。  
脳裏に浮かぶはケモ耳の生えた栗色の髪の乙女の姿と、ふくれっ面の幼馴染。  
どっちもそりゃ可愛いけれど。  
ストレートなタヌキさんの求愛に、ちょっとヒレくれたヒトミの愛情表現に  
ちゃんと応えるのが男としての俺のケジメだと解ってはいるけれど。  
 
「俺、どうしたらいいのかなぁ…」  
 
独り言をつぶやきながら、窓を明け放つ。  
吹き込む冷気が、よどんだ室内の空気とともに  
堂々巡りする思考もすっきりさせてくれる事を期待して。  
 
が、窓から飛び込んできたのは、冷気だけじゃなかった。  
飛び込んできたのは月光を浴びて、金色に輝く毛並み。  
それは体長数十cmの獣…有体に言って、タヌキだった。  
 
「わっと!ま、まさか!?」  
 
振り向くと、そこにいたのはタヌキ…ではなく、一糸まとわぬ姿のタヌキさん!?  
 
「ちょ…!な、なんだよその恰好はーーーーー!!」  
「ごめんなさい、私ったらはしたない所を…  
 でも、ヒトのままだとキツネくんは招き入れてくださらないだろうと思って…」  
 
ちょこんと生えたケモ耳。むき出しのお尻から尻尾も生えてますってば!  
完全にヒト形態になれていないのは、さっきまでタヌキ形態だったせい!?  
 
「でも、キツネくんに会いたくて…ついついあんな姿に…恥ずかしいですわ」  
「そうじゃなくて!服!服、着てっ!」  
 
タヌキの姿になった事を恥ずかしがるんじゃなくて、  
いまこの時の自分の姿を恥ずかしがってくださいタヌキさん!  
 
「あら?きゃっ(ハート)キツネくんのエッチ」  
「いや、言うに事欠いてそれはあんまりでしょー!?」  
 
タヌキさん、一応、恥じらいのポーズ。  
胸の前で腕をくんだりしてくれてるので上半身は、まだいい。  
で、でもですね、むき出しの下半身に、その栗色の茂みが、  
ていうか、やっぱり下も上と同じ色なんですね!?  
 
って、俺、激しく動揺。そりゃそうでしょ!  
俺、女の子の裸、ナマで見るの初めてだよっ!?  
 
「そんなに見られたら…恥ずかしいですわ」  
 
たとえ、さっきまでタヌキだったとはいえ!ケモ耳&尻尾生えてるとは言え!  
その裸体は眩しくて眩しくて…理性が、もたない!  
 
「でも…キツネくんなら…いいえ、キツネくんでなきゃ、私…」  
 
ドギマギする俺をうっとり見つめるタヌキさん、  
 
「キツネ、くん…」  
「タ、タヌキ、さん…!」  
 
まずいって!その眼は…!そんな眼で見られたら、俺…俺!  
ああ、理性が、吹きと  
 
「この不届きモノがーーーーーーーっ!!」  
 
びそうになる俺をかろうじて繋ぎとめたのは、  
ドアを蹴破らんとする勢いで飛び込んできたヒトミの一喝だった。  
 
「ヒ、ヒトミ!?な、なんで!?」  
「タヌキがこっちに向かうのを見かけたのよ!  
 気になってきてみたら案の定…!こんな夜更けに!  
 女の子を!あ、あ、あ、あまつさえ、こ、こ、ここんな恰好に1?」  
 
え?俺?  
 
「やん(ハート)」  
 
こら、そこ!「やん(ハート)」、じゃない!  
 
「違う!誤解だ!お、俺が脱がせたわけじゃない…っ!」  
「キツネくんったら…」  
 
はい?  
 
「強引なんですもの…で、でも…そんな所もステキですわっ…!」  
 
頬をあからめて呟くタヌキさん。確信犯!確信犯だ、こいつ!!  
 
