私の住む町は、周囲を山に囲まれたわずかな平地にある。
最近、隣の市との合併に失敗し未だに郡に属している紛れもない田舎町だ。
隣の市の中心部までバスで40分強。ちなみに自宅からバス停までは自転車で約20分。
この厳しい通学環境の中を、藤堂鞘子は入学してからの2年6ヶ月、無遅刻無早退無欠席で過ごしてきた。
なのに。
鞘子は今、小さくなっていくバスの後ろ姿を呆然と見送っている。
次のバスは1時間後。
急いで家に帰って車を出してもらえば間に合うかもしれないが、生憎、昨夜から母親は風邪で寝込んでいる。
隣の市に勤める父親はもうとっくに出勤している。
自転車で行けないこともないが、急な坂道が連続するうえに街灯などはないので帰り道が非常に怖い。
つまりは遅刻確定というわけで。
(うそ…)
優等生で通っている藤堂鞘子ともあろう者が、バスに乗り遅れて遅刻だなんて。
(こいつのせいだ…!)
振り返り、元凶をキッと睨み付ける。
「ふぁ…」
この状況の中、いかにも眠そうに欠伸をかまして見せたのはボサボサ頭の男の子。
中谷剣太。
いつ出会ったかも思い出せないくらいによく知っている、いわゆる幼なじみというやつである。
「ふぁああ…」
二度目の大欠伸。
「…あんたねぇ!わかってんの?!遅刻よ、遅刻!あんたのせいで!」
「……おまえ、朝からテンション高いな…」
「あんたがそうさせてんよっ!」
大体、なぜ毎朝私が剣太を迎えに行かなくてはならないのか。
ねぼすけ、という言葉がぴったりなこいつを急かし、バス停まで自転車をとばすのを日課としなければならないのか。
全てはここが田舎だからだ。
この町からあの高校に通うのは鞘子と剣太だけ。バスは1時間に1本。
つまり必然的に一緒に通学する羽目になるわけで。
それがいつの間にか寝起きの悪い剣太を叩き起こすところまで発展してしまったのだ。…自分のお人好しさに眩暈がする。
「座れば?」
声をかけられ、鞘子は我に返った。
いつのまにか、掘っ立て小屋よりも更に粗末な停留所のベンチに剣太が腰掛けている。
「……」
ここで意地を張ってもバスはこないので、素直に座ることにした。
ボロボロの座布団の上に腰を落とすと、立っていたときよりも剣太との距離が近くなったようで不覚にも心臓の動きが速くなる。
きっと、そんなことでドキドキしているのは私だけで。
それが悔しいから精一杯何でもない表情を作る。
「…昨夜は何してたのよ」
今朝剣太はいつにもまして寝起きが悪かった。昨夜、夜更かしをしたに違いない。漫画かゲームか。きっとそのどちらかだろう。
「ゲームしてた」
やっぱり。
「あんた、一応受験生なのにそれでいいわけ?」
「だって専用のコントローラー買ってもらったのに使わないなんてもったいないじゃん」
つい先日誕生日を迎えた剣太は、おじさんに専用のコントローラーなる物を買ってもらっていた。
車のハンドルのようなそのコントローラーは剣太が今はまっているゲーム専用の物だそうだ。
私には全く意味も価値もわからないけど、もらった剣太はすごくうれしそうにしていたっけ。
…だから急に自分のプレゼントの稚拙さが恥ずかしくなって、今年は渡すことができなかった。
いつかタイミングが良いときにさりげなく渡せるんじゃないか…と期待して毎日持ち歩いているのは絶対に内緒だ。
「鞘子は昨夜遅くまで勉強してただろ」
「なんで知ってるのよ」
「部屋の電気」
剣太の返事は主語も述語も省かれていたけど、私には十分に通じた。
剣太の家と私の家はお向かいで、私たちの部屋も向かい合っている。窓から漏れる明かりで、私が寝た時間を知ったらしい。
「あんたと違って、私は受験生の自覚を持っているの」
「……なぁ」
それまで前を見て喋っていた剣太が、初めてこっちを向いた。いやに真剣な瞳にまっすぐに見つめられ、一瞬呼吸が止まる。
「東京の大学に行くって、本当なのか?」
「…うん。まだ迷ってけど」
俯いて答えた私の声は、自分でも驚くほどに小さかった。
大方、うちの母親あたりが剣太のおばさんに喋ったのだろう。こういった情報が回るのは驚くほど早い。この分だとたぶん同じ地区のほとんど
家には知られていると思った方が良い。
「なんで?」
そう尋ねる剣太の声は淡々としていて、何を考えているのかは読み取れない。
――――昔は、こうじゃなかった。
