【 3 】
「すごいんだよッ? コーヒーなのにね、チョコレートみたいな匂いがするんだ」
説明のひとつひとつに大きく手振り身振りを添えてはカルアンは今日の出来事を、さらには自分の中の感動と衝撃とを伝えようとする。そしてそんなカルアンを前に、
「ほほう、チョコレートみたいな香りのコーヒーかい」
彼の祖父は好々爺然とした笑みを浮かべた。
場所はカルアン宅――夕食後の話である。
「そういう言うコーヒーも無いことはないぞ。グァテマラも種類によってそんな香りがする」
言いながら祖父もまたメガネを直して小さくうなづく。中肉中背で温和な雰囲気の祖父は、カルアンを成長させてそのまま老けさせたかのよう和やかだ。
そんな似た者同士ゆえか、カルアンは幼少の砌から祖父とは相性が良かった。件のコーヒー好きになったきっかけもこの祖父であったし、同年代の子供がいないこの村においては
祖父こそが親友であり、そして出稼ぎに出ている両親の代わりともいうべき存在であった。カルアンの最も信頼できる大人である。
そんな祖父にカルアンは今日出会った少女チャコのことを、そして新しくできた喫茶店とそこで知ったあの不思議なコーヒーについて語ったのであった。
「そうなの? でもね、僕すごく驚いたんだ。だって本当にチョコだったんだもん」
興奮から立ち上がり語り続けていたカルアンはやがて、祖父の傍らに移動しその膝の上に乗り上がる。
そこから振り向くよう首をひねっては祖父を見上げ、カルアンはそんなコーヒーの説明をしていく。
そして、
「それでね、そのコーヒーについてチャコったら何も教えてくれないんだよ? 名前はね、『コピ・ルアク』っていうんだ」
「コピ・ルアク……かい?」
ついにカルアンの口からそのコーヒーの名が紡がれた瞬間、祖父は思わず言葉を失った。
見上げるその表情は驚いたよう瞳を開いてはせわしなく瞬きをするあの、チャコの表情と同じものであった。
「もしかして、そのコーヒー知ってるのッ?」
そんな表情に『もしや』とその一瞬、カルアンの期待も高まる。もし祖父がそれについて知っているのならば、カルアンの疑問はすべて晴らされるのだ。
そうして振り返り、祖父の膝の上を完全にまたいでは胸へすがるカルアンを前に、
「あー……いや、聞いたことがないのぉ」
我に返ったのか祖父は、絡ませていた視線を宙に泳がせてはあごひげを弄んだ。
「本当? 本当に知らないのぉ?」
「世界は広いぞ、カルアン。わしの知らないコーヒーくらい、この世にはごまんとあるて」
そうして言い諭す祖父の言葉にカルアンもため息をつく。同時に祖父もまた、この追及が止んだことに小さく嘆息を漏らす。
「しかし、そのコーヒーも気になるのぉ。カルアンや、明日はわしもそこに招待してやくれんかね?」
「もちろん! そのつもりで今も話してたんだ。一緒に行こうねー♪」
「ふむふむ。それにしてもコピ・ルアクか……」
かくして翌日の昼下がり、カルアンは祖父の手を引いて再びチャコの店を訪れるのであった。
昨日同様、中庭から家屋のベランダへ入るとそこにはゆったりと豆を挽いているチャコの姿。
「チャコー、こんにちわー♪」
それを確認して嬉しい気持ち一杯の元気な挨拶をするカルアンに気付き、
「あら、こんにちは。今日も来てくれたの?」
チャコもまた豆を挽く手を止めて、カルアンへと笑顔を返した。
「うん、こんにちは。どう? あれからお客さん来た?」
挨拶もそこそこにカウンター席に座りチャコの前へ陣取ると、カルアンは期待した様子でそんなことをたずねる。
「ううん、全然だよー。今日だって、君がお客さんの第一号」
言いながら笑うチャコとは対照的に、あからさまなまでに落胆の表情を浮かべるカルアン。とはいえしかし、看板も出していない昨日今日出来た喫茶店の存在など他の村人が知ろうはずもないことと説明を受け、カルアンも前向きに気持ちを奮い立たせるのであった。
そんな世間話の傍ら、
「あら、そちらの人は?」
カルアンの背後で、店内の様子を目を細めて見まわしている祖父の存在に気付きチャコは声をかける。
「はじめまして、お嬢さん。こちらのカルアンの祖父でアルクルといいます。大変美味しいコーヒーが飲めると聞いてやってきました」
ハットを取り、和やかに挨拶する祖父にチャコにも自然と微笑みが漏れる。こういった他人を和やかにさせてしまう雰囲気はカルアンとよく似ている。
「はじめまして、アルクルさん。そう言われちゃうとなんか緊張しちゃうな」
「いつも通りに淹れてください。『コピ・ルアク』が飲めると聞いて、昨日は寝付けませんでしたよ」
いいながらカルアンの隣に座る祖父を前に、チャコはその一瞬、驚いたよう眼を開いて彼を凝視する。その表情は奇しくも昨日、『コピ・ルアク』を知らないといったカルアンに見せた表情を同じものであった。
とはいえしかしその心境は、今と昨日とでは全く逆である。
「えーっと……もしかして、知ってます? アタシのコーヒーのこと」
「とても美味しいと聞いています」
チャコの鹿爪ぶった質問に対して、さらに思惑めいた答えを返す祖父。
しかしながら、こうとしか返しようがないのだ。
実際のところ、この祖父は彼女の出すコーヒー『コピ・ルアク』のことを知っている。それゆえにチャコが、何も知らないカルアンに対して秘密を貫いたことまでも。
だからこそ、この返事であったのだ。
カルアンを前に自身がコピ・ルアクについて知っていたことを悟られまいよう秘匿するのと同時に、一方でチャコには全てを知りながら受け入れることを示すための、祖父なりの配慮であった。
「アルクルさん……」
チャコはそんな好々爺と、何も知らないカルアンとを見つめる。
そしてそれを知ったからこそ、
「――今日はありがとうございます。精一杯、淹れさせていただきますね」
チャコは今日一番の笑顔を光らせるのであった。
かくして昨日同様に挽きたての豆をネルにセットしてドリップを始めるチャコ。
粉の中央で細かに円を描いて湯を刺していくと、粉は美しく均等な丸みを帯びて膨張し、ハンバーグ状のきめ細やかなドームをネルの上に作り出す。
「ふわー……この匂いだよ、おじいちゃん。でも昨日よりももっといい匂いだあ」
「ふむ、これ確かに。胸の奥底が暖かくなるような良い香りだ」
膨らみ豊かなドームは鮮度の良さの証拠である。カルアンの言うよう、昨日以上にチャコのコーヒーは豊潤なその香りを店内に漂わせた。
蒸らしの工程を経ると完成も間近だ。
ドームがしぼみ、その中で滞留していた湯が落ち切る状況を見極めて、チャコは最後の注湯をする。淹れ初めとは違い、注湯の軌道をブラさぬよう粉の中央へストレートに湯を差しては、きめ細やかな泡が立つよう慎重にドリップをしていく。
そしてネルの下に設えられたガラス製のサーバーに、カップ二杯分のコーヒーが抽出されたのを見極めると、チャコはドリッパーをそこから外し、温めておいたカップへと淹れたてのコーヒーを分けていった。
そうして―――
「どうぞ。今日一番の、一杯です」
チャコは慇懃にそのコーヒーを差し出すのであった。
出されるそれを、カルアンを祖父の二人は静かに口元に運ぶ。そして一口目を口中に含み、
「んむ? すごい……昨日のよりもずっと美味しい」
「ほぉー……これはぁ」
カルアンと祖父は揃って感嘆の声を上げた。
二人を驚かせたものはまず、その香り――鮮烈に鼻の奥底を通り抜ける香りは、件のチョコレートのそれではあるのだが、けっして駄菓子めいた幼稚なものではない。香りの甘さの奥深くにはしっかりと豆自体の香味が、
チャコのコーヒーの甘さを支えている。
そしてその奥底に僅かな酸いの風味を感じた瞬間、かの酸味は得も言えぬコクとなって喉の奥に広がり、そんな味の輪郭をはっきりとさせた。
酸味が広がるほどに甘味とチョコレートの香りとは舌全体に広がり、そしてその味わいを確認すると、今度は酸味とそれに準ずる香りとが新たに喉の奥で発生しては、飲む者へ味の変化を楽しませてくれるのだ。
その味わいはさながら協奏曲(コンチェルト)である。
チョコレートの香りと苦みとが織りなすソナタを基調として、そこに酸味や甘味といった味わいの楽章が重なり、終には再び甘い香りの再現において幕を閉じる――今日の日に淹れられたチャコのコーヒーは、もはや
飲み物の域を超越した感動と夢想とを二人へ魅せてくれたのであった。
そんな一時の夢を飲みほし、終始掌に持ち続けていたカップをソーサーへ戻すとしばし――祖父は大きくため息をついては余韻に浸る。そしてその隣では、昨日以上に興奮した様子で祖父とチャコとを交互に見やるカルアン。
「すごいよ、チャコ。昨日よりもずっと美味しい。どうして? 豆替えたの?」
「んふふー、そう言われると恥ずかしいなあ。今日のはね、炒りたての本当に新鮮なやつだったの。でも嬉しいな、そんな味の違いに気付いてくれるなんて」
カルアンに応えながらも、チャコはちらりと目の端で祖父の様子もうかがう。むしろ今日のチャコの興味は、この祖父にこそあったからだ。
それに気付いてか祖父もまた顔を上げると柔和な笑顔で礼をひとつ。
「たいへん美味しかった。お世辞なんかではなくね」
「本当ですか? ありがとうございます。……少しほっとしました」
祖父のそんな言葉に安堵で胸をなでおろすチャコ。そんな彼女を前に祖父はなおも続ける。
「このコーヒーは、あなたが『作って』いるのですよね?」
そんな質問に、チャコも依然として笑顔のまま小さくため息をつく。
「……そうです。豆を選んで、そこから全部アタシが『作り』ます」