「キ~ツ~ネ~くん~!?」  
 
地獄の底から響くようなヒトミの声。  
こうなったら俺に出来ることなどあるだろうか?いや、無い。  
 
「無体を!女の子に無理やりなんて!恥を知りなさい!」  
「ヒ、ヒトミさん!?ちょっと待ってーーー!」  
 
「ああ、キツネくん、私はいつでも構いませんのよ  
 こんな無理やりにされなくても、一言言ってくだされば、  
 私はいつでも貴方を受け入れる準備がありますのに…」  
 
「ち、違うだろ!?俺がいつタヌキさんに無理やりなんて…」  
「問答無用!そこに直れっ!」  
「ヒ、ヒトミさん!?眼が、眼が血走ってますけど!?」  
「くすっ」  
「タヌキさん!?笑ってないで誤解を解いてっ!」  
「そうか!そこのエロタヌキが自分で脱いだのね!?  
 色仕掛けでキツネくんを落とそうなんて!浅ましい!」  
 
あ、心が通じた。さすが我が幼馴染。  
 
「浅ましいですって!?エロタヌキですって?心外ですわ!  
 私のキツネくんへの思慕をそのような下種な表現で愚弄するなんて!」  
「うるさい!キツネくんもキツネくんよ!隙を見せるからつけこまれるのよ!?  
 鼻の下のばしちゃってさ!これタヌキなんだからね!解ってるの!?」  
「いや、その…解ってはいるんだけど」  
「解った上で、私に欲情して下さったんですものね…キツネくん(ハート)」  
「そ、そういう言い方をするなーーーっ!」  
 
………  
……  
…な?  
毎日こんな調子なのに、「どっちが好き?」「どっちに応える?」  
なんて難問に、落ち着いて答えを出すのは難しいと思わないか?  
 
頼むから、俺にゆっくり考える時間をくれ。  
 
※ ※ ※  
 
という事である日の昼休み。  
俺はタヌキさんとヒトミの包囲網から逃れて、身を隠していた。  
 
時、まさに昼休み。  
 
「どうしたもんかねぇ…」  
 
最近、口癖になってないか?この自問。  
 
ていうか、どっちを受け入れるつもりなんだろう?  
タヌキか幼馴染か…って、そもそも悩む必要のある問題か?  
だって一方はタヌキだぞ?  
いや、タヌキとは言え、ヒトとしての礼を尽くして(?)  
俺に告白してきたんだ、ちゃんと考えなきゃ。  
 
思考は堂々巡りを繰り返す。結局、問題なのは…  
 
「俺、どっちが好きなんだろう」  
 
そこに尽きるんだよな。  
 
「はぁ…」  
 
ずちゅーっとパックの牛乳をすすりながら、思わずため息。  
すると、自己嫌悪に陥りそうな俺を慰めてくれるヤツがいたんだ。  
 
「ん?」  
「にゃー」  
 
足元に擦りよるふわっふわした毛玉。  
 
「…ネコ?仔猫?」  
 
野良猫のようだった。  
小さくて、何者かの庇護がなければ到底生きていけなさそうな。  
 
「…腹、減ってるのか?」  
 
…人間用の成分調整乳でも大丈夫かな?  
念のため、水道水で少し薄めた牛乳を掌に乗せて差し出す。  
仔猫はうまそうにペロペロと舐め始めた。  
 
「くすぐったいぞ、こら」  
 
と言いつつ、頬がにやけるのを止められない。  
 
「…キツネくんってホント動物にモテるのねぇ」  
「イヤミ?ねぇ、それイヤミ?」  
 
いつからいたんだろう。  
ヒトミが俺の背後から声をかけてきた。  
 
「ノラ?こんな所に迷い込んでくるなんて、ね」  
 
ヒトミが指を伸ばし、仔猫の首筋をなでる。  
優しい顔。  
 
「こら。あんた、どっから来たの?ん?」  
 
…最近、般若みたいな所しか見てなかったからな。  
元々、こういう優しい笑顔が似合うコだと思う、ヒトミって。  
俺の掌からさんざ牛乳をせしめて腹がくちくなったのか、  
仔猫はヒトミの指をひょいとかいくぐり、走り出した。  
 