少なくとも高校に入るまでは、剣太の考えていることなんてすぐにわかったのに。
「……鞘子?」
下を向いたまま押し黙っている私が心配になったのか、剣太が体勢を低くして私の顔を覗き込んだ。
思いがけずに縮まってしまった距離に、頬が熱くなる。
素直じゃない性格とは逆に、感情のままに赤面してしまうこの体質を直す方法があったら教えて欲しいと切実に思う。
剣太を意識していることを悟られるのはシャクなので、私は思いっきりそっぽを向いたやった。
…こういうところがかわいくないんだって、わかっているのだ。自分でも。
他の人、例えば、クラスの男の子相手だと普通に笑えるのに。
剣太だけはどうしても駄目だ。意地を張ってみたりヒステリーを起こしてみたり、感情の手加減ができないのだ。
(きっと、剣太は私のことを「煩い奴」としか思ってないよね…)
こうやって、私はいつも勝手に自己嫌悪の悪循環に陥ってしまう。
その時、私の頭に何かが触れた。
顔を上げると、ぽんぽんと頭を叩かれる。
剣太からの『気にするな』の合図。
……何年ぶりだろう。剣太がこうしてくれるのは。
不意に目が潤んでしまったのを誤魔化すために、数回瞬きをした。
「なんか、久しぶりじゃないか?鞘子と話すの」
「そうかな…」
せっかく剣太がそらしてくれた話題も、今の私にとっては楽しくないものだった。
……私は、校内で剣太を避けていた。
高校に入学したばかりの頃、クラスの離れてしまった剣太を教室まで迎えに行ったときに、剣太が私の知らない女の子と喋っているのを見た日から。
他の女の子と喋らないで欲しいとか、そういった独占欲ではなくて。
私たちの通った小学校も中学校も、生徒数は少なくて同じ学年で知らない子なんていなかった。
だから、生まれて初めてだったのだ。
剣太が私の知らない女の子と喋っているのを見るなんて。
それが自分でも驚くくらいショックで、剣太をまともに見るのが苦しくなった。
それから剣太と校内で二人になることなんてなかったから、きっと私と剣太が幼なじみだと知っている人間は少ないだろう。
…当の剣太は、私に避けられてるなんて気付きもしていないだろうけど。
「髪、伸びたな」
ポニーテールに結った私の髪先を弄りながら、突然、剣太が口を開いた。
丁度10年前に『長い方が良い』なんて言ったことを、目の前にいる本人は憶えているのだろうか。
「なんで伸ばしてんだ?」
……きれいさっぱり忘れているらしい。
剣太の言葉は、他の誰の言葉より私に与える影響が大きいというのに。
「……剣太には関係ないでしょ」
「そっか」
我ながら、もう少しかわいげのある返答は出来ないのだろうか。
「鞘子」
「なによ?」
意味もなく攻撃的な私の反応を受け流し、剣太はいつも通りのマイペースな口調で先を続けた。
「移動しないか?ここ、そろそろ、年寄り達の溜まり場になるぞ」
「…は?」
「年寄り達はな、隣町の整骨院まで通うのが日課なんだよ。んで、次のバスを使うんだ」
「でもまだ、次のバスまで30分以上あるじゃない。それよりも移動ってどこに…」
「だから、バスが来る30分前には集まって世間話を始めんだ。じいちゃんばあちゃん達は。…学校は」
突然、勢いよく剣太が立ち上がった。少し乱暴に私の鞄を掴む。
「今日はサボれ」
「はぁ?!何言ってんのよ、あんた!」
「じゃあ、俺、腹痛起こすから看病してくれ」
「わけわかんないわよ!」
「やばい、鞘子!斉藤んとこのばあちゃんが来た!…行くぞ!」
「ちょっと剣太っ…!」
手首をつかまれ、引きずられるように立ち上がる。
そのまま剣太は停留所の裏にある山道に足を踏み入れた。
――――私の鞄と、手首を持ったままで。
幼い頃遊び場にしていた山は、都会より少し早い紅葉の季節を迎えていた。
シャクシャクと落ち葉を踏む音が妙に懐かしい。
「ねぇ!剣太ってば!本当に学校行かないの?!」
「頭痛いから無理」
「どう見てもピンピンしてるじゃない!」
私を引っ張る剣太の力は思っていたよりも強くて、立ち止まることも出来ない。
「決着を付けようと思っていたところにチャンスが降ってきたんだ。今日一日くらい、付き合ってくれ」
「何の決着よ?」
「…それは後でのお楽しみってことで」
俺、気ぃ小さいから決着付けられるかわかんねぇしな…、なんてわけのわからないことをつぶやきながら、剣太はずんずん進んでいく。