「そうですか。昨日うちのカルアンからも聞いたと思いますが、このあたりにはコーヒーを飲むという習慣がありません。それゆえに、あなたのお店とそしてコーヒーは好奇の目にさらされてしまうことになるやもしれません」
「…………」
続けられる祖父の言葉にチャコは僅かに表情を伏せ視軸をずらす。
いま祖父がチャコに対して告げてくれている忠告は、まさに彼女の不安を的確に言い表せたものであったからだ。
しかし、
「それでも、私はあなたにコーヒー作りを辞めないでもらいたい」
祖父はその締め括りにハッキリと告げた。
「このコピ・ルアクは、私が今までに飲んできたものの中でも最高の味でした。あなたの優しい人柄が伝わるような素晴らしいコーヒーでしたよ」
そんな祖父の言葉に息をのむと、チャコはその頭(こうべ)を上げて彼を直視する。
「アルクルさん」
「きっとこのコーヒーと、そしてあなたの素晴らしさはみんなに理解されるはずです。それまではどうか頑張ってくださいな」
半ば一方的に告げると祖父は立ち上がり、カウンターに置いていたハットをかぶり直す。
「カルアン、今日は素敵な喫茶店に招待してくれてありがとう。おじいちゃんは用事があるから先に行くけど、お前はゆっくりしておゆき」
そしてカルアンに対しても一言添えると、祖父はチャコの店を後にしてゆくであった。
しばしその後ろ姿を見送りながら小さくため息をつくチャコ。
「素敵な人ね。あなたのおじいちゃんって」
視線は依然として彼の消えたドアのそこへと向けられている。
そして大きくうなづいてそれを振り切ると、
「やる気出てきたーッ。カルアン、アタシ頑張るよ」
チャコは今まで以上にまぶしい笑顔を咲かせるのであった。
「突然だけど、今日はケーキも焼いてみたんだ。カルアン、味見してくれない?」
「いいの? いくらでも大丈夫だよ、僕♪」
かくして、気持ちも新たに経営意欲を燃やすチャコ。
この村での喫茶店が始まったことを、チャコは改めて実感するのであった。
【 4 】
チャコと出会ってから一週間が過ぎた。
その間カルアンは足繁く彼女の店に通ってはそのコーヒーの秘密を解明しようと躍起になるも、もはや自分の知識ではチャコのコーヒーの解明は出来ないことに彼もまた気付きはじめていた。
ならば直接チャコの口からそれを聞き出せないものかと、あの手この手と話題を振っては聞き出そうとするも、やはり彼女の口からそれが語られることはない。それどころかチャコが話す、
他の森の話があまりにも楽しくてついカルアンも本来の目的を忘れて彼女の話に没頭してしまうのである。
そうして煩悶とすること一週間――ついにカルアンは、最後の手段に出ることを決意する。
それこそは、彼女チャコの生活を盗み見ることで例のコーヒーの秘密を探ろうとすることであった。
とはいえその行為に罪悪感が無かったわけではない。
否、素直な心の内を吐露するならば、いま早朝の朝霧の中を歩いているこの瞬間もなお、そんな葛藤は自分の心の中で押し合いへしあいをしている。
それでもカルアンはそれを振り切った。それほどまでにチャコのコーヒーはカルアンを魅了してやまなかったからだ。
「せめて、バレないようにやるから……許して、チャコ」
歩みを止めて立ち止まると、カルアンは靄にかすむチャコの家影に両掌を合わせては祈りをささげるのであった。
かくして彼女の家に到着するカルアン。
時刻は午前5時――夏前の今ではすでに日も高く、いまひとつ『忍んでいる』といった実感がわかない。それでも早朝ということもあってか周囲にカルアン以外の人影はなく、またこの時間帯に
発生する朝霧のおかげで、カルアンは誰の目に止まることもなく彼女の家まで辿り着くことが出来た。
「もう起きちゃってるかなぁ?」
あれほどまでに秘密にする謎のコーヒーなのだ。
早朝、あるいは深夜にこっそりと豆の仕込みを始めているのやもしれないという期待を胸に家屋の裏手へと回りこむカルアン。
件の場所には彼女のトラックが停められていて、そこの荷台に上るとちょうどキッチンの小窓にカルアンの視線は届くことが出来た。
いつも通っている店内側の反対に位置するそこが、ちょうどキッチンの裏手になる。そこから内部の様子がうかがえないものかとカルアンは考えたのだ。
そして物音立てぬよう、慎重にそこから覗きこむキッチンの内部――しかしながら静まり返ったそこに人の気配は無い。
「あれ? まだ起きてないの?」
すっかり肩すかしをうけて後ろ頭を掻くカルアン。とはいえ、勝手に期待していたのは自分であるわけだが。
「寝てるのかなぁ? チャコの部屋ってどこだろ」
ならばとトラックから降り、さらにカルアンは家の外壁に沿って歩き出す。
件のキッチン裏を過ぎて少し歩くと、今までにない大きな窓に辿り着く。
もしかしてと思い、屈みこんで近づいてはゆっくりと窓を覗き込むカルアンのすぐ目の前に――誰でもないチャコの顔があった。
その突然の出現にカルアンは、心臓が喉からあふれるのではないと思わんばかりに驚いて首を引っ込める。
――ち、チャコがいた……! すぐそこに! バレちゃった……!
思わず鼻頭(マズル)と口元を両手で覆っては、息を止めるカルアンではあったが……いつまで経っても周囲は早朝の静けさのままである。
その様子にいぶかしみ、カルアンは再びあの窓を外から覗き込む。
耳を伏せ鼻先の立てて、恐る恐る覗きこむそこには――誰でもないチャコの寝顔があった。
なんてことはない。たまたま彼女の横たわるベッドが窓際に設置されていたというだけであったのだ。
まだバレてはいなかった。それどころか依然として彼女もまだ夢の中である。
そのことにカルアンは安堵する。
しかしながらカルアンの受難はまだ尽きない。
こともあろうか、今度はそんなチャコの寝姿から目が離せなくなってしまった。
目鼻立ちの整ったチャコの寝顔は僅かに微笑んでいるかのよう穏やかで、それを見守るカルアンは吸いこまれるかのように見惚れた。
また夏先という時節もあってか素肌の上に寝巻のシャツを一枚羽織っただけの胸元は露わに開き、右を下にする姿勢と相成っては凝縮された豊満な胸の谷間が惜しげもなくカルアンの前に晒されているのだ。
――な、なにこれ? 頭がクラクラする……チャコすごく綺麗……
そんなチャコを前に昂鳴る胸の鼓動へめまいを覚えては、カルアンはそれを振り切り、窓の下に座りこんだ。
そこにてようやく深く息をつき、我に返るカルアン。
――まだドキドキしてるー……。なんだろう、こんな風にチャコが見えるなんて……?
まだ二次性徴すら迎えていない少年には、いま自身に起きている心の在り様――さらには肉体の変化の理由など理解出来ない。ただただ、チャコの寝姿に見惚れては煩悶とし罪悪感に苛まれるばかりである。
と、そんな折――窓の向こうでベッドの軋む音とチャコの起き上がる気配を察し、カルアンは両肩を跳ねあがらせた。
地面に這いつくばってさらに姿勢を低くすると、自分の存在を察知されないよう息を殺してその場をしのぐ。
しばしして家の中からは彼女チャコがベッドから降りて別な部屋へと移動していくであろう足音――その様子に恐る恐る頭を上げて室内を覗き込むと、そこには寝室から去りゆく瞬間の後ろ姿と尻尾が見えた。
「ついに動いた……ッ。キッチンかな?」
それを確認し、カルアンも来た道を返る。
キッチン裏まで再び戻ると、物音をたてぬようトラックの荷台へと登り、そこから厨房の小窓を覗き込むのであった。
そしてカルアンの視界にはついにキッチンへと現れるチャコ姿が……!
――やっと……やっとあのコーヒーの秘密が分かるんだ!
そんな過度の期待を胸にそれを見守るカルアンとは対照的に、アクビながらに水道の蛇口をひねりグラス満たした水を飲むチャコの姿は悲しくなるほど現実的で呆気ない。
その後もチャコの一挙手一投足に反応しては彼女のコーヒーの秘密解明に期待するカルアンではあったが――結局チャコはというと、なんてことのない朝食の準備をしてそそくさと喫食の店内へと歩き去ってしまうのであった。
その一連の行動を見届け、
「…………ッはぁ〜」
カルアンは落胆に頭を垂れては深くため息をついた。
早朝から張りこんでその結果がこれではあんまりすぎる。
とはいえしかしカルアンもすぐに気を取り直す。
「まだ終わったわけじゃない。もしかしたら、これから何かあるのかもしれないんだ。諦めないぞ」
意欲も新たに、再び探究心を燃やすカルアン。
少年の長い一日が幕を開けた。
【 5 】
カルアンが監視するチャコの一日それは、なんとも緩慢でそして平和なものであった。
朝食を終えて食器を洗うとチャコは、いつものあのエプロンを身につけては店内の掃除を始める。埃を払い床を掃き清め、念入りにモップ掛けをして店内とさらにはテラスに至るまでを念入りに掃除するのだ。
その後は食器磨きを少々。午前中に店を訪れることの多いカルアンは、よくこの作業中のチャコを目の当たりにしていた。それが今日はグラスである。
――えらいなぁ、チャコ。毎日掃除と食器磨きやってるんだ。
そんな彼女の真摯な経営態度に思わず感心してしまうカルアン。
と、そんな折――
『――はぁ。今日は、カルアン来ないのかなぁ?』
ふとグラスを磨いていた手を止めたかと思うと、チャコはそんなことを独りごちて鼻を鳴らす。そんなチャコの呟きに、思わずカルアンは胸を抑える。
その一瞬、気のせいなどではなく胸が熱くなった。なぜかとてもそんなチャコの一言が嬉しかったのだ。
チャコが日頃から自分のことを考えていてくれたことが、初心(うぶ)な少年の心を激しく駆り立ててやまなかった。
――チャコ……僕だって、僕だって今すぐ会いに行きたいよ!