「あ、おい」  
「何よ、愛想無いのね」  
「ま、仕方ない。車にひかれたりするなよー」  
「理解できないわよ、そんなの。でも…」  
 
「キツネくんは、いつも優しいね」  
 
どき。  
 
そのヒトミの笑顔の方が優しい、というか、可愛い。  
ヒトミは俺の隣に腰掛け、持っていたパックの野菜ジュースを飲みだしたりして。  
仔猫のおかげでなんだかいい雰囲気になったような。  
その空気に、俺はつい調子にのってしまう。  
 
「でさぁ、ヒトミはいつから俺が好きな訳?」  
「ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」  
「わ、気をつけろよ、濡れる濡れる」  
 
野菜ジュースはシミになりかねない。  
 
「わ、わわわわわ、私がいつキツネくんを好きだって言った!?」  
「い、言ったじゃんか、タヌキと張り合って…」  
「いいいいい、言ってない!聞き間違い!私は、別に、その…」  
 
眼が泳いでる。あからさまに動揺しやがって。  
 
「わ、解った、悪かった、俺が悪かった」  
 
うん、デリカシーに欠ける事は認める。でもさーヒトミも悪いと思わない?  
勢いで我を忘れた時だけ素直になるなんてさー。  
 
すまん、ネコよ。  
せっかくお前が作ってくれたいい雰囲気、ぶち壊しちゃったよ。  
 
※ ※ ※  
 
そして、また、何の決断も出来ないまま朝が来る。  
 
「キツネくん!おは…は…ふあああああ」  
「だから夜更かしは止めろって」  
「夜行性…じゃない、夜型なんですもの、私」  
 
…タヌキさんは答えてくれるかな。  
俺のどこがいいのか、いつからそんな風に想ってくれてるのかって。  
 
ところが。  
 
「教えたげません(にっこり)」  
「あ、そ、そう…」  
「だって」  
 
と、拗ねた口ぶりのタヌキさん。  
 
「あんな運命的な出会いをしておきながら  
 忘れるなんて…ヒドいですわ、キツネくん」  
 
運命的出会い?タヌキと?タヌキと出会った覚えはないがなぁ…  
 
「思い出してください。私との運命の出会い…私はあの時から、ずっと」  
 
「ずっとキツネくんを、お慕いし続けているのですから…」  
 
遠い目。初めて見る表情。  
なんだろう、寂しげなんだけど、優しい。  
失われた想い出を振り返る時、ヒトはこういう眼をするのかな。  
…いや、タヌキだったっけ。  
 
最近、よく忘れるんだよ、その事実。  
 
タヌキ時代の事を根掘り葉掘り聞かれたくないという乙女心だろうか?  
彼女は頑として、俺との「運命の出会い」の詳細を教えてくれようとはしなかった。  
 
「うんめいのであい、うんめいのであいねぇ…」  
 
※ ※ ※  
 
「なぁ、一体どんな出会いだったんだろうな?お前、どう思う?」  
「にゃー」  
 
昼休みの校舎裏。  
俺はまたあの仔猫に出会った。  
 
「餌付けしちゃった…かな?」  
 
ヒトミじゃないが、つくづく俺は動物にモテるらしい。  
って、タヌキさんにも失礼だな、うん。  
仔猫がなつくのと、恋愛感情を持って接してくれてるのを一緒にしちゃ、な。  
 
「まーたこんな所で黄昏ちゃって」  
「あらあら、まぁまぁ」  
 
と、そこに現れたのはタヌキさんに、ヒトミ。  
俺の一時の安らぎ、呆気なく崩壊。  
 
「俺だって一人になりたい時があんの」  
「キツネくんキツネくん、このコ、キツネくんの飼い猫なんですか?」  
 
…タヌキがネコに興味をしめすとはね。  
ん?そう言えばタヌキって確か雑食…  
 
【タヌキ】  
体重3〜6kg。昆虫類と果実を中心に、ムカデやミミズなどの小動物、甲殻類、魚類、両生類、  
爬虫類、鳥類、ネズミなどの小型哺乳類などいろいろなものを食べる雑食性の中型獣。  
 
…さすがにネコまでは食べないか。いや、こんな小さな仔猫なら…も、もしかして!  
 