「ちょっと…!早いよ…!」
山道を剣太のペースで登らされて息が上がる。
私の声を受けて、剣太が立ち止まった。
「悪い…」
「…サボリに付き合ってあげるんだから、もうちょっと気遣ってよ」
軽く睨むと、バツが悪そうに剣太は頭をかいた。
「本当に悪かった」
律儀に頭まで下げた剣太は、今度は私の前ではなく横に立った。
私の歩幅に合わせて、ゆっくりと進み出す。
…たったこれっぽっち歩いただけで息が上がってしまった理由は、ペースが速かったからだけじゃない。
つかまれた手首から感じる剣太の手の大きさと温もりが、いやに私を緊張させて動悸を速めていたからだ。
だから、手首を離された方が山を登るのには適しているのだけど。
少し離れてしまった距離が残念だと感じている私は、なんて矛盾しているのだろう。
「お社に行きたいんだ」
前を向いたまま、剣太がポツリと言った。
「お社?!何しに?」
お社とは、この山の頂上にある古い社の事だ。
小さなお地蔵さまが何体か祀られているそこは、辿り着くまでに軽く2時間はかかる。
この辺りの年寄り達は冠婚葬祭のあるごとに詣でたりしているけど、私達が最後にそこに行ったのは小学校の遠足の時のはずだ。
「どうしても行きたいんだ」
普段は呑気で無精で私がどんなに怒っても受け流すだけのくせに、剣太は時々、こうやって強情になる。
(…ずるい)
剣太は知らないのだ。
まっすぐに私を見て強情を張る剣太に、私が絶対に逆らえない、なんて事を。
こうやって、皆勤賞も優等生の評判も簡単に捨ててしまえるくらいに一緒にいたいと思っているなんて事、剣太は知らないのだ。
私の無言の了承を正しく受け取った剣太が、ちょっと笑った。
「…鞄、返して。剣太」
「いい。持つ」
単語のみの簡潔な会話が私達の付き合いの長さを再確認させてくれる。そんな些細なことが嬉しくて、私も少し笑った。
…剣太とこうして並んで歩くのは久しぶりだ。
ゆっくりとしたペースで頂上を目指しながら、そんなことを思う。
毎朝一緒に登校しているけど、停留所までは自転車だし。
バスも2つ先の停留所から剣太の友達が乗り込んでくるから、私達が二人でいる時間は10分くらいしかない。
(背、伸びたな)
こっそりと見上げて思う。
中1の頃は、まだ私の方が高かった。
中学を卒業する頃は2pだけ剣太の方が高くなっていた。
なのに今は15p以上は差があるだろう。
随分と違ってしまった目線の高さとか。
私を引っ張る力とか。
私よりも早い歩調とか。
――――本当に、いつのまに、私と剣太の距離はこんなにひらいていたのだろう。
中学生の頃、クラスでも目立つ方ではなかった剣太を行事に引っ張り出すのは、いつも私の役目だった。
あの頃は勉強も運動も私の方がよく出来ていたけど、今は英語とか国語はともかく、数学・物理は完全に剣太に負けている。
ちなみに私達の成績はお互いの家族に筒抜けである。母親って、どうしてこうも子供のことを話題に出したがるのだろう。
走りっこをしても、たぶん私が負けるのだろう。
それが成長するということなのか男と女の違いなのかはよくわからないけど、剣太が違う人になってしまうみたいで少し寂しいと思う。
「そういやぁさぁ、根本のじいちゃん、狸飼い始めたんだって?」
ポツリと剣太が言った。
「狸なんて山にいくらでもいるのにさぁ、なんでまた?」
「…怪我、してたんだって」
「そっか」
「……」
唐突に始まった会話は唐突に終わり、私達はまた無言で足を進める。
…そういえば、狸の話なんて学校ではしたことなかったな。
市の高校に通う生徒はやっぱり市の中学出身の人が多くて。そういった人たちは新興住宅地か市営の団地に住んでいる。
わざわざ山を越えて時間をかけて通っているのなんて、私と剣太くらいのものだ。
私と剣太が住む地区は町のはずれで、周囲のほとんど家が農業を営んでいる。
私の家はお父さんが市まで勤めに出ているけど、剣太の家は大根とネギを育てている。…おかげで、私の好物はふろふき大根と焼きネギだ。
「そういやぁさぁ」
またポツリと剣太が口を開いた。
「鞘子、ちっこい頃この山で遭難しかけたよな」
「…忘れて」
「無理」
私のお願いは即答で却下された。