そんな声にならぬ叫びを胸の内で吠え猛ては、恋情に眉元をしかめた熱い視線をチャコに投げかける。
それでもしかし、カルアンは行けない。
なぜならば今は彼女のコーヒーの秘密を探る為にこうして朝から潜んでいるのだ。ここで飛び出して行ってしまっては、今までの行為――さらにはその熱意がすべて台無しになってしまう。
……とはいえしかし、それも建前。
実際のところカルアンは、自分でも気付かずに意固地になっていただけだった。
頭ではもう彼女のコーヒーの秘密などどうでもよくなっている一方でしかし、心では一度決めたことをやり通すというつまらない意地が働いて、今のカルアンを素直にさせないでいる。
ゆえにチャコの前に出ていけないカルアンは独り、そんな葛藤に身悶えては煩悶とするばかりであった。
かくして昼過ぎになり、昼食の準備を始めるチャコ。
今度は朝と違いキッチンでそれを摂る様子に、カルアンも持参していたサンドイッチを取り出してはそれに相伴することにした。
と、あることに気付く。それはチャコの食事の内容であった。
彼女の目の前にはスープ皿に盛られた赤い果実が一山――それが浸る程度にミルクをそこへ入れると、チャコはそれを食べ始めるのであった。
食事の内容はそれだけである。そしてそれは、朝食ともまったく同じメニューであったことを思い出してカルアンは首をひねった。
「フレークでもないし、あの赤い実って何なんだろう? 色の感じから果物かなぁ」
時折り唇をいの字に噛み締めるチャコの口元からは、あの赤い実にはそこそこの歯応えがあるようにも見受けられた。
結局のところ、チャコの食べていたものの正体も分からないまま二人の昼食は終わる。
午後になり、微塵として来訪者の気配もないチャコとカルアンの時間は、さらに緩慢と流れた。
キッチンからカウンター席に頬杖をついては店内と、さらにはテラスから中庭の様子を眺めるチャコが大きく欠伸をするたびに、それを見守るカルアンもまた眠気をこらえて欠伸を重ねるのであった。
――なぁに〜? 一向に動かないじゃん、チャコ。何かやってよぉ……。
覗き見をしている身勝手を棚にあげてわがままを言うカルアンは、手持無沙汰も相成ってトイレに立つ。
裏口に広がる雑木林のさらに奥へと入っていくと、そこな藪の一角で小用を足しながら、
「そういえばチャコって……今日はまだトイレに行ってないなぁ」
ふとそのことに気付く。
思い返してみれば朝起きてから今までに至るまで、カルアンはチャコの姿を見失ったことなどは無かった。つまりそれは本日、彼女が一度たりとて排泄をしていないことを示している。
しかしながらすぐにその疑問などは霧散して、そんなことを思いついたことさえカルアンは忘れてしまうのだった。
チャコの排泄の有無など、彼女のコーヒーの秘密などにはもっとも関係のないことである。……はずであった。
それゆえ後に、カルアンは今日までの人生最大の衝撃をこの日体験することとなる。
☆ ☆ ☆
その事件が起きたのは、陽もすっかり暮れてようやくチャコが店仕舞いをした直後のことであった。
テラスに出していたテーブルと椅子とを店内へ運び込むと、チャコはサッシの引き戸を閉じて戸締りをする。
「はぁ〜……終わった〜。長かったなぁ」
その様子を見届けて大きく伸びをするカルアンとシンクロして、奇しくもチャコもまた両腕を上げては胸をそらし、大きくため息をついた。
懐を探り懐中時計を確認すればすでに時間は午後七時を回っている。
「結局なにも分からなかったなぁ……今日は出直そう」
慣れぬ監視に疲弊しきっていたこともあり、今日の収穫は諦めて帰宅を考えたその時であった。
ふと見下ろすキッチン内のチャコに不穏な動きを発見してカルアンは目を凝らした。
自分一人だというのにしきりに周囲を気にしては何度も戸締りを確認しに店内とキッチンとを往復するチャコ――特に窓をカーテンで遮り、執拗に外部からの目を気にするようなその仕草にカルアンもメガネのずれを直しては注目する。
「ん? もしかして……もしかして?」
そう。チャコのコーヒー作りの秘密がわかる瞬間が突如として訪れた――それを予期したカルアンの胸はその音が喉から外に漏れるのではないかと思うほどに大きく高鳴る。
そしてそんなカルアンの期待はしかし――おおよそ最悪の形で叶えられることとなる。
あいにくにも覗き見されているキッチン小窓の死角に気づかぬチャコは、黙々とその準備を進めていく。
――豆はなにを使うのかな? 焙煎に秘密が? それともその前にもっとなにか特別なことしてるの? 早く見せてよチャコ……!
覗き見る小窓のガラスが曇るほどに鼻先を押し付けては目下のチャコの一挙手一投足を凝視するカルアン。そしてその視線の先には、サラダを盛り付けるような大皿を両手に調理台の前に立つチャコ。
そして次の瞬間、カルアンはチャコの取った意外な行動にくぎ付けとなる。
大皿を調理台の上に置いたチャコは、こともあろうか自身もまたその上へと登ってしまうのであった。
――え? なに? 台の上に乗っちゃうってどういうこと?
どう想像を巡らせてもチャコの行動の意味が理解できないカルアン。
更には前掛けの裾をめくり屈みこむと、チャコは大皿の上へ尻を誘導する。膝を折りたたみ、つま先を立てて股ぐらを開くその姿勢は、野外にて排泄を行う際のそれに良く似ていた。
足を畳むことで凝縮されたチャコの下半身は肉厚を増して、尻の石づきと股間のクレバスを形成する恥丘とが盛り上がる。そんな突然の光景を前に、見守るカルアンの頭の中はかつてない興奮で真っ白に曇った。
――本当に……本当に何をするのチャコ!? 分からないよ! 分からないよ!!
今にも弾けて胸の内を破りそうになる鼓動に眩暈を感じながらそれを凝視するカルアン。その前で四つに折りたたんだ布巾を股間に当てるチャコ。
そして、
『んッ……んんッ………!』
一呼吸した後、吐く息を胸に止めてチャコは息ばむ。
腹部が締り、股間に当てた布巾には薄く色が滲む。そして貝の呼吸管のようせり出してきた肛門が臀部の影の中央から頭をのぞかせた瞬間――チャコは大皿の上に排泄をした。
そんな光景を前にその一瞬、カルアンは引きつけるように一度痙攣した。
もはや何も考えられない。目の前で繰り広げられる見知ったチャコの痴態……肛門は虫の腹部のよう波打っては便を送り出し、括約筋の疲労とともにその口を閉じては便を断ち切る。
そうしてチャコは皿の上へと黄褐色の便を三切れひりきってその行為を終えた。
股間に当てていた布巾で尻を拭き清め、調理台から降りるチャコ。その後はトングを使い便をほぐしだす光景に、
「はぁはぁ………んぐッ!」
こみ上げる嘔吐感に我に返り口元を押さえるカルアン。
マズルを両手で覆っては必死になって食道に競り上がってくる内容物を抑えこむ。苦しみから瞳をきつく閉じては眉元をしかめるカルアンはしかし、それでもチャコの行為から目が離せない。
便をほぐす彼女の手元はどこまでも迷いなく淀みない。そしてその行為が自分の便の中からある特定の物体を選り分けるための作業であることにカルアンは気付く。
便の中に埋もれたトングの先に何やら豆のような白い物体がつまみ取られていた。大麦のよう中央に溝の入った楕円のその形――それこそは紛れもない、焙煎前のコーヒー生豆であった。
それらをひとつづつ、形の割れているものと選別しながら除けては別皿の上へと取り分けていくチャコ。しばしその作業を続けると、皿の上にはカップ三杯ほどの生豆が盛りつけられていた。
その作業を終えると形の整わなかった豆とともに大皿の上の便をゴミ袋へと投下して、上から幾重にも袋を重ねては厳重に縛り密封する。そして形の整った生豆をシンクへと運ぶと、チャコはひねった蛇口から勢いよく水流を当ててそれを洗い始めるのであった。
一粒一粒を親指の腹で揉むように濯ぎ、さらにはセンターの割れの中へは爪を立てて念入りに洗っていく。
そんな光景を見ながらもカルアンはまだ、
――違うよね……違うよねチャコッ? そんなのが、君のコーヒーの秘密なんかじゃないよねッ!?
祈るよう縋るよう、割れ鐘のごとく鳴り響く頭痛の中で願い続ける。
やがては洗ったそれをザルにあけるとタオルで包みこむよう丁寧に水切りし、チャコはシンク下の棚から柄のついた金笊と川手袋とを取り出した。
半月に蓋の開閉が可能な金笊は、コーヒー豆を焙煎する際に使う器具ある。その中へ先の豆を入れると金笊のふたを閉じ、そこをクリップで固定してチャコはコンロの火へとかける。
弱火でじっくりと加熱しながら笊を揺するとやがて、水分の無くなり始めた豆からは薄皮(チャプ)の脱皮を始める破裂音。そこからさらに根気よく揺すり続けると、次第に豆は褐色に色付きだしてはピチピチと二回目の破裂(はぜ)と共に強く香りを発せ始める。
たちどころにキッチンに充満する香ばしいそれ。そして件の覗きこむ小窓からも漏れてきたそれが鼻孔をくすぐった瞬間、カルアンはチャコのコーヒーの秘密を全て把握してしまうのであった。
あれほどまでにカルアンを魅了したあのコーヒーの正体――それこそは、チャコの排泄物に他ならなかった。
「う……うわぁ………」
強いめまいと共に後ずさると、腰砕けた足元はもつれてカルアンは大きくトラック荷台に尻もちをついた。
その大きな音に驚いて顔を上げるチャコ。一方で這うように荷台そこから降りては震える足で走りだすカルアン。
もはや転倒の際にメガネを振り落としてしまったことすら意に介さず、カルアンは逃げるように帰路を走る。
「はぁはぁはぁ……ッ」
秘密を知ってしまったことによる恐怖と嫌悪、
「あぁ………あぁッ!」
裏切られたことへの愁嘆に重ねて自己嫌悪―――胸中に満ちるありとあらゆる想いに我を見失いながら走るカルアンは
「うわぁぁぁあああああああッ!!」
いつしか声を上げて泣き出していた。
その一方で、
「誰? 誰かいるの?」
裏口から表へと出たチャコは音がしたトラックの周辺を見渡す。
そんな荷台の一角に、月明かりを反射(かえ)して煌めく何かを見つけチャコはその上へと上がる。そしてそれの見失わぬよう凝視しながら屈みこみ、手にしたそれを確認して息を飲んだ。
そこにあったものは――
「あ………これって」
一個のメガネ。ラウンド型のそれは、誰でもないカルアンがいつもしているものであった。
その発見と同時に悟る。
「……ついに……ついにこの時が来ちゃったか」
カルアンに自分のコーヒーの秘密が露見してしまったことを。
言いようのない虚脱と喪失感に苛まれ、チャコは拾い上げたカルアンのメガネを胸に苦悶にしかめた顔を空へ向ける。
空には猫の瞳のような新月がひとつ―――涙のようにチャコへと月光を振り煌めかせるばかりであった。
【 6 】