「だ、だめだぞ!食べちゃ!」  
「まぁ!乙女に対して何を仰るんですの?」  
「そうだよ、それは無いわよキツネくん…乙女かどうかは別にして」  
 
あれ?なんで共同戦線?  
いつの間にそんなに仲良くなったの、あんたたち。  
 
子はかすがい…じゃねぇ、仔猫はかすがいって事?  
まぁこんな小さな、いたいけな動物を前にして  
いがみあってる場合じゃないだろってのは解るけど。  
 
「このコ、この前よりなんか痩せてない?」  
「そう、かな?んー言われてみれば…」  
「まぁ…ひもじい思いをされてるんですか?」  
 
…話しかけてるし。まさか、ネコ科の言葉、解るのか?  
 
「解りませんわ。それに私、もうニンゲンですもの」  
 
ぷくっとふくれるその様が犯罪的に可愛いんですけど、どうしましょう?  
 
「ね、このコ…ウチで飼ってあげちゃダメかな」  
 
と、ヒトミ。  
そう言えば、ヒトミは小動物というか、小さい動物が好きだったな。  
ハムスターとかリスを飼ってた覚えはあるけど、ネコは未経験じゃないかな。  
 
「でも…うん、いいんじゃないか」  
「うん…ねぇ、あんた、ウチくる?」  
「にゃー」  
「まぁ、うん、ですって」  
「だから、解るのかよって」  
「ニュアンスですわ、ニュアンス」  
 
…なにはともあれ、仔猫はヒトミが飼う事になった。  
 
「よかったな、お前。これで食いっぱぐれないぞ」  
 
俺は仔猫を抱き上げて高々と持ち上げた。  
仔猫は解ってるんだか解ってないんだか、「にゃー」と一声鳴いた。  
その様子を、タヌキさんとヒトミが優しい眼で見ていた。  
 
※ ※ ※  
 
珍しく。本当に珍しく。いや、初めての事じゃないだろうか。  
俺を挟んでタヌキさんとヒトミがいるって言うのに、  
口論や取っ組み合いが始まらないなんて。まさに仔猫はかすがい…!  
俺はまだ名も無いこの仔猫に感謝の念を送った。  
その時。  
 
「にゃー」  
「あ、こ、こら…!」  
 
仔猫が突然、ヒトミの腕を飛び出した。  
ここまでずっと抱いて来たんだけど、ネコには窮屈だったのかもしれない。  
 
飛び出したネコは、車道のど真ん中に鎮座、そして。  
 
「ちょっと、そこは危ないですわよ?」  
「キツネくん!車が…!」  
 
交差点を曲がって、車が…向かってくる!  
車道の信号は、赤。なのに、車は止まらない。  
 
「ばかやろ…!」  
 
俺は無意識の内に飛び出していた。  
 
「キツネくん!」  
 
ヒトミの悲鳴が聞こえた。でも、止まらない。  
前は助けられなかった。無力な子供だった。でも、今なら…!  
 
…前?なんだっけ?  
 
キキーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!  
 
「いやーーーーーーーーーーーーっ!」  
 
間一髪。  
俺は仔猫を抱いたまま、道端に座り込んでいた。  
腰が、抜けていた。  
 
車は急ブレーキで停止したものの、さっさと逃げ出した。  
お前も冷や汗かいたろ?これに懲りてちょっとは安全運転を心掛けろよな。  
 
「キツネくん!キツネくん!良かった!良かったよぉおお!」  
 
俺に縋りつき大声で泣くヒトミ。  
ごめんな、驚かせて。心配かけて。  
 
その様子を少し離れた所でタヌキさんは。  
瞳を潤ませて立ち尽くしていた。  
 
おいおい、また耳、耳出てるってば。  
こう、感情を揺さぶられると出ちゃうみたいだな、あのケモ耳。  
 
ん?待てよ。  
 
あれ?この光景は…  
 
あ。  
 
※ ※ ※  
 
ウチの神社の森にいまより多くの多くの動物が棲んでいた頃。  
俺は小さな子供だった。  
 
神社の森の、近くの道。  
その目の前の道を2匹のタヌキが横切っていた。  
車が走ってくる。飛び出そうとした。助けなきゃ。  
でも間に合わない。飛び出そうとした俺は、躓いて転んで。  
1匹のタヌキは跳ね飛ばされ、もう1匹は難を逃れた。  
俺は跳ね飛ばされたタヌキに駆け寄った。血を流しぐったりしたタヌキ。  
その身体からどんどん温もりが失われていく。  
 
