【 1 】  
 
 
 桜には花よりも若葉が多く目につき始めた春の終わり頃―――カルアンは村のものではないトラックを見つけて  
メガネを直した。  
 今にも止まりそうに徐行しながら村の中央広場を横断していくトラック。その荷台にはテーブルやら椅子の調度什器が  
一杯に満載されていた。  
「新しい人、越して来たのかな?」  
 そんなトラックの荷から村の新たな住人来訪を予感したカルアンの脚は自然とそれを追う方へと進んだ。  
 三毛猫のカルアンは、ここ西の森に住む少年である。  
 この島には彼の住むここを含めて、東西南北にそれぞれ特色の変わった「森」が存在している。こう書いてしまうと  
狭いような印象も受けるだろうが、この島全体は果てしなく広大で、場所によっては住人の確認すら出来ないような  
未開の地も多い。  
 その中においては、今カルアンが目撃したような「他所から移り渡ってくる者」などは本当に珍しいのだ。  
 それゆえにトラックを追うカルアンの脚は自然と速くなっていった。  
――誰が来るんだろう? どんな人がここに住むんだろう?  
 呼吸の弾む胸の内は、そんな期待と不安とで満たされては鼓動を早くさせる。  
 僅かに先行して走るその跡を、カルアンも見失なわまいと必死に走って追うが――それでもついには地平線の彼方に沈み、  
カルアンの視界から消え失せてしまうトラック。  
――あぁ、もう見えなくなっちゃった。でもあの方向だと僕の家に近いかも。  
 しかしながら村の地図を頭の中に思い出してはトラックの行き先を予想するカルアン。  
 今も予想した通り、カルアンの家からそう遠くないそこに空き家となっている一軒家があるのを彼は知っていた。  
 ゆえにあのトラックがそこへ到着していることを祈りながら、走るカルアンはさらに期待と息苦しさに胸を高鳴らせた。  
 件の場所は村の外れにある小高い丘の上の一軒家である。  
 走りながら見上げる視界の先に、徐々に地平からせり上がってくる家屋の屋根(あたま)が見え始めた。  
 近づくほどにそれは大きくなり、やがては辿りついて家屋の全貌を見渡せるそこに――カルアンはあのトラックを見つけて  
大きく息をついた。  
「やっぱりここに居たッ」  
 想いはつい言葉となって漏れた。  
 そして見つめるそこに、カルアンは村では見慣れない人物の姿を発見する。  
 それは一人の少女だった。  
 さらにはその、自分達とは違う彼女の珍しい毛並みにカルアンはしばし見惚れる。  
 
 黒の下地に銀のまだらが幾何学模様に並んだ少女の毛並み――村の誰のものとも違う短毛のそれは、まさに異国から来た  
彼女の神秘(エキゾチック)さをカルアンに強く印象付けた。  
 しかしその姿に見惚れたのは、けっして物珍しさからだけではない。純粋にカルアンは、少女の横顔を美しいと思ったのだ。  
 そんな少女の横顔がこちらを向いた。  
 切れ長目尻の大きな瞳が、その光彩いっぱいに瞳を煌めかせてこちらを見つめてくる視線に思わずカルアンも両肩を跳ね上がらせる。  
 遠目とはいえ正面から彼女の面を確認してカルアンはさらに身動きが取れなくなった。  
 高く、筋の通った鼻(マズル)に大きな耳とそこに先の瞳――そのパーツどれもがキラキラと光り輝いているように見えて  
カルアンは息呼吸(いき)すら忘れたほどだ。こうなってしまっては捕食者に見据えられた獲物そのものである。  
 それでもしかし、カルアンの胸に今満ちる想いはこれまでに感じたこともない昂揚とそして期待――今この一瞬の出会いを始まりに、  
自分の新たな運命が時の歯車に組み込まれたのではないかと、後に思ったほどである。  
 そんな一時、その視軸をカルアンに定めていた彼女ではあったが、やがてその顔いっぱいに笑顔を作ると、  
「おーい、君ー。村(ここ)の人ーッ?」  
 件の少女は両手に携えていた椅子の一脚を降ろし、カルアンへと手を振るのであった。  
 その声に我へと返り、大きく息を吐き出すカルアン。  
 そして改めて目の前の彼女へ視軸を定めると、  
「そ、そうだよー。君はーッ?」  
 カルアンもまた応え、そこまでの残りの距離を駆け寄るのであった。  
 互いの鼻の形が確認できるほどにまで近づいて、改めてカルアンは彼女を観察する。  
 遠目からでは大人びて見えた少女の印象も、こうしていざ至近距離で眺めると顔の所々に丸みがあって何ともあどけない。  
年の頃も自分とそうは変わらないであろう様子がうかがえた。  
「どうしたの? アタシの顔、なんかついてる?」  
 そんな正面にしていた顔が二度瞬きをして小首をひねる様に、またしてもカルアンは我に返る。今日はずっとこんな感じだ。  
「ご、ごめん。よそから来る人なんて珍しかったから。――ぼ、僕はカルアン。10歳。この先の、家に、住んでる」  
 緊張からか、なんとも説明口調で自己紹介する自分を滑稽に思うも、どうにも舌が回らない。  
 しかしそんな心配は無用で、目の前の少女はむしろそんなカルアンの誠実な様子に安堵して、今まで以上に柔和な笑顔を咲かせた。  
「ふふ。アタシはチャコっていうんだ。12歳だよ。今日からここに住みます♪」  
 先の自分をなぞって自己紹介をしてくれる彼女・チャコに、ようやくカルアンも緊張の糸が緩むのを感じた。  
「ど、どこから来たの? なんでこんなにイスが?」  
 そうなると自然とカルアンの口から言葉が出た。  
 相手は女の子、ましてや初対面の相手である。質問攻めの不作法を頭の隅では理解しつつも、溢れだした言葉と想いは止まらない。  
「へへー、なぜでしょう?」  
 しかしながら一方で受け止めるチャコもまた、そんなカルアンを迷惑そうに思っている様子はなかった。むしろ見ず知らずの土地で、  
こうして気さくに話し合える相手の出現に喜んでいるようにすら見えた。  
 