あれは確か小学校に上がったばかりの頃。山に咲く綺麗な花を見るのが楽しくて私は一人で山の奥まで入り込んでしまった。
「一人で山に入っては行けません」ときつく注意されていたにも関わらず、だ。
さほど大きくなくても、家のすぐ側でも、山はやっぱり山で。
あっという間に帰り道を見失った私は、何度も転んで大泣きしながら山道を彷徨っていた。
『さやこ!』
そう呼ばれた瞬間のことを、今でもはっきりと憶えている。
泥だらけになった剣太が、私を見つけてくれた。私が迷っていると誰も気づかないうちに、剣太は私のSOSを受信してくれたのだ。
幼かったとはいえ完全に自業自得な私の危機を助けてくれた剣太が、あのときは王子様に見えたものだ。
山で迷子になった、なんて言ったら親に怒られるので、そのことは私と剣太だけの秘密となった。
何故、剣太が私の居場所を知ったのかは、未だに本人が口をつぐんでいるのでわからないのだが。
……幼馴染みというのは、少しやっかいだ。
親すらも知らないような恥ずかしい思い出に関わっていたりする。
「剣太だって、小5の遠足でお社に行った時、お弁当ひっくり返して泣きそうになってたくせに」
「…忘れてくれ」
「無理。だってあの時、みんなに内緒でお弁当わけてあげたの私だもん」
「…感謝しています」
「よろしい」
顔を見合わせて、私達は小さく笑い合った。
前言撤回。
幼馴染みはやっかいなんじゃない。――――少し、くすぐったいのだ。
そう思って、私はふと気が付いた。
剣太と笑い合ったのが、ひどく久しぶりだったということに。
「休憩するか?」
頂上まで後半分、という地点。
かなりバテ気味の私を気遣ってか、剣太がそう切り出した。
「…うん」
意地を張っている場合じゃないくらいには疲れていたので、正直、その言葉はありがたい。
大きなブナの木の根本に座り込み、幹に背を預ける。
制服が汚れるかも、と思ったけど、下は枯葉ばかりなので多分大丈夫だろう。
同じ幹に寄りかかった剣太が、大きく伸びをして空を見上げる。
「きれいだな」
「うん…」
剣太が言いたいことがわかり、私も空を見上げた。
黄や赤に彩られた葉の隙間から覗く青空は、学校から見るそれよりも透明に近い気がする。
少し汗ばんだ肌に、山の冷えた空気は心地よかった。
熱気を放出するために私はカーディガンを脱いだ。
私達の通う高校の制服は、女の子は濃紺のセーラー服で男の子は黒い学ラン。
何の面白味もないと評判のシロモノだ。
隣に視線をやると、剣太は脱ぎ捨てた学ランの上を丸めて鞄の中に詰め込んでいた。
この時期独特の乾いた山の匂いが私達を包む。
冬を迎えるまでのこのわずかな季節が、私は大好きだった。
遠足や運動会、町の収穫祭などが目白押しのこの季節。
騒々しい周囲からこっそりと抜けだし、私はよく一人で山に来た。
わずかな葉擦れの音と小さな動物の駆ける音と。
市よりも町よりも冷たく澄む空気と。
それらに包まれると、私でも少し素直になれるような気がしたから。
…それは、私の勝手な自己満足で未だに結果は出ていないのだけど。
この山の麓に、私と剣太の家がある。
家から山を左に迂回し、急な坂道を昇った所にいつも私達が使っているバスの停留所があって。
その裏の熊笹に覆われた細い道…今、私達が歩いているこの道がお社への最短ルートなのだ。
「……剣太は、どうするの?進路」
「迷い中。鞘子と同じ」
山の静けさに助けられた私の小さな声は、剣太へと届いたらしい。
私と同じ、と言うことは、剣太も東京へ出ようと思っているのだろうか。
……東京へ行ったら、こんな景色を見る機会はなくなるだろう。
もしかしたら剣太と二人で見るなんて、これが最後かもしれない。
そう思うと、どうしようもなく悲しくなってくる。
私だってこの町を出ようとしているのに。
剣太には、変わらないでここにいて欲しいと思ってしまう。
私はきっと、ものすごく自分勝手な女なのだ。
「そういやぁさぁ」
空を見上げたままの剣太が、口を開いた。
「いつかの収穫祭の時のこと、憶えてるか?」
収穫祭とは、毎年この季節に行われるお祭りのことだ。
地区ごとに出店を出し合ったりして、その時期はどこの家も慌ただしくなる。
子供の頃は、夜通し酒を飲み交わす大人達の部屋を抜け出して剣太と二人で遊んでいた。
…私達はいつも一緒にいたような気がする。