ごめんな、間に合わなくて。  
俺はもう息をしていないタヌキを抱き上げた。  
 
俺の腕にすがりつき、泣く小さな女の子。  
少し離れた所から、俺たちの様子を窺うもう1匹のタヌキ。  
 
この光景って…まさかあの時のタヌキが…?  
俺は傍らに立つタヌキさんを見上げた。  
 
「思い出して…くださったんですね?」  
 
眼を潤ませて、タヌキさんが言う。それは低く優しい声。  
いつもの能天気なまでに明るいタヌキさんの声とはまるで違った。  
 
「貴方は車に惹かれたタヌキを、血にまみれたタヌキを抱き上げ  
 ご自宅に連れ帰り、お父様に供養をお願いしてくれた…  
 助けられなかった、ごめんよ、ってわんわん泣きながら。  
 あのタヌキは、私の母です。身を呈して私をかばってくれた、優しいお母さん。  
 やっと、あの時のお礼が言えます。母を看取ってくださってありがとう。  
 母のために泣いてくださって、ありがとう。母を手厚く葬ってくださって、  
 本当に、本当にありがとうございました」  
 
タヌキさんが頭を深々と下げる。  
再び顔をあげた時、瞳からは一筋の涙が零れていた。  
 
「私は、あの時から、ずっとキツネくんを…お慕い申し上げているのです」  
 
そして。  
あの時一緒にいた女の子って…ヒトミ?  
俺は腕にすがりつきしゃくりあげる幼馴染に視線を向ける。  
 
「そう、だよっ…!キツネ、くんって、昔っから、ちっとも、変わらないんだから…!」  
 
しゃくりあげながら、ヒトミは必死で言葉を紡ぐ。  
 
「む、むちゃばっかりして!わ、私に、心配ばっか、かけて!」  
 
ヒトミの口から、堰を切ったように言葉が溢れだす。  
 
「私は怖かった。血まみれのタヌキが。汚いとさえ思った  
 でもキツネくんは。服が汚れるのも構わず血まみれのタヌキを抱き上げて。  
 敵わないと思った。あんな事がなんの意識もせず、躊躇も無く、  
 当り前のことだって思えるキツネくんが、すごいと思った。  
 私だって可愛い動物は好きだったけど、でも、それだけ。  
 子供だったから?ううん、それだけじゃないと思う。  
 …キツネくんはすごいよ」  
 
そして、俺を見据え。真剣な声で。  
 
「あたしは、あの時からずっと、キツネくんを見てた」  
「ヒトミ」  
「キツネくん、私、キツネくんが好き」  
 
正面切って、初めて。俺を見据えて、ヒトミが言った。  
 
…たった、それだけのことで?  
俺、大した事してないよ。  
 
子供の俺には、何も出来なかった。  
誰も助けられなかった。それが悔しくて泣いていただけ。  
 
俺、そんな大した人間じゃないよ。  
でもそんな俺を、二人は「好きだ」って言ってくれる。  
 
うん、俺は、俺も。  
 
二人が好きだ。二人とも好きだ。  
俺の事、あんな風に言ってくれる二人が好きだ。  
少しは自分がマシな人間だと思えるから。救われるから。  
 
でも。  
 
『二人とも』なんて言ったら、烈火のごとく怒るんだろーなぁ。  
 
「ヒトミさん、やっと素直になりましたね」  
「うっさい、余計なお世話よ…ぐしっ」  
「私たち、同じ事件が切っ掛けでキツネくんを好きになっていたんですわね」  
「…なんか釈然としないけど、そういう事のようね」  
 
同じ事件を切っ掛けに、一人の男を奪い合う関係になった二人。  
ライバルでありながら同志。お互いを認め合い、そこには友情が…!  
 