「アタシね、南の森から来たんだ」  
「南? 遠いの?」  
「うん。すっごく遠いよ。このトラックで走り続けて一週間だもの」  
 彼女チャコは南の森―――シネアダノンから来たのだと語った。  
 シネアダノンそこは、この『森』の最南端に位置する場所であり、末端からはさらにいくつもの島嶼が海を挟んで存在するという  
この世の果てとも言うべき場所である。  
 種としてあまりにも違う彼女の毛並みの理由は、そのような訳があったのだ。  
「じゃあそこの人達って、みんなチャコみたいな毛並みしてるの? 下地が黒くて、そして銀色でさ」  
「模様は人それぞれだけど、大体はそんな感じかな? カルアンはふさふさで可愛いね。毛並みもさらさら」  
 頭一つ背の高い彼女はそう言いながら背をまるめると、己の頬をカルアンの横顔にすりつけるのであった。  
 そんなチャコからの抱擁にカルアンの毛並みはタンポポのよう逆立っては膨らむ。  
 チャコの行動は何とも刺激的だ。彼女にとってのそれは当り前のあいさつのような気軽さであるがしかし、そのような風習のない  
カルアンにとってのそれは『性的なアプローチ』以外のなにものでもない。  
――甘い香りがする……チャコってチョコレートみたい……  
 鼻先をくすぐる彼女の芳香にすっかりカルアンは骨抜きにされて、ピスピスと鼻を鳴らせては正体不明の脱力感に浸るのであった。  
「なんでこんなにイスがあるのかは……なんでだと思う?」  
 カルアンから離れ、再び会話を再開するチャコではあるが、要のカルアンは未だ先の余韻から抜けきっていない様子。  
 再度チャコから名前を呼ばれ、カルアンは針で刺されたかのよう両肩を跳ねあがらせては我に返る。  
「ご、ごめんッ。――な、なんの話だっけ?」  
「もー。ボーっとしてー。――でね、『こんなにイスやテーブルがあるのは何故でしょうか?』って話♪」  
 いたずらを仕込んだ子供のようなチャコの笑顔を前に、カルアンも口角から垂れてしまったヨダレを拭い拭いに考える。  
 一人暮らしには多すぎる家財――これもまた、カルアンがチャコの引っ越しに関して抱いたミステリーの一つであった。  
「もしかして、チャコ以外にも誰かいるの? お父さんとかお母さんとか」  
「ブブー、アタシは独り身でーす」  
 答えながらイスの一つをカルアンに持たせたかと思うと、チャコもまた新たなイスをトラックから降ろしそれを抱える。  
「じゃあ、家具屋さんとか始めるの?」  
「ん〜、おしい! 『お店を始める』って言うのは正解。じゃあ、何のお店でしょう?」  
 先立って歩き出すチャコの後を追いながらカルアンは、彼女が住むであろう家屋の中へと進んでいく。  
 玄関には向かわずにすぐ脇の中庭へとチャコは進んでいった。  
 庭にはそこに面したウッドデッキのテラスがあり、サッシ窓の敷居をまたいでそこから上がると屋内には、フローリング張りにされた  
10畳程度のリビングが設けられていた。 庭に面した開放的な造りのそこには、中庭から差し込む木漏れ日と風とが、なんとも  
心寛げる空間をそこに作り出している。  
 そんなリビングに両手にしていたイスを下ろすとチャコはカルアンへ振り返る。  
 