同じ地区に住む同じ年の子は剣太だけだったということもあるだろうけど。
朝起きたら剣太と遊んで、一緒にお昼寝をして、また遊んで…。
そうやって、私達は兄弟のように育ってきたのだ。
小学校へ通うようになってからも、一緒に通学して一緒に帰っていた。
私達にとってはそれが自然な流れだったから。
それに変化が訪れたのは、そんな昔の話じゃない。
「いつの収穫祭よ?」
「5歳か…6歳くらいの。小学校にはまだ行ってなかった」
「もしかして…私が大泣きした時の?」
「そう」
剣太が言っているのは多分6歳の時の収穫祭だろう。
大泣きしている私と、必死に私を宥めている剣太の姿が思い出せる。けど…。
「私、何で泣いてたんだろう?」
「…憶えてないのか?」
「剣太は憶えているわけ?」
「…俺は忘れたことなかったんだけどな…。そっか。鞘子は憶えてないのか…」
明らかに落ち込み始めた剣太の声と話の内容が気になって、私は剣太の方を向いた。
「教えてよ。気になるじゃない」
「…お社に着いたら教えてやる」
そう言って、剣太は立ち上がった。
「休憩お終い。…行こう」
頷いて、私も立ち上がる。
スカートに付いた落ち葉を払い、大きく背伸びをする。
同じ体勢を取っていた剣太と目が合って、私達は小さく笑い合った。
いつの間にか剣太と普通に話せるようになっていたことに、私は気づいていなかった。
急な坂道を登り切ると、突然視界が明るくなった。
一瞬、自分が山にいるのか空にいるのかわからなくなる。…頂上が近い。
ここまで来たら、お社までもう一息だ。
「あっ…」
空を見上げていたら、木の根っこに足を取られ、私の体が傾いた。
(こける!)
そう覚悟して思わず目を瞑る。
だけど予想した痛みは来ずに、代わりに左腕に鈍い熱を感じた。
体が重力に逆らい、引っ張られる。
目を開くと、私は剣太に支えられていた。
掴まれている腕から伝わる温もりと、剣太に助けられたという事実に私の頬が染まる。
「……腕、痛い」
「…悪い」
謝るのは、素直に『ありがとう』と言えない私の方だ。
どうして私はいつもこうなんだろう。
「鞘子」
名を呼ばれ視線を上げると、剣太が手を差し出していた。
「…こけて泣く前に」
「…泣かないわよ。……もう、子供じゃないもの」
幼い頃、私はとても泣き虫だった。
転んでは泣き、他の地区の子にいじめられては泣き…。
普通ならそこで幼馴染みの男の子が助けてくれたりするのかもしれないけど、私の幼馴染みは
私に負けず劣らず泣き虫で弱虫だった。
5つ離れた剣一兄ちゃんにこずかれては泣き、おばさんに叱られては泣き、私が泣いているの
を見てまた泣いた。
私達は、泣くのも笑うのも一緒だった。
成長するにつれ気が強くなっていった私は意地でも人前では泣かなくなったけど…そういえば、
剣太はいつから泣かなくなったのだろう。
「鞘子」
剣太がもう一度私の名を呼ぶ。
(どうしよう…)
剣太の手を取るのは気恥ずかしい。
一緒に成長していると思っていた剣太が、私の知らないうちに急に大人になってしまったようで、
どうしていいかわからない。
泣き虫だった幼馴染みは、いつのまに私に手を差し伸べられるくらい大きくなっていたのだろう。
迷い、剣太の顔を見上げる。
手を差し出す剣太は、なぜかそっぽを向いていた。…少し、耳が赤い。
その表情は昔とあまり変わってなくて、私は少し安心してしまった。
「…しかたないなぁ」
かわいくない私の言葉に、剣太は少し笑った。
恐る恐る左腕を伸ばし、私の手が剣太の手に触れる。
ゆっくりと握り合った手は、お互いに少し汗ばんでいた。
無言のまま私達はまた進み出す。
…大きなケヤキが見える。もうすぐだ。
最後の急な段を、剣太に引っ張られて登る。
辿り着いた山頂は、私の記憶にあるそれと全く変わっていなかった。
10月の風が火照った頬を撫で、涼やかに吹き抜ける。
朱色の剥げた小さな鳥居をくぐると、粗末な木の屋根が見えた。
屋根の下には男女の像が彫られた50センチ程の高さの石があり、何日か前のものと思われる蜜柑が
供えられている。
この辺りを守る道祖神なのだと、死んだばあちゃんが教えてくれたっけ。
ケヤキの下のこの小さな建物が、「お社」と呼ばれているものだ。
「…お社に着いたけど」
私と手をつないだままの剣太を見上げる。