「だからって!解りあえたりはしませんわよ!?  
 貴方と私は恋のライバル!永遠の平行線!決して交差する事はありませんわ!」  
「の、望む所よ!タヌキなんかと解りあえなくたって結構よ」  
「まぁヒドイ!人種差別ですわ!動物虐待ですわ!」  
「ひ、人聞きの悪い事ゆーな!」  
 
…友情が、生まれたりはしなかった。  
でもその光景が、今までみたいにイヤじゃなかった。  
いましばらくは、このままでいよう。この賑やかな感じも悪くない。  
 
ずるいって?うん、そう思うよ。  
だから言ったろ?俺なんて、大した事ないんだよ。  
だから、せめて、二人の想いに応えられる俺にならなくちゃ。  
でなきゃ、ちゃんと眼を見て「君が好きだ」なんて言えないよ。  
 
ごめんな。  
もう少し、俺に時間をくれよ。  
 
「あ、ネコ…!」  
 
今の事態にびびったのか、ネコは俺の腕から逃げ出して…  
そのまま走り去ってしまった。  
 
「怖い思い、させちゃったかな…ごめんね」  
 
ヒトミが呟く。  
 
「また、会えますわ、きっと」  
 
タヌキさんが呟く。  
 
「そうだな。…またな」  
 
と、俺は仔猫が走り去った方向に向けて言った。  
 
※ ※ ※  
 
それから、数日後。  
 
「キツネくん、おふぁ…ああああ」  
「いい加減、昼型に修正効かないの?」  
「色々勉強する事も多いんですわ」  
「ああ、期末テスト近いもんな」  
「いいえ、人間の性愛に関する勉強ですわ」  
「せ、せいあいって…その…!?」  
「どうすればキツネくんを悦ばせて差し上げられるか…日々勉学に勤しんでるんです!」  
「あ、あんたね!それ以上エロ知識増やしてどうするの!?」  
「なぜですの!?ヒトミさんは、もう学ぶ必要もないくらいお詳しいんですか!?」  
「わわわわわ、わた!わたしは、そゆ事はべべべ、勉強する事じゃなくて!  
 その、相手とのし、自然な関係の中で培うものだと思う次第で…!」  
 
タヌキさんの野生的な求愛行動を華麗にかわしつつ、  
ヒトミのツンデレっぷりにも耐性が出来てきた、その頃。  
 
「あら?あの子」  
「まぁ、愛らしい」  
「でも…なんて恰好してるの」  
 
俺たちの前に突如現れた、一人の女の子。俺たちより少し年下だろう。リンゴみたいな赤い頬、  
悪戯っぽい笑みを浮かべた口元、ほわほわのくせっ毛。一言で言って、とても可愛い。  
可愛いのだが、なぜかきている服はゴミ捨て場から調達してきたようなボロキレだった。  
 
これは放っておけない。それにしても、見かけない子だ。  
神社の跡取りとして、ご近所の皆さん、氏子の皆さんの情報はあらかたインプット済みなのだが。  
 
しかし。見かけない訳だ。その理由はすぐに判明した。  
 
「にゃ!」  
「…にゃ?」  
「にゃにゃにゃー!」  
 
ぴょこん、頭から飛び出たケモ耳。って、また!?  
 
「君は、一体…!?」  
「にゃーーーーん♪」  
「ま、まさか…あの…」  
 
この前の仔猫!?  
俺の腕にすがりついてくる仔猫ちゃん。  
そして、あろうことか、ぽっと頬を染める。  
その様子に、案の定二人がキレた。  
 
「むきーーーーっ!な、なによこのコ!?」  
「は、離れなさい!このマセガキ!」  
「なんて言葉づかいよあんた、人間社会に毒されすぎじゃないの?  
 純朴な天然素材が持ち味じゃなかったの、あんた?」  
「よ、余計なお世話ですわ!ああ、いま、ヒトミさんの気持ちが  
 少しだけ解りましたわ…新参者がキツネくんに馴れ馴れしくするのって…  
 すごくすごくすごく…すっごくムカツキますわ!」  
「あーちょっとは解りあえたかもねぇって!イヤ、そうじゃなくて!  
 キツネくん!?あんたもちょっとは嫌がったらどうなの!?」  
「いやぁこんな可愛い子をじゃけんにはできないだろー?」  
「鼻の下!」  
「んにゃーーー(ハート)」  
 
 
第二話、了。  
 

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