 そして見つめる顔に思惑いっぱいの笑みを浮かべたかと思うと、  
「アタシね、喫茶店やるの。ここで。この村で♪」  
 チャコは自慢げに一連のミステリーの答えをカルアンへ告げるのであった。  
「きっさてん……」  
 一方のカルアンはそんなチャコの言葉をオウム返しに反復する。  
 目を丸くして、依然として両手にしたイスをぶら下げたままのカルアンではあったが瞬きの次には、  
「喫茶店やるのッ?」  
 彼もまた興奮した様子で繰り返すのであった。  
「そうだよー。っていうかこの村ってさ、アタシのお店以外に喫茶店とかってあるの?」  
「ううん、ないよ。それどころかコーヒーだってろくに飲めない」  
 ようやく抱えていたイスを下ろすとカルアンも鼻息荒くチャコにこたえる。  
 そしてさらには、  
「喫茶店ってさ、コーヒー出すんだよね? 紅茶は? ケーキも作るの?」  
 今までの大人しげな雰囲気を一変させて目を輝かせるカルアンにチャコも多少面喰ったようではあった。  
 そして何故にこうまでして『喫茶店』にカルアンが興奮してしまったのか――その答えこそは、  
「僕ね、コーヒー大好きなの♪」  
 そこにあった。  
「カルアン、コーヒー好きなの?」  
「うん、大好き。甘いのも苦いのも酸っぱいのも、みんな好き。おじいちゃんが好きで、僕もよく飲むんだよ」  
 興奮冷めやらぬ様子でカルアンは語っていく。  
 言うとおり祖父の影響からコーヒーに馴染みのあったカルアンにとって、『喫茶店』とはそれは特別なものであった。  
 そもそもこの辺鄙な村においては、コーヒーを嗜む習慣自体がまず無い。もしそれを求めるならば、自分で豆を購入し、それを焙煎して  
更には挽いてとそこまでしなければならないのだ。  
 ゆえに気軽にコーヒーを楽しむことができる喫茶店の存在を祖父から聞かされた時には、幼カルアンも胸を高鳴らせたものであった。  
 自分の手を煩わせることなく、専門家が入れたコーヒーをリラックスして楽しむことのできる場所――そんな夢にまで見た空間が、  
今この村に誕生しようとしているのだ。その瞬間に立ち会えているかもしれないという興奮に、柄にもなく少年が高揚してしまうのも仕方が  
ないといえた。  
「へぇ〜、ここらへんじゃコーヒーってそんなに馴染みがないものなんだ? アタシがいた森じゃいつだってどこでだって飲めるものだったけど」  
 そんなカルアンからの説明にようやくチャコも合点がいったという風にうなづいてみせる。  
 そして何かに気付いたのか再び思惑めいた笑みを浮かべたかと思うと、  
「ねぇ、コーヒー飲んでみたくない? 喫茶店のコーヒー♪」  
 チャコはカルアンに顔を寄せると鹿爪ぶった様子でそんなことをささやく。  
「ッ!? ほ、本当ッ!?」  
 そんなチャコの言葉にカルアンが反応しないわけがない。予想通りの、否それ以上の反応で聞き返してくる様子に、更にチャコの笑顔は  
明るさを増した。  
「飲みたい! 喫茶店のコーヒー飲みたい。チャコのコーヒー飲みたいよッ」  
 手前のイスの背もたれに両手を乗せて跳ね上がるカルアンを前に「ならば」とチャコも条件を付ける。  
「じゃあ、引越しの手伝いしてもらってもいい? そしたら淹れてあげる」  
 もはやそんな彼女の申し出にカルアンが断るなどするはずもなかった。  
 二つ返事でそれを了解すると、カルアンはそこから飛び出してはトラックへと駆けていく。  
「あらら。そうまでして張りきられるとアタシも心苦しいなあ」  
 その様子に苦笑いをひとつ浮かべてチャコもそれに続くのであった。  
 