「飯食おう。腹へった」
「ここに来たわけを知りたいんだけど」
「飯食ってから。腹が減っては戦は出来ないだろ」
戦なんていつするのよ、という私のつぶやきは聞こえなかったようだ。
…いや、聞こえない振りをされたようだ。…別に良いけど。
剣太がお社の脇に座る。
さりげなく手を離され、滲んでいた汗が乾いていくのがわかった。
仕方なく剣太の隣に座り、鞄を受け取る。
停留所にいるときよりも、剣太の隣にいるのが苦しくない。
そのかわり、もう少し側に行きたいと少し思ってしまった。
…もちろん、実行は出来なかったけど。
お弁当を広げ、私がおにぎりのアルミホイルを解く頃には、剣太はすでにお弁当の半分を片づけていた。
相変わらず、食べるのが早い。ちゃんと噛みなさいって何度も注意しているのに。
「…それ、鞘子がにぎったのか?」
おにぎりを半分ほど食べたところで、剣太が突然尋ねてきた。
「うん、そうだけど。…何?」
「くれ」
「嫌」
「こっち半分やるから」
「ちょっと!」
半ば強引に奪い取られた私のおにぎりは、あっというまに剣太に食べられてしまった。
「なんなのよ、一体…」
「鞘子の上達振りを確認しただけだ」
「わけわかんない」
「おまえ、成績良いけど鈍いよな」
「…はぁっ?!」
一体何を言い出すのだ、こいつは。本当にわけがわからない。
「鞘子のクラスにさ、神尾っているじゃん?」
「あぁ、あのメガネの」
「そう。神尾がさ、『藤堂さんってしっかりしてるし人当たりが良いよな』って言ってたんだけどさ…」
「だけど?」
「鞘子、そんなしっかりしてないよな。結構ドジだし、よくこけるし」
「なっ…!悪かったわね!」
本当になんなんだ、一体。…剣太は私に喧嘩を売りにここまで来たのだろうか。
「そうやってすぐ怒るしさ。結構鈍感だしさ」
「あんたが変なこと言うからでしょ?!」
「だからさ、俺だけなのかと思って。そういう鞘子を知ってるの」
「…何が言いたいのよ、剣太」
「……早く食え」
そう言って剣太は空を見上げた。
(…本当に、わけがわからない…)
今、剣太が何を考えているのか、私には全くわからない。
何か文句を言ってやろうかと思ったけど、なんて言って良いかわからなかった。
剣太はそのまま、私が食べ終わるまで一言も口をきかなかった。
頂上から見る青空は、雲一つ見当たらなかった。
お弁当を食べ終えた私達は、無言のまま空を眺め続けている。
「…剣太」
先にしびれを切らしたのは私だった。
「いいかげん話してよ」
「……鞘子」
上を向いていた剣太の顔が、こちらに向いた。
――――剣太は最近、時々こういう目で私を見る。
知らない男の人みたいなその眼差しは無条件に私の心臓を跳ね上げ、頬を染める。
…困る。息が上手くできなくなる。
耐えきれなくなって瞳を伏せ、視線を剣太から逃した。
「幼馴染みってさ、いいのか悪いのかわかんねぇよな」
ポツリと剣太が言った。
「ずっと一緒にいるもんだと思ってたんだ。鞘子はずっと変わんないって思ってた。でもさぁ、違うんだよな」
俯いてしまったから剣太の表情はわからない。
剣太は、何が言いたいんだろう。
「高校入ってから、なんか変わったよな、鞘子」
「…どういう風に?」
「…なんか…」
少しの沈黙の後、小さな声で剣太が言った。
「女らしくなった」
予想外の言葉に顔を上げると、視線をあさっての方へ向けている剣太の横顔があった。
……どうしよう。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、自分の感情がわからない。
心臓が煩い。――――音が、剣太に聞こえてしまう。
「俺さ…ヘタレなのかな」
「……はぁ?!」
何の脈絡もない剣太の言葉に心臓が無事平穏を取り戻した。
「怖くて言えないんだ」
「…何を?」
「鞘子…俺…」
驚くほど真剣な表情で、剣太が私を見据えた。
なぜか正座までしてかしこまっている。
ああ。また、心臓が煩い。
なんでこんなにドキドキしてしまうんだろう。
目の前にいるのは紛れもなく毎日顔を会わせている幼馴染みで。
頭ボサボサで。顔も普通で。背も普通で。昔から変わらず特に目立つ所なんてないのに。
どうして最近の剣太は私のペースを崩すのが上手いんだろう。
「……」
「……」