落下の悪夢から目覚めた時のよう、カルアンは突如覚醒した。
依然として仰向けに寝たまま、しばし見開いた眼(まなこ)を動かしては周囲を確認する。
窓から差し込む朝陽と小鳥のさえずり、そして横たわるベッドの感触を再認識すると、
「はぁー………」
そこが自分の部屋であることを理解し、カルアンは深くため息をついては再び瞼を閉じるのであった。
昨夜の驚愕の事実――目が覚めた時にすべて夢であったことを望んだカルアンではあったが、着の身着のままで寝ている今の自分の恰好は、昨日チャコの家を訪れていたものと同じ服(もの)である。
非常にも全ては現実であった。
右へ寝がえりを打つと、今度は昨日の事実をどう受け止めるべきか考える。
己の排泄物から取り出した豆でコーヒーを淹れていたチャコ……それこそがあの魅惑の飲み物の正体である事実は、到底受け入れられるようなものではない。
しかしながら、そうではないはずなのにカルアンは悩んでいる。
それほどまでに彼女のコーヒーが魅力的であると同時に、はたして愉快犯的にあのような悪戯をするような人物に、あれだけの豊穣で素晴らしいコーヒーが淹れられるものなのかとカルアンは思うのだ。
コーヒーにはその淹れた人間の人格が反映されるという。常々祖父がカルアンに語りかける言葉ではあるが、その通りにチャコの淹れてくれたコーヒーは、飲む者を包み込んでくれるかのようなそんな彼女の人柄が知れてくるなんとも暖かいものであった。
「なにが正しいの………?」
再び仰向けに戻り、見上げる天井へ答えなど返ってこようはずもないそんな問いを投げかけたその時であった。
控え目なノックが二度、部屋のドアを打ち鳴らした。
ゆっくりと間を保って、中のカルアンを窺うように鳴らされるそれは祖父のものだ。
「ん? なぁにー?」
それを知るから寝たままの不作法でカルアンもそれに応える。
しかしながらそれに対して返された祖父の言葉に、
「起きてるかいカルアン? チャコさんが見えてるぞ」
「ッ!? ち、チャコが!?」
カルアンはバネ仕掛けのよう跳ね起きた。
はたくよう髪や耳を整えては訳もなく胸元の埃を払ったりと慌てふためくカルアンは、今になって自分がいつものメガネをかけていないことに気付いた。
「あ、あれ? メガネ……アレ無いと見えないのにぃ」
眠る時にはいつもベッドのまくら元へ畳んで置いてあるはずのそれが、今日はどこを探しても見当たらない。
やがては枕やシーツをめくってと大々的に探し出すカルアンの背後で静かに部屋のドアが開く気配がした。
「ちょっと待ってー。メガネが無いんだよう」
依然としてそれを探すことに熱心しているカルアンは、背後にいるであろう祖父へそんな言葉を投げかける。
しかしながらそこから返ってきたものは、
「やっぱりコレ、カルアンのだったのね」
高く弾むような瑞々しい声――その響きに一度引きつけて硬直し、油の切れたゼンマイのよう首を振りかえらせるそこには、
「おはようカルアン。はいコレ♪」
自分へとメガネを差し出しながら笑顔のチャコ。
そんな彼女を確認し、そして再び昨日の光景が脳裡に再生されて今重なった瞬間、
「う、うわぁぁぁ!」
情けない声を出して跳ね上がると、カルアンは尻からベッドに着地した。
そんなカルアンを前に微笑むと、近くからイスの一脚を引きよせてベッドの傍らに座るチャコ。
しばしそのまま、二人は沈黙して過ごす。
混乱のあまり何も考えられなくなっているカルアンと、一方で昨日の弁明に何から話したらいいものか思案にくれて話しだせないチャコのそんな二人。
やがて、
「……そのメガネね、昨日アタシのトラックの上で見つけたの」
チャコが静かに話しだした。
「アタシがコーヒーの仕込みをしてる時に物音がして、それを確認しに行った時にこれを見つけたんだ」
その言葉にカルアンは息を飲む。緊張と罪悪感からうつむいたまま固まってしまっている彼は、顔を上げてまともにチャコを見ることすらできない。
そんなカルアンを前にチャコは尋ねる。
「カルアン、アタシがコーヒーを作り出すところを……あなたは見たの?」
核心に触れるその質問を前にカルアンは息を止める。
なんとかして取り繕わなければと思った。
昨日自分でも振り返った通り、親しい人の生活を覗き見るなどは最低の行為だ。それをしていたことをチャコに悟られる事がカルアンは怖かった。
なんとしてもこの場はシラを貫き通さなければならない。
しかし――
「ん……うッ……あ………ッ」
言葉が出てこない。何も考えられない。そして斯様な沈黙は、遺憾にも己の不義を証明してしまうのだった。
そんなカルアンを前に、
「そう。――あーあ、バレちゃったかぁ」
一変してチャコは声のトーンを一段高くさせてはうなづく。
「気持ち悪い思いさせちゃってごめんね。騙すつもりは無かったんだ」
そうしてチャコは自分のこと、さらにはあのコーヒーのことについて話し始めた。
「最初はね、自分でもおかしいだなんて思ってなかったの。アタシの居た森じゃコーヒーって言うのはこうやって作るものだったし、みんなそうだと思ってた」
彼女の種である『ジャコウネコ』は、食したコーヒー生豆へ腸内の消化酵素や内在菌の働きによって、独自の発酵と香味を加えることが出来る体質的特徴を持っている。
それゆえにチャコ達種族だけが暮らす集落においては異例なことでもなかったその精製法も、こと外界(そと)における反応はおおむね昨日カルアンが見せたもの同じであった。
最初の異変に気付いたのは故郷からだいぶ北上したとある村でのことであった。
独り立ちをして立ち寄った一番最初の集落であった。
そこにおいて念願の自分の店を開いたチャコも、それは最初は歓迎された。
彼女の作る香り芳しいコーヒーは評判となり、村の誰もがそれを褒め称えては彼女の店を訪れた。
バリスタとしてこれほどまでに仕事冥利に尽きることは無い。やがて当然のようこのコーヒーについての質問が出たその時、彼女は屈託なくこのコピ・ルアクの説明をしてしまう。
「あの時の光景は、いまも忘れられないわ……」
話を聞いていた一人が見る間に青ざめて嘔吐するのを皮切りに、店内の客達はことごとく彼女のコーヒーを吐き散らした。
そして次の瞬間には口汚く彼女を非難したのだ。
とはいえそれも仕方のないこと。その村においては、排泄物から食料を摂るなどといった習慣などは無いのだ。それゆえに村人達はチャコが悪意を持って自分達をからかっていたのだと曲解し――結果チャコはそこを追い出されたことになった。
この時初めて彼女は『世界』というものを知った。
今までは閉鎖的な空間であった『自分の村』だけが彼女の世界であった。しかし斯様にして非難されてチャコは、皮肉にも自分という種の在り方とそして他人と言う種との垣根というもの理解した。
この瞬間、彼女の独り立ちは本当の意味を持つこととなる。
以来、カルアンのいるこの村へたどり着くまでの彼女の旅路はそれは過酷なものであった。
なまじ目鼻立ちが整ったチャコとそして魅惑のコーヒーである。
訪れた先において彼女とそのコーヒーはたちどころに評判となるがしかし、やはり最後には悲劇を以て終わりとなった。
チャコもそうなることを理解していたから、ことさらそれを隠しそして誤魔化そうと躍起になるも――最後は今回のカルアンのよう、その秘密を覗かれて、そこを去らざるを得なくなってしまうのだった。
そんな旅の繰り返しに幾度となく故郷に逃げ帰ろうかと彼女は悩んだ。それでもしかし、
「だけどね、もしかしたらこんなアタシでも受け入れてくれる場所や人達がいるんじゃないかなって思ったんだ」
チャコは種族(じぶん)自身と、そしてそこに伝わるコーヒーに誇りを持っていた。
恥じるべきことは無いのだ。必ずや理解してくれる者が現れてくる――そんな祈るような想いで訪れたのがこの村であり、そしてそこで出会ったのが誰でもないカルアン達であった。
「だからさ、アルクルさんの言葉がすごく嬉しかったの。今度こそここで頑張ろうってアタシ決めたんだ」
「…………」
己の過去を明かし、そして胸の内を語りかけ続けてくるチャコを前にしかし、カルアンは彼女の顔を見ることすらできない。ただその視線は彼女の膝元に置かれた握りこぶしを凝視したまま上げられないでいた。
――何か言わなきゃ……何か言わなきゃ……!
必死にカルアンもまた、何か彼女の語りかけに対して反応を示そうと躍起になる。しかしながら思うほどに思考は空転し、意識は縺れとりとめなくなっていく。
かくして一言として言葉が返せないまま、
「だけど、ごめんね。嫌な思い、したよね?」
それを待つ前に、チャコが静かに席を立った。
「アタシには謝ることしかできない。だけど……だけどね、これだけは言いたいの」
春雷のよう頭の上から響いてくるチャコの少し震えた声――
「アタシのことは忘れてくれても、このコーヒーだけは覚えていて。アタシのお母さんの、そのまたお母さん達がずっと伝えてきてくれた、素晴らしいコーヒーなの。だから、お願い」
消え入りそうに語尾が滲んで途絶えたかと思うと、その瞬間にはチャコはカルアンの部屋を出て行くのであった。
「ッ――、チャコ!」
その様子にようやくカルアンも顔を上げるも――すでにそこにチャコの姿は無い。
誰も居なくなった静寂の朝の光景に、カルアンも力が抜けて大きくため息をつく。緊張のあまり呼吸すらもがおざなりになっていた。
そうして独りになり、先程までのチャコの言葉のひとつひとつをカルアンは思い出していく。
行く先々で忌み嫌われたチャコとコーヒー……それでもそんな種(じぶん)とコーヒーに誇りをもっていたチャコ……最後には自分(カルアン)のせいで傷つけられたにも関わらず、チャコはあのコピ・ルアクを嫌いにならないでほしいと訴えた。
同時に思い出す。それはチャコの両手。
声の上辺は明るく装っていた彼女も、膝の上にそろえた両手は拳の色が白くなるほどに強く握りしめていた。
「……悲しみを、耐えていたんだ」
それに気付いた瞬間、
「僕は……僕は、なんてことをッ………あぁ!」
カルアンは己が取り返しのつかない罪を犯したことに今ようやく気付いたのであった。
身勝手にもチャコの私生活を覗き、さらにはその秘密を暴き、ついにはチャコを傷つけてしまった。
非難されるべきは自分だ。謝らなければならないのは自分だったのだ。
そのことにいま気付いた。
それでもしかし、カルアンはチャコの跡を追えなかった。
己の犯した罪に慄くあまり、ただカルアンは震え、そして涙を零すばかりであった。
「ごめんよ……ごめんよ、チャコ……ごめんよぉ」
ベッドへと突っ伏すと、すがるようシーツを握りしめては声の限りにそれを繰り返しては涙するカルアン。
幼く弱いカルアンはただ、届くことのない謝罪をチャコに捧げ続けるばかりであった。
.