 
【 2 】  
 
 かくして二人で作業もすると、チャコの引越しは二時間とすこしばかりで終了してしまった。いかに『引越し』とはいえども、所詮は  
チャコ一人分の調度と、この小さな店内に見合った什器が少しである。  
 そして、イスとテーブルとが配置されたリビングの店内をカルアンは仁王立ちで見渡す。  
 キッチンとを隔てるカウンターには脚長の丸椅子が四脚と、そしてリビング側には二脚の背もたれが対になったテーブルが三セット――  
木目のフローリングに合わせて統一されたシックな調度の落ち着いた空間は、今までにカルアンが話に聴きそして妄想(ゆめ)に見てきた  
『喫茶店』の姿まさにそれであった。  
「喫茶店だぁ……」  
 その眺めに瞼を蕩かせては満悦に浸るカルアン。  
 そんな少年へと、  
「お客さーん、お席におつきくださーい」  
 背中から誰かの声。  
 振り返ればそこには、いつの間にやら身に付けたスカートとも思しき前掛け(エプロン)姿のチャコ。いよいよもって本格的になってきた  
そんな喫茶店の気配にカルアンの昴(たか)まりは止まるところを知らない。  
「どこに座ればいいの?」  
「どこでもいいよ。好きなところに座って、好きなようにくつろいで♪」  
 キッチン越しにカウンターへ頬杖をつきながら応えるチャコを前に、「それでは」とカルアンもその前へ腰かける。  
「コーヒー淹れるところ、見てもいい?」  
「どーぞどーぞ。とはいっても、特別なことするわけじゃないから期待されるても困っちゃうけど」  
 いいながらチャコは焙煎されたコーヒー豆の入ったガラス瓶を手元に引き寄せる。そこから慣れた手つきで計量スプーン2杯分の豆をすくい出すと、  
それを手挽きミルのボウルの中へと放り、ハンドル根元のダイヤルつまみを捩じる。  
――刃の間隔をけっこう詰めてる……細挽きだぁ。  
 その行動の意味することを知るカルアンは、ただただ他人が興じる作法が面白くてたまらない。  
 やがてハンドルノブに手をかけるとチャコは、「ふん」と鼻を鳴らしてその一回転目を強く扱ぎ出す。まだ豆が砕けていない最初の数回は、  
重そうな手ごたえとともにゴリゴリと大きな音がミルから鳴る。しかしながらそれも最初だけ――徐々に手首のしなりが軽くなり、ハンドルの速度も  
一定になる頃にはシャラシャラといった軽快な響きをミルは奏で始めた。  
 そうして豆を挽き続けることしばし――手を止め小さく鼻を鳴らすと、チャコはミル本体の引き出しを開けて荒挽きしたコーヒー豆を取り出す。  
 同時にその傍らにはいつの間に準備したのか綿製のネル袋がセットされた漏斗(ドリッパー)が用意されていて、その中へチャコは先の粉にした豆を  
投入すると、返した引き出しの角を叩いては粉の一つ粒まで丁寧に落としていく。  
「――これで一段落♪ お湯が沸くの少し待ってね。戸惑っちゃったからタイミングが合わなくて」  
 そう言ってどこか恥ずかしそうに笑うチャコではあったが、それでもカルアンの眼に映る彼女の手際はそれは見事なものであった。  
――おじいちゃんや僕がやってる動きとは全然違う。やっぱりすごいや……  
 