思わず止めてしまった呼吸に限界を感じ始めた時、突然、剣太が大きなため息をついた。
「…やっぱ駄目だ!言えねぇ!!」
「だから一体何をよ?!」
「告白なんかできっこねぇ!」
「…告白?」
意味がよくわからない剣太の言葉に顔をしかめる。
見ると、剣太はなぜか「しまった」という顔をしていた。
――――まさか。
「あんた、何か私を怒らせるようなことしたの?」
睨みながら尋ねると、剣太はその場で頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「…鈍感」
小さく放たれた剣太の言葉が、私のイライラを刺激する。
本当に、最近の剣太はわけがわからない。
――――いや。
わけがわからないのは私も同じだ。
だって、剣太が男の人に見える。
だからどうしていいのかわからない。
しゃがみ込んだままの剣太に背を向け、私もしゃがむ。
剣太のことを考えるとすごく恥ずかしくなる。
勝手に頬が染まり、心臓が動きを早める。
そのくせ会えないとすごく不安で寂しくて。
でも会ったら会ったで感情がコントロール出来なくて嫌な態度を取ってしまう。
――――本当は、私は知っている。この気持ちをなんと呼ぶのか。
なのに認めたくないのだ。
だって相手はあの剣太だから。
兄弟のように思っていたはずの幼馴染みだから。
剣太は私を姉か妹のように思っているから。
だから、私は。
10月の風が、赤い葉を巻き上げながら私達の間を吹き抜けていった。
幼馴染みというのは、関係の名前であると同時に事実の名前でもあると思う。
友達とか恋人とかとは違って、努力なしに気が付いたらそうなっていた、事実。
剣太への想いに背を向けた私が剣太の側にいるには、そんな事実にすがるしかなくて。
年を追う毎にそれすらも上手く繕えなくなってしまった私は、どうすればいいのだろう。
私は一体――――剣太と、どうなりたいのだろう。
『昔はこうじゃなかったのに』と、そればっかり思ってしまう私自身だって変わっていこう
としているくせに。
いつのまにか根付いていた想いに目を背けていられるのも、そう長い間じゃないだろう。
そんなこと、私だってわかっている。
ただ――――どうしていいのかわからない。
『幼馴染みってさ、いいのか悪いのかわかんねぇよな』
さっきの剣太の言葉が、今更、私の胸に小さく刺さった。
「……なぁ」
短い沈黙を破ったのは、剣太の小さな声だった。
「なに?」
背を向けたままの体勢で返事をする。
だって…剣太を、上手く見れない。
「なんで、今年の俺の誕生日、プレゼントくれなかったんだ?」
「…プレゼントねだるなんて図々しいわよ」
本当は違うのに。
片道2時間半かけて大きな街まで買いに行ったプレゼントは、手元の鞄の中にあるのに。
どこまでも可愛くない私は、きっと、剣太にとって煩い存在でしかないのだろう。
背後で聞こえた剣太の小さなため息に、また自己嫌悪に陥る。
物心付いたときからあげてきたプレゼントは、年を追う毎に選ぶのにも時間がかかって。
今年なんか2ヶ月も前から悩みに悩んで選んだ。
毎年のように普通に渡せれば良かったのに。
それすらも出来なくっていた私は、いつからこんな臆病になっていたのだろう。
「…くれなかったから、焦った」
ポツリと剣太が言った。
予想外の、言葉だった。
何を焦るのだろう。
剣太の言いたいことがわからない。
そんな小さな事が今の私達の距離を確認させて、私を少し落ち込ませる。
「誕生日プレゼントはくれねぇし…東京に行くかも、とか言うし…」
背後から聞こえていた剣太の声が、更に小さくなった。
「…急に綺麗になるし」
私の予想を遙かに超えた剣太の言葉に、思わず勢いよく振り返る。
私達の視線がぶつかった。
今度は、剣太は目をそらしていなかった。まっすぐに私を見ている。
……どうしよう。
息が、上手くできない。
「あの収穫祭の日のこと、本当に忘れたんか?」
「収穫祭…」
剣太の言葉に、私は自分の記憶を探り始めた。
私達が共有している思い出は多すぎて、目的の記憶を引っ張り出すのは大変だ。
6歳の時。
丁度12年前の収穫祭。
……ああ。そうだ。
確か、あの年の収穫祭は地区名の由来となった有名な刀鍛冶の没後150年の年だとかで、
どこの家も大騒ぎだった。
私もばあちゃんに連れられて、お社のお掃除をしたりしたっけ。