【 7 】
チャコと別れたあの朝以来、カルアンは抜け殻と化していた。
ただ植物のよう虚無の日常を送るカルアンの中には、つねにチャコのことがあった。
初めて出会った時のことはもとより、魅惑のコーヒーの体験や二人きりの喫茶店で話したお互いの話、さらにはあの衝撃の夜とそして涙の朝――そんな彼女との想い出を繰り返すごとに、徐々にカルアンの空の躯(うつわ)にはチャコへの想いが満たされていった。
ゆえにいつも朝に目覚める時、「今日こそは」とチャコへ会いに行く覚悟を心に決めるカルアンではあったが、結局は尻込んで寝室と玄関とを右往左往するうちに一日が終わるという日々を過ごしていた。
そんな妄想と無為とに行き来するうちに一週間が過ぎた。
今更どのような面を下げて会いに行けというのか――時が経るにつれてその思いは日々膨らんでカルアンを苦しめる。
しまいには、一体いまの自分は彼女の何に対して思い悩んでいるのかすら分からなくなっていた。
それこそはあのコーヒーの正体への恐怖なのか、それともチャコへの仕打ちに対する罪悪感なのか、それともはたまた自己嫌悪か……ただ姿の見えない正体不明のそれにおびえているうちに一週間も過ぎてしまったのだった。
「カルアン、大丈夫かい?」
そんなおり祖父からの声に我へと返る。
目の前には食後のコーヒーを差し出しながら、小首をかしげて自分を覗きこんできている祖父の怪訝な表情(かお)。
「う、ううん! な、なんでもないよッ!」
そんな祖父の問いにその一瞬両肩を跳ねあがらせると、カルアンはそれを誤魔化すようコーヒーを煽っては舌を焼いた。
「それならいいんだが。なんだか最近元気が無いように思えたからね」
カルアンの不穏に気付きながらも愛と信頼ゆえに静観を決める祖父は、話題を変えようと世間話を切りだす。
しかしそれこそが、
「そういえば最近チャコさんの店が開いて無いようだが、なにか聞いていないかいカルアン?」
「ッ―――!?」
直球でカルアンの心をえぐった。
「やってない? やってないの? チャコ、お店休んでるのッ!?」
「これ。なんだね、行儀の悪い」
両手をテーブルに突いて、その上へ乗り出さん勢いで迫るカルアンを嗜めながら、祖父もその経緯を話しだす。
「一週間程くらい前になるかな? ほら、チャコさんがお前に会いに来たあの日くらいからだよ。それくらいから店を開けている気配が無いんだよ」
「…………」
「それだけじゃない。どうもコーヒーも淹れてないみたいでね。いつも店の有無に拘らず、昼過ぎには良い匂いがしてたもんだったが、最近は全くと言っていいほどそれが無い」
「……………………」
祖父の話を聞きながらカルアンの表情から生気が消えていく。瞳が濁り、鼻先が乾いていくその様子についには祖父も見かねて、
「何かあったのかい? カルアン」
一言、救いの言葉を投げかけた。
そしてそれを受けて、
「ッ………おじいちゃん、あのね」
涙をいっぱいに溜めた瞳の顔を上げると、堰を切ったかのようカルアンは今までのことを打ち明けるのであった。
チャコのコピ・ルアクの正体を知ってしまったこと、その為に最低の行為をしてしまった後悔と苦悩、そして涙のチャコを見送ったあの朝の事件――。
幼さゆえに支離滅裂にそれらを説明するカルアンの話を祖父は静かに聞いた。
そして全てを語り終え、あとはただ泣きじゃくるばかりの孫を前に、
「カルアン、聞きなさい」
祖父は出来うる限り抑揚ない声音で以てその名を呼んだ。
それに反応して顔を上げるカルアンへと咳払いをひとつ。
「人というものはね、それは複雑に出来ている。心も体も複雑ならば、それが千差万別みんな違うというのだから、ややこしいことこの上ないな」
だからこそ、と言葉を続ける。
「一度悩みを抱え込むと、いつまで経っても答えが見えない時がある。『分かる・分からない』の範疇ではなくて、『見えなく』なってしまうんだな。そういう時はね、もっとも根源的なことを思い出すようにしなさい」
「こんげんてき、なこと?」
「根っこの部分のことさ。カルアンはチャコさんのことで悩んでいるね? じゃあ、カルアンはチャコさんのことをどう思っているんだい? 好きかな? 嫌いかな?」
チャコを好きか否か――そんな祖父の問い。
しかしそれを受け入れた瞬間に、カルアンは大悟に達してしまった。
チャコとの別れを果たしたあの朝から抱えていた全ての悩み・疑問・嫌悪が全て消し飛んで、ただひとつの答えが導き出される。
カルアンは、
「僕は……チャコが、好きだ」
チャコを愛していた。そのことに気付いた。
愛していたが故にあのコーヒーの秘密を知った時、自分の中の幻想が砕かれ衝撃を受けたのだ。
愛していたが故に彼女を裏切る行為をした自分に自己嫌悪し、愛していたが故に彼女を傷つけたことを今日まで苦悩していたのだった。
そして今、愛しているからこそカルアンはチャコへの想いと、そして自分自身の気持ちに決着をつけることが出来た。
「謝らなきゃ! 僕、すぐに謝らなきゃ!」
誰に言うでもなく叫んで立ちあがると、駆けだしてはカルアンは祖父との朝食の席を後にする。
玄関を飛び出し、慣性に上半身を引っ張られながらもカーブをとるカルアン。
チャコの店までは自分の家から一直線だ。
決して遠くは無いその道を走りながらカルアンは初めてチャコのトラックを追いかけた日のことを思い出す。
あの時はここへやってきたチャコを迎えるために走った。しかし今は、去り行かんとしているかもしれない彼女を留める為に走っている。
チャコは以前にも、コピ・ルアクの秘密を知られたがゆえに住処を転々としたと言っていた――ならば、もしかしたら今回もまたそうなのかもしれない。あるいはすでに、もう居なくなっているのかもしれない。
そんな恐怖が思わずカルアンの両足を縺れさせる。
それでもしかしカルアンは粗ぶる呼吸(いき)を飲み下し、ただチャコがまだ居てくれていることを信じて走り続けた。
やがて地平の先から見えてくるチャコの店。中庭の垣根を飛び越えると、カルアンは走ってきた勢いそのままに、体当たりをするようドアに体を預けそこを開けた。
「チャコー!」
その名を叫び、店内を見渡す。
窓のカーテンが閉められて遮光された薄暗い店内に人の気配は無い。それどころか、綺麗に掃除されて家具や調度の上に埃よけのシーツがかぶせられたその光景は、まさに引越しが行われたかのような有様である。
それを目の前にしてカルアンの背筋が粟立つ。込み上がる涙と予感とを抑えながらもしかし、カルアンはさらに家の奥へと、彼女の寝室へと進んでいく。
「チャコッ? チャコぉ?」
彼女が寝ていた寝室に到着するも、やはりそこにもチャコの姿は無い。
シワ一つなく畳まれたシーツのベッドと綺麗に掃除された室内の様子がさらにカルアンの不安を掻き立てる。
――違うよね? そんなことないよね? 絶対に何処にも行ってないよね?
祈るよう縋るようにカルアンは、最後の確認をすべく店へと戻る。そしてキッチンを通り抜け裏口の前に立つと、そこのドアノブを握ったまましばし彼は動きを止めた。
不整脈を抑えるよう浅くか細く息をしながらノブを握る右手に力を入れる。
ここから通じる家屋の裏手には彼女のトラックがあるはずである。
それこそが最後の答えなのだ。
もしそれが無かった時――それこそはカルアンとチャコの本当の別れを意味するのである。
やがては心を決め、深く吸い込んだ息を胸に留めるとカルアンは力強くドアを押し開いた。
そこに広がる光景――目の前に、
トラックは無かった。
「あぁ…………」
震えた。
うなじから発生したそれは悪寒にも似た波を以て背筋を滑り全身へと伝播する。
トラック一台分の空間があいたそこには夏を前に生い茂り始めた雑草がさらさらと風に踊っては笹鳴りを奏でている。
それを前にしたまま、やがては尻からその場へとへたり込むカルアン。
しかめた眉元の表情はそのままに、見開いた瞳に貯まった涙はやがて胸を膝をと問わずにあふれだし、カルアンを濡らした。
「……ごめんなさい、チャコ」
依然としてトラックの無いそこを見つめたままカルアンは呟くようその名を口にする。
「僕は、ひどいことをしちゃった……君を覗いて傷つけて、それだけじゃなくて、あの朝だって傷つけた」
紡がれる己の言葉に堰の切られた涙はさらにあふれて床に弾ける。
「謝りたいよ、君に……ちゃんと、ごめんなさいって言いたいよ」
声が震え、涙をいっぱいに湛えた瞳をまばたきに押し切った瞬間、
「ごめんなさい! ごめんなさい、チャコー!」
ついにカルアンは声を上げて泣き出した。
一度あふれた想いと涙は止まらない。
「僕が悪かったんだ! だから帰って来て!! 帰って来てよ、チャコ!!」
ついにはその場へと突っ伏して、声の限りに泣くじゃくるカルアン。
しかしそのその時であった。
そんな背中に、
「じゃ、許してあげようかな?」
不意なその声。
それに驚いてカルアンは弾かれたよう、伏せていた頭を上げる。
その様子にさらにくすくすと小さな笑い声が起きている背中の気配にカルアンは胸の高鳴りを覚えていた。
そしてゆっくりと振り返るそこには――
振り返ったそこには――――
「勝手に家に入ってきたと思ったら、なぁに? 泣き虫さん♪」
前かがみに自分を見つめながら悪戯っぽい笑顔を浮かべるチャコが、そこには居た。
いつか見たシャツ一枚の寝間着姿の彼女。
「チ………チャコぉ!」
それを確認し、ようやくチャコの存在を実感できたと同時――カルアンは翔ぶように立ちあがり、振りかえり様にチャコを抱きしめていた。
「チャコ、チャコぉ……ごめんなさい、ごめんなさいッ。あぁ……ごめんなさい」
「うんうん。よしよし」
しばしそうして謝り続けるカルアンを抱いてやりながら、チャコも一週間ぶりであった邂逅を堪能する。
そうして気持ちが落ち着くと、