 いかに年の近い少女とはいえ、そこはプロ。チャコの手並みにはただただ返事をするのも忘れて感心させられるばかりだ。  
 しばししてチャコはコンロにかけられたポットの様子を目の端で確認すると、素早く火を消してコンロそこから引き上げる。  
 その動きについカルアンもカウンターの中身を、チャコの手元を覗きこもうと背筋を伸ばす。  
――沸騰させきらないで火を止めちゃった。豆も細挽きでこのお湯の温度ってことは、甘みとコクのコーヒー……ブルマンかモカ?  
 ここまでのチャコの手際からそんなコーヒーの予想をして期待と、そして素人(オタク)特有の優越感に浸るカルアン。先に自分でも語ったよう、  
祖父の影響から無類のコーヒー好きを自称するカルアンは、その知識にもそれなりの自信があった。  
 今までにも手に入れられる範囲で様々な豆のコーヒーを飲んできたし、自分なりにブレンドを考えては、豆のひき方や湯の差し方までプロ顔負けに  
研究している。――つもりである。  
 だから今も、カルアンは彼女が入れるであろうコーヒーの種類を予想して一人悦に入っていたわけであったのだ。  
 しかしながらそんな小僧っ子の鼻っ柱は、次の瞬間に折られることとなる。  
 ゆっくりとチャコの手から傾けられたポットの湯が少量、粉の中央に細く置かれて一番香をかもしたその瞬間、それをわずかに嗅ぎ取ってカルアンは  
目を丸くさせた。  
「――え? な、なに? 何の匂い?」  
 自分でも何を言っているのか解らなかった。彼女がコーヒーを淹れてくれていることは誰よりも理解しているはずなのに、カルアンはそれでも混乱した。  
 あさはかにも答えを決め込んで構えていたカルアンを叩きのめした件の香りは、自分の良く知るコーヒーからは大きく掛け離れたものであったからだ。  
――甘い……チョコレートみたい。  
 その第一印象は、真っ先にそれを連想させた。  
 柔らかく包み込むような甘さのそれではあるが、それでもドリップが進み更に香りが強く充満してくるとそれは徐々にコーヒーの輪郭を持ち始めるのだ。  
 やがてはそんなカルアンの目の前に、  
「はい。お待たせいたしました」  
 白磁のカップに満たされたコーヒーが一杯、おごそかに差し出された。  
 細く立ち上がる湯気の気道をふさぐようその上に顎を差し出すと、カルアンはそのコーヒーの香りを改めて鼻孔に充満させた。  
――やっぱり甘い……でもすっぱさもあるような感じ。なんだろう? なんだろう……?  
 その正体を見極めようと躍起になればなるほど、カルアンの頭の中の答えはぼやけていく。  
 もはや香りだけでは何も分からないことを悟ると、ついにカルアンはカップを両手で持ち上げる。  
 ゆっくりと口元へ運ぶカップが近づくほどにカルアンの期待と不安とは混然となって胸を高鳴らせる。今までにこんなにドキドキしたことなどなかった。  
 そして運命の一口であるそれを口にふくみ、カルアンは大きく目を剥いた。  
 一口目に伝わる印象は強い苦みとほのかな甘み――いかに自分の良く知る従来のコーヒー像から掛け離れた香りとはいえ、舌先に感じる味わいは  
紛うかたなき『コーヒー』のそれである。  
 しかしながらそんなコーヒーはカルアンが予想していた以上に深いものであった。  
――ちょっとエスプレッソに似てる。だけど苦さが残らない……それどころか口に中に広がると甘くなる。  
 念願の喫茶店でのコーヒーなのだ。落ち着いてそれを楽しもうと思っていたカルアンではあったが、気がつけばチャコのコーヒーに失心するあまり、  
いつまでも両手に持ったカップを戻せずにいた。  
 