賑やかな祭りの後はお決まりの酒飲み会で。
あの年の集まり場は剣太の家だった。
買ってもらった駄菓子も食べ尽くした私達は、縁側で二人で遊んでいた。
小さなきっかけで、堰き止められていた水が溢れるように次々と思い出が甦ってくる。
あの時私は憶えたてのアルプス一万尺が楽しくて、嫌がる剣太を無理矢理付き合わせ何度も何度も
繰り返して遊んでいた。
逃げることもできるのに、剣太は必ず私のわがままに最後まで付き合ってくれる。
それは幼い頃から今も変わらない。
そんな私達が酔った大人達のからかいのタネにならないわけがなくて。
『剣太と鞘ちゃんは本当の姉弟みたいだよなぁ』
そう言ったのは大川のおじちゃんだっただろうか。
『ほんとのキョーダイだよ!』
当時の私は本気でそう思っていた。
きっと、剣太もそう思っていたはずだ。
『違うんだよ。二人はなぁ、本当の姉弟じゃないんだよ。ほら、違う名字だろ?中谷と藤堂で』
ミョウジ、というものが何なのかは理解できなかったけど、おじちゃんの言いたいことはわかった。
何故、私と剣太が別々の家に帰るのか。
何故、お父さんとお母さんが同じじゃないのか。
薄々気が付いていた現実を急に目の前に突きつけられ、私はひどく困惑した。
『うそだよ、そんなの』
今にも泣きそうな私に、酔った大人達は追い打ちをかけるだけで。
気の弱かった私は、その場から泣いて逃げ出した。
行き先は二階の子供部屋――今の剣太の部屋だった。
しばらくして、剣太が部屋に来て。
それから――――。
「…それからどうしたんだっけ?」
力一杯泣いていたせいだろうか。
記憶があやふやでよく思い出せない。
そんな私の様子に、剣太がため息をついた。
胸が、ズキリ、と痛んだ。
剣太に姉弟の様に思われていると思っているくせに、剣太に呆れられるのが怖い。
そんなこと、何を今更、って思うのに。
自分でも気が付かないうちに芽生えていた想いは、私を混乱させるばかりで。
どうしたらいいのかわからなくなって、私は視線を地面に落とした。
「俺が、鞘ちゃんをうちの子にしてやるよ」
はっきりと耳に届いた剣太の言葉に、私は目を見開いた。
(ああ……そうだ……)
あの時の私は、剣太と一緒の名字じゃないことが悲しくて泣いていて。
いつまでも泣きやまない私につられて泣きそうになりながら、幼い剣太はそう言った。
『じゅうはちになったら、さやちゃん、なかたにさやちゃんになれるよ』
『にいちゃんにきいたんだ。じゅうはちになったらけっこんできるんだって』
『さやちゃんがいちばんすきだから』
『だから』
『じゅうはちになったら、けっこんしよう』
薄明かりの電気の下で交わされた幼い約束。
その言葉の本当の意味を知らないまま、私は頷いた。
『じゅうはちになったら』
泣き疲れて眠りに落ちる間際、何度も何度も私達は呟いていた。
『じゅうはちになったら』
手を繋ぎ、同時に眠りに落ちてからも何度も何度もその言葉が頭を駆け回っていたのに。
どうして――――忘れていたのだろう。
今の今まで。
風に煽られたクヌギが、鮮やかな葉を舞わせる。
山の風は、12年前とちっとも変わらない。
私達の視線がぶつかる。
目が、そらせない。
顔から生まれた熱が全身を巡る。
息が――――、詰まる。
「気が付いたとき、バカみてぇって思った。毎日見てんのにって。でも、妙に納得できた」
そう言う剣太は少し自嘲するように苦笑していた。
そんな表情をする剣太は、私の知らない剣太で。
「どうしようか考えて…このままでもいいやって思ってた。でも、そうもいかないみたいだし」
思い切り走ったときよりも、心臓の動きが速い。
でもそんなことを気にしている余裕はなくて。
私は、全身で剣太の言葉を待っていた。
「鞘子がどう思ってるとかよりも、俺がどう思ってるかなんだって、開き直った。だから、18の誕生日に
言おうと思ってた。ちっこい頃の約束にかこつけて」
「…けんた……」
無意識に出た言葉は、幼馴染みの名前だった。
それしか、声が形作れなかった。
「…もうはき出さなきゃ駄目なくらい、苦しいんだ」
立ち上がった剣太の影が伸びて、私にかかる。
見上げても、逆光で剣太の顔がよく見えない。
「鞘子」
あの収穫祭の夜から、私を「鞘子」と呼ぶようになった幼馴染みの影が私を捕らえる。
「好きだ」