「でもさぁ、トラックはどうしたの?」
カルアンはべそをかきかきその疑問をチャコへと問い尋ねる。
「トラックの方は整備に出したの。もうずいぶんと乗り続けてたからね。でもまだ昨日の話よ?」
「すごく驚いた。もう絶対に出て行っちゃったんだって思ったんだ。お店だって休んでたって聞いてたから」
「あぁ……お店の方はねぇ―――」
軽快に話していた語尾をチャコは意図的に曇らせては視線を宙に泳がせる。
「なんっていうか……出すものが無いっていうか、出るモノが出ないっていうか……うん。まぁそのね――――」
そうして少し間をおいて、
「便秘なの」
チャコは恥ずかしそうにその告白をして、あとは笑って誤魔化してみせた。
その答えを前にもはや動揺するカルアンではない。すでにそれへ対する悩みは克服している。だからこそ、
「おなかの調子悪いの? 大丈夫?」
そんな気遣いの言葉をひとつ。
「うん、大丈夫。いままでもね、けっこうあるんだコレ。食生活が食生活だからさ」
「コーヒー豆、食べてるんだよね? 他には何を食べてるの?」
「他には何もないよ。あとはミルクとお水、それとコーヒーくらいかな」
そして返されるチャコの答えにカルアンは驚きから目を剥いた。
「そ、それだけ? 肉は? 野菜は? 体に悪いよ」
当然のごとくそれを心配するカルアンではあったがそれに対して「大丈夫だよ」とやんわりチャコは言い諭す。
「アタシ達ジャコウネコはね、それだけで十分に栄養が取れるの。うちのおばあちゃんなんて同じもの食べてるけど80歳越えたってまだ元気なんだから」
とはいえ、通じの悪さばかりは手を焼いているのだと付け加えてチャコはまた笑った。
種の特異性により栄養摂取の面では問題が無い食事も、ことさら『通じ』に関しては話がまた違ってくる。どうしても食物繊維が摂れない関係からも、こうした便秘との戦いはもはや避けられない宿命(さだめ)ではあるのだ。
「ウンチが……出づらいの?」
「うん。――とはいえ、今回の一週間モノは初めてかな? 基本的に豆が未消化で出てくるからそれが詰まっちゃってたりもするんだよね〜」
「……ご飯だって、色んな美味しいものがあるのに食べられないの?」
「そうね。だけどさ別に辛いとは思ってないよ、アタシ」
カルアンの心配そうな表情(かお)を変えてやろうとチャコはことさらおどけては明るく振舞った。
「だって、カルアンやみんなにはアタシの作ったコーヒーを飲んでもらいたいもん。美味しいコーヒーを飲んでもらいたいもの」
そしてそう応えてみせては心からの笑顔を咲かせるチャコを前に、カルアンは一度でも愉快犯的にチャコがあのコーヒーを振舞っていたのだと疑ったことを恥じた。それどころかチャコは、我が身を呈してまでコーヒー作りに情熱を注いでいたのだ。
全てはそれを飲む自分(カルアン)の為に。
それを理解すると、チャコの身を案じると同時にカルアンはたまらなくチャコのことが愛しくなるのであった。
「ありがとう、チャコ。僕、嬉しいよ。そんなチャコの気持ち一杯のコーヒーを飲めるんだから」
改めてその感謝と共に、カルアンはそっと掌をチャコのおなかに当てる。
「はやく元気になって……」
祈るようそこをさすり、そして改めてチャコを見上げると、
「チャコ、大好きだよ。君の全てが好きだ」
カルアンはその気持ちをまっすぐに伝えるのであった。
「あ………う、うん」
それを受け止めて、ついらしくもなく戸惑っては視線を振り切ってしまうチャコ。
とはいえ嬉しかった。
今日まで否定され続けてきた自分をようやく今、受け入れてくれる人が現れたのだ。それが嬉しいような恥ずかしいような――そんな実感が遅れて心に到達したその瞬間であった。
「――んッ? あ、あれ? なにこれ……すごいの来たッ」
突き上げる様な腹痛が下腹部にうねると同時、チャコは腰を引いてカルアンにすがりつく。
激しい便意が突如としてチャコを襲ったのだ。
しかもその勢いたるや今までに感じたこともないような衝撃であった。思わずチャコはカルアンにしがみついたまま膝を折ると、その場にうずくまって動けなくなってしまう。
「わ、わわ? ど、そうしたの? どうしたのチャコ?」
一方のカルアンは焦るばかり。腕の中にそんなチャコを抱いたまま右往左往としてしまうが、
「ん、くッ……だ、大丈夫だよ、カルアン。そこらへんにお皿ないかな……?」
チャコも息絶え絶えにフォローを入れる。
そんなチャコの言葉にようやくカルアンも豆の排出があるのだと気づく。
「あ……そ、そうか。お豆、出るんだね。えっと――こ、これはどう?」
「うん、いいと思う。ありがとね。じゃあ床に置いてもらえるかな」
おあつらえ向きにキッチンの上に出されていた大皿の一枚を取ると、言われるままにそれを床に置く。
それを自分の元へ引き寄せては尻の下に誘導するチャコ。
前に揃えていた両膝を開き股間をあらわにするよう姿勢を直すと、いよいよもってチャコは排泄の仕草に体位を変えた。
――うわぁ……チャコの大事なところが丸見えだぁ……。
それを正面から目の当たりにして、思わず生唾を飲み込むカルアン。
以前の遠くから覗き見ていた時と違い、今度はチャコの体温と息使いとか感じられる目の前に居るからだ。
卵のように無垢な姿をさらした恥丘の中を走る膣口のスリット――その眺めは何処までも愛しくカルアンの目には映る。
しかしながら我に返るカルアン。
「――あ、ごめんね。じゃあ僕、向こうに行ってるから」
腕に中のチャコから離れ、気まずそうに愛想笑いで取り繕うとその場を離れようとする。
もう覗き見をしていた自分ではないのだ。あの時のような罪悪感などまた抱え込みたくは無い。同時に、これがチャコにとっては神聖な行為であることもまた知ったからこそ、カルアンはそんな彼女の営みを邪魔したくはなかった。
そうして離れようとするカルアンではあったがしかし――その瞬間、すがっていたチャコの掌に力が込もると、彼女の手は強くカルアンを引きとめる。
そんな力に驚いて視線を向けるその先には、
「……お願い、カルアン。ここにいて」
自分を見つめてくるチャコのすがる様な眼差しがあった。
その視線を受けてなおさらに胸の鼓動は高鳴りを大きくさせる。
「で、でもさぁ……その、やりづらくない? なんっていうか、僕のせいで恥ずかしい思いをさせちゃうみたいな気がして」
「うん……恥ずかしいのも本当。でもね、それでもカルアンには見ててほしいの」
すがるチャコの瞳が涙で潤んだ。
「カルアンは、初めての人なの。こんなアタシの秘密を受け入れてくれて、それでいてこうしてそばにいてくれる……初めての人なの」
「チャコ……」
「だからお願い。アタシのコーヒーを作るところを最後まで見ていて」
いかにコピ・ルアクの性質上とはいえ、それでも他人の目の前で排泄に及ぶことの羞恥それは、一般人の感覚と変わらない。
それでもチャコは、そんな自分の全てをカルアンに見届けてほしいと願った。
チャコを愛するカルアン同様に彼女もまた、知らずにカルアンへと惹かれ始めていたのだ。
それを受けて、
「わ、わかった。わかったよ、チャコ。僕なんかで良ければ……そばにいるよ」
カルアンも緊張した面持ちでうなずくと不器用に笑顔を作る。
そうして膝を地に着きチャコと視線を同じにすると、そっとカルアンはチャコを抱きしめた。
「あぁ……カルアン」
そんなカルアンからの抱擁に、チャコもその肩口へ横顔を預けてはより互いの体を密着させる。
かくして、
「はぁはぁ……ん、出そう。出そうだよ、カルアン」
カルアンの腕の中、腹部にうねるような鈍痛を感じながら息ばんでいくチャコ。
そうして呼吸を止め、ひときわ強く力んだその瞬間、撹拌した液体を絞り出すかのような水音が静寂のキッチンに響く。
僅かに開き始めた肛門の間口とその奥にて栓となっているであろう便との間を通り抜けた空気がそんな音を奏でるのだ。
細く長く尾を引いて響き続けるそれが、やがては消えいるよう鳴りやんだその次には、
「ん、くぅ……! 硬いよぉ……大っきいよぉ……!」
今度はみちりみちりと肉を裂くかのような音が響きだす。
背の峰越しに見下ろすチャコの臀部からは褐色に変色した便が一切れ、直腸を体外へと引きずり出しながら排出されている様子が見て取れた。
「だ、大丈夫? すっごい大きさだよ、チャコ? お尻、壊れちゃうよッ」
「う、うん……こんなの初めてだよぉ。岩とか石をおなかの中から出してる感じ……」
「一回、切ることとかは出来ないの?」
「無理っぽい……やろうとしてるんだけど、お尻が広がりきっちゃってて力がこめられないの」
言う通りかの便が今現在通過をしているチャコの肛門たるや真円に広がりきって、本来ある淵の盛り上がりすらなだらかに引き延ばしているほどである。
そしてそんな強敵を前に、
「はぁはぁ……だ、だめぇ……もう自分の力じゃ出せない」
チャコは早々に力尽きてはカルアンにもたれる。
「そ、そんなぁ。このままじゃ本当にお尻が裂けちゃうよッ」
それを受けて動揺してしまうカルアン。
しかしながらそんなカルアンの言葉通り、いつまでもチャコの柔らかな肛門がその拡張に耐えられようはずもない。このまま裂けてしまうのだって時間の問題に思えた。
――どうにかしなきゃ……僕がチャコを助けなきゃ!
混乱の極みにありつつもしかし、この場に居合わせた責任感からチャコの救出を心に決めるカルアン。
そして彼の取った行動は――
「チャコ、いったん離れて。そしたら四つん這いになってよ」
カルアンは一度チャコから離れると、両掌を床に着かせる姿勢に彼女を誘導する。
「ん、くッ……はぁはぁ、これでどうするのぉカルアン?」
「大丈夫だよ。僕に任せて」
言われるがままにその体勢で見上げてくるチャコを前に笑顔を見せて元気づけると、カルアンはその背後へと回りこんだ?