 少しづつ飲み進んでいくと徐々に今度は、酸味の輪郭が浮き上がってその存在を主張してくる。そしてその酸味こそが、このコーヒーの特性であるべき  
『甘み』をさらに印象付けているのだ。  
 とはいえそれも、キリマンジャロのように耳の下に広がるような強い酸味ではなく、あくまでこのコーヒーの甘みに包まれたそれである。独立した味覚なのではなく、  
いうなれば併存――この独特の甘みが持つ特性の一部とも言うべき酸味が、今カルアンを魅了している味わいの正体であった。  
 それこそは、苦みの海原に一つ浮かぶ甘みの島……そしてそこには仄かに酸いた不思議な木の実が実っている―――そんな異世界の旅を満喫している  
かのような夢想が、彼女のコーヒーを楽しむカルアンを包み込んでいた。  
 そして夢からさめれば、目の間には空のカップが一つ。  
 我へ返り改めてそれを確認すると、深く細くため息をついてようやくカルアンは手にしていたそれをソーサーに戻すのであった。  
「んふふ。どうだったアタシの作ったコーヒーは?」  
 コーヒーを入れる前と同じあの、カウンターに寄りかかり頬杖をついたチャコの笑顔を前にカルアンも口ごもる。  
 今の心境を一言で言い表すならば、ただカルアンは感動していた。  
 否、けっして一言などでは片づけられない様々な思いが胸に去来していたのだ。  
 彼女のコーヒーに出会えたことへの感動と感謝、興奮、そして高揚――そのどれもを伝えたくて必死に言葉を探すも、そのどれもが言葉にならずに  
ただ想いばかりがカルアンの幼い頭の中を往来した。  
 そしてようやく彼の口から紡がれた言葉は――  
「すごく……美味しかったぁ」  
 見栄も飾り気もない、そんなチープで素朴な言葉であった。  
 しかしそれこそが、  
「――えへへ♪ ありがとー」  
 チャコがもっとも聞きたかった想い(ことば)であったのだ。  
 しかし一度そうして想いが紡がれると、そこからは堰を切ったかのよう言葉がカルアンの口からあふれた。  
「このコーヒーなぁに? 何の豆を使ってるの? 甘いのってチョコレート溶かしてるの?」  
 こうなってはもはや相手のことなど慮ってなどいられない。ただ幼い好奇心は感じるがままに自己の疑問をチャコにぶつけるのであった。  
 しかしながらそんなカルアンから発せられた疑問に――先程までの達成感に満ちていた笑顔(ひょうじょう)をチャコは一変させた。  
『このコーヒーなぁに?』の問いをキョトンと受け止めると、あとは目を剥いたその表情のままカルアンを見つめてしまう。  
 やがて、  
「えっとぉ……あのさ、『コピ・ルアク』って知らない?」  
 チャコはやや困惑気味に苦笑いを作ると、窺うかのようおずおずと尋ね返すのであった。  
「コピ、ルアク? それが豆の名前?」  
「じゃあ、『ジャコウネコ』はッ?」  
「ジャコウ? ネコって猫のこと? 僕とかこの村の人はみんな三毛だよ」  
「ありゃー……まいったなあ」  
 ここまでのカルアンの反応を見れば彼がチャコの言う『コピ・ルアク』、しいては『ジャウコウネコ』を知らないであろうことは瞭然であった。  
そしてなおも瞳を輝かせては今のコーヒーについて尋ねてくるカルアンとは対照的に困った様子のチャコ。  
 
 やがてはしかし、  
「ごめん。このコーヒーはね、企業秘密なの」  
 チャコはそんな一言でカルアンの質問を一蹴した。  
「どうして? 知りたいよー。だってこんなに美味しいのに」  
「ごめんね、本当にごめんッ」  
 憤慨するカルアンとは対照的にただチャコは申し訳なさそうに謝りながらもしかし――  
「……だけどね、世の中には知らないことの方が良いってこともあるんだよ?」  
「……? どういうこと?」  
 意味ありげに呟くよう応える彼女の応答にただカルアンは首をひねるばかりであった。  
 以降、どんなにカルアンが懇願して尋ねようとも彼女の口からあの『コピ・ルアク』に関する話は一片として話されることはなかった。  
 結局はのらりくらりとはぐらかされ、当たり障りのない世間話をして夕方には帰路に就くカルアンではあった。  
 夕焼けの紅――というよりはもう藍の比率が多い夜の帳の下、店から数歩を歩いてカルアンは再びそこを振り返る。  
 僅かとなった斜陽を受けてきらめく円錐屋根の一軒家が、今日からチャコの喫茶店だ。  
 そして立ち止り、完全に向き直ってはそれを望みカルアンも決意を新たにする。  
 それこそは、  
「ぜったいにあのコーヒーの秘密をつきとめてやるんだからねチャコ」  
 それこそは胸の内に灯る探究の小さな炎――それを宿した今の少年の胸は躍りだしたくなるくらいに高揚して、事実そんな衝動を抑えきれなくなった  
幼い体はうずうずと何度も膝を躍らせた。  
 そして再び振り返りチャコの店へ背を向けると、カルアンは走り出す。  
 今日という日があまりにも素晴らしくて、ついには居ても立ってもいられなくなった。  
「誰かに話したい! すごく素敵なお店ができたんだ! すごく素敵なコーヒーが飲めるんだー!」  
 ついには歌うよう叫び出して夕暮れの帰路を駆ける。  
 少女チャコとそしてコピ・ルアクとの出会い――カルアンの物語が今、ゆっくりと動き出した。  
 
 
 
 

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