序  
 
彼は持つべきものを持たずに生を受けた。  
兄弟達は、彼を別け隔てなく、情を込めて育てた。  
持つべきものを持たぬ彼にはそれは屈辱だった。  
長じるに従って彼は鬱屈し、ねじ曲がっていった。  
ある時、彼は兄弟の持たぬものを得た。  
彼は、兄弟を追い落とした。  
その痕跡は、各地に残されている。  
 
 
 
華奢な身体に、ドレッシーな衣装をまとい、iTunesで流行のポップスを口ずさむ彼女は、天使。  
神への信奉を小さな胸に抱いて、悪魔を狩るために地上に降り立った。  
ほどなく悪魔を見つけた。  
悪魔は路地裏の崩れたブロックに腰掛け、ビール片手に賑やかな表通りを眺めていた。  
「やあ、天使ちゃん、今日も見回りかい?」  
「馴れ馴れしい口を聞くな、お前の言葉なぞ聞きとうないわ、耳が穢れる!」  
天使は戦いを挑んだ。  
悪魔は天使を軽くいなし、組み敷いた。  
細い背中に馬乗りになって、天使の耳元に唇を寄せる。  
「ねえねえ、君の主様は、相変わらずお気に入り侍らせて遊説三昧の日々?」  
「この外衆が!親しげに御名を穢すなっ、あのお方は、この世界が平和と慈愛で満ちるよう、祈りを捧げておられる!地上に災いを振り撒くお前たちが軽々しく呼んでいいものではないのだぞ!」  
大の男ですら竦み上がる怒気を孕んだ天使の憤り。  
被さるように響いたのは、悪魔の笑い声だった。  
「じゃあさあ、君、ちょっと頭をあげてごらん」  
悪魔が表通りの喧騒を指差す。  
天使の視線の先には、いわゆる不良学生が会社帰りの中年男の財布をむしり取る光景があった。  
「どう思う?」  
取り立てて騒ぎ立てることでもない、と天使が答える。  
「あの男の信心が足らぬ故の帰結だ、おおかた後ろ暗い真似でもしているのだろうよ」  
「あらそう、じゃ、君の信心も試してみようか」  
悪魔の掌が、天使のうすっぺたい乳房をまさぐり始めた。  
掌で、乳房をこね、押しつぶし、撫で回す。  
「何をするか!」  
「ちょっとした賭だよ」  
悪魔の腕を振りほどき、天使が両腕で胸を隠す。  
「ああ、君やっぱり処女だね」  
「当たり前だ!神に仕える者が、不潔な行為に耽る訳がないだろう!」  
「でもさあ、君がその携帯音楽プレイヤーで聴いてた歌、そのものズバリ、淫らで下品な性行為だぜ?」  
「嘘…愛を昇華した讃美歌じゃないの…?」  
「嘘なもんか、悪魔は嘘が嫌いなの、知ってるだろ?」  
天使の頬が紅潮し、続いて、血の気がひいたように青ざめた。  
膝が崩れ、頭を垂れる天使。  
「私…穢れた…見捨てられた…?」  
 
動揺する天使のフリルやレースを一枚一枚薄皮を剥ぐように脱がせていく。  
もはや御名を呟き、救いを乞うだけの哀れな天使の、一糸纏わぬ肢体を、悪魔は目を細め、じっくりとっぷり舐るように鑑賞する。  
輝くばかりの白磁器のように滑らかな乳白色の肌、申し訳程度の膨らみの頂きに、辛うじて色が付いた乳首。  
細い華奢な腰は、無駄な肉がついておらず、却って尻の丸みを際立たせている。  
そして、天の使者の名に恥じぬ、清純な佇まい。  
頑なな信仰の持ち主であるのだろう。  
少しばかり気の毒に思いつつ、指と舌で丹念にくじる。  
絶え間ない秘所責めに、四肢を強ばらせ、地に爪を立て、必死に唇を噛み締める天使。  
時折、くぐもった呻き声が漏れ、腰がピクリと跳ねる。  
次第に潤い、じわりと蜜が滴り落ちた瞬間、ついに天使が悲鳴をあげた。  
「もう判ったから!止めろ、止めてくれ」  
目尻から大粒の涙をこぼし、睨むような、懇願するような眼差しで悪魔を見つめる。  
「だから、これは賭さ、君の信仰が満たされていれば、君の純潔が撃ち砕かれようとするまさにその瞬間、愛と平和を謳う博愛主義の誰かさんが僕を瞬く間に御技で滅ぼし、君を救い上げてくれるだろうよ」  
天使の腰を抱え込み、あてがったものをゆっくり押し付ける。  
「神よ…神よ…」  
震える声が、救いを求め御名を呼ぶ。  
…果たして、救いは訪れなかった。  
擦れ合う性器から鮮血を、背中から純白の羽根を散らして天使が泣き叫ぶ。  
「この堕天があっ!許さない!お前なんか殺してやる!殺してやる!」  
「いいね、そりゃ楽しみだ」  
神に見捨てられ、天使の象徴である翼を失い、ただの人間に堕とされた天使を突きながら、悪魔は考える。  
これだけ信奉され、崇められながら、己に縋るものさえ容赦なく切り捨てる。  
かと思えば、気に入った者は例え大罪を犯した者でも傍に置いて慈しむ。  
一体、末の弟が求めていたものは何だったんだろう?  
それが知りたくて、他の兄弟が去るなか、最後まで弟に付き添っていたんだけどな。  
「そうそう、堕天て呼び名はいただけないな、それは弟が付けた蔑称だ、僕の名は最後の竜、ルシファー・ティアマト。良かったら一緒に来るかい?元天使ちゃん」  
 
 
角を持たずに生まれた彼が手に入れたものは、知恵と嘘だった。  
彼は言葉を巧みに操り、使役していた従僕に嘘を教え、他の兄弟を屠り、彼だけの王国を築いた。  
兄弟達は時にテュポーン、イルヤンカ、アムピスバイナ、ケツァル、ナーガ、八岐の大蛇などと呼ばれ、微かに伝承に名を残すのみだ。  
 
 
 

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