「な、なぁに? 本当になにするのッ?」
四つん這いに突きだす尻の真後ろへと回りこんでしまうカルアンを、チャコも振り返って追っては不安そうに尋ねる。
「大丈夫だから……力抜いててね、チャコ」
そして完全に背後へと回り込み、そこの前に屈みこむと――カルアンは排泄途中であったチャコの便に指々を添わせ、それを握りしめてしまうのだった。
「ひッ!? な、なぁに? なにしてるのカルアンッ?」
当然のよう、便越しに直腸へと伝わってくるカルアンの手の動きに反応して声を上げるチャコ。
とはいえ、掌を上にして掬うように便へ触れるカルアンの右手はどこまでも慎重で、そこからはチャコを気遣う優しさと愛情とが感じ取れた。
「アタシのウンチに触ってるのッ? ダメだよ、汚いよ! だめぇ!!」
そんなカルアンの愛を感じるからこそ、なおさらに羞恥に耐えかねては涙するチャコ。
しかし、
「チャコのなら――僕、平気だよ」
カルアンも応える。
「決めたんだ。僕、チャコを支えようって決めたんだ。だからチャコも僕を受け入れて」
「カルアン……」
「一緒にがんばろうよ。ふたりならさ、きっと何でも出来るよ」
幼さゆえかカルアン自身は意識すらしていないことなのかもしれないが、そんな深い慈愛を感じさせる彼の言葉は、なんとも深くチャコの心に届いていた。
村を出て以来、表面的な人との触れ合いこそあれど、真に心を通じ合わせた相手は本当に今のカルアンだけである。
そんなカルアンが今、自分に救いの手を差し伸べてくれているという状況がチャコには本当に嬉しかった。
「………アタシ、ここに来て良かった。……カルアンに会えて、本当に良かった」
「ん? 何か言った、チャコ? 痛いの?」
「ううん。なんでもないよ」
訪ねてくるカルアンに対しチャコも笑顔を返す。
「じゃあカルアン……その、お願いしちゃってもいい?」
「もちろんだよ。――じゃあゆっくり引き抜くから、チャコも無理せずに出していって」
「わかった。がんばるね、アタシ」
カルアンからの励ましにチャコも再び括約筋へ神経を集中させる。広がりきった肛門の淵がその一瞬縮まって便を締める感触にカルアンも生唾を飲む。
そうしてチャコが再び息ばむ気配に合わせ、カルアンもまた手に添えた便を静かに引きぬいていく。
ゆっくりとではあるが、途端に今まで進行の無かった便はスムーズにチャコの直腸(なか)から排出を始める。
「ん、んん……あぁ……擦れる……お尻に中で、擦れるよぉ」
その便が直腸を摩擦する感覚に声を上げるチャコ。
硬度を保った物体が肛門から引き抜かれる時に感じられる摩擦感は、今までの排便時に感じていた感覚とはまるで違ったものである。
しかも今肛門に集中しているそれはけっして痛みだけではない。うなじが粟立つような違和感を覚えつつもしかし、逆にそれがクセになる様な不思議な快感もまた併せていた。
――なにこれぇ……いつものウンチと違うよぉ。カルアンが手伝ってくれてるから?
ちらりと背中越しに一瞥くれれば、そこには真剣なまなざしで自分の臀部と対峙しているカルアンの表情。その真面目な面持ちと今の状況とのギャップに思わず噴き出しそうになるも、同時に興奮してもいた。
そんななか、チャコの意識は再び新たな刺激によってかき乱される。
「んッ……!? んくぅ、痛ぁい!」
「え? え? どうしたの、チャコッ!?」
突然のその声に驚いては混乱するカルアン。
チャコの悲鳴の理由それこそは――
「んうぅ……ウンチの中に……ウンチの表面に、硬いのが混じってる……」
息絶え絶えに伝えてくるそれを聞いてアナルに目を凝らせば、そこには便の表面に一部浮きだした未消化のコーヒー豆がチャコの拡張された肛門の淵を歪めていた。
ただでさえ限界のそこにこの豆の感触とあってはチャコもたまったものではない。
ただ痛みに耐えては床に額をこすりつけて耐えるチャコであったが、そんな痛みとはまた別の感覚が新たに発生したことに反応する。
件の豆の突出部を肛門越しにマッサージしてくれているようなその感覚――なにか油でも付けているのか、ぬめりを帯びては包み込むように暖かく揉みほぐしてくれるそれに、チャコの痛みは途端に和らいでいく。
――痛くない、っていうか気持ちいいかも……ありがとうね、カルアン。
それに促されて再び下腹に力を込めると、あの突出部分もするりと通過してチャコは安堵のため息をつく。
「ふぅ……ありがとー、カルアン。マッサージしてくれたから、痛くなく出せたよ」
そしてその礼をいうべく振り返ったチャコは、そこに確認した光景に瞳を見開く。
そこにあったものは――自分の肛門そこへと舌を這わせているカルアンの姿だったからだ。
「えッ――ちょっと、なにしてるのカルアンッ?」
当然のごとくそれに気付いて声を上げるチャコにカルアンも顔を上げる。
「あ……ごめん。こうしか思いつかなくて」
その声と視線を受けて顔を上げると、申し訳なげに謝るカルアン。
先程肛門へ感じたぬめりと温かさとは、カルアンの舌先によって施されたマッサージであったのだ。
「だ、ダメだよカルアン。お豆の方はちゃんと洗って焙煎してあるけど、そのぉ……その、ウンチの方は……ウンチ以外の何物でもないんだから……」
排泄物の名を口にし、改めてカルアンから為されたマッサージを意識して恥ずかしくなってしまうチャコ。
「ごめん、本当にごめん。気分、悪くしちゃった? でもね……」
再度謝りつつもしかし、
「でも、僕にはこうするしか思いつかなくて」
カルアンはまっすぐにチャコを見つめる。
「最初は油か何か使おうかとも思ったんだけど、でもそれじゃせっかくお豆だけ食べ続けてこのコーヒーを作ったチャコの一週間が無駄になっちゃうような気がしたんだ」
けっして遊びではないチャコの真剣なコーヒー作りを知ったからこそカルアンは、今の痛みに耐えるチャコの行為を無駄にはしたくなかった。
そしてどうにかして彼女のサポートを出来ないものかと考えた時に思い至ったがこのマッサージ法だったのである。
「少しでも優しくマッサージしてあげたかったんだ。そう考えたらお口でするのしか思いつかなくてさ。……ウンチには、触れないようにしたよ? 」
「……もう、バカね。汚いとかって、思わなかったの?」
改めてチャコからその質問を受けてカルアンはその一瞬、きょとんと眼を丸くする。
そしてその顔いっぱいに笑顔を戻したかと思うと、
「あはは、そういやそうだったね。好きなチャコのお尻だったから、そんなこと思いもしなかった」
そう言って笑うカルアンとは裏腹に、チャコはへその奥底がきゅっと締まる様な感覚を覚えた。
それはけっして便意ではない。それとはもっと何か別の感覚――それを受けて体は如実にその反応をチャコに現わせていた。
――なにこれ? すごくドキドキするよ……それにおしっこみたいなのが止まらない……。
膣からあふれ出してきた尿とは違う何かが、股ぐらを露となって筋に伝う。
いま肛門を限界までに広げている痛みも、カルアンと一緒なのだと意識するとそれすらもが痛みには感じられなくなっていた。――否、それはある種の快感に近い。
――もっとされたい……カルアンに色んなことしてもらいたい……。
そう考えれば考えるほどに胸の鼓動は大きくなってチャコを興奮させていく。
やがて、
「カルアン……もっとして。アタシも頑張ってウンチ出すから、もっとマッサージして」
動物の子供が甘えるように尻根を突き上げるチャコに対しカルアンも表情を明るくさせる。
「わかった。僕も頑張るから、チャコも頑張ってね」
チャコの許しを得、改めてアナルへの愛撫に専念するカルアン。
それに合わせてチャコも力むと、今度は数個の豆がその表面に突出して肛門の淵を歪める。
豆に盛り上がった肛門の淵を、その上からキスするように唇でついばみさらには口の中で包み込むよう舐めては愛撫する。その間も、他の盛り上がりに関しては人差し指の腹で撫でるよう揉みほぐしてマッサージするなど、カルアンの気遣いには余念がない。
「んうぅー……! あうん、すごいよぉ……カルアン、もっとぉッ」
それを受けてさらにチャコは昂ぶっていく。
もはや先程までのように痛みへおびえながらの遅々とした排泄ではなく、より直腸と肛門との摩擦を得ようと、力の限りに息ばんではそれの通過を促していった。
そうして排泄物の筒身がカルアンの手の平以上もひり出された頃、チャコの状況にも変化が現れた。
「ん? あれ? 手ごたえが変わった。もう少しだよチャコッ」
今まで棒となって動かなかった排泄物の頭が、体外において振れるようになったのだ。その手応えの変化に手にしたそれをこねるカルアンの動きに、
「んぐぅー!」
チャコはその背をのけぞらせて声を上げた。
排泄物の尾が振れることで、直腸内に残っていたそれの頭が腸壁をえぐったからである。
それによって生じる快感のあまりの激しさにチャコは動物のような声を出しては喘ぎ身悶える。
「う、うわッ? ごめんなさい! 痛かった? 痛かったチャコッ?」
そんな突然の反応に驚いて手を離すカルアンであったが、一方のチャコは――
「だ、だい丈夫ぅ……カルアン、もっと……もっとこねって……」
息絶え絶えに床へ横顔を押しつけながら、チャコは快感に震えた声で先程の行為の続きを求める。
「で、でも……大丈夫なの? 多分だけど、これって最後の部分に豆が集中してるのか先っぽが大きく丸まっちゃってるよ……」
「先っぽ……大きくなってるの?」
その状況を前にカルアンとチャコが胸に抱く感情はそれぞれに違っていた。
さらなる拡張によってその肛門が張り切れてしまわないか不安になるカルアンと、一方では今以上の拡張と快感を期待してしまうチャコ。
「じゃあ……ゆっくり抜いてもらえる? カルアン……」
そしてチャコのおねだりにカルアンは両肩を跳ねがらせるも、
「そ、そうだね。抜かなきゃいけないんだもんね。――僕も頑張る」
斯様な温度差の違いにも気付かずに、健気にもカルアンは言われた通りにチャコのアナルそこから抜き出しにかかった。
今まで以上に慎重に引き抜きだすが案の定、先端の詰まりによって進行は行き止まる。しかしながら、
「んッ……くぅぅ……ふぅん………!」
それによって体外へと直腸が引きずり出される感触にくぐもった声を上げるチャコ。期待通りの痛みと快感とがそこにはあった。
そんなチャコの『お楽しみ』には気づいていないカルアンはというと対照的に必死である。
これ以上は抜けようにないそれに、しばしその尾を旋回させては躍起になるも、やがては今のままではどうあがいても状況が好転しないことに気付く。
そして、
「チャコ……少し、ムチャなことするよ? 痛かったら言ってね」
カルアンも最後の手段とばかりにそれを握り直す。
「…………えー?」
一方で快感の余韻からすっかり蕩けて放心状態に生返事で応えてはそれに振り返るチャコ。そして次の瞬間、そんなチャコの意識は一気に覚醒へと導かれる。
カルアンの掌は――こともあろうかチャコのそれをまた体内へと押し戻し始めたのであった。
「んぐぅッ!? な、なぁにッ? んぅうぅぅー!!」
引き抜かれていた時とはまるで違うその感触。再び下腹に圧迫感が広がるそれに息を押し殺しては身悶えるチャコ。
背筋は総粟立ち、胃にまで到達するのではないかと錯覚するほどにかのそれは硬く重くチャコの腹部を突きえぐるのであった。
やがては中頃までそれを押し戻すとその手を止めるカルアン。
「あ、あぁ……おぉッ。……か、カルアン、なぁにコレぇ……?」
「ごめんね、チャコ。あのままじゃどうやっても抜けないんだ」
訪ねてくるチャコへ本当に申し訳なさそうに謝るカルアン。
「いっそ勢いをつけて引き抜こうと思うんだ」
「い、勢いをつけて……引き抜く?」
「う、うん。チャコのお尻もずいぶん慣れて柔らかくなったから、この最後のでっぱりのところまではけっこうスムーズに行き来が出来ると思う。だから、ここから勢いをつけて一気に抜こうと思うんだけど……ダメかな?」
「…………」
その申し出に対して、なにを思っているのか黙りこくっては返事をしないチャコ。
無茶な計画を打ち明けているのはカルアンとて百も承知だ。それゆえに顔を伏せては上目遣いでチャコの反応をうかがう。
しかしながら、今チャコの頭の中を占めている考えそれは、
――ゆっくり抜くだけでもすごかったのに、出し入れなんてしたらどうなっちゃうんだろう……ッ?
そんな新たな期待と興奮であった。
そして改めてカルアンへ振りかえったと思うと、
「……いいよ。思いっ切り、やって」
チャコは興奮から震える声でそれにうなづいた。
「チャコ……」(――そんなに怖がってるのに、なんて勇気のある女の子なんだろう。)
一方でそんなチャコの様子に勘違いも甚だしい感動を覚えるカルアン。しかしながら、ともあれ二人の覚悟も決まった。
「じゃあ、いくよ? 無理そうだったらいつでも言って」
「う、うん……早く……はやくぅ……ッ」
改めてチャコのそれを握り直し次の瞬間――カルアンは力一杯に引き抜いた。
「ひぃ……――――」
先太りのそれを管内一杯に飲み込んだ直腸がそれに引きずられ、そして先太りの先端が肛門にぶち当たっては押し止められるその衝撃に、
「お゛ぉぉおおぉぉぉ―――ッ!!」
チャコは半月のごとく背を反り返らせては、屠殺される獣のような声を上げた。
「お、んおぉおおおお………す、しゅごい………すごいぃぃぃ……!」
その一抜きだけで今までにないオルガスムスに導かれてしまったチャコはただ、今も痛みとなって肛門に残る余韻へ垂涎としながら震えるばかり。
しかし依然としてチャコのそれは直腸内に残り続けたままである。そしてカルアンもまたその手を休めない。
「少し出てきたかな? もう一回いくよ、チャコ」
「……ふ、ふえ? い、イクの? も、いっかい……?」
放心として定まらぬチャコをよそにカルアンはまたしてもそれを押し籠めたかと思うと――第二撃目となる引き抜きを敢行した。
「ふぐぅぅうぅーッ!」
予期せぬそれに再び声を押し殺してはその衝撃に耐えるチャコ。
しかも今回はそれで終わりではない。
「やっぱり少しづつ抜け始めてる。チャコ、連続で行くからねッ」
今度は連続した動きを以て、カルアンはその出し入れを始めた。
押しこむと引き出すの動作がひとつひとつで終了していた先程までの責めとは違い、今の連続した動きには感覚の休まる暇がない。
一発のインパクトは薄くとも、絶えずして刺激を与えてくれるこのピストンには直腸とアナルとがしびれてくるような快感があった。
それに加えてさらには、カルアンの舌による愛撫も加わる。
今まで以上に潤滑を必要と感じた彼からの気遣いは、そんなプレイ的な快感以上に、包み込むような優しさと愛を以てチャコを癒してくれるようであった。
――すごい……すごい、気持ちいいッ。幸せ……幸せだよぉ、アタシ……!
その快感と衝撃の中で、チャコは今までにないオルガスムスの波が体に押し寄せてくるのを予感していた。
先程までの一気に体と頭を駆け抜けていくような激しいものではなく、心的な満足や多幸感をともなったそれは、チャコに生きていることの幸福を考えさせるほどである。
そしてそんな想いは、
「あ、あぁ……すき……カルアン、大好きだよぉッ」
ついには声となってチャコから漏れる。
「ッ! チャコ……」
それを受けて顔を上げるカルアン。
「僕も、僕も好きだ! 今日までのチャコも、これからのチャコも大好きだ!」
カルアンもまた応えた。
その気持ちの限りにピストンする手首にも想いの強さと、さらには愛を込めた気遣いのしなやかさが剛柔を織りなしてチャコを愛撫していく。
やがて、
「カルアン……あぁ、カルアンッ」
「チャコ……チャコぉ!」
そんな二人の心が通じ合い、さらには感情と体の波長が重なった瞬間――
「んうぅぅーッ、カルアン! カルアーンッッ!!」
ひときわ強く体を硬直させ、チャコはこの日最大の絶頂を迎えた。
体に籠る力、疲労、さらには今日まで虐げられてきた辛苦の記憶とトラウマ、そしてこんな自分であったがゆえに愛することへの負い目を感じていた禁忌感(タブー)―――それらすべてが今、カルアンの手によって解放されていた。
そんな快感の余韻の合間、僅かに体の筋肉が緩むのと同時に、ついにチャコの直腸から解放される排泄物。
今まで栓となっていたそれが外れると同時に、
「お、おぉッ? んうぅぅぅ〜ッッ! 出るぅ! ウンチッ……すごいッ……おぉ!」
腸内に蓄積されていた排泄物が一度に流動を始めた。
件の物とは違い、小腸の奥にて水分と軟度を保っていた便は一切遮られることなくチャコの広げられた肛門を通過して体外へと排出されていく。
事前に置いていた床の皿の上に乗るやたちどころにとぐろを巻いて盛られていくその勢いたるや、一匹の長い蛇がチャコの腹の中からはいずり出てきているかのような眺めですらある。
「あッ……お゛ぉッ……んおぉッ……!」
やがては一度としてひり切ることなくそのすべてを出し終えると、その快感と苦しみから上目に瞳を剥いては脱力し、チャコは一切の支えを無くし前のめりに倒れ込むのであった。
そんなチャコを――
「――あぶないッ」
寸でのところでカルアンが抱きとめる。
抱き合う二人は精も根も尽き果てて、ただ互いに寄り添うしか出来ない。
言葉もなければ動きもない――それでもしかし、すがる両手とそれを受け止める両腕からは、けっして言葉では言い表せられない信頼とそして愛とが二人を繋いでいた。
そんな幸福にしばし二人は沈黙を以て浸る。
長かった二人の一週間が今、ようやく終わりを迎えていた。
.
【 8 】
チャコの喫茶店のカウンターにカルアンは座っている――。
瞳をつむればそこには、徐々に湯の立つポットの共鳴とおごそかなチャコの点前の音が心地よくその場に満ちていた。
奏でるように豆を挽き、踊るようそこへ湯を差す――そうして優しさと愛にあふれた香りが充満するとカルアンは静かに瞳を開く。
目の前には、
「はい。おまたせ」
チャコの、柔らかな笑顔があった。
この世で一番好きな人の笑顔がカルアンの瞳(せかい)に満ちていた。
「なんか、久しぶりだね」
ついそのことが恥ずかしくなってしまい、そんなことを言うカルアン。
「ふふ、そうねー。なんか、恥ずかしいね」
それに対してチャコまた同じ心持で応える。
それでもしかしこの瞬間――好きな人と好きな物だけの空間に二人は、今までに感じたことのない幸せと温もりを感じていた。
そして目の前にはチャコのコーヒー。おごそかに両手でカップを持ち上げると、一週間ぶりとなるそれをカルアンは口元へ運んだ。
一口含むとたちどころに、香りと味わいの柔らかさが口中に広がった。
チャコのコピ・ルアクは苦みと酸味が調和する部類のコーヒーであり、それゆえに一口目には刺激的な印象を受けるのであるが――今日のそれは違っていた。
甘味と相成ったほろ苦さがやんわりと頬や舌の根に染みわたると、次いでそこを撫でるような酸味の波が口の中全体を包み込んでくれる。
従来のコピ・ルアクの個性を謳いつつもしかし、新たな優しさの面もまた香わせる今日の一杯はまさに今のチャコを現わせているかのような幸せな味であった。
やがてそれを飲み干し、
「すごく……美味しいや」
初めて飲んだ時と同じ感想をカルアンは口にする。もはや、そうとしか言い表せられようのない一杯がそこにはあった。
「へへー♪ なんせ今回は初の一週間物だからね」
それを受けて恥ずかしげに、それでも誇らしげに笑って見せるチャコ。
「うん。――でもね、それだけじゃないと思うんだ」
そんなチャコに頷きつつもカルアンはカウンター越しからキッチンの彼女を見上げる。
「こんなに君のコーヒーがおしいのはきっと……僕がチャコのこと大好きだって気付いたからだと思うよ」
まっすぐに見つめられて告げられるそんなカルアンの言葉にチャコは息をのんで体を硬くする。
それでも今この瞬間は恥ずかしさより嬉しさが勝った。
だからチャコもそれに応える。
「それは、アタシだって同じだよ。大好きなカルアンに飲んでもらおうと思って淹れたんだもん」
「チャコ……」
「ねぇ、カルアン。今日はさ、コーヒー以外のメニューもあるんだけど……それも貰ってくれる?」
「ん? いいよ。なぁに? ケーキ?」
「ふふふ、もっといいものだよ。アタシのとっておき」
その鹿爪ぶった言い回しに首をひねるカルアンへチャコは瞳を閉じるようお願いする。
そうして目を閉じて、カウンターのチャコを見上げるようなカルアンの唇を――チャコはそっと奪った。
小首をかしげて触れ合う程度の優しいキス。
彼女の鼻と唇の柔らかさを同じ場所で感じてカルアンは目を開く。
そんな目の前にははにかんだ様子のチャコ。
「ファーストキス、だよ? 大切な人の為に……あなたの為にとっておいたヤツ」
そういって幸せそうに微笑むチャコを、カルアンは胸かきむしらんばかりに愛しく思った。
そして、
「僕も、初めてだよ。そして――その人がチャコで良かった」
カルアンもまた微笑むと、そんな二人の距離は自然と近くなっていった。
互いに身を乗り出して、再び二人はテーゼを交わす。
カルアンとチャコの不思議なコーヒーをめぐる物語――切なくて幼いそんな二人のキスは、甘くてほろ苦いチョコレートの味がした。
【 おしまい 】
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